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平田栄一サイン本
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余白の風――求道俳句とエッセイ 96号 2004.5

発行者:平田栄一

<余白近詠>

逃げ隠れするも預言の成就かな

降誕や天地を御子が縫合す

明日はあす今日はきょうとや夏雲雀

郭公も御身の肉のうちにあり

砂浜に汝が名は消えず青葉木菟

すさまじき系図を抜けて五月晴

アバ・イエス再洗礼の雷雨かな

    (『紫』2004年5月号)

小さき花

山根氏の「井上神父の福音書を読む旅」に学ぶ講座:      

 ぶどう園の労働者のたとえ(マタイ20.1-15)

井上神父は結婚式のお祝いにこの部分を取り上げるというとびっくりされます。

まず、「天の国」とは,「神の国」のことです。ユダヤ人にとって「神」と言う言葉は畏れ多いので、マタイ福音書では「天」と言う言葉に言い換えています。

「神の国(バシレイア)の到来を告げるメッセージ」がイエスの元々の福音です。バシレイアは「支配、主権」と言う意味です。

つまり、神の愛がすべての人に及んでいる,神の愛の中に包まれている。皆が神の子供として愛されている,そして互いに愛し合う絆で結ばれている愛の共同体。それが神の国です。

死後行くところというより,今の現実に広げていくものです。

自分が愛されている,神の国に招かれていることを知り、周りの人を愛し,愛される関係を結んでいく。

互いの愛の関係が行われるのが「神の国」です。

ぶどう園で丸1日働いた労働者が,1時間だけ働いた労働者と同じ賃金だと不公平と怒るのは経済効率を考えると当然です。

釜ヶ崎の日雇い労働者のところでこのたとえを話すと、働きたくても仕事にあぶれてしまう人の不安、苦しみがよくわかる主人だと感動されます。

実際の生活の中で経験して実感のこもったたとえ話になっています。雇われる者の心理がよくでているたとえです。

働きたいのに働けなかった、1日不安な気持ちで過ごした人にも1日分の賃金を払って下さる主人。

不平を言った労働者も、働けずにいた人の不安な気持ちを相手の立場にたって写し取ってあげたならば,良い主人に当たってよかった,今日はいいことがあったと喜んで帰ることもできたのに。

1日12時間汗を流して働いた自分の大変さしか考えられないと

1時間だけ働いた人と賃金が同じなのが不平、不満になり心の平安がなくなります。

人間関係で何が大事かと言うと,「異質の苦しみ,大変さへの理解」です。自分の大変さを理解してほしいというばかりで,相手の立場にたって相手の大変さをわかろうとしない。

井上神父はアガペーの愛を悲しみを共にする,写し取る愛という意味で悲愛と訳しました。

キリシタン時代にはアガペーの愛はご大切と訳されていました。

日本語の愛という言葉では,エロス、フィリアの愛も含まれてしまいます。

世間は成果、効率で物事を見るが、アガペーの愛の神はこんなにも一人一人の大変さを写し取って恵みを与えてくれる存在です。

夫婦もお互い自分の大変さを横において、相手の大変さを写し取ること,最初の一言が大事ですね。

マルタとマリアの関係でも,立派な働き者のマルタが妹マリアの心(なぜイエスの足元であんなに熱心に話を聴いているのか,救いを求めているのか)を写しとり、わかってあげたら、妹を責めたり,怒ったりしなかったでしょう。

良妻賢母型のマルタは正しいことを押し付けたり,罪の泥沼にいる人を不可解な者と軽蔑し,冷酷に突き放す-アガペーの愛から遠くなる傾向があります。

前に神殿でのファリサイ人の祈りが義とされなかったことを話しました。ファリサイ人はどうすれば救われるのか、何がいけなかったのでしょうか。

ファリサイ人が道徳的なのは立派。でも、罪人とされる徴税人を裁くのではなく、徴税人も熱心に祈っている、神の愛は苦しい人にも届いている、ありがたいなあという感謝の祈りであってほしいのです。

