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平田栄一サイン本
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余白の風 求道俳句とエッセイ 第102号

2004.11 発行者:平田栄一

目次(ジャンプします)

栄一(余白)   2 いう   3 厳禁   4 ako虫   4 NK   4 アシジの小鳥   4 寛也   4 veronica  4 yohannna  4 マルコ   4 比田井白雲子   4 緑の風   5 島一木   5 しんご   6

 

栄一(余白)

連載 俳句でキリスト教

 <眠って祈る>

・眠りは祈り地へ直角に麦育つ        寺田京子

この句、「眠り・・・・地・・・・麦」という言葉の運びから思い浮かぶのは、次の聖句です。

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ四・二六〜二九

神の国(支配=バシレイア)は、神が主体となり、神ご自身が主導権をにぎって実現するものであり、わたしたち人間は時を待って、そのお手伝いをするにすぎない、というわけです。

そしてもう一つ、「地・・・・麦」といえば、有名な次の聖句があります。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ一二・二四〜二五

「永遠の命に至る」ことと「神の国に入る」こととは同じ意味です。ここでも自分に死んで神に生きる、つまりエゴイズムにがんじがらめになった自我を神に明け渡し、神が自分の人生の主人公になったとき、はじめて「永遠の命に至る」のだ、というイエスの逆説的教えを読み取ることができます。

右のような聖句を踏まえると、掲句のポイントである上句「眠りは祈り」の意味が見えてくるように思います。

無意識を重視するユング心理学では、夢分析を心理療法の技法とします。わたしたちは少なくとも、眠っている間は意識的な自我から解放されています。簡単にいえば、自分を手放している状態です。そして祈りの究極的な目的は何かといえば、右にみてきたように、自我を相対化して神の国に入る、ということなのです。ここに、睡眠と祈りの類似性を見ることができます。この「祈り」としての「眠り」が深いほど(ということは死≠暗示するわけですが)、その実りとしての「麦」――永遠の命――が「地に直角に」よく「育つ」のでしょう。

ちなみにユングは、東洋においては古来、意識的な自我≠謔阮ウ意識的な自己≠重視してきた、と考えていました。

<定型の安心

・葉桜や同じ祈りに隣り合ふ         中村草田男

 「同じ祈り」というのですから、これはロザリオか祈祷書による口祷(口で唱える祈り)の場面でしょう。口祷のうちでも、プロテスタントでは信者それぞれによる自由祈祷が主流ですが、カトリックでは祈祷書にもとづいた定型の祈りが中心になります。どちらがよいか、ということは一概にいえません。プライベートな願い事があるときなどは自由に祈る方がよいかもしれませんが、形が決まっていない不安というのもあるように思います。

実はこのことをわたしは、俳句を通して学びました。「はじめに」にも書いたとおり、わたしは山頭火の作品や荻原井泉水の俳論に共鳴し、自由律から俳句の世界に入って行きました。なんといっても季語や定型にこだわらず、自由に作れるのが魅力だったのです。しかし作品数が千句をこえる頃から、いわば自由のなかの不自由≠ニでもいうべきものを感じるようになりました。

一方、信仰についてはカトリックで洗礼を受けていますから、最初から定型的祈りの共同体に属していたといえます。そして徐々に気がついていったのです。毎回同じように繰り返される定型のミサのなかで、同じ信仰を持つ者同士が「同じ祈りに隣り合ふ」ことの心の安定感――。定型即不自由とは限らない、むしろ形の決まった一定の枠があるからこそ、無限の多様性を持つ自由を謳歌できるのではないか、と思うようになりました。

今わたしのつくる作品は、定型俳句が中心になっています。

<余白近詠>

・狂人や曇天仰ぐ冬しずか

・孤にあらずただ悲しくて花見かな

・ピエル神父小さな旅の春朝餉

・イェス様のお顔お顔と年の暮

・第三楽章まで来て冬の陣

・旅枕とある葬儀にまぎれなん

・ネットから遠ざかりては冬に入る

・置物として飼うがよし秋の猫

・死を想う目方の軽さ春霞

・聖書のごと重吉を読む日永かな

・日々絶版年々増刷神の空

・異動欄飽かず人生収支読み

・正義とは休らうことよ秋深む

・寒空に掘り出す夫婦茶碗かな

・少しずつ節制少しずつ蜜柑 

・ルサンチマン深き彼方を秋に問う

・十一桁の指名手配書とは如何に

・怒気含むまなこに映る秋の雲

・一日に山あり谷あり萩の花

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いう

・半日の時差越え父の声遠し

 一月遅れで父に誕生日のプレゼントを贈りました。

 さて、以前、アッバ・ミサ参加の折「南無アッバ」というのが恥ずかしかったと書いたのですが、覚えていらっしゃいますか。あれから時折考えているのですが、原因の一つに自分と父との関係があるのではないかなあと思い至りました。

