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平田栄一サイン本
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余白の風 求道俳句とエッセイ 第103号 クリスマス拡大号

2004.12 発行者:平田栄一

栄一(余白)

黙想マタイ伝

<第1章>

1~17 私たちの救い主キリストとなられたイエスは、
18
 聖母マリアの御体内に、おみ風様に包まれて宿られた。
19~21
 夫のヨセフ様は祈りの中で、イエスがすべての人々を救う方であることを知らされた。
22
 ここに旧約を超克する新しい福音がもたらされた。
23
 すなわち、イエスが、神が、わたしたちと共に生きてくださるのである。
24~25
 ヨセフ様は身ごもったマリア様を心からいたわり、生まれてきた子に、「イエス(神は救う)」と名づけた。

<第2章>

1~2 お恵みにより、早くも救い主イエスの誕生を知った人たちは、喜びにあふれ、はるか彼方から彼を伏し拝みにやってきた。
3
 一方、この世の権力や常識に安住していた人々は、大きな不安を抱いた。
4
 彼らはイエスについて、確かな証拠を求めた。
5~6
 イエスは祈りと願いのある所、どこにでもお生まれになる。
7~10
 しかし、己の力をたのみとし、過信する間は、イエスに出会うことはできない。救い主を謙虚に待ち望む者は、イエスとの出会いに導かれ、喜びに溢れる。
11
 彼らは神の家で聖母子を見つけるやイエスにひれ伏して拝み、できる限りの贈り物をする。
12
 彼らはまた、人の心に巣くうエゴイズムをも見抜く。
13~15
 聖家族は、時が来るまで、この世の支配者から守られていた。
16~18
 エゴイズムにかられた支配者は、罪のない無力な人々をしいたげる。
19~22
 しかし聖家族は神の御心に導かれ、貧しい村に住んで、人々と苦楽を共にした。
23
 こうして目立たず、静かに、ゆっくりと福音が準備されていった。

 

連載 俳句でキリスト教

<草木に通じる祈り>

・樹の力満ちたり祈りふかければ   対馬康子

植物を育てるとき、たとえばやさしい声をかけながら水を撒いてやると、実際発育がよくなる、という話を聞いたことがあります。

 

「あの樹が言ったの。命は決して消えないって」

元気な頃も妻は毎日、ベランダの花に水をかけるとき、少女のように、ひとつひとつの鉢に話しかける癖があった。

「うつくしい花、咲かせてね」「うつくしい花、有難う」こんな会話を・・・・。

 

遠藤周作氏の最期の大作『深い河』の冒頭、「磯辺」が末期癌の妻と対話する場面です。これは遠藤氏自身、病床にあって九官鳥や窓から見える樹と対話して慰められた、という実体験からの創作でしょう。

また福音書には、イエスが「いちじくの木」に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と祈る(呪う)と、木が根元から枯れた、という記事があります(マルコ一一・一二以下)。

イエスにしても遠藤氏にしても、祈りは神と人間、人と人の間だけでなく、山川草木にも通じるものと考えていたのだと思います。

晩年のパウロは、次のように述べています。

 

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、・・・・万物は御子において造られた・・・・。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。・・・・神は、御心のままに、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。(コロサイ一・一六〜二〇)

 

ここには復活のキリストが、自然をも含む「万物」の根底となってそれぞれの命や形を支えているのだ、という宇宙論なキリスト観が述べられています。井上神父はこうした点を重視し、キリスト教は汎在神論であり、「万物同キリスト根」の信仰である、といっています。

したがってキリスト者にとって掲句、「祈りふかければ」満ちる「樹の力」は、その樹を支え、生かしめているキリストから来るということになるでしょう。

<律法より人間>

・薔薇手入れよりはじまりぬ安息日     長屋きみ子

『マルコ』二章には、一般に安息日論争≠ニいわれている話がのっています。

 

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは・・・・言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ二・二三〜二八抄)

 

この話はユダヤ教の律法規定を知らないと、ファリサイ派が非難したのはイエスの弟子たちが他人の畑から麦を盗んだからだ、と思ってしまうのですが、そうではありません。モーセの十戒にある、

 

安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない(出エジプト二〇・八〜一〇)

 

という第四戒に違反して、「安息日(土曜日)」に「麦の穂を摘む」という労働をしたからなのです。

このファリサイ派の律法主義に対してイエスは毅然として、「安息日(律法)は、人のために定められた」のだと宣言します。この言葉は、相当に慎重な聖書学者の間でも、イエス独自の真正な発言と認められています。それだけにイエスの思想の中核をなす言葉といってよいでしょう。

