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平田栄一サイン本
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平田栄一求道俳句概論

余白への旅

島 一木

一、その出発

平田栄一は、二十六歳のとき(一九八一年八月)にキリスト教カトリックの洗礼を受けている。彼に洗礼を授けたのは、小説家の遠藤周作との交友でも有名な井上洋治神父である。俳句を始めたのは、それから五年後のことであるから、平田栄一俳句は出発時から信仰者の俳句ということになる。

信仰などいらぬという涼しい目をしている

一九八六・〇八

神を呼び神を疎ましく生きている

〃   

 「私の句作動機は、当初から求道的なものであった。洗礼を受けたものの、今一つ救いの実感が持てない心許なさに悩んでいた(中略)。何か具体的に形になる求道手段が欲しい、そう思いながら悶々としていた」(「青年句会報」第69号)。彼は、書店で荻原井泉水の著書『新俳句入門』に出会い、「層雲」自由律の門を叩く。

 

二、その活動

「層雲」に入会してからの活動には目覚ましいものがある。四年目で新人賞を受賞。そして、一九九〇年二月には、「層雲」の若手作家を中心とする「青年句会」を立ち上げる。「氏には青年句会発足当初からお世話になりっぱなし、主催もずっと自分でなされ、キャシャなあの細身の身体でよくもまあ続けてこられたと感心するばかりである。句会では驚くまでに正確無比鋭い句評が歯に衣を着せぬまでにポンポンとびだし、酔ってはまるで酔虎のように俳界の過去現在未来を吠えまくしたてる」(比田井白雲子「言葉の伝導者」)。青年句会メンバーの述懐だが、当時の情況が生き生きと伝わってくるようだ。

手相見にもう客がいて浅草仲見世師走の朝

一九九〇・〇三

不発弾眠る杜の蝉しぐれ

一九九〇・一〇

散文的朝、韻文的夜

一九九二・一〇

一方で、「鳩よ!」「月刊宝石」に創句──永六輔氏による造語で「自由律より自由に」「俳句のような短文ならなんでもどうぞ」という趣旨のもの──を投稿して最多入選を果たす。「俳句空間」へ作品を投稿し始めるのも、この頃からである。

  失業中きのうと同じカーテンの位置

一九九一・〇二

月夜の海体内時計遅れがち

一九九一・一〇

蝶ひとひら 改札で呑む強心剤

一九九三・〇三

産声以前 たしかに溜息

一九九三・〇六

晩鐘のように母の小言を聞く

一九九七・〇七

 年月順位に記録された全発表作品の資料を眺めると、現代俳句協会や俳句総合誌へと活動の場を広げていく様子がよくわかる。才能ある俳句作家の順調な滑り出しと言うべきだろう。「層雲自由律」(「層雲」は「層雲社通信」「層雲自由律」と誌名を変えていく)を活動の中心としながらも、「俳句ポエム」や詩誌「泥水」等へも投稿している。成星出版刊の『現代歳時記』にも作品が掲載された。「豈」に参加するのは30号(一九九八年七月)からである。しかし、二〇〇一年七月には「層雲自由律」を退会。同九月に、主宰する「青年句会」を「余白の風」と改称して広く詩と信仰の場とするなど、求道中心の方向へと急展開し始める。このことについては後に改めて述べる。所属誌も、二〇〇二年一月「海程」、同十一月「紫」と目まぐるしく変転して現在に到る。

雲を喰い尽くした植木屋の消息

一九九五・〇五

雷鳴七つ のちの虹 のち広場

一九九五・一一

離人症の足裏疼く夏木立

一九九八・〇七

祈りを忘れていた虚無が手のひらにある

二〇〇一・〇一

多発テロ葡萄の重さ手に余る

二〇〇二・一〇

 彼の旺盛な活動は俳句だけに止まらない。『今を生きることば』(女子パウロ会・一九九四年)、『やわらかな生き方』(サンパウロ・一九九六年)、『人の思いをこえて』(ヨルダン社・一九九九年)、『雨音のなかに』(ヨルダン社・二〇〇〇年)など求道的エッセイ詩集を多数出版していることからも、その情熱のほどは知れよう。ホームページ「今を生きることば」は、全国のキリスト者や求道者の活発な交流の場となっている。

 

