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平田栄一サイン本
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余白の風-求道俳句とエッセイ−第106号 新刊紹介 2005.3 発行者:平田栄一

本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任) 

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俳句でキリスト教:栄一

<傷を癒すイエス>

・誰が癖の机の傷か聖灰祭   木場田秀俊

(『福音歳時記』二月)

復活祭に先立ち、イエスの受難を偲ぶ四旬節の第一日目が「聖灰祭」(灰の水曜日)です。この日は、ユダヤ教からの伝統で灰をかぶって――前年の「枝の主日」(次項参照)に使った枝を燃やし、その灰を額や頭に受ける――日々の生活を反省し神に立ち返る、という意味があります。掲句は学校の教室にでも置かれた「机」を詠んだものでしょうか。わたしは入学試験のとき、下敷きの使用が認められず、傷だらけの机で四苦八苦して答案を書いたことを思い出します。懸命に問題に取り組みながら、鉛筆が「机の傷」に引っかかるもどかしさを感じつつ「ああ、この机で受験し、学問にいそしんだ先輩、若者の気持ちはどんなだったのだろうか・・・・」と、緊張で上気しながら、ふと思ったものです。

恋愛、サークル活動、学問・・・・。さまざまな場面で誠実に生きようとしながらも、心の奥底に潜む、得体の知れないどうしようもない何か≠ノ引きずられるように、人を傷つけ、また自分も傷ついてしまったあの頃――。「誰が癖」とはその「どうしようもない何か」を象徴しているかのようです。

青春は、いや人生というものは、その渦中にあるときは無我夢中であり、ずっと後になって、エゴイズムの深さに気づくものなのかもしれません。そして、そのエゴイズムによって傷つき苦しんでいるのは、他者や自分であると同時に、十字架に磔になっているイエス自身なのだ、とキリストは考えるのです。

しかしそれだけでなく、自他の「傷」を癒す力をもイエスが持っていると信じています。これがイエス=キリスト≠キなわち「イエスは神の子であり、救い主である」という信仰告白なのです。

<神の記憶に残る>

・人逝きぬ祈りの窓に春の星   村松任鹿

(『福音歳時記』四月)

人がひとり亡くなると空にひとつ星が増える・・・・そんなメルヘンがありますね。

星が増えるかどうかは別として、どんなに目立たない人生も、必ず何かを後に残します。キリストはその最大の証明を、イエスの生涯にみます。人間的にみれば、ガリラヤの寒村で貧しく育ち、短く生きて死んだ男の一生が、後世の人たちの心に、人生に、いかに大きな影響を及ぼしてきたことか・・・・。

もちろんキリスト信仰からいえば、わたしたちの死はイエスの特別な死に直接比べるべくもないのですが、それでも一人の人間が生きて死ぬ、その人生が後の世に、他の人たちに残すものは、計り知れないものがあるのではないでしょうか。しかもその大きさにおいて、生まれてすぐ、あるいは、母親の胎内でなんらかの原因で亡くなった子供の、未生ともいえる短い人生が、九十歳をこえる長命の人生より小さいとはけっしていうことができません。同じように、この世での有名無名、教養の有無、人づきあいの広狭等々も、あとに残すものの大きさを測ることはできません。

「復活とは神の記憶に残ることだ」と井上神父はいいます(『我等なぜキリスト教徒となりし乎』)。たとえ目に見える形での遺産がなくとも「神の記憶に残り」、一人ひとりの人生がいつかだれかに影響を与えていくのです。そのとき「祈り」は生者と死者をつなぐパイプとなります。

近刊『俳句でキリスト教』紹介・購読予約:栄一

長らく本誌を中心に連載してきました求道俳句評が『俳句でキリスト教――求道俳句をめぐる心の旅』としてサンパウロ社より一冊になって近々刊行されます。初出・書き下ろし分も含め、既出稿も大幅に改めておりますので、ぜひお読みいただければと思います。B6版約270頁(予定)。

そこで、定価・出版月はまだ決まっていないのですが、著者直送の予約販売を承りたいと思います。
 ご購読いただける方は、
余白メールで、(1)送付先 (2)ご氏名 (3)著者サインの有無(「〜様」の指定) (4)冊数 をお知らせください。今回郵送料はサービス(著者負担)させていただこうと思います。お支払いは本書到着後、郵便振替等でお願いすることになるかと思います。
 定価・出版月は決定次第、本誌やメイン「お知らせ」サイトに掲載いたします。よろしくお願いいたします。