安息日規定は創造主の安息の模倣という意味や、古代イスラエルの社会状況のなかで奴隷を休ませるといった人道的な意味もあったでしょう。しかし普遍的な視点で考えるなら、日常の活動に紛れてつい忘れがちな神の存在に、改めてわたしたちが気づくためにあるということではないでしょうか。まさにそういう弱い存在であるわたしたち「人のために定められた」のです。そもそも律法全体が人がいきいきと生きていくためにあるのだ、とイエスは言っているのです。

そうであれば、安息日に労働をするかしないかが直接の問題なのではなく、わたしたちをいきいきと生かそうとする神にどれだけ目を向けられるか、つまり愛である神の存在にどれだけ気づくことができるか、が重要なのだと思うのです。

 

掲句、「薔薇の手入れ」をすることは、イエスの時代であれば確かに安息日に禁止されていた労働にあたるでしょう。しかし、安息日の普遍的意味に照らせば、花にそそがれた神の愛に気づき、そこからさらに、同じように神に生かされている自分に気づく・・・・そういう契機ともなる大切な行為なのではないでしょうか。

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<新刊紹介>

土屋博政著『ユニテリアンと福澤諭吉』

2004.10 慶應義塾大学出版会)定価・本体3800円+税

「慶応義塾に神学校?! 自他を共に生かす道をめざし、仏教を対等に受け入れたキリスト教=ユニテリアン。無宗教の人・福澤諭吉が、「独立自尊の道徳」を実践する普遍宗教として期待を寄せた、その信仰の実際、明治期の日本に残した影響、福澤との出会いと決別が、緻密な資料考証により、いま甦る。」(帯文より)

「ユニテリアンらキリスト教自由主義者たちは、寛容の精神をキリスト教の教派間に留まらず、他宗教にも向けるべきとし、仏教など他の宗教にも真理性を認めた。...(略)...日本でも、こうしたユニテリアンの考えは、19世紀末にユニテリアン宣教師アーサー・メイ・ナップらが渡来したことで、大きな影響力を知識層に及ぼしたのである。本書は、ユニテリアンと福澤諭吉との関わり、また明治政府の教育勅語による不寛容な道徳の押し付けに対し抵抗した、福澤の知られざる一面を明らかにするものである。」(本文より)

 

著者紹介:土屋博政(つちや ひろまさ)

1944年生まれ。1973年慶應義塾大学大学院博士課程(英米文学研究科)単位取得満期退学。現在、慶應義塾大学経済学部教授。専門は英米宗教思想史。主な論文に、「なぜ日本ユニテリアン・ミッションは伸展しなかったのか」(『慶應義塾大学日吉紀要 英語英米文学』No.39,2001年)、「アーサー・ナップと日本ユニテリアン・ミッションの始まり」(『同』No.35,1999年)、「新井奥邃と失敗の成功」(『同』No.21,1993年)、「トマス・レイク・ハリスと母なる神」(『同』No.20,1992年)、「アン・リーとキリストの再臨」(『同』No.2,1985年)、「シェーカー主義の起源と本質」(『慶應義塾大学経済学部日吉論文集』No.32,1983年)など。

<土屋・平田往復書簡>

土屋博政 先生

先生の御著『ユニテリアンと福澤諭吉』、「あとがき」に笠原芳光先生の出版の勧めがあった由書かれていますが、拝読させていただいて、まことそのとおりだなあ、と思いました。
 ここ数日間、引き込まれるようにして読んでいる自分に気がつきました。そして充実した読後感を与えてくださいましたことを、まずお礼申し上げます。
 さて、浅学ながらいくつか思いついたところを述べさせていただきます。

 

○まず、多元主義についてですが、ヒックや遠藤氏の「神はいろいろな顔をもっておられる」「頂上は同じ」と言ったときに、その「神」なり「頂上」なりを暗黙に「一つ」のものとして想定しているのではないでしょうか。つまり神の唯一性を示唆するわけです。わたしもそのように理解していたのですが、ユニテリアンはその神の唯一性をも留保する態度を含むものなのか、とも思いました。すなわち神あるいは真理そのものが多様である可能性をも視野に入れている。それが先生が上げられているミラーの立場、あるいはユニテリアンの立場、ということになるのか、「不一不二」という言葉が思い出されます。

ちなみに、『深い河』の主人公「大津」のモデルになったのが遠藤氏自身が告白しているように、井上洋治神父なのですが、井上師はこの問題については、次のように述べています。(ご存じかもしれませんが、抜粋します。)

「私は決してイエスと法然が同じことを言っているとか、宗教はどの道からでもみな同じところに到達するのだとか言っているのではない。キリスト道にしろ、仏道にしろ、その道を歩むということは生きるということであって、思索するということではない。人は二つの道を同時に考えることはできても、決して生きることはできないのである。....

