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平田栄一サイン本
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余白の風-求道俳句とエッセイ」第108号 2005.4.8 

Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任) 投稿先:掲示板ICF求道俳句板

ここ20数年、78a5131d.JPG俳句を自らの求道形式、祈りととらえて実践してきました。と同時に、「俳句」という最短詩型に、過去・現在の日本人キリスト者が自分たちの信仰体験をどう詠み込んでいるか、また、わたし自身キリスト者として俳句一般をどう読むか、にも関心をもつようになったのでした。 奇しくもそれは、「日本人とキリスト教」という、故遠藤周作氏が文学において、また井上洋治神父が神学において追い求めてきたテーマに直結することでした。そして俳句によってこのテーマを追求することが、わたしのライフワークと考えるようになったのです。 みなさんも、句作による祈りにぜひご参加ください。

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祝復活祭     余白

<マタイ28章から>

マグダラのマリアは来たり主に会いに

地震(なえ)の中御使い降り近寄れり

御使いの衣は白く輝ける

見張りらは死人(しびと)のごとく怖じ惑い

恐るるな見よ主イエスは起こされり

弟子に言えイエスは先にガリラヤへ

汝らは必ずそこで主に見(まみ)ゆ

マリアらは恐れ喜び走り行く

「喜びあれ」復活の主をかき抱き

恐れるな、行けガリラヤで会うために

イエスの名を呼ぶこと
イエスの像を心に描くこと
素直な瞳をもちつづけること
そういうことを趣味にしたい
(八木重吉詩集『神を呼ぼう』より)

井上神父所蔵・梅崎幸吉氏作
井上神父所蔵・梅崎幸吉氏作「顔」

近刊『俳句でキリスト教』

こんにちは。著者の余白こと平田栄一です。
このたび10年来小誌「余白の風」等に連載してきました「俳句でキリスト教」をまとめ直し、また書き下ろし稿も加えて、サンパウロ社より上梓する運びとなりました。B6版約270頁(予定)。定価・出版月(4月ごろ)は決定次第、掲示板等でお知らせします。

そこでさっそくですが、著者直送の予約販売を受け付けたいと思います。
ご購読いただける方は、余白メール(またはハガキ)にて、
(1)
送付先 (2)ご氏名 (3)著者サインの有無(「〜様」の指定)(4)冊数をお知らせください。
予定ですが、今回郵送料はサービス(著者負担)させていただこうと思います。お支払いは本書到着後、郵便振替等でお願いすることになるかと思います。
どうぞよろしくお願いします既刊書

<内容紹介>
キリスト信仰の立場から、俳句によって触発された求道的エッセイとして、気楽に読んでいただければと思います。俳句やキリスト教について初心の方にもお読みいただけるように、できるだけかみくだいて書いたつもりです。
俳句からキリスト教へ、あるいはキリスト教から俳句へ、心の旅をごいっしょしましょう。

投稿作品

絨毯のごと厚き香 沈丁花     ako虫

じんちょうげは、もんのすごい香りが強いのでクラクラしてキモチわるくなるけど、離れてかぐとよい香りだと思う。

107号、写真もあったりしてキレイで見やすいです。活字?(文字のカタチ)が前のより好きです。

余白:聖書は神の言葉だから、いっぺんに読むと目がくらむから少しずつ・・・・ということを、むかーし行っていた教会の牧師さんから聞いたことがある。

春暁の心よ波に呑まれるな     栄一

春宵の心どこまで伝えるか     いう

わあっ!しばらくパタパタしてこられなかった間に、107号!行って見てきまーす!

余白:春の思いは複雑、あいまいもこ。そんな伝えにくい思いも南無アッバ!

