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「紫」7月号 余白 神共に在せば蒼し秋の空 友は去りカナンを去りて後の月 無辺なる神の記憶に安らぎぬ 共食いの金魚の水の透明度 長き夜の夢に押されて発つヨセフ 言うべきを言うて別れし友の秋 イエスてふ戸板に乗って流されたい キリスト者が読む山頭火(3) 平田栄一 沈みゆく夜の底へ底へ時雨落つ 大正四年山頭火三十三歳の作です。山頭火はこの年の十月に俳句の師、荻原井泉水と山口で初めて会っています。防府の俳壇で中心的な存在として活躍し出した頃です。しかし不眠症で、おそらくこの頃から鬱傾向にあったであろう山頭火の作品には影が見えます。 底知れぬ闇に吸い込まれるように、次から次へと時雨が落ちていきます。どうしようもなく沈み込んでいく山頭火の心を象徴するかのように・・・・。 しかしそれだけの句なのだろうか、とも思うのです。 山頭火の句の魅力はさまざまに語られますが、その一つに、どんな深刻なことを題材に詠っても、どこかにスーッと突き抜ける軽みがある、という点が指摘できます。また逆のこともいえます。つまり、だれでも一読了解できる作品でありながら、それだけではない、奥深いものを内蔵している、と。 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。(マルコ一五・三四) イエスは、十字架にかかったときこのように叫びました。この言葉については、古来、さまざまな議論が続けられてきました。その発端は、イエスがキリストである≠アとを証言する福音書に、神からイエスが「見捨て」られたような言葉が、しかもそれをイエス自身が言ったように書かれていることが問題だったのです。 『マルコ』より新しい『ルカ』では、この言葉を削除し、 父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(ルカ二三・四六) という言葉に置き換えています。ルカが『マルコ』とは別の資料を持っていたのかもしれませんが、読者に誤解を与えるようなイエスの叫びの言葉をあえて避けたとも考えらるのです。 また、この叫びは旧約の詩編二二の冒頭の言葉でもあり、イエスはこの詩編を最期に唱え始めたのだ、という解釈もできます。この詩編はやがて神への信頼と讃美に終わっています。 いずれにしろ、「沈みゆく夜の底へ底へ」時雨が落ちるように、イエスはこの世の虚無の深淵に身を落としたのだと、わたしは思います。しかしそのどん底での叫びは「わが神!わが神!」と間違いなく神に向けられているのです。それは根底に神への信頼がなければ発せられない言葉ではないでしょうか。自分は見捨てられた、神も仏もありはしない、というところからはけっして出てくる叫びではないのです。 そしてこのこと――イエスがどん底に落ちても神への信頼を失わずに叫びを上げ、やがて復活によって神の国に受け入れられたことは、この世の悲惨のなかで神への信頼を度々失いがちなわたしたちに、どんなにか慰めとなることでしょう。
今月の投稿作品も心なごみますよ! ゆっくり味わってくださーい。 (無題) 比田井 白雲子 さえずってみこころしたたらす おちば、ここちよくふかれよう 空気とおみ風さん 『南無の心に生きる』神田の書店で買い求め、繰り返し読ませていただいています。この本に出逢えて心を成長せせてもらえそうです。 Re:余白 この本は、井上神学のエッセンスをまとめた良書です。どうぞ味読してください。ありがとう。 信仰と自然 その4 島 一木 去年今年後の者から先になる 兎と亀 後になりまた先になり 囀りや担架を持って起きなさい 新しいワインをあける新社員 パン屑を子犬も食べる五月の卓 キリストに思いを結び草枕 風かおるマリアはすわり聞いている 夏の海罪なき者は石投げず 湖は秋多くゆるされ愛すると み言葉は銀河の渦にも流されない <余白の風 第86号感想> ぼくがパソコンを持っていないため、感想をまとめて掲載されるのがなりゆきで、何となく毎号コメントを書いてきました。しかし、そのためかえって他の人たちが自由に気ままに、このサイトに書き込みしずらくなっているのではないかと気にしております。それで、ほぼ一年目ということで区切りも良いので、今回でこの感想欄は終わりにしようと思います。俳句が専門とはいえ、福音短歌という試みも発表しているのに、コメントを俳句に限るというのもおかしな話です。キリスト教を追求していくと、先では短詩へも展開してゆきそうな予感も感じています。作品はこれからもどんどん発表させて頂くつもりですので、どうかよろしくお願い致します。 うぐいすの声清すぎる今日の朝 なん いい句です。実感が伝わってきます。 小鳥は鳴くだけ 私どうする 比田井白雲子 イヴ、風の迷路 〃 風は 神様からのおやつです 〃 句集出版おめでとうございます。「アッバ讃句」についての御感想、私も全く同感です。最近やっと自分の作品に対する執着がなくなってきて、風にちる花びらのように見事に消えてしまえばいい、なーんて思っているんですが、思っている間はまだダメですね。 生温き炬燵に刺さる楔文字 余白 正統を名乗る人いて秋寒し 〃 イエス様も乗っていなさる遠足バス〃 秋雨にさきたま煙ることもあり 〃 雲飛ばす秋風深き憂い持つ 〃 系図ごと背負いて御国へ秋の空 〃 人生の帳尻如何に復活祭 〃 生けるものすべて春野に抱かるべし〃 三句目、楽しくて好きです。五句目、秋風と憂いは、秋思という季語があるくらいで付きすぎなんですが、この句の場合は上五がよく効いて実感が深まります。取らなかった句も、ほんの少しの言葉の斡旋でぐーんと良くなる句が沢山ありそうです。数年後にもう一度、突き放して見直されることを期待します。
