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平田栄一サイン本
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余白の風

求道俳句とエッセイ

87号

2003/8/1

特集:今夏はビジュアルに

発行者:平田栄一

 

「紫」7月号 余白

神共に在せば蒼し秋の空

 

友は去りカナンを去りて後の月

 

無辺なる神の記憶に安らぎぬ

 

共食いの金魚の水の透明度

 

長き夜の夢に押されて発つヨセフ

 

言うべきを言うて別れし友の秋

 

イエスてふ戸板に乗って流されたい

 

キリスト者が読む山頭火(3)

平田栄一

沈みゆく夜の底へ底へ時雨落つ

 

大正四年山頭火三十三歳の作です。山頭火はこの年の十月に俳句の師、荻原井泉水と山口で初めて会っています。防府の俳壇で中心的な存在として活躍し出した頃です。しかし不眠症で、おそらくこの頃から鬱傾向にあったであろう山頭火の作品には影が見えます。

底知れぬ闇に吸い込まれるように、次から次へと時雨が落ちていきます。どうしようもなく沈み込んでいく山頭火の心を象徴するかのように・・・・。

しかしそれだけの句なのだろうか、とも思うのです。

 

山頭火の句の魅力はさまざまに語られますが、その一つに、どんな深刻なことを題材に詠っても、どこかにスーッと突き抜ける軽みがある、という点が指摘できます。また逆のこともいえます。つまり、だれでも一読了解できる作品でありながら、それだけではない、奥深いものを内蔵している、と。

 

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。(マルコ一五・三四)

 

イエスは、十字架にかかったときこのように叫びました。この言葉については、古来、さまざまな議論が続けられてきました。その発端は、イエスがキリストである≠アとを証言する福音書に、神からイエスが「見捨て」られたような言葉が、しかもそれをイエス自身が言ったように書かれていることが問題だったのです。

『マルコ』より新しい『ルカ』では、この言葉を削除し、

 

 父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(ルカ二三・四六)

 

という言葉に置き換えています。ルカが『マルコ』とは別の資料を持っていたのかもしれませんが、読者に誤解を与えるようなイエスの叫びの言葉をあえて避けたとも考えらるのです。

また、この叫びは旧約の詩編二二の冒頭の言葉でもあり、イエスはこの詩編を最期に唱え始めたのだ、という解釈もできます。この詩編はやがて神への信頼と讃美に終わっています。

いずれにしろ、「沈みゆく夜の底へ底へ」時雨が落ちるように、イエスはこの世の虚無の深淵に身を落としたのだと、わたしは思います。しかしそのどん底での叫びは「わが神!わが神!」と間違いなく神に向けられているのです。それは根底に神への信頼がなければ発せられない言葉ではないでしょうか。自分は見捨てられた、神も仏もありはしない、というところからはけっして出てくる叫びではないのです。

そしてこのこと――イエスがどん底に落ちても神への信頼を失わずに叫びを上げ、やがて復活によって神の国に受け入れられたことは、この世の悲惨のなかで神への信頼を度々失いがちなわたしたちに、どんなにか慰めとなることでしょう。

 

生徒が:文化祭のために撮ってきた写真です。

芭蕉が「奥の細道」で、「草加というところ」を通ったとされる、東武線の松原団地駅前です。近くにカトリック草加教会もあります。(余白)

 

今月の投稿作品も心なごみますよ! ゆっくり味わってくださーい。

 

 

(無題)  比田井 白雲子

さえずってみこころしたたらす

 

おちば、ここちよくふかれよう

 

空気とおみ風さん

 

『南無の心に生きる』神田の書店で買い求め、繰り返し読ませていただいています。この本に出逢えて心を成長せせてもらえそうです。

Re:余白

この本は、井上神学のエッセンスをまとめた良書です。どうぞ味読してください。ありがとう。

 

信仰と自然 その4  島 一木

去年今年後の者から先になる

 

兎と亀 後になりまた先になり

 

囀りや担架を持って起きなさい

 

新しいワインをあける新社員

 

パン屑を子犬も食べる五月の卓

 

キリストに思いを結び草枕

 

風かおるマリアはすわり聞いている

 

夏の海罪なき者は石投げず

 

湖は秋多くゆるされ愛すると

 

