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余白の風 求道俳句とエッセイ 第105号 二月拡大! 

2005.2 発行者:平田栄一

 Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

『余白の風』(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。

毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

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 u    <ねじをゆるめる>俳句でキリスト教:栄一

・背のねじをゆるめ黒人霊歌聴く  江里昭彦

(『クローン羊のしずかな瞳』瑞祥と凶兆)

現代俳人のニューリーダーとして、私が尊敬している江里氏から第二句集をいただきました。その「あとがき」に次のような一節があります。

 

「ひとびとは<適応>のために払う努力と労力に疲れているのだろうか、と思うことがある。日々通勤で利用する地下鉄や、稀には東京の電車の座席にかけて、乗客の表情を観察することがある。不機嫌な面が多い。・・・・眼にどんよりした反感をうかべ、口をへの字に結んでいる。仕事がうまくいかないのか、トラブルをかかえているのか、・・・・私が小さかった頃は、これほどたくさんの不機嫌な面相を見かけなかったように思う。・・・・とはいえ、ひょっとしたら私も自覚がないまま、そうした表情を他人に見せているのかもしれないが。」(一四九頁)

 

江里氏は一九五〇年生まれで、戦後世代は「冷戦構造、市場経済、市民社会といった大きな枠組み」、さらに「繁栄という理念、出世という目標、進学という動機、金儲けという風潮、長時間労働という規範、健康という観念など多岐に」わたって新しい世界に<適応>するよう求められてきた、といいます。そして「ひとびとは∧適応∨のために払う努力と労力に疲れて」しまったのではないかと、現代を分析しています。

 

この句集は、巻頭に「瑞祥と凶兆」と題して七句を置いています。そのうちの一句が掲句であり、残り六句は次のとおりです。

 

  ごしごしと如月の虹かかりたり

  大虹をつきぬける鳥みな真顔

  畳冷え絵巻のなかばにて斬首

  身熱をふやす葛湯を父と飲む

  鉄橋へむずがゆそうに雪が降り

  闇を囃す桜がさくぞ一月後

 

これらの句を見ると、「瑞祥」としての「虹」や「桜」より、「ごしごしと」、「畳冷え」・「斬首」、「むずがゆそうに」、「闇」などの「凶兆」の方が作品のモチーフとして勝っているように思います。∧適応∨のために緊張を強いられ、疲れ切った現代人の姿を冷静に見つめる氏の目を感じます。

しかしこうした作品群のなかにあって掲句は、緊張を「ゆるめ」、現代人の疲れを癒す一句として際だっています。抑圧への嘆きと解放の希望を、イエスの福音に託して歌う「黒人霊歌」。そのほとばしるような歌声に、わたしたちは張りつめた「背のねじをゆるめ」るひとときを与えられるのではないでしょうか。

u    前号句評:海

私には俳句の事は解りませんが、この海藤抱壺「クリストの齢なるこそ女にふれぬ我身こそ」と言う句は痛いほど良く解ります。この歌とは直接に関係はないと思いますが、与えられた命(魂)は、神のものです。この魂は自己も他者も犯す事の出来ない唯一ものです。それは神と共に永遠に清いものだと考えます。何か悪い事をしたから、神から与えられた命が穢れるとは思いません。ここまで書いて、ふっと、思いました。この事を述べるには従来の伝統的神学の是非を云々しなければならないと。何時か、お話し、出来ればと考えています。

 

u作品1

・馴れ初めをほのぼのと聞き小春の日    いう

・曇天の彼方に晴れ着七五三        栄一

・窓際の猫一身に冬陽寄せ         いう

・レールとイエス 月が浮いている     白雲子

・葛湯欲しと言いし夫はアメリカ人     いう

・風がきた 呼んではいないのに      白雲子

・でもやはり納豆嫌いは仕方ない?     いう

・世人皆義人に非ずばなんぞ戦に大義のあるかは   厳禁

・日常をしばし断ち切り冬うらら      栄一

・夏休み虫をいっぱいころしたよ      ako

・犬も子も遊びはじける息白し       いう

・冬耕や百振りこえて風吹きぬ       栄一

・そらであらう              白雲子

・人生はいつも手探り星月夜        栄一

・咳すれば心配顔の猫来る         いう

・目覚めての道用意され白冬芽       いう

・渋滞や今日初めての空の顔        いう

・流星雨 東の空に 見えもせず      yohannna

・流れ星 願いをかける ひまもなし    yohannna

・秋の夜に星置く神を疑わず        栄一

・とらわれの星枝籠にまたたけり      いう

・星死んでボクら生まれる冬安居      栄一

・罪にあり死にゆくわが身に楽園の恵みたれたもう君こそ王なり   いう

・綿虫にもある星雲の記憶かな       栄一

・星雲の中にはっきり神の目が       厳禁

・スクリーン睨む夫に定時無し       いう

・ああ神はいずこオリオンカシオペア    ako

・天の塵集めて成りしアダムかな      栄一

・胸に持て銀河見えねど星ひとつ      栄一

・大脳の 記憶の神秘 宇宙かな      yohannna

・偶然も 三度かさなりゃもう神意       厳禁

・脳の中 宇宙の中に 主はおられる    アシジの小鳥

・懲りないで「年末ジャンボ」に夢託す   ねこ背

福音短歌 その44            一木

・僕は 主人に勝らず/遣わされた人は/遣わした人に 勝らない(ヨハネ13:16)