福音短歌 その10 島 一木 知恵のある人 賢い人には 隠し 小さい者に 現された (マタイ11:25) 重荷を負う者は 皆 わたしのもとに来なさい 休ませてあげよう (マタイ11:28) 魂は 安らぐ わたしの軛は 快く わたしの荷は 軽い (マタイ11:29) 木が良ければ 実も良く 木が悪ければ 実も悪い 木は 実によってわかる (マタイ12:33) 神を捨てた 悪い時代には ヨナのしるしの ほかには 与えられない (マタイ12:39) 教会のある風景 その13 夏 島 一木 婚礼の式に聖母の御訪問 聖五月友愛セールの卓並べ 正座してロザリオ祈る暑さかな 雹降るとミサの終わりて後に聞く 夏帽を脱ぐ教会の門の前 子燕鳴く修道院の軒の巣に 夕焼けに濃く染まりゆく彩硝子 地から出ていわば天国蝉は鳴く 蝉は木に人はミサにて主を賛美 葬儀ミサ終わり白百合貰いゆく 福音短歌 その11 島 一木 ある種は 道ばたに落ちた 鳥が来て それらを ついばんでしまった (マタイ13:4) ある種は 岩の上に落ちた 育ったが 湿り気がなく 枯れてしまった (ルカ8:6) ある種は 茨の中に落ちた 茨も伸びて 覆いふさいでしまった (ルカ8:7) ある種は 良い土に落ちた はえ育って 百倍の 実を結んだ (ルカ8:8) 持っている人は 与えられ 持たない人は 持っている ものまで取り上げられる (マルコ4:25) Re:どの連載も 余白 福音短歌・信仰と自然・教会のある風景、どの連載も、淡々と書かれていることに感心します。創作の苦労を見せない清々しさ、というものですね。 小さな花 緑の風 アベリアが 聖母を讃え 咲いている 私もなりたい 小さな花に アベリアとはスイカズラ科の半常緑低木で春から夏にかけて白い小さな花を咲かせます。街角によく植えられています。 Re:ぼくは俳句をやるのですが、 余白 実は自由律から入ったせいもあってか、花の名前にうといのですー(笑)。 今度、写真でも貼り付けてもらうとうれしいです。
Re: 小さな花 緑の風 アベリアにマの字を加えるとアベマリアになるの。そこに気付いて欲しかったんですが、、、。ちなみに、アベリアは百合の花を小さく(1p5o位)にしたような、白い可憐な花を沢山咲かせます。 Re: ああそれは、 余白 気がつきませんでした。そうかー「アベマリア」なるほど。。。語源はまたべつにあるのかな? いずれにしろ身近な花なんですね。 Re: 小さな花 D&D's daughter 日本語の名前はハナゾノツクバネウツギ Re:いい名前だなー 余白 花園・筑波嶺・卯木 かな? 「おねがい」 奈菜 毎日であう樹木たちへ もしできるなら 病気が治るように 力をわけてください 久しぶりに書き込みします。 よろしくお願いします。 Re:木々に思う 余白 自然の力、木々のたくましさ・・・・憧れることしばしばです。 じっと佇む忍耐力、傷つけられても立ち直る治癒力・・・・すばらしい。 そしてなにより感動するのは、置かれた場所で、ぐっとこらえて声も立てず、日の光を、わずかな光さえも、水さえも、無駄にせず、遠慮せず、じっくり栄養にしていくたくましさ、そして謙虚さ。。。木はすばらしい。 奈菜さんの治癒を祈ります。 (無題) しんご 目覚めの煙草を探すが遠い Re: (無題) 余白 七音が心地いいですね。全体を定型詩としても読めるし、1行を取り出して俳句として読めるものもあります。情景鮮明。
イマイキ共同日記 2003/07/03(木) 如月: 堅信式を終えて 神の恩寵とイマイキ仲間の皆さんの温かいまなざしに支えられ、この度6月22日、聖イグナチオ教会にて岡田大司教様より堅信を受けることができました。下記の拙稿は、「聖イグナチオ教会報8月号」に掲載予定のものです。当日受堅者は私も含め168名。こんなに大きな教会共同体の中で、なぜか・・・・、私みたいな者に原稿依頼が来る(男女の受堅者の1名ずつが寄稿して欲しいとの主任司祭様からのお達しです)・・・・。神の摂理の不思議さにただただ頭をかしげるばかりです。 2003/07/04(金) 余白:如月日記へ >聖霊の証印を受けてキリストの証人としてその奉仕に参与し派遣されるという意味を具体的に味わい知らされる瞬間でした。< 如月様、ご堅信おめでとうございます。