父とは特に険悪というわけでも無く、お互い強情で素直になれずにギクシャクしてしまう、言ってみれば普通の日本の親子です。ただ私は長女のせいか、兄弟の仲で一番反抗しながらも常に親の意向を気にしているところもあります。

 たまたまアッバ・ミサの前夜、父と小さい衝突があったことも影響し、「おとうさん!」と素直に身を任せられないような抑制がかかったのでしょうね。神に父と呼びかけることに抵抗がありました。「私を愛してくれる父/母である神」ということはわかっています。でも、実際の父との関係が投影されてしまったのですね。(いえ、私の父だって、いい父なのですが・・・(^^;))

 先日読んだ本の中に、こういう文がありました。

「あなたの親がどんなことをあなたにしたからといっても、するべきことはただ一つ、親の墓の前で涙を流しながら和解をすることです。」

 私もいい年ですし、父との和解(というか、いたわりあいでしょうか?)緊急課題のようです。

 

余白: いい話などというと不謹慎・失礼かもしれませんが、感動しまた考えさせられました。

直接「アッバ」ではないのですが、「父なる神」という表現に対して、父親から虐待を受けていたキリスト者から、同じような反応をお聞きしたことがあります。

とくに日本では、昔の「頑固親父・雷親父」という印象が在りますから、なおさら難しいのかもしれませんね。

そこまでじゃなくても、近年は父親の存在自体が稀薄になってもいるし、実感をもって「アッバ」というのは時間がかかるのかもしれません。

 しかし、その現実の不完全な父親(私などもその一人なわけですが)像が素地としてあるにしても、それを超えた完全なアッバを慕うということ、南無する、ということはできるのではないかと思います。