 

春昼やゆるりトラック転がして     ako虫   

朝春暁春昼春暮れ春の夜いささか温し春の一日

余白:春の一日の思いは微妙に変化。それを味わうもたのし。

春晴れて晴間はるけく晴れ晴れと

さえずりわたる春の羽雀     いう

akoちゃんの「朝春暁・・・」の歌、感動しました。 触発されて作ってみたけど、ちょっと無理やりですね。 トラックの句もかっこいい。ファンです。

107号、読んできました。 作品をのせる青い帯が、見やすくて良いですね。一つ一つの句がきわだって見えます。ソフトな雰囲気。春になってきているんだなー。今まであった「余白の風」紹介文と編集後記はあったほうがいいような気がします。お写真、文字色、目に楽しい107号でした。いつも楽しみにしています♪

余白:リズムよし。

立ち尽くす春野にイエス立ち尽くし     栄一

禅の足尻尾くづるる春の猫     いう

猫の長さで測る気温です。ゆったりゆったり。 聖木曜日。これからカテドラルの聖香油のミサに行ってきます。

余白:いいなー。こちらってか僕だけかなぁ、いつも落ち着いた聖週間という感じがなかなかしない。毎年年度末年度始めは、超多忙・・・・復活祭は、へなへなになっている思い出ばかりー。 すでに退職後が楽しみになっています。

聖金の早出仕事も祈りなれ     栄一

いう:ああ、そうですよね。年度末、年度始めですものね。勤めていた頃は私も髪を逆立てる年度末だった気がしますが、今はフルタイムの仕事がないので、伸びゆく日脚を測るがごとき生活・・・。orz・・・ちょっと申し訳ない・・・。

日伸ぶれど音たて閉じゆく年度末     いう

聖香油ミサ、行ってきました。教区内のすべての司祭・助祭がそろうという壮観なミサでした。そして席がほぼ埋まった頃に行った私がアッシャーに案内された席は、なんと、司祭助祭が居並ぶ席の隣でした。黒髪のチビがポツン!司祭や助祭だけが起立するところ、つられて立ちそうで緊張しました。

余白:それはそれは壮観かつ緊張ですねー。でもなんか得した気分じゃない??かな。こちら、終わらない「年度末」状態(笑)。

淡雲の月影に見る君の顔     いう

主の晩餐・洗足ミサ。イエスのゲッセマネの園での祈りを思い、深夜まで祈りがささげられています。 何度も眠りに落ちる弟子たちに、「目を覚まして祈っていなさい」と言われた主。せめて、今夜、私たちは祈っていたい。 苦しむ友へ・・・

 

   ゲセマネに伏す君に添いうす雲のかかる月夜を祈りつくして     いう

 

余白:必ずお祈りは聞き届けられます。そうじゃなきゃ、あんなにイエス様が夜を徹して祈らなかったはずだもね。

聖金やここに暗闇きわまれり     いう

教会典礼は一年で一番沈痛な日を迎えました。祭壇の飾りは取り除かれ壁はむき出し。バナーも、花もありません。今日だけはミサは行われません。食を絶ち、教会での挨拶も、入場の歌も、行進もありません。私たちは、ただ、みことばと十字架の前に集い、悲しみに打ちひしがれます。 お昼から、グッドフライデイのサービス(礼拝)です。主の受難を覚えます。

余白:共に黙想のなかで、つながれていることに感謝します。アーメン。

無信者こそ摂理を愛す聖土曜     栄一

 

<福音短歌 その49>

わたしを 愛する者は        一木

わたしも その人を愛し

自身を その人に見せる

 (ヨハネ14:21)

この世には 見せようと

なさらないのは いったい

どういうことなのですか

(ヨハネ14:22)

あなたたちが 聞いているのは

わたしの 言葉ではなく

父の 言葉である

(ヨハネ14:24)

わたしは あなたたちに

平安を 残す

わたしの平安を 与える

 (ヨハネ14:27)

この世が 与えるようには

わたしは 与えない

心を騒がせることはない

(ヨハネ14:27)

春の風こころ貧しく南無アッバ     道草

青空 清い想い あとは妻がいれば     白雲子

空にあるしずかさ 私 さえずりをきいて

青空で 自分の汚れ洗うしかない

 

死が変わる     栄一

朝日新聞05/3/17夕刊「こころのいま(下)」から――遺体を火葬する以外いっさいの儀式をしない直葬がブームになっている。

その背景には90年代前半のコニュニティの崩壊、死の個人化がある。

散骨や家族葬の一般化もオーム真理教が社会を震撼させた95年から。

救いを求める宗教も団体も見当たらない人々はたとえば阪神大震災後、盛んになった「ウオーク」(碑めぐり)に象徴されるように、個人の自律した宗教意識や民俗信仰的な意識に立脚したつながりを求め、

