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平田栄一サイン本
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余白の風 求道俳句とエッセイ93号 2004/2 発行者:平田栄一

<最近の余白作品>

日々死んで日々よみがえり去年今年

去年今年貫くコンビニ弁当よ

四日ともなりてにわかに夜と霧

先になり後になり来る初便り

青空に抱かれて咲くよ崖の百合

捨て石こそ親石となり春隣

あらぬ時あらぬ所に福寿草

(『紫』2004年2月号)

 

連載 俳句でキリスト教

神が人となる

踏青やキリストはいつでも素足

         長田等

 

「踏青」は春の季語。「青き踏む」などともいい、春の野山に萌え出た青草を踏み遊び、散策することを指します。

日本では何も不思議な光景ではありませんが、イエスの時代はどうだったのでしょうか。

キリスト教は砂漠で育った宗教だから、日本の神道や仏教のように寛容でなく、父性原理の強い厳しい宗教だ、という声をよく聞きます。しかしそういう誤解をしている人には、まずイエスがどのような地域で育ち、宣教したかを注意して見ていただきたいと思うのです。

イエスの生活の中心はガリラヤ地方でした。この地域はユダヤの荒れ野とは違い、ガリラヤ湖周辺には多種多様な植物が生育し、またさまざま魚の捕れる、温暖な地域なのです。写真を見ると日本のどこかの風景と見まちがうほどです。

ですから、キリストの「踏青」ということは、けっして単なる想像とはいえないのです。

キリストにとってイエスは神(の子)です。彼が「いつでも素足」で「青草を踏む」ということは、神ご自身がこの世にわたしたちと同じように生き、労苦し、生活したことの象徴です。

神が人となってこの世に来られたこと、これを神学用語で受肉≠ニいいます(一ヨハネ四・二他)。そしてこの受肉原理によってわたしたちは神(の子)に結ばれ、救いにあずかる、というのがキリスト信仰なのです。

イエスがかつて素足で青草を踏んだ大地、その同じ大地にわたしたちは時と所をこえて立っています。そう思うとき、たとえこの世に病や戦争、労苦が絶えなくても、キリストは大きな喜びと慰めを得るのです。

掲句は、こうしたキリストの受肉に応える、率直な信仰告白≠ニいえるでしょう。

 

キリスト者が読む山頭火

 

しとどに濡れてこれは道しるべの石

 

歩き続けた山頭火がようやく峠まで来ると、雨上がりの足元に「道しるべの石」が立っています。濡れた石というのはときに冷たさより温もり、堅さより柔らかさを感じさせるものではないでしょうか。わが家の小さな庭にも、いくつかの石を置いているのですが、居間からこれらを毎日眺め観察していると、石にもさまざまな表情があることがわかります。厳冬に佇むときと、炎天に照りつけられたときとでは、あきらかに違う表情を見せてくれて、飽きることがありません。不動の石にもさまざまな表情があるのです。

しとどに濡れた「石」が、歩き疲れた山頭火をいたわるように、やさしく微笑みかけてくれます。その石の人間的な温もりに接して、彼の旅の疲れはどんなにか癒されたことでしょう。

しかもその石は「道しるべ」なのです。これから山頭火の歩むべき道を、その不動の姿でしっかりと指し示しているのです。峠に立つ山頭火には安堵とともに大きな希望を抱かせたにちがいありません。

家を建てる者の捨てた石、

これが隅の親石となった。

これは、主がなさったことで、

わたしたちの目には不思議に見える。(マルコ一二・一〇〜一一

ガリラヤの寒村ナザレから救い主が出現するとは、だれも予想しなかったことでした。そしてイエスは、試練と挫折を味わい、ユダヤ人が「捨てた石」でありながら、のちに「隅の親石」つまりキリストを救い主と仰ぐ者たちの建物の土台とも頂の要石ともなるのです。

岩場が豊富に見られるパレスチナ地方では石は、ヘブライ人の生活や思考と深く結びついて、さまざまな象徴的意味を持つようになりました。神との契約の不動性や永続性の象徴としての記念石に触れた旧約聖書の記述などはその一例です(創世記三一章、ヨシュア二四章など)。

 

