余白の風 第80号

†求道俳句

2002/12/25 発行:平田栄一

 

島 一木(137) 題名:黙想集 その2 神の愛と人の子 投稿日 : 2002年12月16日<月>12時08分

 

みてごらん空ゆく鳥を野の百合を

ソロモンの栄華にまさる白百合よ

数えられている髪の毛の数までも

行きなさい葡萄畑で働きなさい

無花果を下りてきなさいザアカイよ

主よ子犬もパン屑をいただきます

狐には穴が鳥には巣があるよ

枕するところさえない人の子は

茨咲くなんと狭くて細い道

まず罪のない者から石を投げよ
Res:余白(286) 投稿日 : 2002年12月18日<水>08時54分
精力的に様々な連作を試みられている様子。あっぱれです。

比田井白雲子(974) 投稿日 : 2002年12月17日<火>08時56分

あおぞらみているとほんとのひとりになれる

なぜ悩むと空がある

寒星にいつか届きたい

Res:余白(219) 投稿日 : 2002年12月18日<水>08時53分
いつも素直なストレートな句を楽しみにしています。
比田井氏がとても「堅い?」お仕事の方とはどなたも気が付きますまい。

島 一木(496) 題名:主の平和 その7 投稿日 : 2002年12月18日<水>08時24分

 

主は葡萄の木わたしたちはその枝

釣りあげた魚の口が銀貨吐く

後の者が先に 先の者が後に

多くゆるされた者は多く愛する

隅の親石 家造りらの捨てた石

天地は過ぎるみ言葉は過ぎ去らない

清めよ まず杯の内側を

報われる 冷たい水の一杯でも

無花果が採れるだろうか薊から

主よ鳩のすなおさ蛇のかしこさを
Res:余白(133) 投稿日 : 2002年12月18日<水>08時52分
この連作のねらいを、今度ご自身に解説していただけたらいいですねー。

奈菜(821) 題名:夕陽 投稿日 : 2002年12月9日<月>00時37分

直視できるくらいになると
直線でむすばれる
紫外線があたって細胞が吸収反応するように
陽は私の細胞にあたる


久しぶりにすばらしい夕陽をみました☆
Res:
余白(646) 投稿日 : 2002年12月9日<月>16時57分
直感的に、
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です・・・・」
という、宮沢賢治の『春と修羅』の序を思い出しました。

Res:奈菜(294) 題名:鳥肌 投稿日 : 2002年12月10日<火>11時44分
余白さん、ありがとうございます。
この詩を思っていたとき、
賢治の交流電燈の・・というフレーズの
気持ちがよくわかるなぁと思っていたので、
余白さんの書き込みに、鳥肌の立つ思いがしました。
宮沢賢治は大好きで、あこがれです。

余白(626) 題名:「紫」2002年12月号 投稿日 : 2002年11月29日<金>20時50分

九・一の不安と希望神無月

辺境の月こそ光れ世の闇へ

狡猾なアガペに秋蝶身をゆだね

信仰とはたとえばレット・イット・ビー

雷鳴聞く湯船に復活疑わず

花めでる心は捨てず捨聖

生くるにも死にも時あり穴まどい

島 一木(445) 題名:聖家族(四十六字歌) 投稿日 : 2002年11月27日<水>11時00分

幼な児を抱きてマリアは笑みうかべヨセフの夢に決意しぬ 諸人ぞ眠れる牧地安らわん

おさなこをたきてまりあはえみうかへよせふのゆめにけついしぬ もろひとそねむれるほくちやすらわん


 新仮名四十六字全部を一回使用。気分転換のパズルのように作ってきた一年がかりの労作です。ちなみに「いろは歌」は旧仮名四十七字(ん抜き)で、その替え歌や旧仮名四十八字歌(ん含む)となると、一段と作るのが難しくなります。

Res:余白(484) 投稿日 : 2002年11月27日<水>11時01分
いやー、お見事!

比田井 白雲子(645) 投稿日 : 2002年11月25日<月>20時44分

私にしまってあった 大空のいろ

横浜あんぱん物語 エエ アンがおいしくて

帽子に投げ込んだ 秋

<句評>
前号「なんとなく無宗教・・・・」:信仰の句は、どうしても作者の思い入れが強くなりがちですので、このように、なんとなくぼかした方が、かえって感銘を与え、普遍性を帯びてくるように思います。

ゆうき(582) 題名:初めて投稿します。 投稿日 : 2002年11月25日<月>10時09分

「我無能」 呟く背中に 我を見る キリストなくして 何ができよう

初めて投稿します。すみません、素人歌人です。
未信者である主人の落胆を見るだに感じる 生ある者の立場の違い。
いろいろな思いが交錯しました。
・・・すなおに読みました。

Res:余白(440) 投稿日 : 2002年11月25日<月>12時37分
ご主人の落胆した背中にご自身を見た、ということ。
その「共感」の姿勢に、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」キリストの悲愛の心を読み取りました。
キリストがそこに立っている、ということに気づくには、長い時間がかかるのかもしれません。
ありがとうございます。

島 一木(532) 題名:主の平和 その6 投稿日 : 2002年11月20日<水>19時35分

何を見に行ったのか風にそよぐ葦か

天からか人からかヨハネの洗礼は

無花果の木の下にいるあなたを見た

一人が種まき一人が刈りとる

風強し湖上を歩くイエズスに

主の足もと マリアは座り聞いている

マルタよマルタ 必要なのは一つだよ

天からのパンは生命を与える

たえず祈れ うるさいやもめは守られる

信仰があなたを救った 行きなさい

ふづき(644) 投稿日 : 2002年11月16日<土>18時24分

パンの香をさせて秋の田通り過ぐ


秋蝶や小さき原つぱ汝が天地


来る雀迎へてたわむ芒かな

神学というか神様について、また俳句について、何も知らないなあと思い始めるともう句が作れない。う〜ん、スランプかもしれません。
信仰を俳句に詠み込む苦労があるように、未信者としての神様への思いを詠み込む苦労もありそうです。でもともかくもまた三句(^^)

Res:余白(697) 投稿日 : 2002年11月16日<土>19時31分
「神学」というのは、そもそもが矛盾した概念でもあるんですよね。
神という絶対者を、相対者である人間が、あれこれ考察する、ということですから・・・・。
そこに直観というか、神秘主義的なものでのりこえよう、という苦肉の策があるのかもしれません。
とまれ、無理に神学的なことを詠み込もうとしないで、自然体で、句作したいと思います。

島 一木(905) 題名:主の平和 その5 投稿日 : 2002年11月11日<月>20時41分

あなたの目は体のともしびである

ついて来なさい 人をすなどる漁師にしよう

人からしてほしいことを人にしなさい

最も小さい者こそ最もえらい

金持ちの門前 ラザロは貧しく死ぬ

はかった秤ではかり返される

私は来た 地上に火を投げるために

十人ではなかったか 清くなったのは

神にはできる 人にはできないことが

何をしてほしいのか 主よ見えるように

<余白の風 第79号コメント>
 余白さん、拙作「主の平和 その4」へのコメントありがとうございます。さすが聖書をよく読んでおられるだけあって、殆ど生の聖句とよくおわかりになりましたね。実は、このシリーズは最初からいくつかの狙いと考えがあって作ってきたのですが、一般の人には段階を追ってわかって頂けるかもしれないし、最後までわかって頂けないかもしれませんねえ。
「道ばたにタンポポ見つけ一緒にとなえる南無アッバ   井上洋治神父
 十三夜虫もとなえる南無アッバ
 診察室ドアをくぐって南無アッバ」
 三句とも面白いです。もう上手下手の基準を超えてしまっています。定型的に書かれている分、人格が迫ってきて「南無アッバ」の言葉が強烈に印象づけられます。南無アッバ効果ですね!
「それぞれにこの脈の音星月夜   ふずき」
 チェックしてから猫目さんの感想を読んで、付け加えることがないと思いました。
「競う使徒イエスは暗き泉瞰る   猫目」
 復活までは一人の弟子からさえ全く理解されていなかったイエスの心情とは。
「触れるとあつい いのちのともしび   奈菜」
 いのちはともしびなんですよね。たしかに。
「わが重荷主の重荷とぞ秋の風   余白
 狭き門めざすが如く鳥渡る」
 よくできてる句と思います。こういう句をどんどん作ってほしいです。私としては。
「お恵みのあることをしなきゃ南無アッバ   ブライダル」
 あははっ。南無アッバ波及効果ですねぇ!面白いですよね南無アッバって。ぼくも作ってみようかなぁ。
「生き延びし蛾の寄って行くイエスの光   あこ」
 蛾の雰囲気とイエスの意外性。ふむふむ。
「病む姉にしわぶきひとつ 秋風荒らし   警備のおじ」
 「秋風荒らし」は微妙な感覚でいいです。

Res:余白(638) 投稿日 : 2002年11月16日<土>01時27分
ぜひこの連作の趣旨が成就することを祈っています。

猫目(557) 題名:鼻を失ったヨハネ 投稿日 : 2002年11月12日<火>10時29分

この句会に投句して以来、キリスト教俳句に関心が深まりました。だが、自分の句はなかなかできません。島さんみたいに、続々句が生まれるのはうらやましいですね。ただ、句はできませんが、キリスト教俳句を読むことには、熱が入ってきました。ところで、さいきん秋元不死男に、