                                        

結婚生活を始め,人間関係すべてにおいて大切な悲愛の心を、ちょっと意外と思われた「ぶどう園の労働者のたとえ」からわかりやすく深く学ぶことができるのですね。

「愛は忍耐強い,情け深い…」以上に結婚式に

ふさわしい箇所ですね。

 

『ルオーとイコン』展

 ガラスごしでなく、手が触れそうなほど間近でイコンを見るのははじめてです。

東京復活大聖堂のイオアン高橋神父様のギャラリートークに参加しました。20名弱の参加者でイコンの前でひとつひとつ丁寧に解説していただきました。

想いを抱く相手の肖像を描くことは自然なクリスチャンの行為で、2世紀に描かれた使徒イオアン(ヨハネ)の肖像画が残っています。3世紀のカタコンベの壁画。あまり知られていないが,イコンは西洋美術の源流です。オーバーに言えば2000年の歴史があります。

イコンは美的言語。イコンは描く人の自己表現ではありません。型があります。イコンを描けるのは,修道士と聖像画師、イコンの言葉がわかる人だけです。

イコンは神との語らいです。キリストの顔の右半分は優しさと慈しみ,左半分は聖書を持ち、裁きと,厳しい顔。眉毛と目の表情の微妙な違いで差があります。

建物が横に描いてあると,実際は建物の中での出来事をあらわす、浮いた感じに描くことによって、心の中の体験や内的体験をあらわす,正教の十字架の足台が斜めな理由など、面白かったです。

まず,手本通りに描くことで謙虚さを身につける。そして初めて見いだせる精神があります。その後に,オリジナルのイコンを描くことがゆるされます。

東では2000年ずっとキリストの復活が最重視されているが、西(プロテスタントもカトリックも一緒)は中世以来、血みどろの十字架に重点がおかれました。

正教徒の家では各部屋のすみの棚にイコンを置くことで部屋が祝福されます。

東のマンディリオン(聖顔布)はエディッサの王に顔を拭いて送った布の顔。

西の十字架の道行きの時の聖顔のようにいばらや血がありません。ルオーの描く聖顔はマンディリオンによく似ています。

『苦悩』のキリストを超え,『救い』と『再生』を象徴する姿です。

西の血だらけ苦悩の極みの十字架と比べると、ルオーの十字架はイコンに近い。キリストの聖顔は哀しいまなざしの道化師へと変化していきました。

遠藤周作氏はルオーに傾倒していて,ルオーの絵をめぐるエッセイなどもありますね。

高橋神父様は髪を後ろに結んだ黒い修道服が似合うがっしりした方です。

1時間半ずっと立ったままで足が痛くなりました…

信徒さん達は慣れているのか平気そうです。

十字架を復活とセットにしてとらえる東方の教えに、平和でゆったりとした気分になりました。

http://shiodome.nais.jp/museum/kaisai.html

6月13日まで開催されてます。

 

島一木

福音短歌 その29

わたしは この世の光

わたしに従う者は

生命の光を得る

(ヨハネ8:12)

わたしは 自分が

どこから来たか また

どこへ行くかを知っている

(ヨハネ8:14)

あなたたちは 肉に

従って裁く わたしは

だれをも裁かない

(ヨハネ8:15)

あなたたちは この世に

属しており わたしは

この世に属していない

(ヨハネ8:23)

わたしをお遣わしになった

方は わたしを一人に

しておかれることはない

(ヨハネ8:29)

 その30

わたしの言葉に従って

生きているなら まことに

わたしの弟子である

(ヨハネ8:31)

あなたたちは

真理を知り 真理は

あなたたちを自由にする

(ヨハネ8:32)

あなたたちに言っておく

罪を犯す者は 皆

罪の奴隷である

(ヨハネ8:34)

わたしは 自分勝手に

来たのではなく あの方が

わたしをお遣わしになった

(ヨハネ8:42)