人は、自分が今登っている道は必ず山頂に到達するのだという信仰をもって登っていく以外にはないのであり、他の道が山頂に到達するかしないかはわかるはずはないのである。」(『法然』あとがき)

神父は、この意味で、排他主義も多元主義も否定しています。どちらの主張が正しいかという議論をこえて、実際にある一つの道を、一生をかけて「生きる」ということが大切なのだ、と説いています。しかしその場合でもわたしたちは、自分とは違う道を一生をかけて歩んだ他宗教の人たちからも、大いに学ぶべきものがあるように思います。

○福澤先生とナップらの関係やその変化は、まこと鮮やかに書かれていて、一気に読ませるものがあります。

頂いたご本のほとんど数頁ごとに傍線を引くほど勉強になりましたが、そのほんのいくつかに絞って触れさせて頂きます。

「ナップに対するドロッパーズの不信感」という箇所、「彼らユニテリアンがドグマより人格の向上を強く主張していただけに、互いのコミュニケーションの拙さから、信頼すべき相手につまらぬ誤解や不信感を持ってしまった」(147頁)というくだり。

よく教条主義という形で批判の矢面に立つドグマですが、そうした歴史の中でできあがったドグマが、いわばご都合主義の人為より、人々を結びつける効用があるのかもしれない、などと思いました。

○「福澤の宗教的境地は、ユニテリアンが宗教として根付かなかったのと同じく、あまりに知的で、一般人には抽象的過ぎて受け入れられなかったようだ。」(166頁)

宗教の世俗性、そして身体性・肉性、たとえば具体的に教会に「行く」という行動やミサや礼拝という形式、聖像の問題など、人間の弱さをある面で無視し、あまりに純粋化しようとした理想主義あるいは理性主義に一般の人々はついていけなかったのではないか、と思います。
○新渡戸が政府部内にありながら、クエーカーという教派的キリスト者であるがゆえに教育勅語を鋭く批判できたのに対し、金子は問題点を見る見識がなかった、というくだり(169頁)
も、ドグマというものの存在意義を改めて考えさせられました。
 このあたり少し飛躍して考えると、上の井上師の言葉に関連づけていえば、「あれもこれも」ではなく、ともかくも「あれかこれか」の「一つの道を誠実に生きる」ということが、実は他の道を生きている人々を最もよく理解する、という逆説があるのかもしれない、とも思います。しかし同時にそれは、先生がご指摘の、開かれた心、自己の限界性の認識をもちつつ、という条件がつくのでしょう。
○「批判力をなくした相対主義は自己絶対化から自由になれない」(174〜7頁)
まことに鋭い指摘だと思います。形式的相対主義は、けっきょくご都合主義に陥る危険、と読みました。
○福澤と金子にみられる対照教育勅語をどう受けとめたかで日本のユニテリアンの明暗を分けたという分析も興味深いです。
○そして、土屋先生の真骨頂は「附論」にもあるのではないかと思いました。
228頁「自分の生き方に自信がない者は、自分と異なる者がいると不安になる。その不安を消すために相手を否定する。」
 まさしく、最近いろいろな教派のキリスト者とネットなどで交流して感じることです。
 「....そして同時に自他の限界性を認めることだろう。....これからの宗教はむしろ自己の限界を大切に....その限界を無視したり、安易に超えることを考えるのではなく、むしろそこにとどまり、その限界の中で最大限生きるにはどうしたらよいのかを考え、他者とともによりよき生を....」
 この点が本書の結論であると同時に、土屋先生が御自身ずっと心して生きてこられた心情でもあるのだと強く感じました。
○「あとがき」もこの線にそって書かれたものと思われます。ユニテリアン信仰の歴史、長短を知ることは、わたしたちキリスト者、ひいてはすべて現代に生きる者への鏡になっているのだと思いました。
 また、福澤をはじめ日本における経過を知ることで、日本人の宗教性、私の興味分野にひきつけて言えば、日本人キリスト者としての生き方のヒント、をも示唆されたように思います。
 「限界を認める宗教」はひとたび教派的信仰を持った者には、かなり勇気のいることだと思います。しかしそういう営為なくして平和も「相手の痛みをおのが痛みとすること」もできないのであれば、わたしたちは勇気を出さなければならない、ということを痛感しました。
 この自己相対化という点は、私も今連載中の「井上神父の言葉に出会う」(拙ホームページにも掲載)で触れていますが、自分の信仰している宗教そのものの限界、というところまでは言及していません。
 これは私が今のところカール・ラーナー的な包括主義的段階に留まっているからかもしれません。

 以上まことに雑駁で、まだまだ読みが足らないのですが、取り急ぎ寸感を述べさせて頂きました。まことに良い本を頂き、感謝に堪えません。
 
僭越ながら、学術書とはいえ、ていねいな補注も読み飛ばせないものばかりで、一気に読ませる無駄のない書き方だなあ、と感心しています。

ご存じのとおり、奥様にも先年来学友として、また信仰の友としてずいぶんお世話になってまいりました。「あとがき」に奥様をねぎらう一文を読んで、理想的なご夫婦だなあ、と思い、ご本はお二人の共著のようだと、勝手に思っております。