  雪はふる鼻をヨハネは失へり

という句があることを発見しました。ですが、鼻を失ったヨハネというのが、どうも理解できません。聖書にそんな記事があるのでしょうか。どなたか、ご存じの方がおられれば、教えてください。

Res:余白(527) 投稿日 : 2002年11月16日<土>01時25分
う〜ん、この「ヨハネ」は調べてみないと、わかりませんね。

島 一木(539) 題名:教会のある風景 その7 十一月 投稿日 : 2002年11月14日<木>15時15分

主は来たる冬将軍として来たる

祈り疲れ共同墓地の小春かな

傘持たず来て十字架の初時雨

聖歌集ひらきて長き木の葉髪

主に数えられ聖堂の木の葉髪

貼りついてステンドグラスの落ち葉かな

聖堂に木の葉散り込む二三枚

教会の芝生を木の葉散り走る

綿虫や両手ひろげるイエス像

足もとに枯れ葉のつもるマリア像

Res:余白(429) 題名:黙想風 投稿日 : 2002年11月16日<土>01時23分
句日記的な連載、いつも楽しみにしています。
かく言う私も、最近は、聖書の一節ずつから発想して、句作しています。
自然、黙想的になれますよね。

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2002/12/15(日) 13:04:46

 

りべか:7年ぶりに帰る

 

今日家族が全員出かけ、家には私一人だった。
ちょっと昨晩から頭痛がひどくいつも行っている教会には
行けないことを告げる電話をして家で大人しくしていることにしていた。
しかし、どういうわけか「そうだ。今日思い切って母教会に行ってみよう。」
と何故か思い立ち、いそいそと支度をして出かけた。
礼拝には遅れてしまった。新任牧師の説教の最中だった。
7年ぶりに兄弟姉妹の集う礼拝堂に入り、特に違和感なく長いすにすわる。
7年ぶりに見る顔ぶれはなつかしくもあり、中には頭にくる人もありでちょっと
いや、かなりフクザツな心境ではあったが、7年前に比べてそれぞれが年をとり、小さくなったという印象を受けた。見たことのない顔ぶれもあり、新旧の入れ混じった母協会の変わった姿を見て新鮮な気持ちであった。
礼拝が終わり、私は「久しぶりにきた人。」として拍手で紹介された。
その後私に電話をしてくださった姉妹と抱き合い、お互い涙で再会した。
その姉妹とだんなさんに電話で話せなかった事情(新しい教会に行き始めたこと。)を話し、今後のどうするかかなり迷っているということも話した。
私の話を聞いた2人は「りべかさん自分を責めることなくゆっくり考えていけばいいよ。」と言って下さり、ほっとする。
昔、色々あった人たちとは一応話はしたものの、やっぱり目に見えない確執がまだあるなと感じずにはいられなかったが、その人たちのために教会に行っているわけではない。神様を礼拝に行っているのだから・・・。

家に帰ってから、「こんな風に良い方向に変わるのならどこにも行かずに時がくるまで待てばよかったのかもしれない。私は「とにかく落ち着ける場所で礼拝を守りたい。」一心から新しい教会に行き、そこの方たちにお世話になり、新しい関係が築けつつある。また、私も変わろうと思っていた矢先こんなことになろうとは・・・」と悔いている。

とにかく良い方向に進めてくれた神さまに感謝しよう。
神さまやっと7年間の葛藤から私はこの日解放されました。
本当の意味での解決は今から始まるのかもしれませんが、あなたは良い方向に私を歩ませてくださいました。これからどうなるか分かりませんが、どうか良い方向に進ませてください。
主の御名によって祈ります。アーメン

 

2002/12/14(土) 22:59:24

 

SPAT: 望年会

 

世の中の平和と正義が保たれなくなってくると
それに比例して忙しい そんな職場で働いています。
残念な事にここ二年ほど
戦後の混乱期ののち 安定して以来 もっとも繁盛しています。
年末に向けて ますます大繁盛しています。
それでも 笑って宴会できるうちはまだまだ大丈夫。
カミサマ 来年もこの小さな平和の砦にご加護を。
願わくは またヒマな砦になりますように。

 

2002/12/13(金) 20:05:30

 

如月: 病棟にて


夜勤時間帯、未明に一人の老人患者さんが
息を引き取られた。

介護職員として最後の介助は
遺体となったその方の瞼を閉じて
あげることであった。

終末期医療の現場において
医療行為のすべて終えられたとき残された職員のお仕事は
患者さんが”その人らしく”人生の終焉を迎えさせるための
思い出作りのお手伝いをすること。

ご遺族からは職員一同あてに
大変懇ろな感謝のご挨拶をいただいた。

 

2002/12/09(月) 21:15:42

 

如月: 来年に向けて

 

雪中、麹町教会に行きY神父と面談。
当教会への転会に向けて仮手続きを行った。

17年間の信仰生活の歩みの中で新たに
カトリックに帰依するまでの心境と過程については、
伏線がたくさんあるためここでは到底書き尽くす
ことはできない。

ともあれ本日の面談にて、母教会より
「洗礼証明書」を受領、麹町側に提出することにより
転会手続きが成立する旨確認した。

(すでに、母教会側には逐次連絡・了解を得た)

教派を超えての転会(すなわち改宗式)実現は
最短で来春の復活祭になる模様。

今後は、Y神父の講座に出席し具体的な準備を
進めることになる。

 

2002/12/08(日) 23:35:28

 

レイ:ゆるし

 

ある少年が父親のふとした暴力で半身不随になってしまいました。病院へ行っても治療らしい治療を受けることの出来ない国で、ただ寝ているしかありません。帰っても掘っ立て小屋がひしめくような住まいには車イスも使えません。家では他に子供が何人もいるので、この少年にお金をかける余裕もなく、食べるだけで精一杯の両親は疲れはて、次第に少年を放置するようになりました。少年は食事も満足に与えられず、排泄も垂れ流し状態で、骨が見えるほど床ずれが酷くなりました。もう長くはないと父親がイスラム教の死を迎える祈りを捧げています。カトリック信徒のAさんが毎日訪問し、少年の「生きたい」という願いを聞いて、両親を説得し病院へ運び込みました。
そこではヒンズー教の医師が全力を尽くしてくれました。少年は今まで一度も父親を責めたり恨み言を言ったことはありませんが、あまりにもひどい状態にAさんは正直なところここで命を取り留めても、またあの貧困で劣悪な家庭環境の中で不自由に生きていかなければならないのなら、このまま静かに・・その方が幸せなのではないかと思ったそうです。しかし、もう少し任せてくれと言った医師に応えるように少年は回復していきました。そして第一声がなんと「お父さんに会いたい」だったのです。
「まずしい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」
Aさんはその少年の姿にイエス様の姿を重ねました。裏切られ、剥ぎ取られ
鞭打たれ、全て受け入れ従順に従われたイエス様。自分ではどうすることもできない少年は、ただただ父親やAさん、治療も不可なあちこちの病院、周りの全てに自分を任せていたのです。「まずしい」ヘブル語でアナウイーム
は心の砕けた、柔和な、霊的に飢え渇いた、神に向かってのみ生きようとする意味があるそうです。人をゆるすということは自分にはこれ以上なにも失うものはないという貧しくなった者だけができることではないか。そしてAさんはこのイスラム教の少年、ヒンズー教の医師、キリスト教徒のスタッフ達の関りの中に神の国が現されたと感謝したそうです。
このお話は今日、教会でのAさんのお証しをもとに書き込んでみました。

 

2002/12/07(土) 23:14:02

 

D&D's daughter:マラソンコンサート

 

友人が予約をしてくれていたイタリアから来日したアーティストの前半はチェンバロで後半はパイプオルガンのコンサートを聴きに行ってきました。
間に2時間の休憩がありますが6時間です。素晴らしい演奏をしっかり堪能いたしました。
またどちらの楽器も目を見張る美しいものだったのにも感動。
武蔵野市民文化会館で何とチケット代は1500円。外は冷たい雨だし懐も寒いのに豊かに恵まれた一日に感謝。

 

2002/12/07(土) 21:08:43

 

小さき花 市民クリスマス

 

市外局番が同じ全教会合同のクリスマス礼拝に参加しました.
プロテスタント教会になじみが深い私にとって,年3回の合同礼拝は楽しみな集いです.
今回はカトリック教会で,若い女性牧師さんが説教や祝福など司式を行いました.
前半はキャンドルサービス.讃美歌と奏楽中心の礼拝でした.幼児連れの家族も多く,暖かな雰囲気の礼拝で,恵まれました.
シスター渡辺和子さんが隣に座っていて,珍しそうにシスターを見る小さな子と握手してました.プロテスタントのお子さんが多かったので.
「主にあって我らは一つ」ですね.
クリスマスイブは家族で過ごすので,夜のミサには行ったことありません.
昼だけです.一足お先のクリスマスを御祝いしました.