み言葉は銀河の渦にも流されない

 

<余白の風 第86号感想>

ぼくがパソコンを持っていないため、感想をまとめて掲載されるのがなりゆきで、何となく毎号コメントを書いてきました。しかし、そのためかえって他の人たちが自由に気ままに、このサイトに書き込みしずらくなっているのではないかと気にしております。それで、ほぼ一年目ということで区切りも良いので、今回でこの感想欄は終わりにしようと思います。俳句が専門とはいえ、福音短歌という試みも発表しているのに、コメントを俳句に限るというのもおかしな話です。キリスト教を追求していくと、先では短詩へも展開してゆきそうな予感も感じています。作品はこれからもどんどん発表させて頂くつもりですので、どうかよろしくお願い致します。

 

うぐいすの声清すぎる今日の朝  なん

 

いい句です。実感が伝わってきます。

 

小鳥は鳴くだけ 私どうする   

比田井白雲子

イヴ、風の迷路        〃

風は 神様からのおやつです  〃

 

句集出版おめでとうございます。「アッバ讃句」についての御感想、私も全く同感です。最近やっと自分の作品に対する執着がなくなってきて、風にちる花びらのように見事に消えてしまえばいい、なーんて思っているんですが、思っている間はまだダメですね。

 

生温き炬燵に刺さる楔文字   余白

正統を名乗る人いて秋寒し    〃

イエス様も乗っていなさる遠足バス〃

秋雨にさきたま煙ることもあり  〃

雲飛ばす秋風深き憂い持つ    〃

系図ごと背負いて御国へ秋の空  〃

人生の帳尻如何に復活祭     〃

生けるものすべて春野に抱かるべし〃

 

三句目、楽しくて好きです。五句目、秋風と憂いは、秋思という季語があるくらいで付きすぎなんですが、この句の場合は上五がよく効いて実感が深まります。取らなかった句も、ほんの少しの言葉の斡旋でぐーんと良くなる句が沢山ありそうです。数年後にもう一度、突き放して見直されることを期待します。  

発見!:埼玉県草加にある正岡子規の句碑(余白)

 

福音短歌 その10  島 一木

 

知恵のある人

賢い人には 隠し

小さい者に 現された

(マタイ11:25)

 

重荷を負う者は 皆

わたしのもとに来なさい

休ませてあげよう

(マタイ11:28)

 

魂は 安らぐ

わたしの軛は 快く

わたしの荷は 軽い

(マタイ11:29)

 

木が良ければ 実も良く

木が悪ければ 実も悪い

木は 実によってわかる

(マタイ12:33)

 

神を捨てた 悪い時代には

ヨナのしるしの

ほかには 与えられない

(マタイ12:39)

教会のある風景 その13 夏  島 一木

 

婚礼の式に聖母の御訪問

 

聖五月友愛セールの卓並べ

 

正座してロザリオ祈る暑さかな

 

雹降るとミサの終わりて後に聞く

 

夏帽を脱ぐ教会の門の前

 

子燕鳴く修道院の軒の巣に

 

夕焼けに濃く染まりゆく彩硝子

 

地から出ていわば天国蝉は鳴く

 

蝉は木に人はミサにて主を賛美

 

葬儀ミサ終わり白百合貰いゆく

 

福音短歌 その11  島 一木

 

ある種は 道ばたに落ちた

鳥が来て それらを

ついばんでしまった

(マタイ13:4)

 

ある種は 岩の上に落ちた

育ったが 湿り気がなく

枯れてしまった

(ルカ8:6)

 

ある種は 茨の中に落ちた

茨も伸びて

覆いふさいでしまった

(ルカ8:7)

 

ある種は 良い土に落ちた

はえ育って 百倍の

実を結んだ

(ルカ8:8)

 

持っている人は 与えられ

持たない人は 持っている

ものまで取り上げられる

(マルコ4:25)

Re:どの連載も  余白

福音短歌・信仰と自然・教会のある風景、どの連載も、淡々と書かれていることに感心します。創作の苦労を見せない清々しさ、というものですね。

 

小さな花  緑の風

アベリアが  聖母を讃え  咲いている

私もなりたい  小さな花に

 