だいぶ寒くなり、また、地震や物騒な事件が絶えないこの頃。どうぞお二人ともお体ご自愛いただき、さらなる研究に邁進されますよう、お祈り申し上げます。

今後ともよろしくご教示ください。

2004.10/30

平田栄一

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平田栄一様

ご感想ありがとうございました。具体的に論じていただき嬉しく思います。長いコメントを頂きましたので、感謝の気持ちを込めて、出されました重要な質問に応答させていただきます。

 

さて、ヒックや遠藤氏の「神はいろいろな顔をもっておられる」「頂上は同じ」と言ったときに、その「神」なり「頂上」なりを暗黙に「一つ」のものとして想定しているのではないでしょうか。つまり神の唯一性を示唆するわけですという第一のご質問ですが、私もヒックや遠藤周作は究極的一者を想定していたと考えます。ですから河合隼雄のような人は、ヒックの多元論にはキリスト教的な一神教的臭さが残っていると考え、ヒックの考えに批判的でした。河合さんは、それよりも仏教の実在の方がより多元論としてなじむと考えたわけです。そして河合さんの批判を待つまでもなく、ヒックは、拙著で記しましたように、今では実在者でなく、仏教的な実在を基本に考えるようになっています。神あるいは真理そのものが多様である可能性をも視野に入れているのがミラーやユニテリアンの立場かという質問ですが、ミラーの場合は多神論という形で捉えていますから、そうだと思います。しかしユニテリアンに関しては、そうだとも言えるし、そうでないとも言えます。つまり、本論で論じましたように、色々な考えがあるからです。保守的なユニテリアンは頂点に実在者を想定していたでしょうし、汎神論の立場のユニテリアンはそういう人格神を否定しました。彼らは河合さんのように実在を重視したでしょうが、神々が多様であっても、だからといって真理までもが多様であると考えたか分かりません。不可知論者もいましたから、そう考えた人もいたでしょう。

私はキリスト教の有神論と仏教の無神論を一つにする必要性を感じません。ところがかつて慶応大学の私の同僚であったM氏などは、ヒックを弁護して、仏教とキリスト教を調和するため、キリスト教と仏教を一つの実体の陽と陰に喩えました。しかし私が疑問に思うのは、何故キリスト教と仏教という二つの宗教で宗教全体を代表させるのか、です。イスラム教徒やヒンズー教徒、その他の宗教の人はM氏の考え方を不快に思うでしょうし、また認めないでしょう。彼の考えは独善であると非難することでしょう。M氏はご自分の立場や考えを無意識の内に絶対化しているのです。M氏のように諸信仰を究極的に一元化しようとすると、こういう問題が常に付きまとわざるを得ないと思います。一元化というのはある視点を絶対化することだと思います。その頂点に近いものを上とし、そうでないものを下に見ます。60年代私もマルキストから未だ真理に達しない哀れなプチブルの男と見られ、いやな経験をしました。私は誰も神の立場に立つべきでないという立場です。真理は一つというのも、信仰や価値に関しては、ありえないと考えます。あの有名な哲学者バートランド・ラッセルが、点や線が場所をとらない、という事も観念上の約束事で、数学でさえ絶対でないと知って驚いたと告白しています。科学においても一つの実体を捉える時、色々な視点があるわけで、どの視点に立つかで異って捉えられます。一つの真理を認める場合でも、条件を一致させる必要があります。まして信仰や価値は科学と異なり、万人に共通する条件で一致させることなど出来ませんから、真理は一つといえるはずがありません。信仰者は論理学の「真理は一つ」という命題に振り回され過ぎているのです。「真理は一つ」といったことにこだわるよりも、具体的な生身の人間を大事にしたいのです。私の多元論はカウンセリングの経験からきています。一人一人の人をかけがえのない存在と見、その人の一番望むことを支援することを大事にします。自分と同じでなくてもよしとしなければ、よきカウンセリングは出来ません。私と異なる信仰を持っていてもその人を尊重しますから、その人の信じる信仰も大事にします。その点マザー・テレサと異なります。彼女にはヒンズー教徒にはヒンズー教徒の葬式をしてあげるという素晴らしい面がありますが、しかしお弟子さんにその死に行く人を隠れたキリストと見なさいと教えるやり方には違和感を覚えます。その人はその人であるというかけがえのなさのゆえに尊ばれるべきで、その人が隠れたキリストであるから尊ばれるべきというのはヒンズー教徒の人にとってどうでしょうか。実際のところ、聖書のマタイによる福音書25章をよく読むと、マザー・テレサの教えはお弟子さんに対する教育的配慮に基づくもので、必ずしも聖書そのものの教えに即しているものでないことが分かります。イエスが語ったとされる譬え話によると、王に嘉せられた人は旅人や病人をただ可哀相に思って助けたのであって、その人々をであると思って助けたのでないことが分かります。であるから助けたのでは、善意が半減します。であるから助けるという行為には、どうしても報いやに認められたいと思う気持ちがあります。聖書の譬えは報いを考えず、ただその人に同情して行う行為です。それが結果的ににしたことになるというのが聖書が教えていることだと信じます。マザー・テレサは素晴らしい教育者であったかもしれませんが、この点に限って申せば、素晴らしい聖書の解釈者であったとはいえないようです。よきサマリヤ人の話もそうですが、自分の信仰や民族が異なる人であっても、それらに関係なく、人間として困っている人がいれば、助けずに居れない心を持つことを神様は私達に望まれているのでないでしょうか。要するに私の立場は、福澤の「独立自尊」は「独立他尊」でもあるという考えです。以上拙い考えを述べさせていただきました。