「霊魂になったおばあちゃん、どうか見守ってね・・・・といった人間が本来持っている原初的感情が基盤になっている。死者への追慕の情であり、人間の命や尊厳ほど大切なものはないという素朴な思い。個人が自分で考え、つくっていく宗教というべきものが、そこには姿を見せている。」(三木英・大阪国際大学教授・宗教学)

―― この記事を読んで思うのは第一に、「死者への追慕の情」、「命の尊厳」といった「素朴な思い」は、どんなに時代が変わっても、人間の「原初的感情」として普遍的なものであるということ。

第二に、このことから、既存の宗教(団体)が、どのように論理的に矛盾のない信仰体系をつくりだしたとしても、この「原初的感情」からずれるなら、いずれそっぽを向かれるであろうという事実である。

カトリックの著名な神学者カール・ラーナーは、イエスが死んだあと、キリスト信仰が起こった、その最初期の――原始キリスト教徒の信仰がどんなものであったかを、大著『キリスト教とは何か』で詳細に検証している。

その要点は、イエスによる救いの原初的経験とは、「人間イエスは救われた。だから同じ人間である我々も救われるのだ」という単純素朴なものだったという。 もちろんラーナーがいっているのは、新約聖書成立以前のキリスト教、いなそれ以前のキリスト信仰のことであろう。

これは、パウロの思想で言えば(パウロの思想には様々な要素があることを忘れてはならない)、初穂理論を思わせる。

『アッバ賛美』から     栄一

―私の人生の師・井上洋治神父の3冊目の詩集寸感。 神父が書いた詩集というのは、日本ではめずらしいと思います。

イエスさまにつきそわれ

「つきそわれ」は遠藤周作氏の「同伴者」イエスを思い起こさせますが、「供に」より具象的で、わたしたちがイエスの、ひいてはアッバの保護のもとにあることを髣髴とさせます。 「共にある神・イエス」というテーマは、聖書でも『マタイによる福音書』などを終始貫く重要なテーマですが、「付添う神」「付添い人イエス」という言葉は、母性社会という場に身を置く日本人ならではの発想ではないでしょうか。 限りなくやさしいイエス様に、いつも付き添われていると思うと、大きな安心があります。

 

おみ風さまにうながされ

「おみ風」とは、キリスト教にいう「聖霊」のことです。 聖書になじんでいる人は少し奇異な感じを受けるかもしれませんが、このギリシャ原語は「プネウマ」で、「息」「風」「霊」などのどれをも意味します。 いずれにしろ「聖霊」は、キリスト教では神の三つのペルソナ(位格)の一つにあたりますから、井上神父は敬称として「おみ風さま」というわけです。 前行で第二位格のイエスに「つきそわれ」、ここでは第三位格の聖霊に「うながされる」という対表現です。別の詩では、「おみ風さまにつつまれて」という言い方もしています。 どれもやわらかな表現で、既存の固いキリスト教のイメージとはかけ離れています。

いつでもどこでも

南無アッバ

アッバ アッバ 南無アッバ

こうしてイエスまた聖霊に包まれながらわたしたちは、第一位格である父なる神に応答します。この応答もユニークです。 まず仏教でおなじみの「南無」、これは「〜に帰依する」という意味です。 そこに「アッバ」と続ける。この「アッバ」は、キリスト教にとって最重要な言葉です。 「アッバ」とはアラマイ語の幼児の言葉、いまの日本でいえば「パパ」とか「お父ちゃん」とかにあたる言葉です。 イエスは神を「アッバ」と呼んだはじめての人です。 神の絶対性、超越性を強調するユダヤ教では、神を「アッバ」などと呼ぶことは、それだけで死刑に相当する冒涜といっていいでしょう。 イエスの十字架刑の必然性は、根本的にはこのイエスの神観にあったのです。 しかしイエスは死を賭しても、神は「アッバ」と呼べる方なのだ、と主張しつづけました。 そしてそれはイエスの独りよがりではなく、イエスの復活によって神がそのことを承認されたのです。 それでわたしたちは安心して、イエスと共に「南無アッバ」と呼びかけて神に全幅の信頼を置くことができるのです。