 

2002/12/06(金) 09:59:50

 

余白:お前の中のイエス

 

また、風邪を引いてしまって、、、「やっと直ったらまたひいてしまい、、、それだけでも人間、なんだか自分が情けなくなるものです、、、」とは井上師の言葉。然り。
熱でぐったりすると、何も欲しくなくなる。創作意欲もPCに向かう元気もない。

そんななか、
いつも布団を並べて寝ている三男が、なにかとぼくの面倒を見てくれて、、、「お父さんの近くにいるとうつるよ」というにもかかわらず、せっせと水枕を替えてくれたり、身体をもんでくれたり、、、、ああ、こういうときは、人の親切だけが身に沁み、慰めになるんだー、と改めて実感した。

その三男も、とうとう今朝から39度の熱を出した。
うなっている。。。。かわいそうに。
昨晩は食事しながら、「お父さん、イエス様って本当にいたの?」なんて、今更のような質問をしてきてぼくは困って、イエスの史実性・・・なんてもうろうとした頭で語ろうとしたが、、、ぷぷ。

今は簡単にお前に答えてあげられるよ。「ほら、ちゃんとお前の中にイエス様がしっかり生きているじゃないか!」ってね。

さ、はやく年休を出して、すぐお医者に連れていってあげるからね、待ってなよ。

 

2002/12/05(木) 11:19:33

 

如月: 昨夜の勤務にて

 

夜勤明け帰宅。
昨晩は新患さんの頻回なナースコールにじっくりとお付き合い。

(老人療養病棟にて)

 ・如月―――:「どうなさいましたか?」

 ・新患―――:「あのぅ、何時になると”朝”なんですか?」

   どう応えたらよいものか・・・(ーー;
   (すごく悩んだ・・・)    

 ・如月―――:「・・・寝ましょう・・・・(^^;」

今度は、もっと気の利いた冴えた応答をしたい(汗;)

 

2002/12/04(水) 18:38:00

 

りべか:中途半端な私

 

昨日で期間限定のアルバイトが終了した。5ヶ月間あっという間に過ぎ、慣れた頃に終わりとなったとでなんとなく淋しくもあり、気抜けしたような気分である。
また新しい行き先を探さなくてはならない。そこで今日は朝からハローワークに行く。午後とは打って変わって新しい求人もいくつかアップされている。良さそうなところがあったので応募することにする。そのすぐ後、登録してあった派遣会社から連絡がある。内容を聞いてみるとそんなに悪くない条件である。しかしハローワークを通じ応募しようとしていた矢先だったので一応返事を保留にする。どちらにしろ、新しいところで1から人間関係を築くことを思うとまず「うまくやっていけるだろうか?大丈夫だろうか?」と不安になってしまう。どうしてもうまくいかなかった場合のことを考え過ぎてしまう。マイナス思考はよくないが・・・。

就職問題の前に教会問題も浮上し、頭を悩ませている。
7年前にわけあって離れた母教会戻るか、今礼拝を守らせてもらっている教会に留まるかの決断を迫られているようで、私自身かなり追い詰められている。
発端は母教会に戻った人からの電話であった。2度電話をもらいそのたびに説得されたがやはりすぐには結論をだせない。今別の教会に行っているという事は伝えなかったが。私を思い説得してくださるのは本当にありがたい。でも、「すぐに結論を出さなくては後では遅い。」と言葉の端端にどうしても感じてしまう。
その気持ちは分かるけど、次第に追い詰められていっている気がする。
そんなに簡単に結論が出せるものならもう解決してるだろう。
私だって中途半端な立場を好んでいるわけじゃない。どこかに根をおろしたい。
でも、ひょっとしたら中途半端な状況に甘んじてきたのかもしれない・・・。
一番必要なのはどの方向に進むとしても相手を「ゆるすこと」なんだってわかっている。そうしなきゃ前に進めないっていうのも分かっている。分かっているけどそれがなかなかできない・・・でもできなきゃ前にすすめない。

こんな状況に陥ると途端に信仰がとても重いものになり、キリスト教、教会に行くことは私にふさわしくないことなのかもしれない。

かなりDEEPな内容ですみません。

 


 

 

 

後記:今年はもう2回も大きな風邪をひいてしまい、その余波がずっと尾を引いています。皆様お体には気を付けてください。

さて、今号は、拙ホームページの仲間=イマイキ会員の最近の「共同日記」も載せました。なかなかの名文もあり、ほろっと来るものあり、で読者の参考になるかと思います。エッセイとしてお読み下さい。

わたくしめの方は、勤務校が2学期制になったけっか、先日中間考査を終えて、学期末処理がありませんので、はじめて比較的余裕のある年末になっております。もっともその分が学年末にどっとくるのですが。。。。

現在、手がけている俳句関係と「風」の原稿を少しずつ書いているところです。

皆様、よいクリスマス、よいお正月を。(余白)

「余白の風」作品募集*俳句・短歌・一行詩等作品数制限なし。エッセイ・評論も歓迎。(但し、採否は主宰に一任してください。)*今号選評もお送りください。*切手をはった返信用封筒を同封してください。*締め切り  随時受け付けます。*送付先   平田栄一 HP「今を生きることば http://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5 」からもリンクして、「余白の風句会」に直接投稿できます。管理者:hirata5@d6.dion.ne.jp

 

 

余白の風 第79号

†求道俳句

2002/11/10 発行:平田栄一

 

射祷とは父祖に耶蘇名のありしこと  

尾田 明子

「吟遊」第十五号(二〇〇二年七月)より

「射祷」とは、矢を射るように短く祈ることです。キリスト教から見れば、マントラや浄土信仰の「ナムアミダブツ」も射祷の一種と受け取ることもできます。カトリックの伝統によれば、「射祷」には「免償」つまり償いを免除する功徳がある、と考えられています。

アウシュヴィッツの収容所で、他人の身代わりになって死んでいったコルベ神父は、射祷の名人でした。『聖者コルベ霊的メモ1912~1940』には次のような記述が散見されます。

●「我が母、マリアよ、我を救いたまえ!」(この祈りをとなえるなら決して罪に陥らないであろう。)[1912]

●とりわけ「マリア」の射祷をよく唱えたかを考えよ。[14]

●困難に出会う時、たびたび「わが神よ、わがすべてよ」と繰り返せ。[16]

●「イエズス、マリア、ヨゼフ」(七年間の免償)[20]

●マリア、マリア、マリア:これがお前の命である。活動の始め、困難の最中(あらゆる活動の)終わりに。[31]

 掲句にある「耶蘇名」とは、現代では「霊名」「洗礼名」「クリスチャンネーム」等と呼ばれ、信仰を全うした聖人にあやかってキリスト信者に付けられる名前です。コルベ神父の例をみてもわかるように、「マリア」や「ヨセフ」も「耶蘇名」としてそのまま「射祷」の全部または一部になることがわかります。

ところがこの句のミソは、その「耶蘇名」を自分が「射祷」として祈るのではないというところにあります。「射祷とは父祖に耶蘇名のありしこと」つまり、自分の先祖に耶蘇名があったという事実(史実)が即「射祷」なのだ、というのです。これはどう解釈したらよいのでしょう。

「耶蘇名のありし」「父祖」は当然キリスト信仰を持っていたはずです。その父祖の信仰の事実が「射祷」になってこの句の作者のために祈り、功徳となり、救いへと導いてくれるのだ、そうした信頼を詠っているのではないでしょうか。

ある人が他者のために祈るということはあっても、本人の信不信に関係なく他者の信仰によって本人が救われる、という発想は、individualな関係を重視する西欧(とくにプロテスタント)神学では、けっして出てくる発想ではありません。むしろ、「信不信をえらばず」念仏によって往生できると説いた一遍の思想に近いといえます。

しかし福音書をよく読めば、たとえば『マルコによる福音書』二章には、「四人の男が中風の人を運んで来た」とき、「イエスはその人たちの信仰を見て、(信仰を表明していない)中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と」宣言したという記事もあるのです。

さらに掲句では、作者を救う信仰を持った他者が「父祖」つまりすでに死んだ人なのです。このあたりの発想も、東洋的・日本的な感性として興味深いものです。

翻って、句作を求道の一つとしてとらえる立場からいえば、優れた俳句はすべて、練られた「射祷」として受け取ることができるのではないか、とも思うのです。(余白)

 

井上洋治神父(039) 題名:書き込み代行:余白 投稿日 : 2002年10月24日<木>20時30分

秋らしくなりました。
「余白の風」78号有り難うございました。
趣のある、いい句がのっていますね。
イエスの福音の文化内開花のうえにも、「余白の風」がよい働きをしておられることに感心し、また同時にご発展を祈ります。

小生、俳句なるものは、実に芭蕉にはじまって芭蕉に終わるものと思っていたので、全くつくったことも、ならおうと思ったこともなかったのですが、「南無アッバ」の世界に漂流してきたら、何となく、それらしきもので、南無アッバに生きることを表してみたくもなりました。
で、定型ではありませんし、句にもなっていませんが、二、三書いてみますので、選んでみてください。
「余白の風」にのせる価値がなければ、どうぞ遠慮なく、反古にして下さい。
(以上私信)


道ばたにタンポポ見つけ一緒にとなえる南無アッバ


十三夜虫もとなえる南無アッバ


診察室ドアをくぐって南無アッバ

 

 

Res:D&D's daughter(253) 題名:ここに返信しても良いのかしら? 投稿日 : 2002年10月24日<木>21時57分
全ての生ける物が南無アッバを唱えている。嬉しいです。感謝します。

Res:余白(090) 題名:ええ、みなさん、感想をどうぞ! 投稿日 : 2002年10月24日<木>22時11分
井上先生、ほんとうにありがとうございます。
先生には、おそらく「余白の風」(旧青年句会報)第1号からお送りしてきたと思いますが、今回初めてご投句くださいましたね。念願しておりました。
色紙などでは、あちこちに独特のお言葉を書いてくださっているのに、もったいない、とずっと思っていました。
私が洗礼・結婚のときいただいた、今ここに掲げてある色紙