それはたとえば、「アッバ」の中に、母や兄弟姉妹、友人などの好ましい要素を取り込みイメージするということです。

現に井上神父は、「アッバ」また「イエス」のなかに、マリア的要素を読んでいます。

井上神父がマリアをあまり語らないのは、マリア信仰の否定ではなく、殊更に語らなくても、そういうものをアッバやイエスにすでに見ているということだと思います。

 貴女が御父様との葛藤を解かれて行きますように、祈ります。

・逝く友を追うか伸びいる秋の雲 

・置物とするには惜しい秋の猫

・野を分けて風かの人の便りかな

・濡れ縁にりすが木の実の置手紙

・道迷う友まぶしくて踏む落ち葉

・キンセとは露と知らずにマルメロやカリメロとやと心乱れる

・万霊節ジャック・オー・ランタン哄笑す

・叱られてつんと月見の猫のひげ

・月見禅の猫励ませよアシジの聖よ

・アシジの聖いさなんとする猫の恋

・朝寒の猫や爪先立ちで行く

・滴りにはじけ泣く児やバプテスマ

・不ぞろいが愛しモチーフ編みつぐ夜長

・怖しと言う兵出征す霜の朝

・毒と呼ばれ紅い蔦の実飾りおり

・黒猫のぬくもり抱く人は無し

・無明へと月は式部を照らしたか

・常長の強がり芋のへの字口

・この夜は汽笛響けり秋の雨

・声高のデモさけふりさけあおぐ秋空

・秋風に楓燃え立ち赤に黄に

・夕陽しみて朝より紅き楓かな

・ミサへ行く夕べ散る葉のロンドかな

・落ち葉掻きなぜかレレレと言ってみる

・落葉に合わせて猫の顔上下

・金天井降り敷く落ち葉の照り返し

・ためらいて置くナイフなりかりんの香

・懐かしき友に会うたり赤まんま

・みつめては思い捨てきれぬ衣更え

・三十一に足りず十七には余りすわらぬこころいかにとかせん

・ぐるぐるがやがてすうぴい寝息へと私の猫を眠らせる夜

・来たりませ五七の天使外つ国にありてこころを歌にのせたし

・「宗教はみんな同じ」と言う友に「そうかな」としか答ええぬ私

・ながめせしまにかわりゆく花の色小町でなくも思いやはする

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厳禁

・過ぎたるは及ぶが如き麻里華花

・十月の空に響くや蝉の声

・歳を経て孤を楽しめる読書かな

・来し方に 君を 探しつ振り返る秋

・真夜中に起きて見入るは相似形

・春菜種夏は梅雨で秋は長雨

・願い事 やれば出来そな事ばかり

・君のため そう思うなら 黙ってて

・八日ぶり 蒼き御空に 白きシャツ

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ako虫

・金木犀香る礼拝やすみます

・知らぬ名の飲み物ばかり珈琲店

・神になり全て知りたいナゼなのか

・指名手配写真私にすりかわる

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NK

・ボケと間違いしマルメロの実黄色い実

・旬の秋味わいながら合掌す

・待ちに待ち 秋空とデート 白きシャツ

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アシジの小鳥

・冷や飯と別れ烏とわれひとり

・正しくは茉莉花のはずちいぱっぱ

・やれ行くか野分の中のアンドリューズ

・晩秋に 聴く鎮魂曲 ハウエルズ

・自然から 神を見る君 ユニテリアン

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寛也

・黒髪を次切るまでのマンジュシャゲ

・シャボン玉吹いては破れ秋刀魚焼く

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veronica

・大根の皮も食べるよキンピラで

・おお今年も便座に足跡夏おわる

・寿司屋だって知らぬ魚がいっぱいだ

・カップに名前書くなよたかがコーヒーで

・ハロウィーンやってることは七夕だ

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yohannna

・ダ・ビンチのコードにゆれる好奇心   

・ともしびの ひかりに惹かれて 窓をみる

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マルコ

・日光の紅葉に染まり帰り来て

君に伝うる本遅れしを

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比田井 白雲子

・とんぼとんぼ ほら とまってくれた

・おおぞらがこんにちわ

・空とおにぎりをたべる

<さめていく心のままに青き踏む   栄一>

この句いいですね。一流の線をいっています。やはり宗教俳句は、感情や思いを少しぼかした方が、よい味がでると思います。

 

余白:私は、やはり芭蕉派なのでしょうか、どんな俳句も文学も求道的な作品として読めると思っています。そして自然のどこにでもキリスト、アッバの働きが見られるように、いわゆる無宗教文学や芸術にも同じものを見ることができると思っています。

大兄の飾り気のないいつも素朴な作品からは、重吉の最晩年の詩をモノローグにしたような、やわらかで澄んだキリストの香りが漂うようです。

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緑の風

部屋で寝ころんでいると、窓枠と樫の木と向かいのマンションの塀に縁取られて、空のかけらが見えます。その景色を見ながら、先ほど思い浮かんだ詩を書きますね。

・  コトバ U

木々が私に話しかけてくる。

その言葉は優しく、心を癒してくれる。

 

日差しが私に話しかけてくる。

その言葉は力強く、私を励ましてくれる。

 

そよ風が私に話しかけてくる。

その言葉は清々しく、私を清めてくれる。

 

空が私に話しかけてくる。

その言葉は深淵で、愛に満ちている。

 

それらの言葉は皆、神からの

メッセージを代弁していた。

 

余白:この自然は、わたしたちも含めて生きとし生けるものを生かし、支えてくださるアッバなる神に造られています。アッバはわたしたちを心を込めてお造りくださったのですから、その「癒し」や「励まし」や「清め」や「愛」をもお与え下さるのだと思います。

問題は、暖かい「その言葉」を聞けるエゴイズムを離れた耳があるか、ということですね。

「その言葉」が聞こえたあなたは、幸福な耳をお持ちなのだと思います。南無アッバ

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島一木

多利田久美句集『薔薇の曙』より

   その1                           

昭和54年 一時退院

・想ひみるルルドの光たんぽぽに

又一時退院

・虹仰ぐはかなき生命うつくしく

・刈りあとの草の匂ひもそれぞれに

・さまざまの別離に堪へし夏ごろも

・ミサ講話真清水(ましみづ)に額(ぬか)洗ふごと

再々入院

・百日紅百日病とはわれがこと

・包帯を解くがごとくに林檎むく

昭和55年

・愛に在(ま)す神に仕へて去年今年(こぞことし)