わたしが 自分に

栄光を帰するなら

わたしの栄光はむなしい

(ヨハネ8:54)

 その31

お遣わしになった方の

業を 日のあるうちに

行なわなければならない

(ヨハネ9:4)

見えない人が 見える

ようになり 見える人が

盲目となるのだ

(ヨハネ9:39)

羊飼いに 門番は

門を開けてやり 羊は

その声を聞き分ける

(ヨハネ10:3)

わたしは 門である

わたしを通って入るなら

その人は 救われる

(ヨハネ10:9)

わたしが 来たのは

羊に 生命を得させ

しかも 豊かに得させるため

(ヨハネ10:10)

 その32

わたしは 良い羊飼い

良い羊飼いは 羊の

ために 生命を捨てる

(ヨハネ10:11)

雇い人は 狼が来る

のを見ると 羊を

置き去りにして逃げる

(ヨハネ10:12)

彼は 雇い人であって

羊のことを 心に

かけていないから

(ヨハネ10:13)

わたしは 良い羊飼い

羊を知っている 羊も

わたしを知っている

(ヨハネ10:14)

父が わたしを知っておられ

わたしも 父を知っている

のと 同じである

(ヨハネ10:15)

 

羊のために

 

わたしは 自分の生命を捨てる

再び それを得るためである

それで 父はわたしを

愛してくださるのである

だれも わたしから

生命を奪いはしない

わたしが 自分から

生命を捨てるのである

わたしは 自由に

生命を捨てることができ

また 再び自由に

生命を得ることができる

この命令を わたしは

父から受けたのである

(ヨハネ10:17〜18)

教会のある風景 その16 春

教会の前の家では豆を撒く

春立ちぬ賛美の声の湧き立ちぬ

貝寄風や聖水入れのさざなみも

教会前に足をとられる春の泥

教会の花壇に花の種を蒔く

卒業を控え神学生祈る

ロザリオの祈りとぎれず目借り時

黙想の静謐の窓囀れり

諸聖人の連祷つづく鳥曇り

ひざまずき祈れる人のおぼろかな

 

余白

連載 俳句でキリスト教

知られざる信仰

わが旅の信なけれども聖母月

         富安風

 カトリック信者にとって五月は「聖母月」であり、とくに熱心にマリアに祈りを捧げます。

 

   何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

 

 西行が伊勢神宮に詣でたときに詠んだ歌だといわれています。鳥羽上皇の北面の武士だった彼が、ここにだれを祀っていたか知らないはずはありません。それでもあえて「何事のおはしますかは知らねども」と詠っているのです。それはなぜでしょうか。

芭蕉は『笈の小文』の冒頭で、

 

西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。・・・・造化にしたがひ、造化にかへれとなり

 

といっています。言葉にできないこの「一なる」「何事」か、それに触れたとき西行は思わず涙がこぼれたのではないでしょうか。それは「かたじけなく」も西行を、芭蕉を・・・・生きとし生けるものを時空をこえて根底から支えている何か――「造化」とも神≠ニも無≠ニも呼ぶべきもの――なのだと思います。

芭蕉も貞享五年(一六八八年)伊勢神宮に詣でた折り、西行の歌を踏まえて次のように詠んでいます。

 

  何の木の花とは知らず匂いかな

 

掲句、「わが旅の信なけれども」――自分の旅は特別にマリア信仰があってする巡礼の旅とは違う、と風生はいいます。しかし五月といえば、ああ「聖母月」(季語)なのだなあ、と図らずもどこかでマリアを(通してキリストあるいは神を)意識している自分を発見しています。そこにたとえ明示された信仰がなくても、彼の旅を特別なものとし、「かたじけなく」思わせる「何事」か「知らず」「一なる」ものの働きを感じ取っているのではないでしょうか。

 

キリスト者が読む山頭火

へうへうとして水を味ふ

 