アベリアとはスイカズラ科の半常緑低木で春から夏にかけて白い小さな花を咲かせます。街角によく植えられています。

Re:ぼくは俳句をやるのですが、  余白

実は自由律から入ったせいもあってか、花の名前にうといのですー(笑)。

今度、写真でも貼り付けてもらうとうれしいです。

 

緑の風さん:さっそく、アベリアの写真ありがとうございます。ここにアップさせていただきます。

Re: 小さな花  緑の風

アベリアにマの字を加えるとアベマリアになるの。そこに気付いて欲しかったんですが、、、。ちなみに、アベリアは百合の花を小さく(1p5o位)にしたような、白い可憐な花を沢山咲かせます。

Re: ああそれは、  余白

気がつきませんでした。そうかー「アベマリア」なるほど。。。語源はまたべつにあるのかな?

いずれにしろ身近な花なんですね。

Re: 小さな花  D&D's daughter

日本語の名前はハナゾノツクバネウツギ

Re:いい名前だなー  余白

花園・筑波嶺・卯木 かな?

 

「おねがい」  奈菜

毎日であう樹木たちへ

 

もしできるなら

病気が治るように

力をわけてください

 

久しぶりに書き込みします。

よろしくお願いします。

Re:木々に思う  余白

自然の力、木々のたくましさ・・・・憧れることしばしばです。

じっと佇む忍耐力、傷つけられても立ち直る治癒力・・・・すばらしい。

そしてなにより感動するのは、置かれた場所で、ぐっとこらえて声も立てず、日の光を、わずかな光さえも、水さえも、無駄にせず、遠慮せず、じっくり栄養にしていくたくましさ、そして謙虚さ。。。木はすばらしい。

 

奈菜さんの治癒を祈ります。

 

(無題) しんご

目覚めの煙草を探すが遠い

夜明けの激しい雨音止まれ

どうにもならないこの轟音

静かになったら歩きましょう

狂った蝉らの湧き立つ前に

歩くよ坂道煙草をくゆらせ

巡るはニコチンこの脳髄を

吐き出す煙はみ空のかなた

行く先見たさに天を仰げど

幾何学模様に広がる先に

飛ぶ雀二羽見た気がしたが

煙は目に染み噎せ込むばかり

咳き込みながら飯屋の前で

ただ過ぎ行くのを待っていた

Re: (無題) 余白

七音が心地いいですね。全体を定型詩としても読めるし、1行を取り出して俳句として読めるものもあります。情景鮮明。

7-20 多少の雨はあったのですが:家族で霧降高原に日帰りで行ってきました。
キスゲ平からのながめ、、、うーんまさに霧が降っていました。雨も。 (余白)

 

イマイキ共同日記
by管理者推薦作家

 

2003/07/03()

如月: 堅信式を終えて

神の恩寵とイマイキ仲間の皆さんの温かいまなざしに支えられ、この度6月22日、聖イグナチオ教会にて岡田大司教様より堅信を受けることができました。下記の拙稿は、「聖イグナチオ教会報8月号」に掲載予定のものです。当日受堅者は私も含め168名。こんなに大きな教会共同体の中で、なぜか・・・・、私みたいな者に原稿依頼が来る(男女の受堅者の1名ずつが寄稿して欲しいとの主任司祭様からのお達しです)・・・・。神の摂理の不思議さにただただ頭をかしげるばかりです。

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「堅信式を終えて」------

 この度の受堅にあたり、ご指導下さったY神父様をはじめ、代父をお引き受け下さったE修道士様、小生の人生に関わって下さった全ての方々、そして、ここまでの歩みを物静かに祈りつつ見守ってくれた愛妻にまずは、心からの感謝をお捧げしたいと思います。堅信はよく「信仰者の成人式みたいなもの」と言われています。この表現を自分自身の内面に照し合わせてみると何とも面映い感じも致します。

 しかし、一念を発起して成聖の恩寵に与りたいと切に願えば、それに相応しい者に整えて下さる恵みが伴うのも神の御業。この深遠なる秘跡の意義についてしばし沈潜しつつ堅信式の当日を迎えさせていただきました。

