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平田栄一サイン本
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余白の風求道俳句とエッセイ 94号

2004/3 発行者:平田栄一

<余白近詠>

ユダ知るや洗足の夜の帚星

沈黙や神の記憶に百合一輪

春もみじワイド文庫に帯は無し

七分咲き三分咲きにて枯れる花

嘆くとも悔やむともよし春に死す

アリマタヤ春の屍アリガタク

書架巡礼五月半ばの言霊よ

(『紫』2004年3月号)

連載 俳句でキリスト教

<母性のなかの父性

春夕焼祈る姿に母は縫う

          古賀まり子

 春の夕焼けは、夏の、真紅色の情熱的な夕焼けとも、秋の、明日は晴れるという吉兆の夕焼けとも違います。どこか曖昧でボーッとした、しかし柔らかにこの世を包み込むような雰囲気があります。そうした夕暮れのなかで、母が縫い物をしている。

 作句法という視点からみたとき、「春夕焼」と「母」の取り合わせは、すべてをゆるし包み込む母性的性格という共通の印象から、付き過ぎているという感じがしないでもありません。

 しかし、この句の「母」は、それだけで終わっていません。「祈る姿に」なって母は縫っているというのです。背を丸め、ひとりこつこつと終日針を動かす母の後ろ姿は、やわらかな春夕焼けに同化して抱擁力を共有しつつ、どこか近づきがたい畏怖を感じさせるものではないでしょうか。

家族への配慮やあれこれの不安を抱えながらも、春夕焼けのような神の懐のなかで、その摂理を信じて毅然と人生に立ち向かう姿、そこには父性的威厳をすら感じさせる母の強さがあります。

 

<イエスの顔

やや寒むの壁に無髯(むぜん)の耶蘇の像

       中村草田男

 

草田男は秋の気配が深まりゆくなか、壁にかけられた無髯(ひげがない)のイエス像に向かっています。

 

史実のイエスがどんな顔だったのか、どんな姿だったのか、福音書にはまったく記されていません。それは宗教的な畏敬の念からあえて描写を避けたからかもしれませんが、それゆえにまた古来さまざまに想像されてもきました。そしてキリスト教の伝播とともに、各国の美術家たちはそれぞれが最も親近感の持てるイエス像を描いていったのです。

さらに、

 

芸術作品だけに限らず、ひろく信仰生活も、典礼も、求道性も、神学も、すべてがその時代時代の切実な思いのこもったイエスの顔≠ネのだといえると思います。(井上洋治神父「風の家」趣意書)

 

受洗してからもわたしは、祈りや福音の本質がなかなかつかめず思いあぐんでいました。そんななかで山頭火に、そして俳句に出会ったのです。

 

神を呼び神を疎ましく生きている

   栄一 (一九八六年『層雲』)

 

今振り返ると、受洗後五年経って最初につくったこの無季の句に、当時のわたしの心境が代表されているように思います。

そして神に飢え乾きつつも、同時に「神を疎ましく」思う苦しさ、葛藤・・・・それはわたしが「ヨーロッパからの借り物のイエスの顔≠オか持っていない」(右趣意書)ためだと、やがて気づくのです。奇しくも同年、「日本人の心の琴線にふれるイエスの福音」を模索する「風の家」が、井上師によって立ち上げられました。

 

「無髯の耶蘇」を見つめつづけた草田男は、死の直前に受洗します。彼の臨終の床に立ち現れたイエスはどんな顔だったのでしょうか? キリスト俳人として、わたしの興味は尽きません。

 

キリスト者が読む山頭火

 

炎天をいただいて乞ひ歩く

 

すでに、山頭火にとって「歩く」ことが、彼の求道と密接に結びついていたことをみてきました。

真夏の炎天下をとぼとぼ行乞する山頭火

この句のポイントは「いただいて」にあります。山頭火の日用の糧は、托鉢しかありません。彼は、「ぼくのように、商売もよくせず、仕事もよくせず、家族も満足に養えなかった者は、こうして人様からもらったものと拾ったものとで、生かされているんだからなあ・・・・」と、俳句の友人にもらしていたといいます。

「人からもらったもの、拾ったもので生かされているのだ」という告白の真実性は、常識的には不快極まりない炎天をも押し「いただく」という、この何気ない言葉に証明されているように思うのです。山頭火の宗教者としての謙虚さ、生死の覚悟、その歩みの孤独、そして静けさを感じずにはいられません。

 

イエスの宣教生活は、山頭火のような行乞によって支えられていたわけではありません。また、山頭火は一人で歩きつづけましたが、イエスは弟子たちを伴っていました。

しかし、山頭火が炎天下を経を唱えながら行乞する姿と、福音書に描かれたイエスの足取りには、なにか共通するものがあるように思うのです。

 

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。・・・・だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ五・四五、四八

 

ここにいう「完全であれ」というのは、日本人がすぐ連想する儒教道徳的な品行方正を意味しません。『ルカ』の並行箇所では、

 

 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。(ルカ六・三六

 