行乞途上でものした名句です。酒好きの山頭火は水も大好きで、山がうむかけいの水を何杯も飲んだことでしょう。深酒は山頭火の精神を闇に誘いますが、酔い覚ましの一杯の冷水は、理屈抜きに彼を心から生き返らせたのではないでしょうか。

 

 聖書世界においても、水は命の源であり、命を支える力であり、また人間浄化の手段とも考えられていました。

洗礼者ヨハネは、ぞくぞくとヨルダン川に集まる人々に水で洗礼を授けましたが、それは「罪の赦しを得させるため」の「悔い改め(回心)」のしるしでした(マルコ一・四)。罪を清めて人々の心を神に向けさせる水です。こうしてイエスの出現に人びとの心を準備させたのです。

 

『ヨハネ』には、イエスの最初の奇跡が水を良質のぶどう酒に変えたことだったと記されています(二・一〜一二)。この水は本来ユダヤ人が清めのために用いたものですが、この箇所を、キリスト来臨の喜びのしるしとして新しいぶどう酒に変えたのだ、というふうにキリスト者は読みます。ここに旧約から新約へと、福音への新たな転換が行われたものと理解するのです。

また、福音書中「水」が最も印象的に語られるのは、同じく『ヨハネ』にあるイエスとサマリアの女≠フ話でしょう(四・一〜四二)。

イエスは「女」に言います。

 

わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(四・一四)

 

イエスを通して与えられた「水」が、「永遠の命」をもたらすというのです。

さらに、過越祭の前、死を覚悟したイエスはたらいに水をくんで弟子たちの足を洗いながらペトロに、

 

もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。(一三・八

 

と言います。これは、イエス自身による最後の清めを象徴しています。

そしてクライマックス、十字架の死において、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺すと、

 

すぐ血と水とが流れ出た。(一九・三四

 

と記されています。ここでは、永遠の命へ至る水が、イエス自身からわき出ることを語っているように思えます。

このように『ヨハネ』は、水の福音書≠ニよぶにふさわしいほど、重大な場面にしばしば「水」が関わっているのです。

 

無心に返り「へうへうとして」イエスからわき出る「水を味ふ」。そのとき、わたしたちは自分に死に天国へと導かれるのです。

そう考えると、日本の死に水≠ニいう習慣はとても大きな意味を帯びてくるように思います。

 

比田井白雲子

ほのぼのと春風をもらう

空はふるさと

ふわりと蝶にきてもらう

 芽が出て、葉になるさまを見ていると、不思議だなと感動を覚えます。そして小鳥は美しい声でさえずり、白い蝶が来て、黄色い蝶が来て、何もかも不思議なことばかり。人間を含めて全てが奇跡。命の源は空寂。だから人間は、静寂を好む。教会の静けさにふとあこがれる。空のなつかしいわけがわかりかけてきました。空の静けさが人の心を招くのです。私にとって空は、教会のようなもの、ふるさとです。やさしいまなざしの句評、とてもとてもすてきです。

 

植松万津

連作(4)

夫逝き三年がほどの空白を再出発とハンドル握る

目指し行く森の中まで枝々に朝のひかりの射し入る瞬時

「われも紅」ああよき名なる吾亦紅の花序球形にうかぶ面影

早朝のジョキング犬の散歩などわが羨しきはウォーキングの夫妻

久びさに地域めぐれば小さき森や畑の失せいて都市化を嘆く

ようやくに寂しきほどに明かるみて天高き秋ことしも至る

言葉にならぬかなしみと歌友(とも)の詠いしはああこれなるとひとり頷く

完結は到達点にして新しい出発点でありたしと師は

ひとり一人がおもい述ぶれば師は胸に迫りきたると面伏せましぬ

永遠というは精神(こころ)を受け継ぎて承けつぎて歴史に残りゆくものか

にわかにも秋の夜の冷え更けゆくに虫一匹の鳴きつづくなり

 

「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿してください。感想もお待ちしています

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