 当日の堅信式の受付は、かなり混雑し、加えて受堅者は代父と同伴でここを通過するため、さながら入学式のような光景だったのを覚えています。
 この光景を自分自身の新たな門出と重ね合わせながら、少し華々しい自分のイメージを描きながら受付を通過しました。

 いろいろとこの日、この時のために格別な心備えをしてきたつもりでしたが、いざ、岡田大司教様による塗油の瞬間を迎えてみると、緊張のあまり蛇行を描いて歩み出てしまう全く頼りない自分の姿を見つけるばかりでした。
 堅信の恵みが自分自身では成しえない業であることを改めて自覚させられ軽い眩暈を覚えさせられた次第です。
 (嗚呼、風が吹いて私の身体を前に押し出してくれたら)そんなことを考え願い始めた、その時、私の肩に代父の腕がずっしりと覆い被さるように乗せられました。
 この瞬間、司教様によって聖香油で描かれた額の十字の印は額にも心にも深く刻まれたような思いが致しました。
 聖霊の証印を受けてキリストの証人としてその奉仕に参与し派遣されるという意味を具体的に味わい知らされる瞬間でした。

 

2003/07/04()

余白:如月日記へ

>聖霊の証印を受けてキリストの証人としてその奉仕に参与し派遣されるという意味を具体的に味わい知らされる瞬間でした。<

如月様、ご堅信おめでとうございます。
大兄の証を読ませていただき、ああこうして一人一人がキリストに召され、弟子として派遣され、それぞれの持ち場でキリストを証ししていく、そしてすべての者が「キリストの体」として働くのだなーと痛感しました。
 あなたの福祉の現場、私の教育現場・・・・先日まで教育実習生が来ていたのですが、本人は「政経」実習を希望しましたが、本校の今年の教育課程ではそれはできず、やむなく「倫理」に回り、私が担当したのです。
 彼M君は、実は社会福祉学部の大学生でした。ですから免許は「福祉科」がおりるのです。
 実習は当初とても授業のていをなしておらず、これはどうなっちゃうのか??と心配しました。しかし彼の得意分野を生かそうということで、当初人口問題・女性問題・高齢化問題という流れを予定していたのを、高齢者問題だけに絞っていき、さらにそれを生き方の問題に結びつけるように、という指導をしました。
そして最後の詰めに考えあぐんでいた彼に、わたしは井上神父の『南無の心に生きる』第3章「老いをゆたかに生きる」を資料として使ってはどうか、とアドバイスしたのです。
 彼は、繰り返し繰り返し資料を読み、良寛について調べていました・・・・。
そして、最後の研究授業、、、まず生徒が食い入るように引き付けられ、大学から見学に来ていた教授も大変感動しておられました。
 それは、高齢者が全体として置かれている統計や現状の解説に終わらず、どう生きるか──自分が人生の主体ではなく、「あちら」(このへんの言い方が難しい)が主役となって、わたしたちの人生はその「あちら様」がそのわざを表現する「場」なのだという逆主体的人生観──の意外性、若い自分たちも同じように生き方を問われている、という授業だったからでしょう。

 如月さんもM君も私も・・・・そしてここに今アクセスしてくださっている人も、さらに言えばキリスト者であろうとなかろうと、弱さも苦しみも含めて、すべての人が、万物が、キリストの手となり足となり、小さな自己が置かれた場で、大きな使命を果たしていくのだなーと思っています。

神に感謝
南無アッバ

ニッコウキスゲ:デジカメを雨に濡らしながら撮影。。。 (余白)

 