・このことがわかった/からには 実行すれば/あなたたちは 幸いである(ヨハネ13:7)

・事が起こる前に 言っておく/事が起こったときに/あなたたちが信じるため(ヨハネ13:19)

・わたしが 遣わす者を/受け入れる人は/わたしを 受け入れるのである(ヨハネ13:20)

・わたしを 受け入れる人は/わたしを お遣わしになった/方を 受け入れるのである(ヨハネ13:20)

 

u    追悼:植松万津 短歌抄

・夕ぐるる刻(とき)はいずこもやさしかりわけても母の俎板の音

・勤務きつしと言えば足裏を踏みくれし母のみ足の温き重さよ

・家出タバコとくり返し去年(こぞ)のわれの闇なりし生徒の賀状胸熱く読む

・待ちいたる卒業期なれど近づけば別れがたかり愛しわが生徒(こ)

・みな合格喜び合えどひとりだけ辛き少女いて教室しずか

・<昭和二十六年より>と口を開けばこみあげて言葉つまりぬ退職の辞は

・街にたましい在るごとき暮れ彼の丘に蒼いろ深くプラハ古城は

2005113日、この「余白の風」第93〜96号などにも投稿くださっていた植松万津(本名:まつ子)さんが急逝されました。

まつ子さんは私の高校時代の恩師植松健先生の奥様で、「風」誌59号拙文「井上神父の言葉に出会う」(2)にも、「U先生の奥様」として書かせていただきました。

長い間中学校社会科教師の仕事を誠実に果たされ、また短歌の方でも加藤克巳氏に師事し多岐にわたって精力的に活動されていました。

実は私が30歳近くなって仕事に迷い、植松先生宅へ相談に伺って、教師をめざす決意をしたのも、まつ子先生の「平田さんにはぴったりの仕事よ!」との、無邪気とも受け取れる励ましの一言でした。

私が「風」に書いたとおり、まつ子先生は晩年、健先生の遺志を継ぐかのごとく、カトリックに求道され、シスターについて勉強されていました。「風」や井上神父の本の熱心な愛読者でもありました。まこと一途な、まっすぐな生き方をする方でした。

健先生とまつ子先生は傍がうらやむほどの睦まじいオシドリ夫婦で、4年前に健先生が亡くなってからは、「早く健さんの所に行きたい・・・・」というのが口癖だったそうです。

今私は、両先生から受けたご恩と思い出を振り返りつつ、井上神父の「死は人生の完成の時である」という言葉をかみ締めています。イエス様のおそばで、お二人が再会を喜びあっている姿が彷彿としてきます。(余白記)

 

u   友人との対話から:いう

代母さんと、俳句のことを話していて気づきました。

うまく言えなかったんですけど、情景と心情の一致のようなことです。

自分と他との境界が、あいまい?なこと。そこに居心地のよさを感じること。英文で書くときの、はっきり書かなければならないことの苦痛。などなど。

書くときは人に見てもらうのですが、自分が書きたいように心に浮かぶまま書いては、こちらではまったく意味を成していないようです。

「これを伝えるために、これを書く」と言うのが、日米で一致していないのですよね。心に浮かんだまま書くと、「だから?」ってことになっちゃう。

英文で書くときは、古典の歌の現代訳みたいに、(私にとって)味気なくなる方向に努力しないといけません。やりようによってはできるのですが、全然うれしくありません。

情緒的なこと。空や草花や生き物。細かな物や事柄に、ぼんやりと向けられた視線。

そういうもので私ができてるのに、ここではそれが意味にならないのだ、と、落ち込んだ時期もありました。

(よく考えれば大げさです。こちらにだって自然を愛する情緒的な人はいるはずなんです。(^^;)ただ表現が違うだけで)

でも、俳句を作りながら、それはまだ幼稚なものですが、なんとなく原因が見えてきたような気がしています。

何かを見て、「ああ!」と思う、そしてそれを「そうだね」と言ってもらう。そういうことに飢えていたのだと思います。

自覚はそんなにありませんでしたが、こちらへ来て5年、ひどい不適応だったのでしょうね。

これから、どう折り合いをつけていくか、まだわかりませんが、今、心のつかえがおりたような気がしています。 (2005.01.14)

u日本人とCONTEXTNK

文化・民族・歴史・宗教、そして、育った環境が、比較的周囲と似通っている日本人たちは「context」が高く、故に、日本人たちは「言葉」というコミュニケーションが少なくても、特に問題になることはない。・・・と以前、夫が話していたことを聞いたことがあります。
 とすると、それはある意味、日本人にとって「言葉」とは、コミュニケーションの手段というよりは、その微妙な感性を表現することで、より「context」を「味わう」ために、存在しているのかもしれません。
 しかし、逆に「context」が低い欧米人にとっては、「言葉」とは、まず第一に、重要なコミュニケーションの手段であり、それを「味わう」というレベルにまで達することは、非常に困難なことであるように思います。
 先日テレビ番組でやっていたのですが、000人間という生物は「言葉」を巧みに操り、高度なコミュニケーションをもつことで、生き抜き、繁栄してきた生物だそうです。