2004.11/2

土屋 博政

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小さき花

<山根さんの井上神父「福音書をよむ旅」による聖書講座>

今回はユダヤ教,ファリサイ派とイエスとの神観の違いについて,安息日の癒し、迷える羊のたとえ話などを中心とした内容でした。
安息日論争(マルコ2.23)はイエスが旧約聖書に通じ、豊かな知識があったことを示しています。
イエスは大工(指物師的な存在)として村々を回り、貧しさ故に安息日を守る事が出来ない人々を見てきました。安息日は人々が幸せに生きて行くために神が定めた決まりです。力の弱い人、奴隷が働き詰めに働かされずすべての人が1週間に一度休み、礼拝することができるように。
ファリサイ派にとっては律法絶対主義、律法を守るか守らないかが大事でした。
安息日の癒し(マルコ3.1)も、安息日に労働してはならないと言う律法による見方しか出来ません。
手のなえた人の辛さーローマの植民地での厳しい暮らしの中で,人並みに働けない,雇ってもらえない,生きる事が苦しいーを思いやる気持ちがありません。 癒したら訴えてやろうと言う視点からしかみていません。そこにはアガペーの愛が欠けています。イエスはそこに怒りを感じ,かたくなな心を悲しみました。
愛は律法よりも大切なものです。
ファリサイ派、ファリサイ派の中でも特に何年も学んだ律法学者は、律法をないがしろにする冒涜者と怒り、イエスを生かしておけないと考えます。愛を説くイエスがなぜ十字架で殺されたのかという学生達の疑問の答えです。

アガペーを「悲愛」と井上神父は訳しています。
「悲」はサンスクリット語でうめきをともにする、悲しみ苦しみを共にする愛という意味です。その人の心を写し取って共に苦しむ愛という意味ですが、一般になかなか広まりません。耳で聞くと「悲哀」という語が浮かんでしまいます。

徴税人は嫌われ者、同胞から盗むローマの手先と見なされていました。
当時の社会では宗教的には駄目人間、神との絆も切れてしまっていると思われていました。お金はあっても,ユダヤ人から受け入れられず,孤独で寂しい思いをしています。
そういう徴税人もイエスの愛にふれ、神から見捨てられたものではない、神の愛にもどっていきます。

迷える1匹の羊などのたとえ話。
最後の「悔い改め」を重視する部分はルカ共同体の言葉です。マタイ共同体は「小さい者を軽んじないように」と視点が違います。
ファリサイ派の見方だと、迷った羊が,改心して戻ってくれば受け入れるかもしれないが,こちらから探しに行って辛かっただろうと手を差し伸べる事はありません。
99匹がファリサイ派だと、自分から迷った1匹のためになんでほっぽっとかれるのか。自業自得ではないかという不平となります。
アガペーの愛で考えると99匹も迷った1匹の仲間が孤独で辛くて助けを求めている,その心を写し取る事ができます。無事見つけられることを祈り帰りを待ちます。
残された羊も主人の羊飼いの思いと同じならば、帰って来た時,良かったね,良い羊飼いでよかったね,と一緒に喜ぶことができます。
共同体のお互いにも愛の絆ができます。
天の父は迷ったのは自業自得だとおっしゃる方ではありません。どこまでも迷った羊を探しに行く羊飼いのような方ですから、自分もアガペーの愛で徴税人や罪人を受け入れると言うのがイエスの態度です。
ファリサイの見方だと、徴税人や罪人は神に逆らう人,天の父は罰するはずであると、神の理解が根本的に違っています。
天の父はそのような方と知らせるのがイエスのたとえ話です。
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風邪の山根さん。お疲れさまです。次回の聖書講座は年明けです。
午前中 PTA,午後聖書講座、そのあとミサ当番と忙しい1日でした。
朗読担当箇所は「働かざるもの食うべからず」、耳が痛いです。
娘が豆乳ホットケーキ、洋梨のせを作っています。
洋梨にちょっと焦げ目がついておいしいです。横で見てます。