三、その作品展開

 最初に述べたように、平田栄一の俳句とキリスト教は切り離せない。「神の問題がなければ、おそらく私が俳句にかかわることはなかったであろう。私にとって求道と句作は同時展開し、切り離して考えることはできないものであった」(「神を詠む──現代俳句協会青年部勉強会寸感」)と書くほどだから、いかにクリスチャンらしく敬虔な作品ばかりかと思いきや、実際には、次のようなおよそクリスチャンらしからぬ作品が目白押しである。

妻に憎しみ持つ夜の冷たい足

一九八九・〇七

来ない女を待つブラック一杯分の夕陽

一九九〇・〇八

美少年Aいつから鍵穴を覗く癖

一九九三・一二

死出の旅たとえば豆腐の上を往くような

一九九五・〇六

酔いどれ黄金虫 起きよ 手をのばせ

一九九七・〇一

 本稿では作品をほんの一部しか紹介できないが、資料にはもっと生々しい、普通の生活者と変わらない、いやそれ以上に振幅が激しいのではないかとさえ思われる感情生活の記録が並ぶ。これは一体どういうことなのだろうか。信仰を持ってもなかなか現実とは相容れない実生活上の葛藤の表出と受けとるべきだろうか。ある程度はそうかもしれない。だが、事はそれほど単純ではない。そもそも洗礼を受けたときの心境を、「越えがたいと思っていたキリスト教の敷居、実はそんなものは最初からなかったのだ、今あるがままの自分でよいのだ、ということに私は師(井上洋治神父・筆者注)によって徐々に気づかされていった」(『わが心の春夏秋冬 第二集』潮文社)と述べる彼にとって、信仰を持たない者には一見とりすましたように見えるクリスチャンらしさなどとは、初めから無縁であった。

  不治の病人(ひと)見舞った日の妻強く抱く

一九八八・〇〇

  捨て置け 神が拾う

一九九〇・一〇

利き耳立ててる街路樹 人間不信

一九九二・〇八

花絶えし花壇 忘却は罪ですか

一九九五・一〇

弱さも神の豊かさカルピスすする

一九九七・〇九

 彼にとっての問題は別のところにあった。「有季定型という枷のない自由律俳句は、思想・宗教的傾向の強い自分の心情を読み込む器として、大変魅力的に思えた。(中略)だが実作に熱心に取り組むにつれて、自由律がそう生易しいものではないということが徐々にわかってきた。文学的によい作品を産もうとすることと、宗教的心情を表現することとの乖離──『宗教と文学』あるいは『詩と信仰』という古くて新しい問題に突き当たったのである」(「青年句会報」第69号)。つまり、「神を呼ぶ」キリスト教的心情と、いわば「神を疎ましく」思う文学的リアリズムとの葛藤の問題(同前掲文)に悩み続けたのである。

 文学的によい作品を産もうとする作家として当然の衝動は、「句体が一様でなく多種多様、全くバラエティに富んでいる」(比田井白雲子「言葉の伝導者」)と評されるように、言葉の実験者とも呼べる多彩な作品を産み出した。俳句という短い詩形で言葉を自由自在に操れるようになるためには、作家人生において早い遅いの違いはあっても、十年位は思いっきり色々な試みを実験的に敢行する時期を避けて通れないと私は考えている。彼の場合は、その試行錯誤の時期が一番最初に来たと思われる。幸いにと言うべきか、有季定型よりも試行幅の大きい自由律で、しかも青春から中年に差し掛かる不安定な感情生活と相俟って、思う存分に言語実験は敢行されたとみるべきだろう。俳句作品における<私性>の問題について、「作品中心主義であるべきところが、作者中心主義に陥り、いつのまにか作品の主人公=作者自身と無意識に思い込んでしまう過ち」(「青年句会報」第61号)と述べる作者の作品を、そのまま実生活と直結させて論じることはできない。

  荒れ野にて母と女が交錯す

一九九二・〇四

  始祖鳥飛ぶ交差点イエス振り向く

一九九二・〇九

アースに触れた夕日 もう泣かない

一九九三・〇三

椅子 百年の倦怠を運ぶ

一九九四・一一

入日ドラゴンの舌に帆を立て

一九九七・〇二

 これだけ意欲的に言語実験を敢行した作家が、自由律から有季定型や前衛俳句などの他のスタイルへと興味の矛先を移してゆくのは時間の問題であり、当然のことだったと私は思う。「その後『豈』へ入会したのも、自由律・定型・有季・無季にかかわりなく、現代俳句を模索してみたいと思ったからです」(同前掲文)。残念ながらこういう姿勢は、狭量なセクト主義が定着している現今の俳句界では、なかなか受け入れられない。前に記したように所属誌を変えていったのも、新しい探求の場を求める実験者としての姿勢からみれば必然的なことだったかもしれない。