山根道公先生の井上神父『福音書を読む旅』による聖書講座:小さき花

6章の続きです。
長血をわずらう女(マルコ5.24-34)
 12年間出血が止まらない、女性にとって大変苦しいことです。しかもレビ記によれば出血は汚れており、自分がふれたものも汚れると教えられていました。神の罰として自分はそういう病気になったと精神的にも苦しい状態でした。神とに絆が切れ、神から見放された、隣人からも切り離された孤独な女性です。医者、あらゆる手段をつくしても駄目だったが、イエスのうわさを聞いて、こっそり近づいたのです。自分がふれるとイエスに汚れがうつるおそれ、そうしてでもこの先生だったら自分の苦しみをわかってくれるかもという必死の思いでした。単にぶつかったのではなく、辛い人が自分にそっとふれた、そしてその人に力が働いたことにイエスは気づきました。心をひらかせるイエスのまなざしに、女は恐れをこえてすべてをうちあけ、ありのままを語ります。 これは最後の晩餐の洗足と同じです。人間の最も汚れたものをイエスに差し出せば、清められる、それがイエスとのかかわりです。自分からイエスにふれていくとは、すべてをありのままに打ち明けること。それが「あなたの信仰があなたを救った」なのです。「安心していきなさい」この言葉は重要です。救われるとは病気が治るということではなく、あなたは神に見捨てられ孤独ではいない、神の愛の中にある、神との絆が回復することです。
これは告解の赦しの言葉にもなっています。罪とは神との関係の絆が切れた状態,神との絆を回復される喜びが福音です。悲愛のまなざしがこめられた神、人との関係、見捨てられていると思い孤独であった女性が孤独から解放され、神との愛の絆を回復していったのがこの物語です。イエスはそっとふれた指先にも12年間の苦しさを写しとる方です。

 姦通の女性の物語(ヨハネ7.51-8.11)
この話は初期の写本にはなく、後代取り入れられたものと考えられています。文体、ボキャブラリーからヨハネの文章ではなく、大事なものなのであとから入れたのでしょう。この部分はルカ21.38のあとに入れるとすっきりします。なぜ、ルカから落とされ、また採用されたのでしょうか。姦通の現場でとらえられた女は、申命記によれば石打ちで殺されるという厳しい掟がありました。
 ユダヤ教指導者層は、イエスは罪人に優しく、律法より愛が大事と言って人気があることを知っていました。イエスがどう答えるか。もし、イエスがゆるしてやりなさいといったら、社会秩序を乱す人、騒乱罪でローマへ訴える口実とするつもりでした。ユダヤ教として罰するのではなく、ローマに訴え死刑にしようと考えたのです。当時は一夫多妻制で、女性の地位は低く弱いものでした。
 おしゃべり,料理が下手などで女性は簡単に離縁されてしまいました。イエスが離縁してはいけないと言ったところ、弟子達はびっくりしてそれなら結婚しない方がましだと言ったという記述があります。それほど離縁は男性の当たり前の権利だったのです。石を持ち、殺気だった男達に向かって「おまえたちのうちで罪のないものがまず石を投げなさい」と言ったイエスの言葉は迫力があったことでしょう。イエスは弱い者には優しいが、弱い者を差別し、苦しめるものには厳しく接しています。一歩間違えば自分も一緒に殺される状況で石を投げようとする男達に訴えます。律法よりもその人の悲しみ苦しみを写し取るのが悲愛(アガペー)の愛であると。大事なことは律法という掟で人を裁く姿勢ではなく、悲愛のまなざしである。神はそういう方だからとイエスは訴えます。
 マタイの山上の説教ー淫らな思いで他人の妻をみるものは心の中で姦通したのであるという厳しい言葉。これはこの状況での言葉ではないかと井上神父は想像しています。イエスの言葉はある状況である人に語られた対機説法であり、そのときの状況を考える必要があります。山上の説教も本来のシチュエーションを想像すると,神の前では人間すべて罪があり、弱い者。ゆるされなければならない罪を持っている者である。そして、その罪がゆるされているということです。イエスの伝えようとしたこととは逆に、マタイの「情欲を持って女性を見ると姦淫」という箇所は、新たな律法となって人を苦しめてきました。明治期の多くの文学者が聖書のこの箇所につまずき、教えについていけないと考えました。聖書を読むと、イエスは愛の人という自分のイエス像が出来ますが、こんな厳しいことを言ったのかと自分の中のイエス像が矛盾してきます。井上神父のイエス像は、はっきり焦点があっていて、そのイエス像をもとに聖書を読み解いています。

神はわかってくださる、だから人間は何をしても良いという訳ではありません。どんな罪をおかしても、イエスを信仰すればゆるされると、姦淫もゆるされるなどと安易に流れる、誤解する人たちもいました。姦通は社会秩序を乱すことです。