今朝は修道院にミサにあずかることができました。
家を出る6時過ぎはまだ薄暗く、家の前の落ち葉を掃除する人、犬を散歩させる人、お寺の掃除をする作務衣姿の人、店内でそばを打つ人に出会いました。
来週も朝6時20分からです。 20041114日) 

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作品

・花傾ぐ広野は視姦というべきか   栄一

・秋よ、駆け足で行かないで      いう

余白:ぼくは、求道俳句にタブーはないと思っています。「求道のための俳句」です。そしてその「道」は日常のすべてに及ぶと考えます。あらゆるものが「求道」の材料になると思いますよ。

・猫ぽとん蒲団の絵であり初時雨   いう

・一茶集声出して読むそぞろ寒    栄一

・肩書きに 依らでいくらの者もがな 君がみまえに立ちしその時  厳禁

・年の暮獄中書簡改行なし      栄一

余白:どんな俳句も文学も求道的な作品として読めると思っています。そして自然のどこにでもキリスト、アッバの働きが見られるように、いわゆる無宗教文学や芸術にも同じものを見ることができると思っています。

・同じよに吹かれて舞う葉と居る葉あり   いう

・恨みより 末に伝えむ 君の愛こそ    厳禁

・鼻先の検温見舞い告ぐる猫       いう

・風邪の床添う猫寝息の子守唄

・台風の 風に負けじと 余白の風    yohannna

・酔い覚めの夜明けに沈む三日かな    栄一

・十字架に二拍一礼初御空     

・幼き日 吾の姿に 微苦笑する秋     厳禁

・夫出張南瓜よく煮えふっと惜し     いう

自爆テロ続く夏夜のイデア論      栄一

・古書店に 立ち寄り出会う 山頭火    厳禁

・みを寄せて柿も恥じ入りフルーツ・バー     いう

・箴言を憎みて去りぬ春の影       栄一

・新婚終了 酒の力であいらぶゆー  ako

・箴言より 雅歌やレビ記が ずっといい   アシジの小鳥

・推敲がやがて祈りに春夕焼      栄一

・呼び捨てで義母の名が出ず感謝祭   いう

・気がかりを預けて溶けよ春の雲    栄一

・自衛隊 必要なときは 多国籍     厳禁

・黄梅や五十路に近き妬心かな     栄一

・島影は夕凪ゼリーに浮かびたり    いう

・手放せば春も命も帰郷せり      栄一

・安全と 水も高値に なりにけり    厳禁

・立ち枯れのとんぼろこしよ空を突く  いう

・肉落ちて目覚め早まる春の月     栄一

・子を捨てる 母に倣いて 民を 捨て   厳禁

・思い出す 酒とへぎそば いのりつつ   アシジの小鳥

・無信者の信に鼓舞され聖母月     栄一

・助けやる天道虫また舞い戻り     いう

・連なりて飛べヘリコプターよ越後路へ NK

・偶然の 必然性に 神を感じ     yohannna

・愛を説明してくださいできません   ako

・放蕩の 息子のたとえ 身にしみる   yohannna

・冬の猫暇もてあましの悪さかな    いう

・うららかに最低体重記録せり     栄一

・色深む時に差ありて綾錦       いう

・無常という神の身体に触れなんと   栄一

・屠られた 子羊のごとく 感じられ   yohannna

・人の子の肉を食らいて今朝の夏    栄一

・自己責任 民にお仕着せ 官は知らじと  厳禁

・ハロウィンの小さきお化けは手を引かれ いう

・母の日に妻の小言の多かりき     栄一

・猫なれば喰うかつま先冷える夜    いう

・青年期聖書破いて煙草巻き     ako

・磔の釘打つ如く咳きはじむ     野見山朱鳥

余白:のみやま あすか、と読みます。たまには私の駄作ではなく、勉強のため大俳人の秀句も紹介しましょう。ということで、今日はこの人。キリスト者であったかどうかは調べてないのですが、キリスト教をモチーフにした句が多い。大正6年生〜昭和45年没。十代から胸を病む。