それを元に考えると、やはり本来の「言葉」の目的とは、厳しい生存競争を獲得するための高度なコミュニケーション手段であり、その「言葉」を全く別なかたち、『「context」として味わう』ことに意義を見出した、日本人たちは、それだけ豊かな環境の元で生きてこれたという証拠だよなーと私は思わざるを得ません。。。 (2005.01.15 14:41)

u   NKさん、どもです(^^):いう

>より「context」を「味わう」ために、存在しているの>かもしれません
 理想とするコミュニケーションの形が違うなあと思います。(^^)
 日本だと、「くどくど言わなくても通じる」とか、「ああ」言えば「こう」とわかる、ってとこに、結構、価値が置かれているような気がします。
 アメリカで、それをそのままやってると、疲れちゃいますね。日本人の知り合いから聞く、人間関係上のさまざまなトラブルも、そこに原因があることが多いような・・・。
 一応頭ではわかっているので、それ相応にやっているつもりでした。特にトラブルもなく、普通に生活して来ました。
 ですから、俳句や短歌にふれてみて、どっと湧き出したようなこの気持ちに驚いています。
 身にしみてなじんでいる母語の響きや、言葉から繰り広げられる世界。
 ほとんど忘れかけていた、子供の頃読んだ今昔物語絵本や、子供用百科事典の短歌に添えられた写真まで、するすると思い出しました。
 自分を「全く散文的」で「ドライ」な人間だと思っていたので、この発見は意外でした。今は、俳句や短歌を鑑賞しながら、楽しんでいます。
>それだけ豊かな環境の元で生きてこれたという証>拠・・・
 本当にそうですね。体のすみずみまでうんと伸ばして浸れる世界を見つけられて、幸せだなあと思っています。

 

u  作品

・頬たたくこの雪湖から来たる       いう

・星芒に吾が生死あり冬構え        栄一

・寒空に 星がきらめき 神の声      yohannna

・ひなたぼこほこりだらけのあこーでぃおん  ako

・日向ぼこしゃっちょこばるのはもうやめた  いう

・御手の上ふくら雀の横並び        末子

・祓われていよよ真白の雪野かな      いう

・人生に未完は無し枯葎          栄一

・主よどうか俺を殴ってボコにして     ako

・年頭の聖餐式やグラス受く        末子

・目の中に丸太の棒のごろごろと      いう

・俳談に猥談まじる冬隣          栄一

・偽善者と 吾子に呼ばれて はっとする   厳禁

・雪枝の地に付くまでにたわみたり     いう

・山茶花の零れる毎に鎮まれり       栄一

・紅葉のもみじ葉の主の血ににたり     厳禁

・抱く猫の重みの温さ雪の夜        いう

・言いたきこと抑えて子に向く冬の膳    栄一

・年暮れてカプチン僧もカート押し     いう

・年の瀬に 友の訃報の届きて かなし    厳禁

・ありし日の失言悔いる冬の壁       栄一

・雪に注ぐ陽のまぶしさの恵みかな     いう

・街角に「クリスマスイブ」流れゆく    ねこ背

・達郎も「定番ソング」に なりし今    ねこ背

・山茶花の気高き香りにすまし顔      NK

・耐へる時神示さるる枯木立        末子

・やはらかに蕾ほどきし山茶花の その花びらに暫し夢みむ   NK

・ストーブのヤカン優しき鬱の人      ako

・遠足や聖体としてニスキャップ      栄一

名前だけ聞こえる人の夢にあり間が悪いのは治らないのね   いう

福音短歌 その45     一木

・よく言っておく/あなたたちのうちの 一人が/わたしを 裏切ろうとしている(マタイ26:21)

・まことに 人の子は/自分について書き記されて/いるとおりに去って行く(マタイ26:24)

・ユダは そのパンを/食べると すぐに出て行った/夜であった(ヨハネ13:30)

・また 弟子たちの間に/だれがいちばん偉いか/という議論が 起こった(ルカ22:24)

・しかし わたしは/あなたたちの中で/給仕する者のようである(ルカ22:27)

 

u    <弱さを受け入れる>俳句でキリスト教:栄一

・踏絵あり非日常の日常や       岸美世

(「現代俳句」三九六号)