この箇所は誤解されやすい、極端すぎるというので一度は、聖書から落とされましたが、人が人を裁いてはいけないと言う大事なエピソードなのでひろわれたのでしょう。

心の中まで神は見ているというのは女性を情欲を持ってみる者を裁く父性的な厳しい神が心の中まで見ているというとらえかたと、心の奥の辛さ苦しさをわかってくれる母性的なまなざしによる安心,救いと言う二つの見方ができます。

来月(3/19(土))は南無アッバのミサ。次回の講座は4月16日です。

『わが師イエスの生涯』 井上 洋治:著四六判上製220ページ2,520円税込ISBN4-8184-0557-4  C0095 2005-01 

“日本人への福音書”とも言うべき井上神父の新刊:「風」誌に連載中であった井上師が、「生命をけずるような思いでやっと書き上げ」た渾身のイエス論。生涯のテーマの総決算的作品です。

作品2・100

猫飯をくらい夜明けの冬ミサへ  栄一

・年も明け 新たな時代 願う朝  yohannna

・黒猫に白髪の増えし去年今年   いう

・初空の日をどんと受け富士の山

・持ち越しの掃除が今の初掃除

・寒風の海沿いの町にカモメ飛ぶ  ねこ背

・子を思う親思う子の受験かな   栄一

・めづらしきものと赤子をあやしをり   いう

・めづらしきものと赤子をあやしをるつまの姿をめづらしくみる

・冬の陽に小枝さざめく祝詞かな  栄一

・みどり児の軽き寝息や綿の雪   いう

・祝詞宣べん急く心もて冬の帰途  栄一

・冬霞む月傾きて爪の痕      いう

・お受験ややや大人びて三男坊   栄一

冬の雨足と地面しか見れぬ     ako

・言はぬこと多くなりけりみぞれ落つ   いう

・生きる意味問うては止まず冬の雨    栄一

・生かされて在りただそれだけで主に讃美   厳禁

・降る意味を問うたり止んだり冬の雨   栄一

・ウィルスに感染されし我が身体看護の夫に我儘爆発  ako

・不手際につけ入る神も寒の通夜   栄一

・その辺りほの暖かき繭の玉     いう

・子を思いてぽっくり逝きし老母かな   栄一

・マンリョウの実を鼻に入れ出なくなりあまりの阿呆さに両親呆然   ako

・落柿舎に詠まれぬこと葉積もりけり   いう

・金髪のマネキンの胸あらわなりぎょっとし服着せる私客だぞ!