・我思いあまって我なし ケラ     ako

・われもまた ペテロのごとく 振舞うか    アシジの小鳥

・バード・デー雨のち曇り午後会議   栄一

・省せむと時雨煙立て走る夜      いう

・転入生振り向く階段立夏かな     栄一

・夏布団 猫の足跡思い出に       厳禁

・彼もたぶん 祈りをもって 答え逝く     アシジの小鳥

・夫婦道ゴールは天路のまたむこう  ako

・夫不在レインボーブリッジ封鎖せよ ako

・男気や死んで久しき夏籠り     栄一

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鷺草

平田様

はじめまして。今日たまたま平田様のホームページを発見し拝見いたしまして、嬉しさと感動で胸が一杯になりました。突然のメールをお許しくださいませ。

まずは素晴らしいホームページに出会えて私が心より喜んでいることをお伝えすると共に、このような素敵なHPを作ってくださった平田様に感謝の意を表します。

実は「聖母文庫」の本をサイトより探しているうちに偶然井上洋治神父の詩集が目に止まりまして興味を覚え、この神父様はいったいどんなお方なのだろうと検索をかけたところ、平田様のHP内にある「神父が書いた詩集 『風の薫り』の書評」のページが出て参りましたので拝見いたしました。

このページに出会えたことは、私の人生にとって大きな意味があるような気がしてなりません!絶対に神様のお導きによるものと信じております。

私はキリスト教に触れてからかれこれ二十年近くになりますが、長らく求道中の身を続けております。住んでいる所が田舎なものですから教会自体そう多くはないですし、かなり遠方にあったりするものですからなかなか行く機会がございません。それで、どこかの教会に属したことは一度もなく未だ受洗もしておりません。

そういう状態で“私は信仰を持っている”などというのは誠におこがましい限りなのですが、それでもやはりイエス様は私の主で、マリア様は私のおん母上です。

私は、初めはプロテスタントの一派から聖書講義を受けたこともあって、長い間プロテスタントの信条で参りました。でも私は幼い頃より無条件に聖母マリアをお慕いしてきたので、マリア崇敬を頑なまでに拒否しマリアさまの偉大なおん働きを不当に低く扱っているようなプロテスタントのやり方には、どうにも納得がいきませんでした。(これは、ほんの数える程度ですがプロテスタントの教会の礼拝に参加した時と、いろいろなプロテスタント系のサイトで学んで来た上での感想です。)

そんな折、一年ほど前でしたでしょうか、“不思議なメダイ”が本当に不思議な働きをしまして、マリアさまのお導きによってカトリックの信仰を持つようになりました。現在は毎日ロザリオを唱えております。加えて未信者でもOKのカトリックの三つのお祈りの団体の会員になっております。

 

平田様の井上神父様紹介のページを拝読して突然分かったことがありました。すなわち、私が未だに正式な信者になっていない一番の理由は、まさに井上神父様がお感じになった通りの“違和感”が原因だったのだ‥と。

神は万人の神であって国や文化の違いなど本来なんの関係もないはずですが、今存在している世間一般のキリスト教というのは、やはり欧米の文化のフィルターを通して欧米風の倫理感を引っ提げて登場したものなのですよね。ですから、何か心情的に微妙なズレを感じてしまう。どこか息苦しい気がする。何か違和感がある‥。

書き連ねてしまえば単純なバカバカしいようなことです。ちゃんとした信者の方からは叱られてしまいそうですが、こうした微妙なズレが引っかかるために、私は正式な信者になることを今までずっとためらって来たのでした。今ようやく、自分でも分かったのです。

「神父が書いた詩集 『風の薫り』の書評」のページを読みながら、何度も涙ぐんでしまいました。“ああ、日本にもこんな柔軟な考え方をなさる神父様もおいでになるのだなぁ”としみじみ思いました。キリスト教だからといって何も杓子定規に型にはめて考えなくても良いのだな、もっと肩の力を抜いて自然体で良いのだな‥と思ったら読んでいて何度も涙が出てきて仕方ありませんでした。私が長い間追い求めて来た信仰がここに在る、そう思いました。日本的心情と世間一般のキリスト教の考え方(特にプロテスタントはカトリックよりも教条主義的な傾向が強いように思われます;)、その狭間で長年答えを出せぬまま苦しんできた私にとって、初めて救われ思いのする劇的な瞬間でした。

井上神父様をご紹介くださった平田様には深く感謝いたしております。どうもありがとうございました!霧の中を手探りで歩いて来たような私の人生が、これで一変しそうです。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

島一木

<福音短歌 その43>

・イエズスは たらいに

水を取り 弟子たちの足を

洗っては 拭き始められた

(ヨハネ13:5)

・ペトロは「主よ あなたが

わたしの足を 洗って

くださるのですか」と言った

(ヨハネ13:6)

・わたしの していることは

あなたには 今わからないが

後になればわかる

(ヨハネ13:7)

・身体を 洗った者は

足のほか 洗う必要が

なく 全身が清い

(ヨハネ13:10)

・わたしの してやった

とおりに あなたたちも

するようにと 模範を示した

(ヨハネ13:15)