飲みかけのグラスに映る顔がない

一九九七・〇七

ピンポンのボールの速さ去年今年

一九九九・〇〇

闇に曳くレールに傾ぐ彼岸花

二〇〇〇・〇五

陽炎に揺れる無音の花電車

二〇〇一・一一

辺境の月こそ光れ世の闇へ

二〇〇二・一二

 この間の事情を彼自身は、「つまり俳句形式について、私の場合、定型回帰ではない。定型に重点が移った。いや、形式に迷うことが重荷になったのだ。いや、これも違う。形式がどうでもよくなったようだ。キリストを詠いたい、目的がそれだけに絞られた」(「豈」35号)と書く。この文章を読んで、いよいよ求道という方向性を明確に打ち出すつもりなのだな、と私は思った。

 

四、余白への旅

 では、平田栄一の俳句は、これからどのようなところへ向かおうとしているのだろうか。彼が師と仰ぐ井上洋治神父は、キリスト教の日本文化内開花(インカルチュレーション)を説いてつとに知られている。「イエスは地中海沿岸のパレスチナに育った人で、ヨーロッパの人たちとは、言語系統も種族もまったく違います。そのイエスの教えをヨーロッパ人は自分たちの言葉と生活感情で受けとめました。(中略)そこにキリスト教をぬきにしてはとうてい考えられないヨーロッパの歴史がうまれてきたのでしょう。ヨーロッパの人たちができたものなら、それは私たち日本人にもできるはずだと私は思います。」(井上洋治『日本とイエスの顔』北洋社)。

遠く近く鳴くこおろぎ悠久を這う

一九九九・一〇

神を待つ木が季を待つように

二〇〇〇・〇一

虹かかる生死を渡るイエスかな

二〇〇〇・一〇

清貧という遊行流行る世紀末

二〇〇一・一一

会うてさて話す事なし聖母祭

二〇〇二・一一

 二〇〇一年十一月、平田栄一は「青年句会報」を「余白の風」と改称し、自らも「余白」のペンネームを使い始めている。この「余白」とは何を意味するのだろう。井上洋治神父は、その著『余白の旅──思索のあと』(日本基督教団出版局)の「余白」という章の中で、日本人としてなぜ龍安寺の石庭に魅かれるのかを考察して、ヨーロッパの聖堂の壁画には余白がなく重苦しく感じたことに思い至る。龍安寺の石庭の魅力は余白によるのであり、木も花も何一つ植えられていない白砂の部分こそが余白の役目を果たしていて、その周囲のすべて──十五個の石、くすんだ油土塀、その塀の外の木々の緑──を生かしている。この「余白」の章は、井上洋治神父の思想としても圧巻と思える部分なので、ほんの一部の概略しか紹介できないのが残念だが、氏はこの「余白」についての考察を、さらに自然そのものやキリスト教へと広げてゆく。

 生きとし生けるものは、「余白」ともいえるものの力によって生かされ、それぞれその場を与えられている。生命と役割を力一杯生きぬくことで、全体を表出していく。この「余白」の力こそ、芭蕉や一遍は「風」という言葉で呼んだ。人生が、自分自身を表出するものではなく、生きとし生けるものの「余白」をふくむ全体を表出するものであれば、自分の生命と役割を完全に生きぬくことは、逆説的ではあっても、「己れを無にして余白の風をして己れの人生を吹きぬけしめることとなるはずである」(同前掲著)。

珈琲甘く入れ咲き初めし紫陽花の白さ

二〇〇一・〇九

我が内に我が牧者あり秋の暮

二〇〇三・〇一

実のなる木ならぬ木もよし冬に入る

二〇〇三・〇三

逃げ水を追うて迷いし羊かな

二〇〇三・〇四

長き夜の夢に押されて発つヨセフ

二〇〇三・〇七

 もうこれ以上、何の説明も要しないだろう。平田栄一俳句の余白への旅路は、まだ始まったばかりである。いや、長い紆余曲折を経てやっと本道へ出たと言うべきなのだろうか。

(二〇〇三年七月記 「豈」同人)

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