・大寒や編み込む祈り一目ごと

・寒の通夜ぬけて受洗を決意せり   栄一

・さらさらに降り積む雪や吾を埋む  いう

・今朝さらにさらに降り積む粉雪の身のさる方をさにも隠せり

・ギボンズが聴けぬ心の闇を知る    アシジの小鳥

・新しき 年のひかりの 暖かさ    yohannna

・神とは流れ戸板に乗れば安らぎぬ  栄一

・病得て伸べられし御手聖夜の灯   asshiji

・聖堂が飲む雪女雪男        いう

・羊皮紙に書き込むように祈る朝   アシジの小鳥

・越冬や訃報吉報矢継ぎ早      栄一

・殉教の心知らせる花吹雪       asshiji

・殉教地舞う花びらに御業知り    

・月影の冷たくおける暈広し     いう

・薄雲に暈あづけつつ影高く昇りゆきにし冬の望月

・北風を通底音に妻の息       栄一

・エイティーズオールディーズと知る今年   いう

・聞き慣れし歌も久しく古りゆけばときめき遠くなりにけるかも

・手に取れば 消えゆく淡雪 心満つ     asshiji

・時空超え神は流れて冬の草     栄一

・一人飲む薄茶の味や南坊忌     いう

・寒椿二十六聖丘にあり       

・文脈の流れに禁教のドラマ浮かぶ  NK

・いつか来る悲しみのため笑初    栄一

・冬ぬくし禅のひざには眠り猫    いう

・冬籠もる猫の目が追うモビールのバランスあやし吾が心地して

・どこまでもそれなりでいい冬の雲  栄一

・際立ちぬ 白き稜線 ミサの朝    asshiji

・雪の間を馬二頭が行くほどの春   いう

・奉献日時の流れに神います     栄一

・生きていく祈りは川のながれにて  アシジの小鳥

・ともしびを世に差し出だす御母の手 いう

・芭蕉から吾が時までや去年今年   栄一

・七曜の星や故郷は天にあり     いう

・乾きつつ ジンと緑茶のチェイサーと   アシジの小鳥

・メラトニン・メラノコルチン・ヒスタミン

・春立てる窓にこぼるる鳥の歌    いう

・鳥の音は 天上にても 奏でられ  アシジの小鳥

・一糸まとわぬ主の十字架や致命祭  栄一

・春浅き丘パライソヘ続く道     いう

・小雀の讃美うららに坂の上     

・丘を超え道を見る日は いつの日か    アシジの小鳥

・命なり恥も弱さも春雲に      栄一

・聖餐に苛立ったまま与かれり    ako

・四旬節 今年もわれを失うか    アシジの小鳥

・早々と暮れる蓮田やアッバの風   栄一

・揚げ菓子の甘み明日から四旬節   いう

・始まりは 結局サッカー 四旬節  アシジの小鳥

・月経の血が悪魔呼ぶ暗い夜     ako

・月たちて心冴ええぬ横寝かな    いう

・致命祭妻の受洗日定まりぬ     栄一

・しるされる灰の十字や生一瞬    いう

・聖水に灰洗うまでの四旬節     

・上梓待ち審査待ちまた春へ書く   栄一

・厳冬の深夜にTyeのミサを聴く   アシジの小鳥

・暗き世に祈りと第五シンフォニー

・神以外信用せぬと人を避ける 人を通した栄光も見ずに    ako

     天国のイメージそれはデビルマン破れた後の世界のイメージ 

・北へ勤め病者の日とて西へミサ   栄一

・主の前に言い訳をする余寒かな   末子

・猫柳夫に手を貸す散歩道

・紅梅や主の愛される嬰の笑み

・礼拝に急ぐ近道浅き春

・春時雨地に御心が降りませ

・それ以上の圧力感じる克己献金   ako

Shine out と聴くたびに日は長くなり     アシジの小鳥

・薔薇一輪愛で老夫婦のバレンタイン     いう

・寒戻り最終頁の夜想曲       栄一

 

・手          末子

雑巾きっちり絞ります

重い買物平気です

布団かついでベランダに

野菜洗えば水しぶき

とても大きい私の手

大病もなく支えられ

春には古希を迎えます

 

二月 豆撒き 3句      一木

・子供らは天使の顔で豆を撒く

・天使よ来いサタンよ去れと豆を撒く

・洗礼を受けし年より豆の数

 

・合併を したらば免許 また更新   ねこ背

・不信の芽エデンのへびのささやきか  道草

・いらないと言われ涙がちょちょ切れるつまりホワイトデーもないのね

ako

・生徒らに八百屋教えし冬日なた    栄一

 

福音短歌 その48      一木

・あなたたちが わたしの/名によって 願うことは/何でもかなえてあげよう(ヨハネ14:13)

・あなたたちが わたしを/愛しているなら/わたしの 掟を守る(ヨハネ14:15)

・真理の霊 その方を/この世は 知ろうともしない/ので 受けることができない(ヨハネ14:17)

・もう少しすると この世は/わたしを見なくなるが/あなたたちは わたしを見る(ヨハネ14:19)

・わたしが あなたたちの/内にいることを その日に/あなたたちは 悟るであろう(ヨハネ14:20)

105号の感想:いう

「たくさんの人の声が聞こえる」と、まず思いました。さっきまた読み返してみたのですが舞台のようにも思えてきました。俳句でキリスト教、作品、句鑑賞、追悼文、レポート、書き込みから・・と、入れ替わりでいろんな形が出てきますね。ちょっと趣向を凝らした朗読会でしょうか。
出演者、多数。(^^)でも、散漫な印象はありません。それは「求道」というテーマで編集されているからですね。その求道も「ねじり鉢巻で眉をしかめて」ではないのが良いです。
(意外にも)冗談が通じずに肩を怒らせているような性格なので、余白さんやako虫さんの句を読むとほっとします。
>あれこれをふわっと任せ南無アッバ(大晦日)
これは心配事に支配されそうになる時に口ずさんでいます。とても気に入っているのはako虫さんの、
>主よどうか俺を殴ってボコにして
です。何か失敗しては「主よどうか俺を殴ってボコにして」。
自己嫌悪に陥ったとき「主よどうか俺を殴ってボコにして」・・・と、唱えて?います。
するとその後(^-^)-フゥ、となれるのがこの句の不思議な力。(^^)いつも楽しませてもらっています。これからもどうぞよろしく。

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後記:ICFからの「作品」欄、すでに400句(レス)をこえました。ありがとうございます。今号は年始から四旬節半ばまで、時系列的に並べてあります。共同句日記・連句としてお読みいただくと、なお面白い流れが見えてくるのではないでしょうか。また毎回、山根氏の井上神学講座の記録・要約を転載させていただいている小さき花さんにも、改めてお礼申しあげます。

1月に井上師の『わが師イエスの生涯』が発刊され、近々拙著『俳句でキリスト教』、そして山根道公氏の『沈黙』に関する著作も刊行される予定です。こうした日本のインカルチュレーションをめざす「風の家」の活動が、一人でも多くの人たちに、日本人のイエスの顔を模索するよすがとなりますように。また皆さまがよきご復活祭を迎えられますように、南無アッバ!(余白)

 

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