朝目覚め 今日の一日 そっとさしだし南無アッバ

この句を筆頭に、三十句近くアッバ讃句が連句のように並んでいます。繰り返し味わうと、さながら一つの私小説のようです。 その基本形「〜南無アッバ」は不思議な魔力?霊力?を持っています。 すなわち、「〜」にどんな事象がのっても、アッバ―「おとうちゃん」と親しく呼べる神に、すべてを「南無」する―お任せする、全幅の信頼を寄せよう、という意思的な決意表明であり、と同時に、アッバなるがゆえに、「〜」がどんな事象であっても拒否することなく、まず受け入れてくださる、という真実。そうした不思議な力がこの文体にはあります。

井上神父様お誕生日おめでとうございます

いう:井上上神父様、お誕生日おめでとうございます。昨年6月のアッバミサに預かった「いう」です。ミサ後、ご挨拶申し上げたときのお優しい表情が印象深く残っています。 神父様の本を折にふれて読んでいます。在米5年です。納得すること、考えさせられることが多いです。詩集も好きです。 どうぞお体をお大事に、これからのよい季節お過ごしください。

小さき花:井上神父様、お誕生日おめでとうございます。 ご健康とこれからのますますのご活躍をお祈りしております。

 ヨハ句日記

2005/03/23

誰がための卒業式や来来賓

三男坊の小学校卒業式にて。 生徒も知らない議員ほか何十人の来賓を呼び、きまりきった祝辞をあんなに聞かせる意味はどこにあるのでしょう? それなら、送辞答辞、歌・演奏、生徒主体の時間をもっと増やしてやりたい。

2005/03/24

転編の理由(わけ)さまざまに入学す

世に転入試験、編入試験はあまり知られていないようですが、その潜在的需要はかなり多いと思われ。受付に来る複雑な顔々が印象的。

2005/03/26

無信者こそ摂理を愛す聖土曜

ご復活徹夜祭にはあづかれないので、これから教会へ行って一人黙想してこようかと思います。

2005/03/27

何もかもうまくいきそう復活日

うわー、いいお天気の御復活祭になりましたねー。 こう絶好の晴れだと、何だか心配事がふっとんじゃうような気がします。 これからごミサにでかけまーす。

・・・

というわけで、先ほどイグナチオのミサから帰宅。さすが、すごーく混んでいました。ちょっと遅れたので立見席、、、仕方ない、我慢。 (そういえば、この前のアッバミサも遅刻、、、う〜ん、教師の癖に遅刻の常連とは。。。。ゴメンチャイ) 主はあれだけお苦しみになって、そののち復活されたのだから、この1時間くらいなんでもない(汗)。暑くなってきた。。。今日は18℃になるとわかっていたが、なんせ田舎から出て行くので、また虚弱体質なので、厚着をしていたのがまずかった。。。(今度は本当の?汗) お説教は有難いやら、暑いやらで、しかしミサ後半は、血が下がる、ってんですか?気が下がるってんですか、頭寒足熱になってきて好調。あと1時間はがんばれそう(やせ我慢)、というところで「行きましょう、主の平和のうちに、神に感謝、アレルヤ」。そう復活祭だから、「アレルヤ」つけなくちゃね。 遅刻した罪ほろぼしに、少しお祈り足して行こうかと思っていたら、うわっ、次のミサを待ってる人が押し寄せてきたー! 仕方ない、コーヒーでも飲みながら、、、(また甘えが出る、おまえホントやる気あんの??) というわけで、駅構内のスターバックスみたいなところへ。 隣の席に信者らしい中高年の女性が、、、(大声なのでいやでも耳につく)銀行やお金の話と神様の話が入り混じっている、、、金は天下の回り物、そんな話、、、のわけないよね(憶測)。 いかんいかん、お祈りしなきゃ。ミサでもらった「聖書と典礼」を取り出す。 福音はヨハネ20章、、、ふむふむ、おや? ペトロと「もう一人の弟子」がかけっこをして、もう一人の方が先に墓に着いた。うん、ペトロは足が遅いのか、、、ペトロが追いついて先に墓に入る、、、なんで先に着いた方が先に入らなかったのか?たしか、誰か神学者の解説に、ペトロの首位権の主張がこういうところにも出ている、みたいなことが書いてあったなあ。 それからもう一人の弟子が入ってきて「そして、見て、信じた。」あらら?そうすると、復活を先に信じたのはペトロじゃなくて、もう一人の弟子??ここはペトロの首位権はいいのかなー? あの風を切って走る二人の弟子の絵、あれだれのだっけ?。。。そんなこと考えながら、(これがお祈りかいな??)いつも楽しみな7ページのコラムへ。 福音が長くて、このページが埋まっているといつもがっかりする。 あ、今日は載ってた、ラッキー!どれどれ。。。 紙崎神父様の話。いいねー。苦労を重ねたお父様の死。しかし主の復活の見事な証人となられた、という。。。涙ぐむ。。。 お父様の口癖「最後は神様がよかごと(いいように)してくださる。」 すべてはうまくいく、、、これですよ! ありゃ、これはぼくの今日の一句と同じ!いや、「うまくいきそう」なんてもんじゃない。必ず「してくださる」と確信されていたお父様、、、やはり苦労された大先輩信者はちがう!あやかりたいなー。 なんか充実感。 往復1300円の運賃が安く感じられる一日でした。 受洗したばかりの妻と、三男坊は関西へ旅行中。今頃は向こうの教会でミサにあずかっているでしょうか。下調べで、関西は教会が多い、って驚いていました。 居残り組の男3人所帯では洗濯もよく乾いて、さて、お掃除と夕飯の支度しなくちゃー。