2003/07/19(土)小さき花:山根さんの聖書講座 井上神父の『福音書を読む旅』奇跡物語(p55〜)が中心でした。 2003/07/25(金)余白:小さき花さん日記へ まさに神との関係の修復、メタノイア(回心)するということですね。ここのBBSでも話し合った「癒し」の問題に、大きな示唆となるお話ですね。
ホームページ掲示板imaikibbsからの抜粋です トマト 久しぶりに来ました。 如月 (しばらく職場の人事異動など公私にわたり繁忙な生活を送っていたためすっかりこちらはご無沙汰しております。) 弥生 先週のミサの折、お会いできてとても嬉しかったです。お二人のステキな女性もご紹介頂きありがとうございました。
小さき花 ストレイシープさん、NKさん、D&Dさん、弥生さん、余白さん皆さんと一緒にミサにあずかったこと嬉しかったです。 レイ こんばんは。気仙語(地元の漁師ことば)でマルコの福音を聞きました。
N.K. 先日のミサの折、紹介されましたステキな(私に関しては「?」)女性のN.K.です。 モモ 余白さん、皆様、はじめまして。 あさと 余白さま、はじめまして。 如月 求道中お世話になった”心のともしび運動本部”にこの度の堅信の報告と感謝のご挨拶のお便りをしたためたところ、お祝いに手書きの懇ろなお便りと祝別されたメダイ(市販のものと比べなかなか拵えが立派です)が送付されてきました。嬉しい気持ちが先立つものの、未だにどう使うのか分かりません。説明書や「祈りの友」などを参考にいろいろ由来などを平面的に知ることはできるのですが・・・、実際にメダイを使ったことのある方、使用体験談などありましたら一声。 めい♪ 如月兄、余白丈、御無沙汰しております。すでに、暑さ負けしそうなめい♪です。 訪問者 関東地方は涼しい日が続いていますね!梅雨はまだ上がらないのでしょうか?ルルドの水の話が、でていますが・・・どんな病気にも効くのでしょうか?それとも・・信じないと効かない?のでしょうか?癒しとは単に、病気がなおること・・ではなく精神的にいやされることをいうのでしょうか・・?どうでしょう!! モモ 余白さん、こんばんは。
俳句に学ぶキリスト教──求道俳句の世界 (「キリスト教俳句探訪」改題) 平田栄一 沈丁花死ぬも生きるも御摂理に 朝夷 秀雄 命は糧にまさり、体は衣にまさるならずや。空飛ぶ鳥をみよ。蒔かず刈らず倉に納めず。野の百合は如何にして育つかを思え。労せず紡がざるなり。されど栄華を極めしソロモンだに、その装いこの花の一つにも如かざりき。今日ありて明日炉に投げ入れらるる野の百合をも神はかく装い給えば、まして汝らをや。(六・二五〜三〇抄) 衣食住に心配するな。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな」(六・三三〜三四)というわけです。「神の国(バシレイア【ギ】)」とは神の支配、「神の義(ディカイオシュネー【ギ】)」とは神との正しい関係を意味します。 ただ、わたしたちの「命」、「明日」は次のようにも語られていることを、忘れてはならないでしょう。 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたはわずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。(ヤコブ四・一四〜一五) 文語の名調子で知られる「山上の説教」(マタイ五章以下)のさきのペリコーペ(段落)には、フランシスコ会訳聖書では「摂理への信頼」と見出しがついています。長崎で被爆し、「長崎の聖者」とよばれたカトリック医師、永井隆は死を目前にして次のように書いています。 私は長わずらいの床に寝たきりだ。こんな無一物の病人のところへお嫁さんに来てくれる物好きな人もおらぬ。日一日とやせ細りながら、待っているばかり。――実は私も待っているのである、花嫁の来るのを。 花嫁、私のところへやがて来る花嫁――それは、死である。私のもとへ来てくれる花嫁は死のほかにはない。私と結ばれる妻は死のほかにはない。聖フランシスコは死を兄弟と呼んだ。私は死を妻と呼びたい。(『ロザリオの鎖』結婚) 「死ぬも生きるも御摂理に」――神の「摂理への信頼」とはまさに、生も死も含めた覚悟のいるものなのです。しかし永井の文章に悲壮感がないのは、死の向こうに復活の希望を見ていたからでしょう。 では、死と結婚して新しい生命が生まれるのか? ――生まれる。新しい、幸福にみちた永遠の生命が生まれる。それが復活である。死ななければ復活はない。人は死とともにあってのち、復活の光栄を与えられるのである。(同) 「沈丁花」は強い香気を持ち、散ってもなおその存在感を庭に残します。
<参考資料> 検索ワード:ホームページ「今を生きることば」を訪問したユーザーがどのような単語で検索して訪れたか解析します。 (トップページのみ) 〔2003年 3月 1日(土) → 2003年 7月27日(日)〕調査対象アクセス数:12807
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