やや哲学的・抽象的な作品であるゆえか、考えさせられる句です。作者は実際に長崎などで踏絵を前にしているのかもしれません。

「踏絵」といえば、江戸時代禁教令下の宗門改めという、過去の特殊なこと、現代のわたしたちには縁遠い「非日常」的なもののようです。しかし、足跡で磨り減った踏絵を眺めているうちに、その時代と特殊な状況をこえて現在、わたしたちの「日常」のあちこちにも踏絵が置かれているのではないか、という思いがしてくるのです。キリスト信仰など宗教に限らず、たとえばある信念、愛、勇気、希望・・・・いつの時代にも、自分がこれだけは、と大事にしているものが試される、そういう場面がわたしたちの生活のただなか、まさに日常に転がっています。そのときわたしたちはどういう態度で臨むのでしょうか――。そうした「非日常の日常」を思わせるところにこの句の深みがあります。

 

わたしは、踏絵を踏まずに殉教した信者は立派だと思います。しかし、踏絵を踏んで裏切りという自責の念に苦しんでいる人たちのためにも、イエスは十字架に架かり、復活し、ゆるしを与えているのではないかと思うのです。

故遠藤周作氏の『沈黙』のテーマもこの点にありました。たしかに福音書を丹念に読んでみれば、イエスは、ユダやペトロがいずれ裏切ることを知りながら、彼らの足を洗い、(復活後も)食事を共にしています(ヨハネ一三章他)。このことはとりもなおさず、イエスが裏切っていく彼らをゆるしていたことを意味しているのだと思います。

 

u                山根先生による井上神父『福音書を読む旅』に基づく聖書講座:小さき花

井上神父『福音書を読む旅』6章「ゆるしのまなざしによる回心の物語」(ルカ7.39-50)を中心にした内容でした。

まず、イエスはファリサイ派の人の招きも拒絶されませんでした。

「罪の女」とは、娼婦に代表されるようにモーゼ律法に背いて生きている女性で、人々に差別され侮蔑と嫌悪のまなざしを向けられていました。

正式にファリサイ派の家に入っていくことはできなかったので給仕の女などに紛れて家に入ったのでしょう。

当時は足を投げ出して肘をつく食卓でした。イエスの赦しのまなざしにふれた女は、イエスの足を涙で濡らし、あわてて髪でふき、接吻し香油で拭いました。香油は乾燥地帯では気持ちのよいものです。

乾燥地帯でのサンダル履きで足はもっとも汚れた場所でした。

多く罪を赦されているからこそ、こんなに大きな愛を示しているというのが井上神父の解釈です。

遠藤さんは罪の女の愛の大きさを強調する解釈で,多く愛したから多く赦されたと。

ギリシア語原文はどちらとも解釈することができます。

罪が赦されるとは,神様に愛されて大切に思われている、つまり、神との絆が回復される状態です。

旧約聖書中の娼婦の取り上げられ方を見ると神の罰を受けるのが当然の存在。

イエスのまなざしと対照的で、イエスの教えのユニークさがわかります。

言葉や教えというより、何よりもイエスからにじみ出ているまなざしが、罪の女の辛さを、苦しさを写し取っていました。赦しのまなざしがどんなに重要であったか。

自分を受け入れてくれたことの感動で思わず涙がこみあげ何も言えなかった、それをイエスはわかってくれた。

ファリサイ派との違いが浮き彫りにされている箇所です。

遠藤さんも大変好きな話でイエスのイメージの原点ーリアリティを持ったイエス像となる話です。

 

マタイ福音書は道徳の厳しさを強調します。聖書を読んでみて、福音書による違いにつまずいたり、聖書の最初にあるマタイの厳しすぎる教えにつまずいたりします。

誰でも何をしても許されるというのでは、共同体が生まれると問題もおきます。共同体を維持するのはむずかしいことです。自分自身を成長させなければいけないと、to do(行ない)に関しては厳しく叱りますが、to be(存在そのもの)はゆるされているのです。to doto beの次元の違いを考えなくてはなりません。たとえば上司に行ないを叱られる、これは当然,必要なこと。でも、存在そのものを否定されるー「お前みたいな者がいるから駄目だ」などと言われると傷つき、うらんだりもします。

失敗ばかりでも存在を受け入れられている子供は親に行ないを叱られてもへっちゃらです。

 

あなたの存在そのものは大切だ、否定されていないというのがイエスの教えです。ファリサイ派だと行ないが神に背いている者は存在そのものが神に見捨てられていると存在を否定しています。

マタイ福音書は行ないをしっかりするよう、道徳的なことを厳しく説くイエス像です。

愛の行為が出来ないと裁かれるとか情欲を持って女を見るのも姦淫であるなどの戒めが守れなければ赦されないというように聖書を読むと、キリスト教は厳しすぎる、入るのはきついと思ってしまいます。

存在が赦されている、愛されているという赦しの大前提があって、行ないの次元で実践が求められ、どう生きていくのが神に喜ばれるか,こう生きてほしいというように聖書の言葉は書かれています。