となっています。つまり、すべてを受け入れ、包み込む者となりなさい、といった意味なのだと思います。どんな人にも、日を照らし、雨を降らせてくださるアッバなる神。人の道は、そういう神のもとで毎日を素直に、ありがたく押しいただくことから始まるのだ。イエスはそう諭しているのではないでしょうか。

ひとり十字架へとつづく道を行くイエスは、多くの弟子や群集といながらも、人間としての孤独を味わったことでしょう。その歩みは山頭火に似て、蕭々かつ飄々としたものを感じさせます。一見対照的な二人の生き様ですが、神仏・生死に向かう姿勢において、共通する感性がみられるのです。

 

「福音書をよむ旅」による山根さんの聖書講座:小さき花

 

季節ごとに宗教行事があるのは大切です。

季節に根ざした宗教行事は祭りとして日本に根付いています。
心に根ざす宗教行事で、季節ごとに原点に立ち返ります。
放蕩息子のたとえを中心にファリサイ人の祈りがだめと言われたことをもっと掘り下げてのお話でした。
一人ひとり背負っている悲しみや寂しさをまず受け入れる心がファリサイ人に欠けていました。
イエスの説くアガペー(悲愛)は人間の悲しみや痛みを写しとる心です。
無条件の愛は母性的愛であり、条件付きなのが父性的愛です。
放蕩息子の話はユダヤ人としてどん底の生活になって、我に返った弟の回心とはらわたがちぎれるほどあわれに思う父親の母性的愛と赦しが前半。
後半で父に文句をいう兄に感情移入する学生が多いです。
守りたくないのに我慢して一生懸命父の言いつけを守った真面目な兄。
ファリサイ人は自分たちを例えたと感じたでしょう。
兄には兄の心の闇があります。父の心を理解していません。
兄が自分の価値基準だけで見ると弟はとんでもない奴です。
なぜ弟が出て行ったか、遠くの国まで行って辛さ孤独を紛らす放蕩にふけったか兄には弟の弱さ、辛さを思いやるアガペーの愛が欲しかった。
相手の大変さを写し取る、それは相手のためだけでなく自分の心の平安にもつながります。
父性原理の強い神、赦しのない厳しさは人を絶望のふちに立たせます。
父性原理の強いキリスト教の時代にあってリジューのテレジアは際立った存在でした。
無条件に子供を赦し、受け入れる母性原理に基づく愛に包まれた上に父性原理の厳しさはあります。

井上神父様が著書『人はなぜ生きるか』で、「ファリサイ人にかけていた、ふわっと柔らかく隣の人の悲しみを写すアガペーのまなざしによって、私たちのエゴイズムが溶かされていく、そうしてイエスの説く福音が日本人の心に次第に根付いていく」という部分を思い出してしまいました。
もうすぐ四旬節ですね。。

 

ドラマ「大友宗麟」を見て感じたこと。。。。:N.K.        

 

私は原作の「王の挽歌」を読んでおりません。

その中で今回の「ドラマ」の評価については、原作を読んだ方々からはあまり評判はよくなかったようですが、私としては、結構それなりに感じるものがありました。。。

まず、戦国時代という時代が、「下克上」や「家督・領地争い」の中で、自分以外に誰も信じることができずに、不安に怯え、混沌とし、その「人間不信」の中で「やられる前にまず自分が相手を倒す」という何とも悲しい殺伐とした時代であったのだな、というのが非常に印象に残りました。。。

人生のすべてが「領地を守り、拡大する」という前提のもとで過ごさなければならない、主人公そしてそれをとりまく人々の心中は、察するにあまりあるものでした。。。

そんな折、彼はキリスト教に出会うワケですが、結局、彼は領地の争奪合戦に見切りをつけ、その頃、天下を統一を成し遂げようとしている豊臣秀吉に助けを求めます。
結果、秀吉に屈服したかたちとなり、領土も自分の手元にはごくわずかしか残らないことになりましたが、彼のその時の言葉は「これでよかったのだ。とにかく、この戦乱の世が終わり『平和』な世の中になるのであれば、私が『頭を下げる』くらいのことなど容易いことだ」と言って、難なく秀吉の命令を受け入れます。

最後、彼は秀吉の命による「キリスト教禁止令」が下される前に死去して終わるのですが、以後、秀吉そして徳川家と支配がかわっていく間には、殉教者を出すほどの悲しい弾圧があり、そして遂に「キリスト教」はわが国から、完全に消滅されたかたちを表面上はとっています。。。

しかしながら、私は殉教もせずに、仏教や神道へ改宗していった元信者たちの心の中であっても、「キリスト教」への思いというものは、決して色褪せることなく、
脈々と引き継がれていったと感じるのです。
そして「江戸時代」、歴史上はキリスト教は完全に「封印」されたかたちではありますが、少なくともあの時代、さして大きな戦乱もなく、平和な世の中が250年も続いたこと自体、とても喜ばしいことだし、そこにあえて「キリスト教」が表立っていなくとも、みんなの心の中には神が生きているのではないか・・・、そしてその状態を、きっとイエスさまは「良し」として、「暖かい眼差し」で見守っていてくれていたに違いない・・・と感じる私は、やはり愚か者なのでしょうか。。。