2003/07/19()小さき花:山根さんの聖書講座

井上神父の『福音書を読む旅』奇跡物語(p55)が中心でした。
 聖書を読もうとして、一番短いマルコ福音書を読みはじめる。すると、最初に奇跡物語が並んでいて、ついていけないと感じてしまう。そういう声があります。
奇跡は超自然現象が大事ではなく、神の愛の特別な力を体験する事が大事なのです。宗教体験は、深層意識に根ざした言葉にできない体験です。
 芸術体験のように、頭で理解するより、心に響く、味わうものです。
 死者の蘇生、ハンセン病等の病気が治ることが大事なのではありません。
 教会は病気を治すところではありません。
 ルルドには世界中から難病の人が訪れます。病気を治す事が目的ならば、99%以上が失望して帰る事になります。
 車いすで来て車いすで「喜んで」帰ります。人間的な願いとしては、治るかも、でも、治らなかった。自分の病気を受け入れ、治る、治らないを超えた福音なのです。
 病気で神とのきずなにひびが入った。治して下さいとの祈り続けて、神が治して下さらなくても、神とのきずなが回復するーそれが巡礼です。
 きずなの回復に本当の意味があります。
 イエスが近寄った時、「近付いてはいけない」と警告するはずのハンセン病患者は、『先生、なんとかして下さい』とすがりつきます。それはイエスの慈しみの眼差しが、彼等を去らせなかったのです。 
 イエスの弟子、その後キリスト教社会の中で、ハンセン病は神の罰ではないと手が差し伸べられ、救ライ活動が始められました。
 見捨てられたハンセン病患者が、神との絆を回復、それによって人と人との絆が回復されました。きずなが回復した事が生きていく支えになる、これがイエスの喜びの福音です。
 世間的見方では役にたたない、死んでくれた方がありがたいとさえ思われた患者。一方、神の目から見たら、一人一人が本当に大切な命でキリストの体の一部です。無用な命はありません。自分の存在に意味があります。
 最近の子供達の事件。社会の中で育まれる価値観が問題で、命の重さが子供たちに伝えられていません。
 命の大切さは、大いなる命(神)とのつながりでしか、伝える事ができません。それぞれが大切で、かけがえのない存在であること。自分みたいな駄目な人間は必要ないと感じても、神から見れば尊い大切なもの、意味があるものです。それがわかって自分以外の隣りの命も同じ重さで大切なものといえるのです。

 

2003/07/25()余白:小さき花さん日記へ

まさに神との関係の修復、メタノイア(回心)するということですね。ここのBBSでも話し合った「癒し」の問題に、大きな示唆となるお話ですね。

 遠藤さんは、「人生に無駄なものはひとつもない」とおっしゃいました。

 この「大いなる命」をどう伝えられるのか?ってことなんですよねー。
 学校現場にいるとその歯がゆさを味わいます。。。。

 今回も貴重な報告ありがとうございました。

 

三男坊の絵:「恐竜に乗って不思議な国を探検」(余白)

 

ホームページ掲示板imaikibbsからの抜粋です

 

トマト

久しぶりに来ました。
今月末締めで退職が決まっており、
人生について見直している所です。
神様が私に何を期待しているか、啓示でも
あればいいのだけどね。それじゃ、また。

 

如月

(しばらく職場の人事異動など公私にわたり繁忙な生活を送っていたためすっかりこちらはご無沙汰しております。)

私も家内も皆息災です。
今月は何かと物入り、欲しかった本を買い求めたのがそもそもの貧乏生活の始まり。
家庭経済は青色吐息で南無アッバ。
とくに今夜は貧乏のどん底で南無アッバ。
でも大丈夫です。
明日は嬉しい給料日!働いてきたからこそ、また生きられる!この平凡な事実に、じーんときて感謝して南無アッバ!

井上師と余白さんに、ささやかながらお葉書を投函させていただきました。詳細は後日読んでからのお楽しみということでよろしくです
(こういう趣きは、是非アナログ手段で伝えたいと思います)

ではでは、ごきげんよう。またお会いしましょう。
アッバ、アッバ、南無アッバ!

 

弥生

先週のミサの折、お会いできてとても嬉しかったです。お二人のステキな女性もご紹介頂きありがとうございました。
生まれて初めてのミサ初めての祝福に緊張、頭の中が真っ白になってしまいしたが感激でいっぱいでした。。
この日を記念して自分には「まことの自分を生きる」と「雨音の中に」を、東京が不案内な私に同行してくれた幼き日のクラスメイトには「やわらかな生き方」をプレゼントしました。
井上神父さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。

お宝!公開:1981年8月、受洗のとき、井上神父からいただいた十字架像です。
ドイツ製、十字は鋼製、像は鋳造。
弥勒菩薩のような安らかなお顔が印象的で、珍しいでしょ? (余白)