余白の風 神の悲愛に 露草の如くに 遊ばん


は、20数年前のまま(ちょっと黄ばんできましたが)、ちゃんと額に入れて、狭い我が家の特等席に飾ってあります、ぷぷ。
今後とも、お気軽に投句ください。

Res:ふづき(320) 投稿日 : 2002年10月26日<土>01時12分
>道ばたにタンポポ見つけ一緒にとなえる南無アッバ
私も、井上神父様とタンポポに、小さく、声をあわせてみます。
神父様の句を読ませていただけて、言葉は見つからないけど、感謝です。

Res:警備のおじ(374) 題名:南無アッバ 投稿日 : 2002年10月28日<月>00時26分
道ばたにタンポポ見つけ一緒にとなえる南無アッバ
井上神父の上の句を拝見して、先日仕事先で見た一輪の蒲公英を思い出し、先の小生の一句となりました。蒲公英のあざやかさと井上神父のやさしさに感謝です。
Res:
小さき花(243) 投稿日 : 2002年10月30日<水>07時24分
ありがとうございます。
生きとし生けるものの声を感じながら。
日常生活の中で。
折に触れて,これらの句を唱えています。

 

奈菜(108) 投稿日 : 2002年11月4日<月>22時38分

 

触れるとあつい いのちのともしび


体調が悪いと、自分の命に触れたようで
「あついなぁ」と思いました。

Res:余白(823) 投稿日 : 2002年11月5日<火>09時57分
微熱ある身体は、うっとうしく不快なものですね。しかしそれを、「いのちのともしび」と受け取る、それは祈りの境地です。八木重吉の詩を彷彿とさせるようです。

 

ふづき(293) 投稿日 : 2002年11月2日<土>13時28分

 

目離した一瞬飛蝗消えにけり


恵まれて真中にをりぬ秋の昼


夕照に霧暫らくは明るめり

 

Res:余白(542) 投稿日 : 2002年11月2日<土>14時22分
>夕照に霧暫らくは明るめり <
夕照と霧の微妙なタイムラグを、よく繊細に観察していますね。
消えて無くなるべき霧が、惜しむように夕陽を抱いている、、、、印象派の絵を思わせます。

 

ふづき(658) 投稿日 : 2002年10月26日<土>01時00分

 

御堂洩れ来しオルガンや黄こすもす


夕紅葉一葉はらりと落ちただけ


それぞれにこの脈の音星月夜


Res:余白(793) 投稿日 : 2002年10月29日<火>09時03分
>夕紅葉一葉はらりと落ちただけ<
裏を見せ表を見せて散る紅葉
良寛の好きだった句を思い出しました。井上師の著作にもよく引用されています。

Res:猫目(391) 題名:感想 投稿日 : 2002年11月1日<金>14時59分
それぞれにこの脈の音星月夜
 「この脈の音」が、すばらしい。星をみながら感じる宇宙の脈動ですよね。
 デリケートな感覚に、感銘しました。

Res:ふづき(239) 題名:ありがとうございます 投稿日 : 2002年11月2日<土>13時10分
>余白さん
良寛のその句を連想してくださって、とても嬉しいです。
寄せ来るものごとを素直に受けとめ、風に身をおまかせし、自分の表も裏もそのまま見せていけるようになれたらと思うのですが・・・実際は・・・。
秋の葉っぱ関係では、井上神父様の詩の中の「一枚の枯葉が  そっと大地にかえる」という一節も好きです。
秋は確かに思うことの多い季節ですね。俳句を始めて、改めて気づきました。
>猫目さん
思いをわかちあってくださってありがとうございます。
星を見上げていると、反転して自分の中にも意識が向いてくるし、
星の空間と、自分、近くにいる人、遠くにいる人(皆さんも(^^))の中に、
同じ脈打つものを感じられるような気がしてきます。
大好きな時間です。

 

余白(303) 題名:「紫」2002年11月号 山紫集 投稿日 : 2002年10月30日<水>20時45分

 

職業的笑い麗し死出の旅


暑さを言いドラマツルギー始まりぬ


算数を叱られてなお夏の雲


わが重荷主の重荷とぞ秋の風


祭壇の隙間涼しき嗤いかな


会うてさて話す事なし聖母祭


出さぬまま褪せしハガキや酷暑病む


Res:猫目(018) 題名:感想 投稿日 : 2002年11月1日<金>14時53分
余白さんの「山紫集」は、とても面白いです。感想をすこし。
○職業的笑い麗し死出の旅
今回のなかでは一番面白かった句であるが、いまいち理解できなかった。喜劇役者は、死んでも喜劇役者を貫く、ということか。「麗し」に、俳諧味がある。
○暑さを言いドラマツルギー始まりぬ
「ドラマツルギー」(劇作術)などという言葉を用いたことがすごい。普通ならば、「ドラマ」ぐらいでおさめてしまうであろう。たしかに「ドラマツルギー」のほうが、暑苦しい。
○算数を叱られてなお夏の雲
西東三鬼の本歌取りか。この句の方が、気持ちが癒される。
○わが重荷主の重荷とぞ秋の風
いわゆるキリスト教俳句の典型。クリスチャンには分かるが、他の人々にはどうか、難しいところ。
○祭壇の隙間涼しき嗤いかな
この句もきわめて面白い。「嗤い」が、意味深長。多少、あざ笑う感覚がある。世間をあざ笑うかのような、牧師(神父)さんの説教か。
妄言多謝。

Res:余白(678) 投稿日 : 2002年11月1日<金>15時21分
猫目さん、まことに的を射た句評、ありがとうございます。感謝。

 

神山 姫余(588) 投稿日 : 2002年10月25日<金>20時33分

 

月恋しラクダに濡れる睫あり

 

Res:余白(895) 投稿日 : 2002年10月29日<火>09時04分
ファンタジックで、また、繊細な感性ですね。

Res:猫目(690) 題名:感想 投稿日 : 2002年11月1日<金>15時04分
月恋しラクダに濡れる睫あり
 「ラクダの濡れる睫」が、絵画的で印象深い。繊細な感覚に惹かれる。ただ、普通の結社では、「月恋し」が、甘いと言われるでしょう。

 

警備のおじ(698) 題名:晩秋に初秋を詠む 投稿日 : 2002年10月28日<月>00時14分

ご無沙汰しております、警備のおじでございます。
今宵久々に与えらた数句を・・・。


病む姉にしわぶきひとつ 秋風荒らし


聖日に 白手を指せる 馬祭り(あきまつり)


夏越えの 蒲公英一輪 天高し(たんぽぽひとつ そらたかし)


薮中に 穂太く ススキ 誇示したる


 『馬祭り』とは本日こちらの地方で催された『お供馬の走りこみ』という行事(菊間加茂神社例大祭)にかけたものです。白手とは警備員の手袋・・・。


 
ふづき(289) 投稿日 : 2002年10月19日<土>18時04分

 

風過ぎてささやきあへり夕芒


秋の歌しづかに空に鳴りわたる


いくつかの恐さに触れず秋の街

 

Res:余白(663) 投稿日 : 2002年10月19日<土>19時01分
三句目「いくつか」が意味深長ですね。

Res:ふづき(044) 投稿日 : 2002年10月19日<土>21時20分
はい。私の「恐さ」はいっぱいあるんです〜(^^;)
信仰に殆ど関係ない句を投句させていただいていいものだろうかと迷ってもいるのですが、今は、ちょっとずつでも、思うことや自然を詠んでいこうかなと思っています。そうしたことが祈りへ導かれることにもつながればと思いつつ・・・(思っているだけ;)

Res:余白(579) 題名:求道俳句とは 投稿日 : 2002年10月20日<日>06時22分
>信仰と殆ど関係ない句<というのは、ありえない、という言い方もできると思うのです。人間が「思うことや自然」を離れては、神も信仰もないのではないか、、、とすれば、私たちの日常そのものを、求道的な精神で詠うこと、それでいいのだと思っています。けだし、「求道」とは、悟りの境地ではありません。その途上の苦しみこそ、共感を呼ぶ。

Res:ふづき(140) 投稿日 : 2002年10月26日<土>01時09分
ありがとうございます。余白さんの書いてくださったことは、安心して思いを詠む上で
大きな支えとなります。
思うことや自然を、それらのどんなことも神に通じているのだという意識をもちながら、
これからも詠んでいきたいと思っています。
・・・初心者で、根気もないくせに、なんだか大風呂敷広げちゃってる〜!