 

招待作品 植松万津(2)

―源流―

ああ亡夫(きみ)は峡の川辺に育ちたり遺品より出ずるCDは「流」

CD「流」は曲にはあらずひたすらな流れ せせらぎ 親し水音

癌と言われ死ということに迫られしきみ恋いいしは峡の川音か

洪水の川鳴り干でりの水の音つぶさに聴きてきみは育ちし

秩父路の往還に沿う槻川に水車小屋ありきみの生家は

その(かみ)は和紙の里なる槻川の流れに(こうぞ)晒す山びと

夫とふたり里帰りせばいつの時もまず川音に迎えられしよ

夫の家に泊れば夜半の枕辺に朝の目覚めにとどきし瀬音

満ちいしは無にひとしかりひと(つき)のコップの水さえ()ちれば見えず

()の靴にぴったり添いてきのうより小さな靴の並ぶ朝夕

(続く)

 

島一木 コーナー

福音短歌 その24

あなたたちの 名が

天に書き記されている

ことを 喜びなさい

(ルカ10:20)

マルタ マルタ

あなたは 多くのことに

心を配り 思い煩っている

(ルカ10:41)

必要なことは ただ一つ

だけである マリアは

その良いほうを選んだ

(ルカ10:42)

天の父が 求める者に

聖霊を くださらない

ことが あるだろうか

(ルカ11:13)

幸いな者は

神のことばを聞き

それを守る人々である

(ルカ11:28)

福音短歌 その25

目は身体のともしび

目が澄んでいるとき

身体全体があかるい

(ルカ11:34)

主人が 帰って来たとき

目を覚ましている

しもべは 幸いである

(ルカ12:37)

預言者が

エルサレム以外の地で

死に遭うことはありえない

(ルカ13:33)

見なさい あなたがたの

神殿は 見捨てられた

まま 残されるであろう

(ルカ13:35)

だれでも みずから

高ぶる者は下げられ

へりくだる者は上げられる

(ルカ14:11)

貪欲から身を守れ

 

注意して

あらゆる貪欲から

身を守りなさい

人の生命は

持っている財産に

よるものでは

ないのだから

(ルカ12:15)

『摂津幸彦全句集』(沖積舎)より その2

チャペル 夕焼け その窓全部 秘密めき

摂津幸彦

しかし求めるものなく 旧約風の砂丘 踏む

僧帽弁狭窄木枯しとだえ聖夜澄む

都燃ゆ愉快な神と髪を染め

過ぎ去りし路上におびただしき天使

同志社のをみなみどりに古らんかな

天瓜粉吹かれて天の扉まで

古池を天の把手に懸けゐたり

神のみどりの肉より漏れて鐘の声

楽隊がまづ知る神の蓮草

日雷ひそかに破るる神ありき

聖家族背中深くに春の雲

神はよく奈良の市場を走りけり

神様のかなぐり捨てしシャツの雲

七分粥夕陽に残す元神父

いつも子捕りの手は湿りたる詩篇

雪の日の祈りを山とおもふ鹿

神に逸れ鯨の木なるもの拝む

脱糞の神美しき雲の殿

粗塩が女性のやうになつてゐる

諸悪垂れ日曜学校青葉寒

中世のしみじみ振れる磁石かな

元始に神これより曲がる蕗のたう

潜水夫聖夜せつせと兎跳

 巻末に「未定稿句集」として収録されている1744句から24句を書き抜いた。未定稿句というだけあって、前回(本誌92号)の句集収録句よりもキリスト教関連句かどうか判然としない句は多いのだが、ともかく少しでもキリスト教と関係のありそうな句は全部書き抜くことにした。第20句目「粗塩が」は、どこがキリスト教と関係があるのかと首をひねる読者もおられるかもしれないが、一読して創世記19章26節の情景が頭に浮かんだので、一応加えることにした。

 

PS余白:現在、小生所属の「紫」誌に摂津資子(もとこ)氏が「幸彦幻影」を連載しています。

福音短歌 その26

一人の罪びとが

悔い改めれば

神の使いたちには 喜び

(ルカ15:10)

この子は 死んでいたのに

生き返り いなくなっていた

のに 見つかったのだ

(ルカ15:24)

この世の子らは

自分の仲間に対して

光の子らより賢い

(ルカ16:8)

ごく小さな事に

忠実な者は 大きな事

にも 忠実である

(ルカ16:10)

人々の間で 尊ばれる

ものは 神の前では

忌みきらわれる

(ルカ16:15)

比田井白雲子 コーナー

もったいない こんないい青空がある

空の青さでおやつにしよう

故郷に似て一寒星

 青空を見ていると、こんな大きな心になれたらいいな、といつも思います。そして、人間は、いつの世もどうして戦争をしてしまうのだろうと思います。宗教戦争や聖戦、これは自分の欲に負け、宗教を利用したもの。宗教が悪いわけではない。IT革命に至り、人類を救えるのは、宗教しか残されていないのではないか、なんて思う、今日この頃。

 

「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿してください。

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