ーー

主の祈りの言葉の移り変わりや、マザーテレサの来日時のエピソードなど盛りだくさんの内容でした。

 

u    多利田久美『薔薇の曙』より その2:一木

昭和56年

・いたはりの言葉に溶ける肩の雪

・ひらひらと匙ふり洗ふ春の水

・日あたりの幹触れてみる受難節

・木芽雨(このめあめ)しずかに聖書措きにけり

・綾とりの指から指へ笑み渡し

・葡萄粒(ぶだうつぶ)一つ一つに空やどし

・神父縄を唇(くち)にふくみて松鎧ふ

・毛糸帽ぬぎて朱唇をほころばす

昭和57年

・修院の玄関照らす鏡餅

帰路

・修道院吹雪の中に灯りけり

・拝むごと双手(もろて)に摘みぬ蕗の薹(たう)

・雪囲ひ解けて聖母の笑み親し

・修院の屋根替へすすみ桐の花

・万緑といへどおのおの濃く淡く

・鶯も二た声朝課に歌を添へ

・雉子鳴きて聖堂(みどう)に静寂(しじま)ふかめけり

・告解日白鉄線の返り花

・歌声のごとく白百合咲き満てり

・病む友をなぐさめかねつ戻り梅雨(つゆ)

・夕焼け野羽かげに子かくす夫婦雉子(めをときじ)

・面影橋殉教跡もしぐれつつ

・幼さへ一歩昇らんクリスマス

句集『薔薇の曙』の刊行は昭和607月。「あとがき」に、「十九歳の時盲腸の手術以来、さまざまな病気を伴侶に、神の聖旨のままに起伏の多い道を歩んでまいりましたが、昭和五十三年三月にまた、リューマチで入院・退院をくり返す身となりました。その療養中に、痛みをまぎらす助けにもと、日記代りに句作をはじめたのでした」とある。句集には、俳句作品471句と「自註」34頁を収める。「自註」は、自句の解説を兼ねた半自伝的な文章で、病気がちの身から神の導きにより修道女になるまでの半生、また修道生活の日常等が素朴で自然な筆致で描かれていて感銘深い。

 

u             作品3

・こちらから別れた人は夢にでてまで人づてにものを頼んで   いう

・中天の凍て星神の在わします       末子

・庭の雪無闇に踏みし子らのゆく      いう

・犯人にどこか肯う身の震え        栄一

・長ければいいかとうどん打つみそか    いう

・寒の四時恵みの中に雛の声        末子

・天気云う日々の戻りて冬うらら      栄一

・カウントダウンうちのおせちはおもちだけ   いう

・義理欠いて雨降る師走静かなり      栄一

・我が床の温まりてより猫の入る      いう

・猫見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの床にはあらねど   いう

・冬台風来ている中学受験の児       栄一

・白雪や清らマリアは生受けぬ       いう

・猫のこの 平和な眠り 天使かな     yohannna

・オレオレの 詐欺と見まがう 保険かな  yohannna

・独り居を果報と思う星流れ        栄一

・光待ち枝もてつづるリースかな      いう

・冬ざれの色無き庭を子のよぎり      栄一

・古日記捨てたはいいのか惜しいのか    いう

・またひと日押し戴きてねむの花      栄一

・古日記めくる心に勇気あり        ako

・古日記めくる心はマゾヒズム       ako

・若さとは馬鹿さと同義古日記       いう

・何欲(のぞ)む冬の曇天口つぐみ     栄一

・持込の積雪競う駐車場          いう

・着る服をあれこれ言われ泣き出す子    ako

・冬ざれに愛見るごとき聖ヨハネ      栄一

・実の房に連なりて受く初聖体       いう

福音短歌 その46:一木

 ・新しい掟を/あなたたちに与える/互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)

・わたしが あなたたちを/愛したように あなたたちも/互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)

・わたしは あなたの/信仰がなくならないように/あなたのために 祈った(ルカ22:32)

・主よ なぜ今/付いて行けないのですか/あなたのためには命も捨てます(ヨハネ13:37)

・言っておく あなたが三度/わたしを知らないと言うまで/鶏は決して鳴かない(ヨハネ13:38)

 

u             <幼子の道>俳句でキリスト教:栄一

・守りたまへ秋の別れの聖少女     島一木

俳句空間『豈』三九号)

今度は、十九世紀末の「聖少女」リジューのテレジアを詠ったものでしょう。前句のフランシスコより一般には知られていないかもしれませんが、カトリックでは有名な聖人です。その語録や『自叙伝』などもよく読まれています。