小さき花

ストレイシープさん、NKさん、D&Dさん、弥生さん、余白さん皆さんと一緒にミサにあずかったこと嬉しかったです。
句日記は画像も載るのですね。三男坊君の絵のびのびしていてしかも画面のすみずみまで細かによく描けてますね。
黙想会の講話でイエスは十字架上でもほほえんでいたという話が心に残ってます。柔らかで共に苦しむ表情の写真の十字架をみたら思い出してしまいました。

 

レイ

こんばんは。気仙語(地元の漁師ことば)でマルコの福音を聞きました。
マッコアたより
「これア みんなのために流す俺ア固(かた)めの血だ。はっきり語っておぐべア。神様のお膝元で、新だに飲むその日まで、俺アぶんど(葡萄)の実がら醸すたさげ(酒)エのむうごとア、あどアねア。」

味があって面白かったです。みなさんお元気ですか?

「余白の風」に:井上神父から返信がありましたー! (余白)

N.K.

先日のミサの折、紹介されましたステキな(私に関しては「?」)女性のN.K.です。
遠くからお越しだったんですね。。。
あまりお話できる時間がなくて残念でしたが、お逢いできて嬉しかったです

私も生まれて初めてでした。こんなことが実現できるとは・・・まるで夢のことのようです。。。
私にとっては忘れることのできない、大切な日となりました。。。
また、お逢いできることを楽しみにしております。

 

モモ

余白さん、皆様、はじめまして。
N.K.
さんにこのページを教えて頂き来ました。
私も遠藤周作さんのファン、そのこともきっかけの一つで受洗はまだですが教会にも時々通い導いて頂いています。
井上洋治神父様、遠藤周作さんに共通する日本人に合ったキリスト教をという考え方に感銘を受け、またそれを一つの使命として現世を生き抜いた遠藤周作さんを尊敬します。
遠藤周作さんの人間の弱さ、愚かさに目を向けそれが小説の中で浄化されているところに惹かれます。
このページとの出会いに感謝しています。
どうぞよろしくお願いいたします。

 

あさと

余白さま、はじめまして。
以前ICFフォーラムでお名前を拝見しておりました。議論に健闘されていたようで、お疲れさまでした。昔「人の思いをこえて」を読んで深い慰めを与えられたことがあります。余白さまがその著者だとICFで知り、感慨深いモノを感じました。HPの「キリスト教とは」も、私の信仰そのものを上手く言葉にしてくださっており、励まされました。私は無教会クリスチャンで、余白さんとはまた別の方法で日本人にあうキリスト教を模索している者です。なので、ローマ・カトリックとは一線を画するところもあります。たぶん、井上神学とも。でも、そういった人の思いを超えたところで、主にある一致は可能なんだとの希望をいただきました。感謝しております。突然失礼しました、それでは。

 

如月

求道中お世話になった心のともしび運動本部にこの度の堅信の報告と感謝のご挨拶のお便りをしたためたところ、お祝いに手書きの懇ろなお便りと祝別されたメダイ(市販のものと比べなかなか拵えが立派です)が送付されてきました。嬉しい気持ちが先立つものの、未だにどう使うのか分かりません。説明書や「祈りの友」などを参考にいろいろ由来などを平面的に知ることはできるのですが・・・、実際にメダイを使ったことのある方、使用体験談などありましたら一声。

 

めい

如月兄、余白丈、御無沙汰しております。すでに、暑さ負けしそうなめいです。
さて、メダイの利用法ですが、わたし自身もよいアイディアがあれば、伺いたいところです。
アクセサリー感覚で以前は着用しておりましたが、そうすると、自分の服装の都合によって
つけたり、つけなかったり、ということになりがちで、結局、今はつけていません。
男性陣ですと、アクセサリーとしてつけるのも、躊躇があるかもしれませんね(^^
大きめのものでしたら、キーホルダーとして、使用しているのを見た事がありますが。。
では、また。

 

訪問者

関東地方は涼しい日が続いていますね!梅雨はまだ上がらないのでしょうか?ルルドの水の話が、でていますが・・・どんな病気にも効くのでしょうか?それとも・・信じないと効かない?のでしょうか?癒しとは単に、病気がなおること・・ではなく精神的にいやされることをいうのでしょうか・・?どうでしょう!!