 

チェリー0328;イースターおめでとうございます♪ 奥様は最近受洗されたのですね。 重ねておめでとうございます♪ 読んでいたらすぐに四谷とわかりました。 私も久しぶりに日曜日に四谷まで足を伸ばし、日本語のミサに間に合わず、英語の御復活のミサにさんかしました。 凄い人垣でしたね。 これから又訪問をさせてもらいたいと思います。 どうぞ宜しくお願いいたします!! 読ませていただいて楽しくなります。またゆっくりと日記を読みに訪問させてもらいますね。

余白:いつも読んでくださり、ありがとうございます。 ああ、チェリーさんも四谷に行かれることがあるのですね。いつかお会いできるかもしれません。 ふだんは、川越教会です。 これからもよろしくお願いします。

2005/03/28

生きるため死を生きなんと椿咲く

今年も日陰の庭の椿は、けなげにもたくさんの花を咲かせてくれました。 昼なお暗い我が家の庭は、目のさめるようなピンクの花々が咲きほこり、その周辺だけひときわ明るく輝いています。 しかしこの花も、時期が来るとあっというまにぽとんと落ちる。。。。 まことの生を生きるためには、死はどうしても避けられない。 私たちは死に定められた人生を、無意味と思いがちですが、そうではない。死へ向かうとは、その死をつきぬけて、向こう側の明るい世界、イエス様がご復活を通して証された、あの完全な世界=神の国へと参入することです。 ご復活の第一の意味は、ここにあります。 昨日とはうってかわって、今朝からどんより曇り、雨が降ってきました。

 

チェリー0328:今日も素敵な日記を読ませてもらいました。 ありがとうございます♪

余白:チェリー0328さん、こんにちは。これからもよろしくお願いします。く

チェリー0328:余白さん おはようございます♪ 俳句は興味がなかったのですが、今余白さんのこの俳句を味わっていました。 素敵です。 昨日、愛犬とお散歩をしていたときに、ピンクの椿の花に出会いました。 可愛かったです。 余白さんの所属の教会を読んでびっくり。。。不思議ですね。 同じ教会とは。。。^−^ 宜しくお願いいたします!! 全てのこと、主を信頼していきたいと思います。 日記をこれからも楽しみにしています♪♪ 余白:チェリー0328さん、ありがとうございます。シャールさまとは、浦和以来です。川越では第一ミサにいつも出ています。よろぴく〜♪

 

2005/03/31

満ち足ると思えば一人静なり

ここ数日は超多忙。。。しかしじっくり分析してみると、身体そのものより気ぜわしさの方が人を疲れさせるようです。 あれをしなくちゃ、これもしなくちゃ、という焦り。こうなったら大変、という不安。。。こういうことは気の小ささや心配性といえば、見方によっては誠実さの現れともいえますが、よくよく振り返ってみると根底に、払拭しがたい我欲が隠れていたりします。 イエス様は「食事するひまもない」(マルコ)ほど忙しかったのに、その歩みはどの時点でも静けさに満ちています。自我を放擲した静けさです。