 「・・・・教会にもなじめず、さりとて道は依然として見つからず、徒らに焦っていた私に彼女は決定的な光をあたえてくれたのである。・・・・「弱ければ弱いほど、みじめであればみじめであるほど、不完全であればあるほど、神はその人を愛してゆたかな恵みを下さるのだ。童心に立ち返って、只ひたすらにこの神の深い憐れみの愛を信頼すること――それだけでよいのだ。エゴイズムや汚れなどというものは、神のふところに飛び込みさえすれば神がご自身できれいにしてくださるのだ。」」(井上洋治著『私の中のキリスト』第二章抄)

 ふつう「聖人」というと、学問や多くの奇跡的行為を行った人が想定されますが、テレジアはそうしたイメージとはかけ離れた人でした。しかも短い修道院生活ののち、二十四歳という若さで亡くなったにもかかわらず、今や聖人どころか、あのアウグスティヌスやトマス・アクィナスと同じ「教会博士」という称号までも教皇から与えられているのです。

その理由は、彼女の教えの普遍性、現代性にあります。とくに、右の井上神父の一文にまとめられている「霊的幼子の道」――神・イエスへの絶対信頼の霊性は、母性社会日本の土壌によくマッチするのではないでしょうか。

掲句からは、一八九七年の「秋」に夭折したテレジアに作者が寄せる願いと信頼が切々と伝わってきます。

 

u             作品4

・小春日やもったいなくも死を想う     栄一

・編みとばす目までほどきて夜は長し    いう

・アーメンと口ずさむ児やアッバ・ミサ   栄一

・長き夜に救いの光頼み待つアドベントキャンドルの灯をともしつ   いう

・日は暮れて冬至の南瓜薄甘し       いう

・南無アッバうっかり忘れ悴みぬ      栄一

・ココア溶き聞くばかりかな友のぐち    いう

・冬の灯や巻物の香を忘れまじ       栄一

・ゆらと舞いゆるす雪花吾に降る      いう

・十字架と無言の神とどこ吹く風      ako

・雪見する隣で猫は懐手          いう

・クリスマス 主役は御子かプレゼントか   厳禁

・もみの木にじゃれる猫にも降誕祭     いう

・水を受くイブの心や南無アッバ      栄一

・寒空に 友送りたる 天見あぐ(物見櫓)   なたやん

久々にベールを被り塗油を受く蒼穹見ればなべて美し   トモ

・整わぬわが心にもイマヌエル(主はともに)    いう

・雪やんで今日は美人の冬木立       いう

やは風に舞う白雪になでられて今日は美人の冬木立かな   いう

・白樺や 晴雨選ばず 凛と立ち       細木

・噛みしめる残飯うまし一人イブ      栄一

福音短歌 その47   一木

・行って 場所を/準備したら 戻って来て/わたしのもとに連れて行こう(ヨハネ4:3)

・イエズスは 仰せになった/わたしは 道であり/真理であり 生命である(ヨハネ14:6)

・あなたたちが わたしを/知っているなら わたしの/父をも 知ることになる(ヨハネ14:7)

・わたしの内に おられる/父が ご自分の業を/なさっているのである(ヨハネ14:10)

・わたしが 父の内におり/父が わたしの内に/おられると 信じなさい(ヨハネ14:11)

・紫色から期節がいつの間にか白      アシジの小鳥

・小春日の猫は呼ばれて振り向かず     いう

・あれこれをふわっと任せ南無アッバ(大晦日)     栄一

・決意からなにから持ち越し去年今年(こぞことし)    いう

・ことしもね 取り上げられず 行く年来る年   アシジの小鳥

・初ミサへふと振り返る妻の顔       栄一

・初春や猫に誘はる昼寝かな        いう

・二日より吾が生業に朱を入れる      栄一

・弟の心配ばかり初電話          いう

・星示せこの世に降りる真実の光への道今日も歩まん    いう

・人生の目的はただアバ信頼        栄一

・餌箱を吊り子雀にお年玉         いう

・御名頼む素直雀に教はりぬ        いう

・生きるとはカギカッコ付き冬の窓     栄一

・年も明け 新たな時代 願う朝      yohannna

 

ICF投稿作品は第1スレッド300レスを終了しました。引き続き、第二スレッドを立ち上げています。どしどし投稿してください。

http://bbs.christian.jp/modules/bluesbb/

 

u               思うまま書きます:海

最近思う事ですが、西洋神学・哲学は理(論)の世界だと思います。例えば、古来から問題になっている「人間とは何か」と言う事に対して、様々な優れた見解を提示してくれました。が、それらは、何処か我々の心に響かない、冷たいものを感じます。それは多分、言葉・言語を中心にして思索されたものだからと思います。此処で、翻って、聖書の「イエス」の言葉に接した時、それは理(論)ではなく、日本語的に言えば、情(感)の世界をうたっていると思います。此処で問題になる事はどの様な論理であろうと、言葉・言語では、人間の心(最も大切な所)は把握出来ないと言う事でしょう。把握したと思った瞬間に大切な部分がすべり落ちてしまうのです。イエス自身、「愛」なるものを哲学者の様に定義してませんし、また、そのような箇所もありません。ただ、イエスがそれを語る時は「命」そのものとして語っていると思います。