 

島 一木(524) 題名:教会のある風景 その6 十月 投稿日 : 2002年10月22日<火>09時28分

 

ミサに行く金木犀のかおる道


花かおる金木犀に聖歌湧く

 

十字架の空より秋の風は吹く


秋思かなミサに来る人来ない人


守りたまえ秋の別れの聖少女


身にしむや主の貧しさとわが弱さ


秋の声荒野に叫ぶ声かとも


教会の隅の無花果実のなるか


無花果の好きな神父に貧しい実


ロザリオの月ロザリオが祈れない


<前月句評>
「夜霧のマント翻す自転車の群   D&D's daughter」
日本の風景ではないなと感じる。
「アモーレ!マンジャーレ!グラッパだカンターレ!   D&D's daughter」
面白い。叫び声だけで街の喧騒が伝わる。
「イエスの眼寅さんの声秋祭   猫目」
寅さんて、よく考えてみるとイエス的なんですよね。
「自転車に乗って虫になる   奈菜」
不思議な感覚。
「青き香の森の底なる彼岸花   ふづき」
「彼岸花の道の最後にふと光    〃 」
「秋の窓この雨粒に時のあり    〃 」
ほんとに俳句ずぶの素人なんですか?素質がいいですね!
「百合と薔薇、朝顔咲きて、パラダイス   ブライダル」
カトリックの洗礼を受けるということは、原罪とそれまでの自罪が許されて、霊的にアダムとイブが原罪を犯す前の楽園の状態に戻ることだと、気づきもせず知りもしない人が殆どです。もちろんそのためには十分な準備や勉強が必要だし、洗礼後も心の楽園の状態を保つためには罪を犯さない覚悟と努力が必要です。私は中年まで無神論や仏教、果ては新興宗教やオカルトまでさんざん遍歴をしてからやっとカトリックに辿りついたので、受洗後のあの驚くべき霊的な恵みの状態のすばらしさは一生忘れられないでしょう。本物は確かに違うのです。
「産声以前 たしかに溜息   余白」
この句はすごい! こういう状況を詠んだ句は初めて見ました。
「夏スレに 秋のレス書く 氷雨かな   如月」
一句の中に夏秋冬(氷雨)が入ってる面白さ。
追伸>あこさん、歳時記を読むのはもうやめちゃったのですか? 句を待ってますのに・・・・。

Res:余白(227) 投稿日 : 2002年10月22日<火>09時40分
島さん、最近、サクサク精力的に句作されていますね。こちらにも度々の投稿有難うございます。

Res:D&D's daughter(710) 題名:ありがとうございます♪ 投稿日 : 2002年10月23日<水>17時45分
コメントをいただいて恥ずかしいやら嬉しいやら。励みになります。
イタリアとオランダ、カトリックとプロテスタント、どちらも色濃く出る
民族とその文化の対比にいつも感銘を受けます。もっとそのあたりをうま
く表現できるようになりたいと思っております。

Res:ふづき(980) 投稿日 : 2002年10月26日<土>01時06分
過分なお言葉、ありがとうございます(^^)
放哉や山頭火に惹かれて自由律の句を自己流で作った時期はあったものの、
もう長い間、俳句に触れてみることもなかった私でした。
それが、彼岸花の花畑で突然句が生まれ、そのすぐ後にこの素晴らしいHPに出逢えて、
最近では俳句のネタ探しが日常の一部になっているというのが我ながら驚きです(^^)
俳句とはそもそも何なのか知りたくなり初心者向の本を斜め読みしたりもしたために、
却ってつまらない句になっているのもわかってるんですが、ともかくも今は、
自分の心や文化の深層を感じ取る上での一つの手がかりともなりそうな“俳句”を、
細々とでも作ったり読んだりしていけたらいいなと思っています。

 

ブライダル(668) 題名:南無アッバ 投稿日 : 2002年10月25日<金>09時11分

 

お恵みのあることをしなきゃ南無アッバ

投稿した瞬間に思いついただけですが。

 

 

ブライダル(562) 題名:十字架行進 投稿日 : 2002年10月25日<金>09時09分

 

天下炎ゆ 十字架行進 恵み溢つ
(てんが もゆ じゅうじかこうしん めぐみみつ)


今年の夏は暑かった、と振り返りながら。
お恵みのあることをしなきゃ、と言うのがアンペイ君の口癖。

 

猫目(644) 題名:イエス 投稿日 : 2002年10月20日<日>09時10分

 

競う使徒イエスは暗き泉瞰る

 

Res:余白(965) 題名:宗教詩 投稿日 : 2002年10月20日<日>18時42分
島氏へのレスでも触れましたが、キリスト俳人が「イエス」「神」というときのニュアンスが、一般にどう受け止められるのか、そのへんが、信仰を持った詩人の大きな課題なのだと思います。でもこの宗教詩の問題は、古くて新しい、そして挑戦するに多いに価値あるものだと思います。

Res:猫目(101) 題名:宗教詩について 投稿日 : 2002年10月22日<火>10時28分
 余白さんが、大変重要な指摘をして下さいました。
つまり、信仰をもつ詩人が、「イエス」とか「神」という言葉を使う場合、一般の人(とくに、特定の信仰をもたないが、宗教に関心を持つ人。全く関心のない人の場合を、想定する必要はないと思います)に、どう受け止められるのか、という問題だと思います。
 私は、例えば、「イエス」について考える場合、「イエス」には、何層かの姿があると思います。一つは、正統的キリスト教教義によって、語られる場合(例えば、「使徒信条」のなかのイエス)。第二は、聖書のなかに語られている歴史的イエス。このイエスは、聖書記者の思想と区別しなければならないと思います。したがって、聖書学的研究の成果を考慮に入れなければならない(例えば、聖書学者八木誠一、荒井献、田川建三などが語るイエス)。そして第三は、詩人の直観的想像力によって語られるイエス。第三のイエスは、少し説明を要します。俳句を例に挙げれば、
金雀枝や基督に抱かると思え   石田波郷
朝の街ミルクのなかのイエス様  滝口千恵
というように、詩人が直感によってとらえたイエス。この場合、作者がキリスト者であるかどうかは、あまり重要ではないと思います。すぐれた詩人の直観は、イエスの実相をとらえうるものと思います。その根拠は、究極的実在者(神)のみ霊は、キリスト者のみならず、あらゆる人に開かれていると思うからです(いわゆる、哲学者の滝沢克巳さんがいう「インマヌエル(神我らと共に在す)の原事実」ということ)。
 私は、第二のイエスと第三のイエスには、共通するものがあると信じていますので、私が俳句のなかで「イエス」という場合、主としてこのような意味で考えています。このイエスは、真理を求める一般の人が理解できないようなイエスではないと思います。舌足らずの議論ですが、現在はこのように考えています。
 ところで、プロテスタント教会でよく唱和する、「使徒信条」のようなものは、もちろん否定はしませんが、私はあまり好きではありません。血も肉もなくなった、イエスの骨格だけを見ているような感じがします。
 カトリック教会のことはよく知りませんが、井上神父さんや余白さんは、「使徒信条」をどのようにお考えでしょうか、(俳句とは関係ないかも知れませんが)お聞かせ下さい。 

Res:余白(370) 題名:使徒信条 投稿日 : 2002年10月22日<火>13時52分
大変興味深いレス有難うございます。こうしたお話も少しずつお互い深化していきたいものですね。
三つのイエスのとらえ方、なるほどなーと思います。
先日、「風」の山根氏と話をしていて、「一般に宗教詩が面白くないのは、自分が感じたことではなく、感じたいことを詩に書くからだ」という、エリオットの言葉の出典はどこだろうか・・・・という話題になりました。
エリオットが言いたいのは、宗教詩=教義の押しつけ的なものが多いということでしょう。私たちも常に念頭に置かなければならない問題ですね。
さて、「使徒信条」の問題ですが、たとえば非常に古いニケーア・コンスタンティノープル信条があります。これは、いわゆる正統派のプロテスタント・カトリック教会で同じ信仰をしていますね。
ところが、これ、よく読んでみると、ここには、たとえば一般にイエス理解の要と考えられる、贖罪や復活についてはほとんど触れられていないのです。むしろここで繰り返し強調されているのは、三位一体論なんですね。なぜか?それは、この信条ができるときのキリスト教会の状況を考えればすぐわかります。アリウス・アタナシウスの論争です。これに決着を付けるために、公会議が開かれたのです。したがって、三位一体説の正当性を主張するためにつくられた信条、といってもいいでしょう。
猫目さんが、「血も肉もなくなった、イエスの骨格だけを見ているような感じがします」というのは、わたしたちの実感からかけ離れた、こうした神学論争の果ての宣言文を読んでいるからだと思います。
とはいえ、私にはこういう経験があります。
若い頃、井上神父と議論をしていて(そのころは今程は井上神学を理解していませんでした)、「では、先生、要するに最低限の信仰ラインとは何なんですか?」みたいな質問をしたことがあったんです。すると神父は、「それはこの使徒信条だよ」と言ったのですね。
それまで私は神父から、使徒信条の講義を改まって聞いたことがなかったので、驚いたのです。しかし考えてみれば当たり前で、彼はカトリックの神父なのですから。
それからは、こう思っています。あの「骨と皮」のような使徒信条ですが、うまくこれを素材として生かせばダシも出るし、味もでるのではないか、と。使徒信条を暗記して信じ込むという態度ではなく、肉をつけ着物をきせ、日本人の体に合うように、、、、そう思っています。

 

島 一木(435) 題名:主の平和 その4 投稿日 : 2002年10月19日<土>02時33分

 

ともしびは燭台の上に置いてこそ


心にあふれることを口は語る


人はみな神の救いを見るだろう


すでに置かれた 斧は木の根もとに


愛する子心にかなう子には鳩


偽善者よ目から丸太を取りなさい


幸いだ 私につまずかない人は


ごらんこの女を 涙で足を洗った


死んだのではない眠っているのだ


飢えている人は幸い 満たされる

 

Res:余白(093) 題名:生の聖句 投稿日 : 2002年10月19日<土>02時44分
ほとんど生で聖書の言葉をもってきましたね。こういう場合、信者の思い入れ程には、一般の人には伝わるものが少ないかもしれません。

 