 

モモ

余白さん、こんばんは。
N.K.さんからこちらのページを教えて頂いて以来いろいろ楽しませて頂いています。
この前は井上神父様の生の声に感動しました(笑)
N.K.さんから三越劇場のことを聞きました。私は教会には通ったことはあるものの洗礼は受けていませんし、いまは礼拝等にも出ていません。それでも井上神父様のお話を是非伺ってみたいのですが、こんな者がお話を伺ってよいのでしょうか?
何か入場者には特別必要なことなどあるのでしょうか?わからないことばかりで・・
・すみません。
井上神父様のご本「南無アッパ」を今注文待ち、余白さんのご本「人の思いをこえて」は届きました〜
あと皆様の書き込みの中に出てくる「メダイ」とは何でしょうか?すみません、質問攻めで・・・。
お時間のある時にでも教えて頂けたら幸いです。よろしくお願いいたします。

 

これは:シモツケ?でしょうか。。。 帰途、温泉にも寄って、、、けっこうリフレッシュ!
ここ埼玉の東部からは、東北道は便利なのです。8:30家発〜11:00キスゲ平 (余白)

 

俳句に学ぶキリスト教──求道俳句の世界

(「キリスト教俳句探訪」改題)

平田栄一

 

沈丁花死ぬも生きるも御摂理に       朝夷 秀雄

 

命は糧にまさり、体は衣にまさるならずや。空飛ぶ鳥をみよ。蒔かず刈らず倉に納めず。野の百合は如何にして育つかを思え。労せず紡がざるなり。されど栄華を極めしソロモンだに、その装いこの花の一つにも如かざりき。今日ありて明日炉に投げ入れらるる野の百合をも神はかく装い給えば、まして汝らをや。(六・二五〜三〇抄)

 

 衣食住に心配するな。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな」(六・三三〜三四)というわけです。「神の(バシレイア【ギ】)」とは神の支配、「神の(ディカイオシュネー【ギ】)」とは神との正しい関係を意味します。

ただ、わたしたちの「命」、「明日」は次のようにも語られていることを、忘れてはならないでしょう。

 

あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたはわずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。(ヤコブ四・一四〜一五)

 

文語の名調子で知られる「山上の説教」(マタイ五章以下)のさきのペリコーペ(段落)には、フランシスコ会訳聖書では「摂理への信頼」と見出しがついています。長崎で被爆し、「長崎の聖者」とよばれたカトリック医師、永井隆は死を目前にして次のように書いています。

 

私は長わずらいの床に寝たきりだ。こんな無一物の病人のところへお嫁さんに来てくれる物好きな人もおらぬ。日一日とやせ細りながら、待っているばかり。――実は私も待っているのである、花嫁の来るのを。

花嫁、私のところへやがて来る花嫁――それは、死である。私のもとへ来てくれる花嫁は死のほかにはない。私と結ばれる妻は死のほかにはない。聖フランシスコは死を兄弟と呼んだ。私は死を妻と呼びたい。(『ロザリオの鎖』結婚)

 

「死ぬも生きるも御摂理に」――神の「摂理への信頼」とはまさに、生も死も含めた覚悟のいるものなのです。しかし永井の文章に悲壮感がないのは、死の向こうに復活の希望を見ていたからでしょう。

 

では、死と結婚して新しい生命が生まれるのか? ――生まれる。新しい、幸福にみちた永遠の生命が生まれる。それが復活である。死ななければ復活はない。人は死とともにあってのち、復活の光栄を与えられるのである。(同)

 

「沈丁花」は強い香気を持ち、散ってもなおその存在感を庭に残します。

「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿してください。

<参考資料>

検索ワード:ホームページ「今を生きることば」を訪問したユーザーがどのような単語で検索して訪れたか解析します。 (トップページのみ)


2003 3 1() → 2003 727()〕調査対象アクセス数:12807

 

データ

ポイント

割合

1

キリスト教

644

bar20.5%

2

遠藤周作

568

bar18.1%

3

今を生きる

509

bar16.2%

4

キリスト教について

327

bar10.4%

5

生きる

188

bar6.0%

6

生きること

179

bar5.7%

7

キリスト

128

bar4.1%

8

井上洋治

113

bar3.6%

9

平田栄一

53

bar1.7%

10

宗教

42

bar1.3%

余白こと平田栄一の本

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