平田さんにとって「井上」神父さんは「師」だと思います。井上神父さんと同年代(日本人)で、彼ほど、キリスト教を日本人の心に近かずけた人は他にいないと思います(一つの例外を除いて、それは遠藤周作ですが)。平田さんの使命は大きいと思いますよ。言葉で語る事は、そう難しい事でないと思います。が、後に残りません。平田さんが、歌でイエスを語る事が一番大切な事です。まさにそれは情(感)の世界です。我々を安らかにしてくれる言質(歌・俳句等)が今求められています。それから、平田さんは、井上神父さんさえも越えていかなくてはならないと思いますよ。

いや〜、どうも好き勝ってに書いてすみません。今日は大学の方が少し暇になりましたので、思うままに書きました。笑って失念して下さい。

u             Re:余白

過分なるお言葉、恐縮です。夢にも井上師を越えられるなどとは思いませんが、井上師や遠藤さんが言いたかったことを、少しでも次世代にバトンできたら、とは思っています。「風」編集室の山根さんや、「風」から出た伊藤神父など、少しずつですが、それぞれの持ち場で次世代につながっているのではないかと思います。今後ともご指導・ご意見よろしくお願いいたします。

 

u              やはり:白雲子

あれこれ迷いましたが、やはり求道俳句をめざし、人々をいやすような俳句を作りたいと思います。本年の一層の求道俳句の発展を祈念しております。

 

u                 はじめまして:one3792さん

わたしは東洋哲学や宗教を主に学んだり実践してきましたが、キリスト教にも関心があります。色々と学ばさせて頂きたいです。 (Nov 23, 2004)

 

u                  リンク、ありがとう:つぼみ9905さん

左麻痺2年9ヶ月のカトリック信者教会に行かれる日を夢見ています。俳句すきなんですが、私もリンクさせてください (Nov 25, 2004)

こんなステキなページがあるとは、知りませんでした。又ひとつ、生きる希望が見えました。ファイト がんばります。 (Nov 26, 2004)

 

u                    昨日:はんな@Hanna

「セント・ポール神戸」に行ってきました。(女子パウロ会の書店)余白さんの本があるかと思いましたが、置いていませんでした。(売れてしまったのでしょうか)しかし、井上神父様の本があり、なぜ余白さんが「余白」というHNなのかなんとなく分かりました。 (Dec 9, 2004)

 

u             クリスマスおめでとうございます:余白

もずさん、ののかさん、マルコさん、それぞれに有意義なクリスマス!わたしの方は、大学の先輩が急逝され、四半世紀ぶりにお通夜に集まった友人たちと語り、いろいろ考えさせられました。そういうクリスマスも、亡き先輩の配慮だな〜と感謝しております。
友情、家族、仕事、そして人生と死、どれも底知れぬ深さがあるのだなーーと、こんなクリスマスも忘れがたいものです。みなさま、よい新年を。南無アッバ!! (Dec 25, 2004)

 

u              クリスマスおめでとうございます:モモ

余白さん ご無沙汰しております。(覚えておられますか?笑)今年は後半特に南無アッバのミサに出席が叶わず残念でした。今年私は心身の不調に悩まされた1年でした。主に心の病に悩まされました。正直どうなることかと自分自身でもわからなくなる位の1年でした。余白さんはじめ皆さんに不義理をしてしまった1年でもありました。まだ人の多いところは多少の不安があるため教会でのクリスマスミサには出席出来ず、静かに家でクリスマスをお祝いしました。でもこうして主のご降誕をお祝いすることが出来る位に気分も落ち着かせて頂き、普通の方なら当たり前かもしれないことにささやかな幸せを感じております。(普通の方というのも乱暴な言い方かもしれませんが・・・汗)これもまた全てを赦し受け入れて下さるアッバのお恵みだとクリスマスの今日私らしくもなく感慨にふけっております。(アハハ・・・ちょっと照れます)
年が明けたら心身にも時間にも少し余裕が出ると思うので、井上神父様や遠藤周作さんやそして余白さんのいろいろなご著書、またいろいろな宗教関連書を読ませて頂くのが楽しみです。余白さんもお忙しい毎日をお過ごしのことと思います。お体には十分ご自愛下さいませ。どうしてもクリスマスの今日こちらに書き込みさせて頂きたくて・・・お邪魔しました。
南無アッバ (Dec 25, 2004)

u             Re:余白

モモさん、クリスマスおめでとうございます。憶えていますとも。最近アッバミサでもお見かけしないなーって思っていました。そうですか、つらかったでしょう、、、、どうぞ、アッバの暖かい風がモモさんを吹き抜け癒してくださいますように。マイペースでゆっくり進みましょう。1月には井上神父様の新刊も出ます。
よいお年を! (Dec 26, 2004)