あこ(807) 題名:お久しぶりです 投稿日 : 2002年11月5日<火>13時16分

 

その辺の匂いをかぎて 冬だなあ


てっぺんの柿が取れない初冬かな


生き延びし蛾の寄って行くイエスの光


歳時記がなくなっちゃってこまったな  


(笑)
Res:
余白(339) 投稿日 : 2002年11月5日<火>16時45分
>歳時記がなくなっちゃってこまったな<
はい、やっぱり困りますかね? 滑稽の中にペーソス。あこ俳句の本領ですね。

 

余白(519) 題名:マタイ7 投稿日 : 2002年10月15日<火>10時15分

 

狭き門めざすが如く鳥渡る

 

後記:だいぶ寒くなってきましたが、皆様お元気でしょうか。念願だった井上神父からの作品もいただいて、今号も盛りだくさんの内容になりました。また、メインホームページの方も、「井上神父の書簡」や「山根道公氏の遠藤文学講演資料」など、提供をいただき、感謝に堪えません。今後とも求道としての俳句をめざしてお互いに精進しましょう。(余白)

 

「余白の風」作品募集*俳句・短歌・一行詩等作品数制限なし。エッセイ・評論も歓迎。(但し、採否は主宰に一任してください。)*締め切り  随時受け付けます。*送付先   平田栄一 HP「今を生きることば http://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5 」からもリンクして、「余白の風句会」に直接投稿できます。管理者:hirata5@d6.dion.ne.jp

 

 

余白の風78号

2002/10/15 発行者:平田栄一

 

なんとなく無宗教ですバラの刺     

中山 美樹

(紫2002/10号より)

 外国人に「あなたの宗教は?」と聞かれて、「わたしは無宗教です」と答える日本人が多いことに驚かれる、という話をよく聞きます。ただ、この場合の「無宗教」という答えには少々解説が必要なのではないかと思います。というのは、日本人の「無宗教」は、積極的・意識的に神を認めないという意味で「反宗教」ではないし、すべてを科学的な合理主義で割り切ろうとする、唯物論的な「非宗教」というのでもないからです。おそらくなんらか神的なものを認めながら、「何の宗教?」と聞かれれば一つに限定できない、まさに「なんとなく無宗教」といわざるをえない、というのが平均的な日本人の宗教観ではないでしょうか。掲句下七の「バラの刺」は、そうした「あいまいさ」と、それゆえの戸惑いとを象徴しているかのようです。

たしかに、この「なんとなく」「あいまいな」宗教観は、白黒・是非をはっきりさせたい西欧的精神からみれば、なんともつかみどころがなく、理解しがたいものでしょう。また、宗教や精神性というものを父性─母性原理という軸で見たとき、日本社会のなかでは、父性の欠落、母性への偏重によって様々な弊害が現れていることも事実のように思います。

しかし、ひとたび世界全体に目を向ければ、今ほど諸宗教間の対話や和解が必要とされている時代はありません。わたしはこの対話≠フ大前提は、まず相手の信条を受け入れる、ということにあるのではないかと思うのです。こうした視点から考えると、たとえ「なんとなく」でも「あいまい」であっても、神的な何かを認めた上での日本人の「無宗教」性は、けっして諸宗教を門前払いするような「反宗教」・「非宗教」性とは一線を画しており、諸宗教理解の可能性を秘めているともいえるのではないでしょうか。(余白)

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D&D's daughter遠い街角

 

降りしきる鐘の音にゆらぐ飾り窓
夜霧のマント翻す自転車の群
鐘の音に抱かれはや足石畳
アモーレ!マンジャーレ!グラッパだカンターレ!

Res:余白イタリア製のご絵には、子羊を抱いたイエス様のやさしい顔が書かれていて、つい何枚も買っちゃいます。 Res:D&D's daughter神におまかせな人々うん、イタリア人の美を追及する意識はするどいのに、それ以外のことに大変アバウトな民族なのには毎度ながら呆れてしまいます。上の二つはオランダ、アムステルダムです。教会の脇に「飾り窓」が並んでいるのです。


猫目秋祭

イエスの眼寅さんの声秋祭

Res:余白ええ、ぼくは他でも言いましたが、寅さんがキリスト者になるような時代が来ないと、日本のキリスト教は土着しないんじゃないかと思います。


奈菜虫〜

自転車に乗って虫になる


・・・何となく、自転車が何台も走っているのを見て、そんな気がしました☆

 

Res:余白カフカの「変身」を思い出しました。虫や植物になりたくなっちゃうことって、よくありますよね。悩みがなくなるのかなーなんて。「自転車」と「虫」という意外な取り合わせが幻想性を生んで、おもしろい詩になっています。


tears孤独の中で

静けさや 孤独深める 秋の午後

 

Res:余白その孤独が福音書のイエスの「孤独な姿」と連なる・・・・イエスがその孤独を背負ってくださる・・・・聖霊の同時性。


ふづきはじめまして
はじめまして。毎年今年こそと思いながらなかなかキリスト教に踏み出せず、おまけに俳句もずぶの素人です。一面に彼岸花が咲くことで有名な巾着田を訪ね、感じていることを残しておきたくなって、思わず五七五をひねっていました。(先程「雨音のなかに」のページを拝読して、最後の一行に私の蟋蟀の句の言葉が似てるかなと思いましたが、中身は全然違う…;)あちこちから「天国」という言葉も聞こえた、森に群れ咲く百万本の彼岸花、キリスト教的ではないかもしれないのですが、魂の風景という感じを受けました。

彼岸花三本小さき磁場のあり
曼珠沙華みどりの生に死の紅に
青き香の森の底なる彼岸花
曼珠沙華見上ぐる黒き子犬の目
蟋蟀の声の中なる平安よ
ともにいるための一面彼岸花
秋蝶の辿りし彼岸花の道
彼岸花の道の最後にふと光
靄めきて彼岸花の森包む闇
彼岸花畑の森の暮るる迄

Res:余白キリスト教的ふづきさん、いらっしゃい。ええ、お彼岸花っていうのは、ほんと、不思議な花ですね。

移り来てお彼岸花の花盛り   山頭火

これだけでも句になってしまう、強烈な個性と可憐さを兼ね備えた魅力です。あなたの緒句も、「森に群れ咲く百万本の彼岸花」よく活写されています。その情景が「キリスト教的ではない」ということはないと思います。西欧的ではないとは言えますが、イエスが一面のお彼岸花の中に佇んでいる、なんて、とてもすてきな光景だと、私は思います。 Res:
ふづきありがとうございます。キリスト教的でないということはないとのお言葉、嬉しいです。生者死者の交わりの風景を包みこむものを感じていたのも確かです。キリスト教と俳句、ちょっとずつでも学んでいこうかなあと思っています。Res:ふづきあれからまた作ってみたものです。昨日は寝る前に歳時記をひっくり返していて、「あー、天使祭っていうのがあるんだ」と初めて知りました。

憂き午にかみしめてみし葡萄かな
いづくにか乱れし気圏秋の池
秋の窓この雨粒に時のあり
颱風来傘に楽しき重みあり
風にのりとんぼの翅をひろげたの
穏やかなひと日もありぬ天使祭

Res:余白生の不安と主にある静寂とが、丁寧に表現されていますね。どんどんと作り込んで行ってください。そしていずれ、句作即祈りとなったとき、わたしたちは主にある平安を味わうこととができる、と信じています。


島 一木黙想集 その1 蒔かれた種

道ばたの種はからすがついばんだ
太陽に枯れそう岩の根なし草
ふさがってしまう茨に落ちた種
よい土の種は百倍実をむすぶ
信仰の山を動かすからし種
鳥の巣をゆめみる種のねむりです
眠るまも種は芽をだしのびてゆく
毒麦も刈り入れまではそのままに
刈り入れは多い 働き手がいない
地に落ちてまだ一粒の麦のまま


奈菜秋風


「秋風」/なんどもなんども頬をなでて/私をどこかへ誘ってる

☆★☆ひさしぶりに外を歩くと、風がもう秋の風でした☆☆

Res:余白秋の縁秋は、四季の中でもいろいろな発見があって、詩がもっとも生まれやすい季節ではないかと思います。その一つ一つが、わたしたちが神様に心を、顔を向ける縁となるなら、こんな楽しいことはありませんね。


ブライダル

百合と薔薇、朝顔咲きて、パラダイス

「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさいとは?」http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1030529521/301-400厖大な、少々混乱してしまう、この優れた掲示板を読み、肌寒さを感じる外に出て、教会の扉を開いてから、庭で作りました。


余白

 

アバ霊(たま)よ街から街へ吹き抜ける


もちろん、話題のたまちゃんじゃありません。キリスト者ならおわかりの通り、「アバ」はイエスが神を親しく読んだときの言葉。その霊=聖霊は、ギリシャ語でプネウマ。これは、息吹とも風とも訳されるんですね。「アバ、利己主義に汚れている私たちの心を、あなたの悲愛の息吹で洗い清めて下さい」(風の家の祈り二)。「燿」では二番目に置いた句です。


奈菜


太っていく月見て/ほっぺふくらむ

☆★☆毎日見上げる月が少しずつ丸くなっていくのを見てなんとなく・・

 