原始教会の人たちにとって、キリストは人が信仰をもって頼みとしうる不動の石と考えられました(ローマ九章、一コリ三章、一ペトロ二章など)。現代のキリスト者にとっても、イエスは人生の道々に置かれて、やさしく語りかけ、行くべき方向を示してくれる「道しるべの石」のように思われます。

 

招待作品 植松万津

頌春―荒川にて―

この河の流れとなりし過去(すぎゆき)はいま眼前を燿いてゆく

 

陽の射せば光の小人現われて群れ踊るがに川面きらめく

 

ことさらに水面まぶしきひとところそこより河はさらに蛇行す

 

拾いたる小石ひとつが掌に温むチグリス川の石にあらねど

 

夫逝きて野に座すわれは離れ猿孤独はふかき深き自由をもてる

 

丈を越す芒を分けて土手を降り冬陽かがよう岸に佇む

(「短歌往来」新年号作品)

いつも「プネウマ」待って読ませて頂いています。昨年クリスマスよりR神父の紹介でKシスターとの出会いを重ねる日々が、とうとう私にも巡って参りました。

 

Re余白:植松万津さんは、私の高校の亡き恩師の奥様です。実は、「風」誌59号の拙文「井上神父の言葉に出会う(二)」の冒頭に使わせて頂いたお話は、このご夫婦のことなのです。歌人としても活躍されています。本誌のために、下記のような新作近詠も送ってくださいました。お礼申し上げます。

 短き時間

ようやくに今年の寒さ去りゆくか今朝はたっぷり春らしき空

 

生前は手渡せざりしと置かれありチョコと花束二月の夕べ

 

不意に上野の駅雑沓を紺色の背広の亡夫(きみ)がわが前を行く

 

かなしみのはずみは駅の階段のぼる男のズボンの裾折れを見て

 

夫につきかく駅の階登りしよ美術館まで 短き時間

 

一瞬といえどもうつつ長身に階のぼりゆく亡夫(おっと)()つは

 

ぬぐえどもこみ上ぐるもの止どめ得ずただ雑沓を行くほかはなく

 

両神村雁坂峠とう地名さえ胸に熱かり亡夫(つま)といくたび

 

苺スプーンアイスクリームスプーン西瓜匙わが巣造りの歓びの跡

 

独り暮らしに毎日は炊かぬ炊飯器イラクにはなき湯気を立ており

(続く)

島一木 コーナー

信仰と自然 その7

うららかや小道の花をテレジアに

 

出会いまた一つの別れ聖母月

 

聖書這う蟻や流浪の民かとも

 

祈るまは蚊を打つまいと努力する

 

ロザリオの聖母乗りたる夏の雲

 

朝顔は天使のラッパすぐしぼむ

 

聖母とみれば痛々しくも清き月

 

幼な児のように小さな草の花

 

荒星や救いの御子は馬ぶねに

 

春惜しむ吾は独身奉献者

 

福音短歌 その22

なぜ わたしを「善い」と

言うのか 神おひとりの

ほかに 善いかたはいない

(マルコ10:18)

富を持つ者が

神の国に入るのは なんと

むずかしいことであろう

(マルコ10:23)

人にはできない

神にはおできになる

神にはできないことはない

(マルコ10:27)

わたしは この最後の

人にも あなたと同じ

ように 支払いたいのだ

(マタイ20:14)

わたしが 自分のものを

自分のしたいようにする

のが なぜいけないのか

(マタイ20:15)

 その23

あなたたちのうちで

偉くなりたい者は かえって

みんなのしもべとなれ

(マルコ10:43)

人の子が 来たのも

仕えられるためではなく

仕えるためである

(マルコ10:45)

また 多くの人の

あがないとして 自分の

生命を与えるためである

(マルコ10:45)

きつねには 穴があり

空の鳥には ねぐらがある

しかし 人の子には

(ルカ9:58)

鋤に手をかけてから

うしろを向く者は

神の国にふさわしくない

(ルカ9:62)

 

 教会のある風景 その15 冬

諸聖人集まり来たる小春かな

 

死者の日に墓参予報は雨なれど

 

聖堂の案内をする木枯らしに

 

教会の尖塔のさき星冴ゆる

 

教会の枯れ芝子らは駆けまわる

 

暖房のあまり効かずにミサ終わる

 

教会の枯れ木はみんな祈っている

 