 

u                 おめでとうございます:いう

主の御降誕を心からお喜びします。今年はだんな君もミサに出てくれました。(^^;)実は24日の夜にけんかしちゃって・・・。本当にめずらしいことなのですが、よりによってその日に・・・でした。ねこもおろおろしちゃって、私とだんな君の間を行ったりきたりしていました。でもそのおかげか(!?←正当化してます;)一緒にミサに行けてよかったです。罪深さと、それにもかかわらず与えられている多くの恵みに涙したクリスマスミサでありました。 (Dec 26, 2004)

u             Re:余白

いうさん、ICFの求道俳句スレッド長く続いていますねー。半分は「いう」さんのおかげです、ありがとう。ネットの書き込みには俳句は一番あってるのかもしれないですね〜♪これからもよろしく〜 (Dec 26, 2004)

 

u             ありがとう〜^^:Matthew

今年1年、余白さんと善き交わりが持てた事に感謝しています。私も来年には、少しでいいから俳句に挑戦したいと思っています。来年が、余白さんとご家族様にとって、素晴らしい1年となりますように Amen 主の平和☆ (Dec 31, 2004)

 

u                一家庭での聖餐式&愛餐会:マルコ

私の家では狭いリビングルームを解放して家庭礼拝をもっています。牧師夫人という自覚が全くないこの私は、昨夜まで尾瀬岩鞍のスキーに行ってました。お天気に恵まれ、ガンガン滑った結果確かに少なからず上達した感触と、野沢菜おやきをお土産に無事帰宅することが出来ました。その帰って来た我家は、目も当てられないオトコ所帯と化していました。一瞬呆然・・ 明日は年に一度の聖餐式と月初めの聖日で愛餐会(昼食会)があるというのに・・でも、ま、いいとするか、いつも気持ちよく送り出してくれる夫と息子のしでかしたことなので・。帰宅したら気が弛んだのか下肢の筋肉痛と強烈な睡魔が・・。それに鞭打ちながら、聖餐式用の種入れぬパンを焼き、ブドウ液を入れる小さなコップ類を拭いたりの準備。そして年初めの愛餐会では「おでん」と決めているのでそれの仕込み。これらの準備で最低4,5時間はかかります。おでんはたっぷりのだしで一度煮てから、朝もう一度煮込みます。何時に寝たのかよく分からないけど、朝早めに起きてお掃除お掃除ボロ隠し!
 今年初めての礼拝には9人の方が集って下さいました。皆さんちょっとおめかしをして。。
 礼拝の説教の題はマタイ伝264752節から剣をとる者は剣で滅びる、新年の心がけに相応しい説教がされました。例えば剣を「恨み」その他様々な言葉に変えても用いられる教えでした。
 その後カトリックのミサにあたる聖餐式、そして待望の(?)和やかなおでんの愛餐会になります。皆さん「おいしい」とお替りをして下さったので、本当においしかったのだとホッと安堵したことでした。

 余白さんが、昨年末から今年にかけて連続早朝御ミサに通われたのを拝見して、不意の方が見えたら右往左往をしてしまうであろう、独立で家庭礼拝を行っている群れの準備をする楽屋裏風景を描写させていただきました。お粗末様! (Jan 9, 2005)

 

u             ありがとうございます:モモ

余白さんにはクリスマスに書き込みをした時に、私の愚痴っぽい書き込みにも関わらず温かいレスを頂き感謝するばかりでした。
 おかげさまで徐々に心身の調子も調えられ、先日久々に聖書講座に出席出来ました。
余白さんや皆さんの励ましも頂き、アッバの温かい風の癒しを得てここまでこれたことに本当に感謝です。
まだまだですが徐々にでも元気にゆきたいです。
 私ごときが言うのは非常〜〜〜に恐れ多いのですが・・・「生きるとはカギカッコ付き冬の窓」いつにも増して心に響きました。しばらくパソの前で固まってました(笑)。
 いつもこのページには温かい柔らかな風味を頂いております。ありがとうございます。 (Jan 11, 2005)

 一番最初のミサ:一木

・一同が 食事をしているとき/イエズスは パンを取り/賛美をささげて これを手で分け/弟子たちに与えて 仰せになった/「取りなさい/これは わたしの体である」/また 杯を取り 感謝をささげて/彼らに お与えになった/一同は その杯から飲んだ/イエズスは 仰せになった/「これは わたしの血であり/多くの人のために 流される/契約の血である/あなたたちに よく言っておく/神の国で 新しいぶどう酒を/飲む その日まで/わたしは 二度と ぶどうの実から/造ったものを 飲まない」(マルコ14:22〜25)

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後記:お正月号を縮小したので、その分今号は必然的に拡大号となりました。しかし単に記事がふくらんだだけでなく、どうしても削れない内容が多く、何度も編集し直し、プリントでA48ページ分の、このような形に収めました。あれこれ記事を選択できるのは編集としてうれしい悩みです。

春はすぐそこ!今後とも皆様の旺盛な創作を期待します。(余白)

 

余白こと平田栄一の本

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