 

チェリー0328:我欲なんでしょうか? 今日は朝から忙しくて一日中何となく気ぜわしかったです。 忙しいって思うと余計に。。。 いいですね今日の俳句。

余白:チェリー0328さん、ありがとうございます。今度、チェリーさんのサイトにもおじゃまします♪

2005/03/31

話し掛けそびれて過ぎし白木蓮

夕方の散歩に行って、あまりに見事な木蓮をみつけ、しばし立ち止まってしまった。 ふとみると、近くに家主らしい女性が草取りをしている。行き届いた庭の状態から、よほど草木を大事にしているのではないか。その心情が自然に伝わってくる。 ぜひ一声、ねぎらいの言葉をかけたいと思ったが、しばらく見ているうち、木蓮はすでに盛りを過ぎていることがわかった。 けっきょくしばし眺めただけで、わたしはまた歩きはじめた。 一期一会。すれ違う出会いというのもあっていい。

 

いう0402:春の夕暮れの、短編小説のようですね。いいなあ。

余白:いう0402さん、ありがとうございます。 できるだけ力をぬいて書きたいときもありますよね。

 

2005/04/02

気がかりや御顔を仰ぐ木の芽風

一年ぶりにクラスをもつことになった。忙しくなる。何年経験を積んでいても、やはり不安がある。 家庭や心身にさまざまな困難を抱えている生徒が多い。彼らも不安のただなかにある。 それを懸命に乗り越えようとする姿勢に心打たれる。神様はよい仕事を与えてくださった。ありがたいと思う。 教皇様がご危篤だという。パパ様には今どんな不安があるだろうか、いや、ないのだろうか。教皇様が80年以上あたためてきたイエス様の御顔はどんなだろう。やはりポーランド人の顔なのだろうか。 思い描く御顔はそれぞれでも、キリストにおいては一つ。 共に祈りたい。

 

先生の一生徒:以前に増して句に磨きがかかっておられると感嘆しました。先生のクラスになれる生徒さん、幸せだなぁ。私もまたなりたいです。 パパさんの為にお祈り致します。

まりあ@ICF:パパ様のために、みんなが祈っていますね。 さすが、パパ様です。大好きです。

余白:先生の一生徒さん、ん?どなたかな。ありがとうございます。 上手い下手でなく、あくまで「求道俳句」ですから、できるだけじっくり黙想してから、書き込むようにしています。 これからもよろしくです。

余白:まりあ@ICFさん、そそ、ぼくも「教皇」だから、って感じはまったくないのです。 イスラムの方も祈っておられるように、人間としてすばらしい方だからです。

 

2005/04/03

祈らんと風に振れるや犬ふぐり

教皇ヨハネ・パウロ2世が、日本時間で今朝帰天された。 現教皇には、個人的に特別な思い入れがある。 来日された1981年は、わたしの受洗年である。2月来日した教皇が、アグネス=チャンとテレビ出演し、ポーランド民謡「森へ行きましょう」を歌い、踊っていたこと、広島アピールで「戦争は人間のしわざです!」と明言したこと、「神に感謝!」という日本語を憶え、繰り返し好んで使っていたこと、、、直接お会いしたことはなかったが、強くて優しいお人柄がさまざまに伝わってきて、ローマ教皇としてよりも、まず人間として好感をもち、尊敬できる方となった。 井上神父に導かれたわたしが、受洗を決意するのはその数ヶ月あとになるが、カトリックを選んだ背景には、このローマ教皇の人間性が影響したことは間違いない。

 

心音2332:広島の世界平和記念聖堂の前に、パパ様の御像があります。パパ様やマザーテレサなどに影響されて、カトリックになられた方、改宗された方も結構いらっしゃるようです。神に感謝!(Pax Domini!)