<聖母被昇天(四十六字歌 その3)>     

・聖母を 空へ 天使舞う

荒れ地けむり 花咲く 夢も

よろこびの 鐘音ふるえ

谷水や 湧きぬ

 

せいほを そらへ てんしまう

あれつちけむり はなさく ゆめも

よろこびの かねおとふるえ

たにみすや わきぬ

(新仮名四十六字全部を一回使用)

比田井 白雲子

・コスモスのようにいのりになろう

・空よ 空の青さをください

・とんぼとまってくれた いのりのように

先日、長男の結婚式で、讃美歌の312番と歓喜の歌を唱い、永遠の愛の誓いに感動してきました。しかし、私は、どうも野にありてひとりいのる、野菊のようなふんいきが好きなようです。

いう

・「天地の 別れしときゆ 猫どもは 寒さに弱く 神あきれ

暖房入れれば 送風口 またぎ風受け 温まりて

モンローのごと 白裳裾 押さえることは かなわねど

気持ちのよさは 渡る日を のらくら暮らし 

照る月の 光も見ずに 飼い主も 小言はばかり

時じくぞ おしりふりける

語り継ぎ 言い継ぎゆかむ ぬばたまの猫は」

 

反歌

蒲団の裏ゆ 打ち出でてみれば まくろにぞ ハチは高値で おしりふりける

 

モンローを気取り温風口の上 目細めたる猫全身温し   

おまけ

温風口またぎ暖取るモンロー猫

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後記(余白):

編集当初予定していなかったのですが、どうしても皆さんにご紹介したい記事がたくさんあって、今号はクリスマス「拡大」号とさせていただきました。

土屋博政先生、鷺草様、小さき花様には、原稿の、また梅崎幸吉様にはイエスの「顔」の掲載を快くご承諾くださいましたこと、心よりお礼申し上げます。

大きな地震やテロ関連事件など、悲しい話も多かった今年ですが、せめて主の降誕のお祝いは、喜びのうちに迎えられますように。

来年も皆様、よろしくお願いします。

<付録>

最近思ったことです。初期キリスト教(2〜3世紀)を少し勉強していると、祈りと実践が密接に結びついていたことに気づきます。おおざっぱに言って、祈りも預言とか奇蹟を伴うものや、寡婦への生活援助など、すごくきめ細かい。禁酒や禁欲、性交渉や結婚の是非等々、よくもまあここまで、、、とわたしなどは思ってしまうわけですが、ともかく厳しい、という印象です。で、それはどこからくるのか、というと、初期有力だったユダヤ・キリスト教の伝統なんですね。つまりイエスの福音の実質化を、ユダヤ教的律法主義で解釈している、ということです。ですから、洗礼や悔悛の見極め、規定なんかも厳しい条件を設けています。それがヘレニズムと融合していくと、旧約の伝統とは離れていくけど、彼らなりの道徳主義が強くなっていきます。総じて、愛や祈りの実践を、律法的にしろ道徳的にしろ、いわば外側から実質化しているように思えます。それがイエスの最初の福音?に照らして果たしてどうだったのだろう?というのが率直な私の思いですが。。。。
 もうひとつ、最近の出来事から。例の新潟中越地震の被災者に義捐金を、という話があった。ある職場では、上からの強制はまずい、というので、任意団体である親和会が呼びかけた。それでどうしたかというと、「みなさん、一口1000円でお願いします」ということになったのですね。この話を聞いてあきれたのは、わたしだけじゃないでしょう。なんで1口一律1000円という額が指定され、しかも半強制的に募るのか?こんなひと言に、心から湧く思いを表に出すときの日本人の不器用さというか、体面を気にする見栄というか、を見たように思い不快でした。次の主日に、今度は教会で同じ件で呼びかけがありました。フランス人の神父は、被災者の状況を話した後、さらっとこういったのです。「みなさん、お金は廻り廻って必ず戻ってくるものです。今時100円や500円は子供のお小遣いからでも出せます(笑)。。。よろしくお願いします。」この言いぐさに、一同もつられて思わず笑ってしまいました。。。それが効を奏してか、ふたを開けてみると、教区内で一人当たりの献金額がトップでした。新潟の司教はとても喜んでおられた由。ぼくは、上の職場での話と比較して、なんという違いかと思いました。根本には、当の神父への日ごろからの信頼というのがあるでしょう。そして神父の見栄や名誉心からではない純粋な愛を信者が直感し、共感したからこそ、ああいう「子供の小遣い程度じゃ・・・・」というそれだけきいたら無謀な発言がすーっと受け入れたのだと思います。ぼく自身このS神父、「うまいこと信者を誘導するな〜」と感心しながらも、なんのわだかまりもなく財布がゆるみました。この神父の愛と祈りのいわば「配慮された、さりげなさ」?のようなものに、何かあの「よいサマリア人」を思い出しました。

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『余白の風』(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

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