神の母マリアのミサに初詣

 

公現祭ミサ先唱の役賜る

 

司祭より聖書拝受す一成人

 

Re余白:「枯れ木は」死んでるんじゃなくて、眠っているだけ。そして静かに「祈っている」んですね。

 

比田井白雲子 コーナー

風のおやつ 空のおやつ

 

星はまたたくだけ 私は・・・・

 

どこまでも青いお空 あなたです

休日は、早朝散歩をして星と話しています。「分け入っても・・・・」の句が、自分の内面への歩みとする、等句評には、多々啓発されます。

神に羊肉をささげたり、イブには七面鳥や鶏肉を食べたり、動物こそ受難、との考えが少し変わりました。それは受難こそ喜び(死して生きる)ではないか。食べられる喜び。死んで生きたのだ。我々はそれを食べたのだから、何らかの役に立った生き方をしようという考えになりました。

 

Re余白:風は「おやつ」、空も「おやつ」、神様が主食、そんな生き方がすばらしいですね。

 

山根さんの聖書講座:小さき花    

井上神父「福音書をよむ旅」3章 [苦しむ人々と共に生きるイエス] にそった内容でした。

徴税人レビを弟子にしたことに皆驚いたことでしょう。
徴税人は,神に逆らって生きる者、盗むなかれと言うモーゼ律法に反する孤独な嫌われ者です。
孤独からの脱却は、存在・魂の渇望です。
イエスは声をかけます。
レビがどんなに孤独か、渇望しているか心を写し取って、ついてきなさいといわれます。それでレビはすぐに従います。
ザアカイは嫌われ者で金があってもみたされない、根源的なところで渇きをみたすものを求めていました。
神、隣人との絆が失われている寂しさ,孤独。
そのザアカイの心を写し取ったイエスは回心をせまるのではなく、ザアカイの家で食事をし、泊まるといいます。
イエスに受け入れられた、愛を受けたことでザアカイは自分から回心します.
神との絆が回復すると,自分の方から他者、隣人との絆を回復します。
食事をするのは,特別親しい、そして宗教的行事でもあります。
罪人と食事をする場面が聖書に多く出てきます.ファリサイ派はイエスに直接ではなく、弟子にそのことで文句を言う.これは現代でも同じでリアリティがありますね。文句を察したイエスが答えます。
イエスは自分が罪人であると苦しんでいる人々をまず招きます。
社会通念の中で認められ,道徳的に生きているファリサイ派を批判。こんなに頑張って命がけで律法を守り一生懸命努力しているのに,だめだと言われては、ファリサイ派が怒るのは当然です.
ではファリサイ派の何が悪いのか。
モーセ律法と言う尺度で裁いている姿勢。一生懸命でない人を見下したり,裁いたりしやすい姿勢です。
他人の目の中のおがくずはみえるのに、自分の目の中の丸太は分からない.丸太は、人の目は見えていないというすごいたとえです。人は自分の価値判断、色眼鏡でしかものをみることができません。

山根さんのお子さんの話題も微笑ましかったです。

 

Re余白:神が共に生きてくださるとわかったとき、人生が変わるということですね。「共に生きるイエス」=「インマヌエルの原事実が救済の原点である」(青野太潮)

 

たまには:ブライダル      

ごぶさたしております。ホームページで自著の読み上げまでされてるのですね。見習わなければ。
 昨日の光景
リハビリの
シルバーカーの老人は
木枯らしの日も
吹雪く日も
ダンプの道をおして行くなり

Re余白:おひさいぶりに、ようこそ。自著読み上げは『今を生きることば』が品切れになっているようなので、はじめてみたのです。これからもよろしくー。

祈り:しんご

日曜日 霜踏み 苦しみ携えて
キリストに会うため 教会へ
なんだかとっても嬉しくなって
神様に感謝せずにはいられなくなった

笑顔で帰るよ 吹く風とても心地いい
冬の暖かな日差しをありがとう
小さな喜びをもっと喜べるように
小さな僕を憐れんで下さい

 

Re:余白

人間の心の浮き沈みは、仕方ないもの。せめて喜びの時にこのように、心から喜べる人生でありたい。いつも、よい詩をありがとう。しんごさんといっしょに喜びに輪に入らせてもらいましょう。

 

「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿してください。

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