つぼみ9905: HPを読んで涙が出ます。テレビに出られたパパ様が思い出せます。 私も俳句をやりたいのですが?亡き父が好きで、行くと、本一冊に書いた俳句を読んでくれて、「どうだい?」と聞く、それが行くたび側で居眠りしていた長い間寝ていて、狭い部屋から出られなかった父 は俳句しか楽しみはなかったのでしょう。

余白:心音2332さん、やすらかに憩われんことを、共に祈りましょう。

余白:つぼみ9905さん、どぞどぞ、いっしょに俳句やりましょう。何の技巧もいりません。自分の思いをとりあえず五七五にすればいいのです。

チェリー:神様の為に、世界平和の為に立派に働かれ、すべてを神様に捧げられたパパさま。 もうあの優しいお顔を見られないのは寂しいですね。 心を合わせてご冥福を祈ります。

余白:チェリー0328さん、アーメン、そして御復活第二主日です、アレルヤ!

 

2005/04/04

悲愛の日ミサ声響くビル谷間

復活節第2主日は、西暦2000年から「神のいつくしみの主日」と定められました。もちろん歳時記にはありませんが、なんとか俳句に使いたい。しかしこのままでは長すぎて使いにくい。。。そんなわけで、井上神学からヒントを得て、勝手に「悲愛の日」としてみました。 洗礼を受けて間もない妻が、趣味のビーズ屋さんにも行きたいというので、伊藤神父のいる浅草教会におじゃました。車で1時間程。 大きなビルが林立する狭間に、こんなにも静謐を感じさせる場所があるのか、と驚くほど、ぽっかりと教会が別次元に浮いている。 早めに着いて、二人で一回りしていると、ちょうど裏手で神父様に会う(写真)。ミサ前の黙想のための散歩途中のようだった。(中断させて申し訳ない) 明るく、いかにも健康的なはつらつとしたお顔。老齢の信者さんも伊藤神父を「若いのによくやってくれる」とほめていた。教会の世話役らしいその老紳士は教会の写真ファイルを解説しながら、ていねいに見せてくださった。そうか、先ほどの異次元感覚は、この120年の歴史の重さが感じさせるものだったのだ! 今朝方亡くなった教皇様が、とくに晩年パーキンソン病を患いながらも、人生を決して捨てない、という大事なメッセージを私たちに残してくださったこと(そういえば三浦綾子さんが私にお手紙をくださったときも、同じ病をおしながら、『銃口』執筆の只中だった)、この季節、自然の命の声を聞くこと大切さ、今を一時一時生きることこそ御言葉の永遠性につながること等々、遠藤文学や井上神学を思わせる「悲愛の日」にかなったすばらしいお話で、夫婦ともども静かな感動をいただいた。 伊藤幸史神父は、井上神父の「風の家」運動から出た、最初の司祭である。編集室を預かっている遠藤文学研究者の山根道公さんと三人で、「いずれいっしょに飲みましょう」とお互い言いながら、ともどもに忙しくていまだ実現していない。ぜひ、今年こそ、と帰り際声をかけあって、おいとました。 教会を離れるにしたがって、休日も活気にあふれる浅草の賑わいが戻ってきた。

 

CIMG0998s.jpgソクラテスの弟子:浅草に教会があるとは知りませんでした。浅草と言えば浅草寺や神社といったイメージ。興味深く拝読しました。春のポカポカとした陽気に反して法王の崩御、街の喧騒に対して教会の静寂、和の中の洋、不思議な思いに包まれました。

余白:ソクラテスの弟子さん、コメントありがとうございます。その浅草のイメージ、当たってもいるのです。というのは、けっこう信者さんの男性には、白髪頭の角刈りで、なんというか、家に大きな神棚がありそうな?気風のいい旦那、って感じの方が多いし、女性もおかみさ〜ん、て感じの方いました。 それと、女子大生など若い新参者が見えたり、少年の持者も熱心で、活気にあふれているのです! 日本の理想的な教会と思いました。

 

2005/04/06

聖句より俳句に和む春かなし

気候のせいもあるのでしょう、急に暑くなったりして、この時期の疲れや憂鬱が出てきます。こんなときは、無理をせず、誰かの俳句の、やわらかい言葉に同情してもらいたくなったりもします。

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後記:超ビジュアル版で108号をお届けすることにしました。

冊子は片面印刷しかできないので、少々厚くなりましたが、ごゆっくりお楽しみください。

また、ご意見、ご感想をお待ちしています。(余白)

余白こと平田栄一の本

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