Res:余白諸行無常っていうけど、毎日少しずつでも成長しているっていうことが、確認できれば、ホント張り合いがでますよね。Res:猫目宇宙に生きるもの
太っていく月見て/ほっぺふくらむ    奈菜。素直な感覚でとてもよい句だな、と感じます。月と自分との間の霊的な関係、宇宙に生かされているものの霊的交感みたいなものを想像します。小うるさい俳人からは、「太る」と「ふくらむ」とが、「つきすぎ」といわれるかも知れませんが、そんな批評を跳ね返す、強い詩的力が、この句にはあるような気がします。 Res:奈菜
ありがとうございます☆★☆思いを共にしてくださって、とてもうれしいです。不思議な感覚ですが、こころの底でたくさんの人とつながっているんだなぁと実感します。


島 一木主の平和 その3

薔薇ひとひらひとひら幼な児の歩み
幼な児よ主に先がけて整えよ
星月夜羊飼いたち町へ行く
イエズス 滅びと立ちあがりの基です
イエズス ひそかな思いがあらわれる
主の道をまっすぐにせよ蝉の声
手をのべて 私は望む清くなれ
花婿といて断食ができるのかい
笑っているほらそこの君 泣くだろう
泣いている君は幸せ 笑うでしょう

句評:ぼくは自分の分をわきまえて、今後も作品評は俳句のコメントに徹しますので、よろしく。
長き夜の夢に押されて発つヨセフ  余白
この句を読んで、そういえばヨセフは旧約も新約も夢と関わりがあったと気がついた。
秋雨に 心洗われ 光さす     tears
確かに心洗われるというのは、春雨じゃなくて秋雨の感じですねえ。
カナカナ 今日何をした  比田井白雲子
こんな思いになることあります。
立ち止まり去りし想い出駆け巡る しんご
想い出のつかみ所のなさが出てると思います。


余白

産声以前 たしかに溜息

93年末に、「俳句空間」(廃刊)でお世話になった大井恒行氏の呼びかけに応えた「新鋭」16人の各100句アンソロジー『燿(よう)』に載せた、巻頭の一句です。これは想像句ではなく、自分としては写生句なんですね。我が子誕生に立ち合って、胎から出て産声を上げるまでに、相当なタイムラグがあることを知ったときの驚き!

Res:猫目俳句とポエジー産声以前 たしかに溜息 余白。 無季で自由律の句ですね。私は、がちがちの有季定型派でもなく、無季容認派ですが、自由律の句は創ったことがありません。というより、形式のもつ力から離れることの不安で創れないというのが、本当のところです。でも、山頭火や放哉の句にも惹かれます。形式はともかく、詩的霊感(ポエジー)があれば、よいのではと思っています。この句でも、「たしかに溜息」に詩を感じます。「生まれ出ずる者が、根元的にもつ不安」といった感覚でしょうか。現在私が、信仰を俳句で表現することにためらいを感じるのは、できた句にポエジーがあるかどうかに確信をもてないからです。信仰者の立場と、俳句作家の立場とは、ある意味で矛盾するようなところがあり、それを安易に妥協させたくないと、考えています。Res:余白猫目さん、よろしくー問題にされていることは、私にもよくわかります。文学と信仰、、、難しいけど、避けて通れない信仰俳人の問題ですね。TSエリオットだったか、「世の宗教詩が面白くないのは、信仰者が感じていることを書くのではなく、感じたいように書くからだ」というようなことを言っていましたね。ポエジーではなく、つい教義を語ってしまう、という問題だと思います。私は、「層雲」から入りましたので、上のような句も作ってきました。それで或意味行き詰まってしまい、今は定型がメインになっています。でも、こういうお話しができる方が来てくださって、心強いです。猫目さん、これからも宜しくお願いします。


如月妻へ

身障の 妻を娶りて幸せと 笑顔麗し 吾のパレアナ


如月掲示板

夏スレに 秋のレス書く 氷雨かな


島 一木教会のある風景 その5. 九月

聖変化台風の眼が通過する
十字架を胸に笑顔は爽やかに
聖歌隊解散となる秋深し
さよならの聖歌隊席秋扇
マリア像小さい花壇に小さい花
マリア像へと十字切る花壇越し
念祷のひととき水は澄んでゆく
教会の塔に渦巻く星月夜
賛美する虫か聖堂の隅の闇
ロザリオに露のしずかな夜とおもう


余白

九一の不安と希望神無月

Res:猫目神がいる月、いない月九一の不安と希望神無月。不安九と希望一という意味ですね。作家の安岡章太郎さんが、井上神父さまとの共著のなかで、そんなことを言っていましたね。信仰者としては、心に沁みる言葉だと思います。でも信仰100%よりも現実感(リアリティ)がある、と私は思います。キリスト教俳句としては、季語の「神無月」が面白い。ただ、神様たちが出雲神社に集まって各地の神様がいなくなるというのは、どうも俗説らしい。ある歳時記では、「な」は「の」の意味で、「神の月(神祭の月)」だと、書いてありました。この句も、後者の意味だと解釈すると、味わいがふかくなります。なお、九一は、年齢だと誤解されるから、九/一と表記するのは、どうでしょうか。Res:余白アドバイスありがとうございます。ああ、「九/一・・・・」って表記ですね、参考になります。


アンお久しぶりです

神を想う心が一つになりて肩を並べる

久しぶりです。皆さんお元気でしょうか。想いのままを叫ぶのは簡単なのに、言葉にするってなかなか難しい。それでも、心の底から様々なことがわきあがって来る。神への想いをどう表現できたらいいだろう。と悩める時また言葉を多く持っているのに相手に心にしみ通るような美しいものであってもかえって傷つく時もある。言葉が「剣」のように研ぎすまされて人を斬りつけてしまう時もある。同じ言葉であっても、その人の受け取り方で大きく変わってしまう。それでも考え方や感覚や価値観が違っていても一緒に肩を並べて、神様を共に眺めて共に喜べたらどんなに最高だろう。と最近思うばかりです。


第3エピグラム集

bookcover

ヨルダン社1600

●安らかに詠う「永遠なれば」(2002年10月黄金海岸編「豈」35号に加筆)平田栄一

 昨年の秋、十五年お世話になった自由律俳誌「層雲」を退会した。よくよく考えて。今の私に迷いはない。つまり俳句形式について。私の場合、定型回帰ではない。定型に重点が移った、いや、形式に迷うことが重荷になったのだ。いや、これも違う。形式がどうでもよくなったようだ。キリストを詠いたい、目的がそれだけに絞られた。自分が軽くなった。今、創作に関して安らかでいられる。俳論・文学論をこね回す気持ちも失せた。大変な回り道をしてしまったものだ。それも仕方なかったか、とも思う。俳句を諦観の詩形とはよく言ったものだ。今の私にピッタリの詩形。そしてこの、自由な空間として「豈」がある。電車で十分の所にいたにもかかわらず、迷いがあってついにお会いしたことがなかったけれど、あなたの数句が、俳句に何かあるぞ、と思わせてくださった摂津さん、僕の俳句に、さりげなく理解を示してくださった大井さん、また、丹念にこの会報に目を通し、いつも励ましてくださる信仰の師・井上洋治神父と同じ志を持つ山根道公さんに、心から感謝します。

「余白の風」作品募集*俳句・短歌・一行詩等作品数制限なし。エッセイ・評論も歓迎。(但し、採否は主宰に一任してください。)*今号選評もお送りください。*締め切り  随時受け付けます。*HP「今を生きることば http://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5 」からもリンクして、「余白の風句会」に直接投稿できます。管理者:hirata5@d6.dion.ne.jp

余白の風77号

02/9/10

金雀枝やキリストに抱かると思へ        石田 波郷

 五・五・七(八)というリズムとともに、下句の「抱かると思へ」が印象的です。波郷にはこの他にも、男性的な命令調で大胆に詠った作品が多くみられます。

  万緑を顧みるべし山毛欅峠
  グノー聞け霜の馬糞を拾ひつつ
  雀らも海かけて飛べ吹き流し

 若い頃から俳壇の注目を浴びた実力派でしたが、その活躍の時代はちょうど第二次世界大戦の拡大期にあたり、いわゆる京大俳句事件などで句友の検挙が相次ぎました。そうした時局の重圧に耐えながら、彼自身も召集され、華北戦線で戦病を得、さらに終戦後にも再発、入院、手術と闘病の日々を送ることになります。
 こうした苦悩の歳月にあえて命令調で詠うということ。それはとりもなおさず第一に、ぎりぎりの地点で自らを励まし支えるための祈りではなかったでしょうか。右の例句と比べても、掲句の「抱かると思へ」はあまりにも強引な措辞のように思えます。しかしそれだけに、気をゆるめれば即一縷の希望さえ見失いそうになる、切羽つまった波郷の心境が偲ばれるのです。

 

奈菜(565) 題名:初めまして☆


初めまして 奈菜と申します。
遠藤周作に導かれキリスト教に出会い、「風」と出会い、
山根道公先生にこのページを紹介していただいて、たどり着きました。
2年前に洗礼を受けたばかりですが、
今年になって
日本人の自分と、キリスト教を信仰したい自分に
少し葛藤がありました。
「風」との出会いは私にとって本当に大切なものです。
よろしくお願いします☆★☆

「白い道」

低い山々
小川
田畑
蓮華の花々
小さなお堂
目の細い鋼色の仏像
かすかな念仏の声
響く鐘の音

山から山へ
山から田の苗の辺りへ
花々の間を、仏像の横側を渡っていく


山の上
うすい空に白い虹のような道が斜めに上がっていた

私はそこをあなたのあとをついていく
空の上のほうへ
木魚の音、念仏の声を聞きながら


突然、長いものを・・・失礼しました・・。


 