・冬籠無言で神と語りをり

・マリア苑雪の降るまま積もるまま

・水仙におん手を垂れて聖母像

・薄ら氷(ひ)の鏡踏まじと立ちどまる

・ふるさとの便りに春のぬくみあり

・復活祭受洗の子らは使徒の数

・雪達磨ひとつ聖母の前にあり

・汝(なれ)もまた生まれ来し身よ縞みみず

・キリストに捧ぐる身にも衣更

・野うさぎの子も出て遊ぶマリア苑

終生誓願宣立

・虹仰ぐささげし生命清かれと

・黙想会修女の面(おも)に無き貧富

・萩の花昼夜ことなる山の風

・風のゆく道知らねども稲穂かな

・石地蔵あばたぞろひや草の花

笹川美宝受洗

・蜻蛉(あきつ)舞ふ洗礼受けし児の上に

・宝冠のごと舞茸を神父掌に

十一月二日

・燭入れて闇深くする死者の日に

発行所は聖体奉仕会で、私家版の非売品。作者は聖体奉仕会のシスターである。筆名の多利田久美は、マルコ5:41(ラゲ訳)に出てくる主の御言葉「タリタクミ(娘よ起きよ)」から頂戴したそうである。身辺を詠んだ日常吟は平凡に感じるが、こと信仰や信仰生活に関わる句になると俄然光彩を放ってくるのは、さすがに信仰者なのだと思う。従って、そのような信仰作品をできるだけ多く、数度にわたって紹介させて頂こうと思う。

 

余白:真摯な俳句の紹介ありがとうございます。一句一句が完成されて、なおかつ全体が自伝小説にもなっている、優れた一連だと思います。

福音短歌 その42

貧しい人々は いつも

あなたたちといっしょにいる

しかし わたしは

(マルコ14:7)

・この婦人は 香油を注いで

葬るための 準備を

してくれたのだ

(マタイ26:12)

・イエズスは この世にいる

弟子たちを 愛して

終わりまで 愛し抜かれた

(ヨハネ13:1)

・その主人は 二階の

準備の整った大広間を

示してくれるであろう

(マルコ14:15)

・わたしは あなたたちと

いっしょに この食事を

することを せつに望んでいた

(ルカ22:15)

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しんご

・  秋風

銀杏並木の昼下がり

言葉が天から降ってきて

風がゆらりと吹いたから

そのままみ空のかなたかな

なんだか秋口の切なくもあり切なくもない空気が大好きです。母校に調査書取りに行ったり、恩師と面接の練習したり添削してもらったりの日々です、ここ最近。高校時代の先生って、ほんといつまでも先生で嬉しく感謝な事だとしみじみ思います。と、そんな想いをあらわそうとしたら、なんだかこんな感じのになっちゃいました。

またご指導宜しくお願いしますね、おかげさまで最近いい感じです。勉強頑張りまーす。

余白:七五調のリズムが軽快で、そしてもの悲しいですねー。しんみりします。とくに三行目「風がゆらり」は佳。何かしんご君も肩の力が抜けてきて、とてもいい感じに思えます。

・  空

夕暮れどきの優しい空に

秋の日まだかと出番待ち

ニコチン雲は線を描いて

夕日を浴びて黄金色

ゆらりゆらりと空へ散る

この車道の両端の

街灯はほら無数に並ぶ

闇の中で光の力はほら強い

また朝に繋がってくよに

 

・ 「去りし友に捧ぐ」(paruruさん追悼)

きっとあなたが去ったのは 始発電車も知らぬ夜

果たせなかった約束は 御国でちゃんと果たそうね

マザーテレサの絵本とロザリオ

どうも有り難う 大事にするね

ぶっきらぼうな言葉や態度

今更だけどごめんなさい

一緒にお祈りした事や

駅まで迎えにきてくれた事

ホントにホントに嬉しかった

これから僕は前に進むけど

ゆっくり御国で休んでください

以上、思ったままに書いただけですが読んでいただけたら感謝です。カトリックとプロテスタントの相互理解に努めていたことや、病を抱えながらも神様に救いを求め、懸命に生き抜いた信仰姿勢や人柄を見習い、これから頑張っていこうと思います。

 

余白:私も何度かチャットでお話ししたことがありました。優しさが会話文字ににじみ出てくるかたでした。ご冥福をお祈りします。

 

後記(余白):本誌101号以降、私は自作を毎日一句ずつ公開しながら、yahoo掲示板、その後ICFBBSに、求道俳句参加を呼びかけてきました。すると井上神父のアバミサにも参加し、また浅草教会でお会いしたことのあるアメリカ在住の「いう」さんをはじめ、次々と投句してくださる方が増えていったのです。このように多くのキリスト者・求道者が参加してくださるのは、初めてです。

100号記念号に書いたような紆余曲折を重ねてきて14年余り、ようやく理想とする求道の場、誌面が実現しつつあることを思い、感無量、喜びと感謝でいっぱいです。投稿くださった皆様本当にありがとうございます。

サイト上では、各作品に関して興味深いコメントのやりとりもあるのですが、誌面の都合でカットせざるを得ませんでした。インターネット可能な方はぜひ本サイト&ICFBBS↓にアクセスしてみてください。

皆様これからも末永く、マイペースで創作・投稿されますように。また新たな参加をお待ちしています。

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『余白の風』(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先(右3つどれでもどうぞ): メール掲示板ICFBBS求道俳句板

 

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