Res:余白(392) 題名:ようこそ
奈菜さん、ようこそおいでくださいました。
山々や田畑を巡って、そして、
「私はそこをあなたのあとをついていく」。
イエス様のお姿の発見、ということは、普遍的なものなのだと思います。
今後とも、このサイトへ遊びにおいで下さい。


余白(249) 題名:帰国

 


長き夜の夢に押されて発つヨセフ


tears(803) 題名:黙想

 


秋雨に 頭冷やされ 黙想す


余白(582) 題名:夭逝

 


重吉の秋に会うてか老い進む


tears(869) 題名:秋雨

 


秋雨に 心洗われ 光さす


 

Res:余白(199)
はい、日々復活の希望を新たにしたいものです。


余白(887) 題名:避難

 


友は去りカナンを去りて後の月


 

Res:猫目(634) 題名:キリスト教俳句

花冷えの一灯ほのかマタイ伝    奥村 花

とてもよい句ですね。余白さんの鑑賞もすばらしい。聖書の知識があれば、鑑賞もずっと深くなりますね。私は、キリスト教信者(プロテスタント)で、俳句を創っていますが、信仰を俳句で表現することには、非常に困難であると考えていました。心情が深くなると、俳句はつい「言いおおせてしまう」からだと思います。しかし、このような句をみると、キリスト教俳句の可能性はあるような感じがしてきました。現在は、キリスト者俳人の句を、できるだけたくさん読んでいます。そのうち、実作もしてみたいと思っています。キリスト教と俳句を主題とするこの句会は、貴重な存在です。

 

Res:余白(434) 題名:猫目さん、ありがとうございます。
遠藤文学と井上神学に出会い、そして俳句に出会ったわたしとしては、なんとか俳句的表現でイエスの福音を詠い、日本的感性でキリスト教を受け止めたい、というのが念願なんです。
ぜひ、ご一緒に実作もしていきましょう。よろしくー。

 

Res:比田井一歩(641)
聖書も読んだことのない私ですが、マタイ伝の句と句評は、ただただ感銘しました。
つつましさとひたむきな勇気が感じ取れ、俳句をやっていて、この句に出会えて本当によかった。知らず、勇気がわいてきます。


比田井一歩(594)

 


人間に言ってやろう 被爆をどうする

カナカナ 今日何をした

風は、神様からのおやつです

○あこさんんへ、
心が貧乏ですので、風そのものが、私の心のおやつなのです。


余白(930) 題名:博士

 


星学に励みて救いを見る晩夏



tears(902) 題名:希望

 


躓いた 石の先に 咲くリンドウ


余白(757) 題名:誕生

 


神共に在して蒼き秋の空


余白(556) 題名:系図

 


系図ごと背負いて御国へ秋の空


しんご(398) 題名:残暑


夕暮れに優しく香る秋の風

立ち止まり去りし想い出駆け巡る

風鈴を眺めつ今日がまた終わる

聖堂に想い馳せつつ中也舞う


 

Res:余白(950)
皆よく整った佳句で、安心して読めます。全体に「中也」の香りが漂い、まさに残暑、秋へ向かうにふさわしい哀愁が巧みに表現されています。また、どんどん投句してください。

 

Res:しんご(054)
余白さん、俳句なんて高校時代ぶりに書きました。楽しいですね。またよろしくお願いします。


島 一木(613) 題名:主の平和 その2

 


踊ってよ広場で笛を吹くからさ

迷っている小羊はどこ山を出て

見ても見ず聞いても聞かぬ頑固者

針穴を覗くラクダの顔ですか

ほらメシアはここにいるあそこにいる

サタンよ退けあなたの思いは人のもの

新しいワインは新しい人に

何の役に立つ塩気のない塩なんて

立ち上がって海へ飛び込む山を見よ

サマリアの女は汲んだ 生命の水


 

Res:島 一木(781) 題名:句評
●こんな私にとんぼ止まりに来てくれる   比田井白雲子

アッシジのフランチェスコを思い出した。指を空に伸ばして木になったつもりでいると、こんなことあります。

●復活祭鳥にも頒つパンと水   猫目

これも映画の「ブラザー・サン・シスター・ムーン」を思い出した。

●歳時記を読んでみてすぐ飽きスイカ食う   あこ

そりゃ、歳時記を読めばすぐ飽きますよ!ぼくは歳時記はチラッと見るものだと思ってますけど。

●和せぬまま別れる雲の速さかな   余白

俳句を長いことやってると、色々なことがありますよねえ。

●肩にくる 十字架行進 恵み満つ   ブライダル司祭

上五中七のつながりに不思議な魅力。下五が惜しい、もっと具体的に。

●柔和なれ 主も交われば 夏遍路   警備のおじ

ぼくなら「柔和なる主と交われり夏遍路」とします。

●七夕と いへども会えぬ 瞳あり   テレジア

展開の上で「瞳」の一語が効いてますね。


島 一木(847) 題名:教会のある風景 その4. 八月

 


ミサの鐘つかずなりたる炎天や

炎天に負けじと朝の祈りする

祈るより早く鳴きだす秋の蝉

花火見に行く教会のある方へ

教会は闇なり花火揚がる音

花火から帰る教会の横の道

星月夜星それぞれに神の国

銀河系のみならず神はあまねし

天使群銀河の渦を越えて来る

天国という別次元秋涼し


 

 

余白の風

第76

2002/8/15 発行:平田栄一


余白 題名:『マタイ伝』

 

花冷えの一灯ほのかマタイ伝        奥村 花

 

小さな灯のもとでマタイ伝を読む作者。桜咲く頃の夕刻の寒さが身に沁みてきます。
 『マタイによる福音書(伝)』(紀元八五年頃)は新約聖書の巻頭を飾る有名な福音書です。歴史的には二番目の『マルコによる福音書』(紀元六五年頃)の方が古いのですが、四福音書のなかで最も長く、一番まとまっているなどの理由からか、順序が逆になっています。
 そこで新約聖書を初めて手にした人は、この『マタイ』から読むことになります。すると、最初にアブラハムからキリストに至る長い系図が出てきます。この部分はユダヤ教のメシア待望思想についての理解がないと、退屈してしまうのではないでしょうか。
 その直後に処女降誕の話があって、さらに五章からは「兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける」(5:22)「敵を愛せよ」(5:44)といった「山上の説教」が続きます。ふつうに読んでいけば、これはもうついていけない、ということになりかねません。
 本来、ユダヤ人キリスト者に向けて書かれた『マタイ』は、律法をはじめユダヤ教とのつながりを重視するため、わたしたち日本人には四福音書のなかで最もとっつきにくく、キリストの教えを非常に厳しいものと感じさせてしまうのではないかと思います。掲句の上五「花冷え」には「マタイ伝」がもたらす、そうした緊張感・厳しさが象徴されているかのようです。
 しかし他の三つの福音書を含めて新約聖書全体を通読した後、もう一度『マタイ』に戻ってじっくり読み直してみると、「最も小さい者」(25:40他)に寄り添い、「世の終わりまで、共にいる」(1:23、28:20)イエス、神の姿を鮮明に表現している信仰告白の書であることがわかってくるのです。中句「一灯ほのか」には、そうした神の愛への信頼が込められています。

 

島 一木 題名:教会のある風景 その2 六月


六月やミサに行く母杖をつき

説教にパンのことなど蟻の道

祈るまも紫陽花変化わが心

天国はいかがと揚羽蝶来る

軽口も楽しミサ後の草取りは

十字持つ十薬も抜くミサの後

聞こえくる聖歌練習草を引く

梅雨晴れや卓をこぼれるパンの屑

火蛾の影ロザリオ祈る蝋燭に

明け易きロザリオを手に早ミサへ


Res:島 一木 題名:主の平和 その1

蒔く人に蒔かれて種は芽吹きます

主よどこに 一番みすぼらしい人に

秋日さす目からうろこの落ちるとき

よい木々はよい実を結ぶ ぼくの木は

幼な児に博士ぬかずく星月夜

天国には入れません幼な児が先

幼な児のように小さな花が咲く

気をつけて羊の服のおおかみに

ゆるせ七の七十倍 いやもっとです

パンのみに生くるにあらずワインもね


  
教会のある風景 その3 七月

ミサの鐘鳴り終わるまで朝曇り

ミサベール忘れて白きハンカチを

聖家族みな素足にてつつましき

マリア像その素足の先に手を触れぬ

信徒館取り壊されゆく日の盛り

マリア像西日を浴びてなお白く

雷鳴や誰かが罪を犯している

教会の木には天道虫がいる

教会の庭に宵待草も咲く

聖歌隊大いにビール飲み食らう

Res:あこ  題名:パンのみに生くるにあらずワインもね あははは!!「ワインもね」 おっととととと、フェイント。って感じでかわいいです。 Res:余白  題名:紹介 島さんはカトリック信者で、「層雲」にいたり、今も「豈」の同人で、なんかぼくと共通点が多い、定型のベテラン作家です。句集も出しています。


比田井白雲子 題名:パソコンありませんのでよろしく。


もらってうれしい 風のおやつ

私のなかにいたあなた 風

こんな私にとんぼ止まりに来てくれる


余白さん<定型で一流に近づきつつありますね。私はテレジアの霊性を求めて(道元の自己を忘れること)、それを今の自由律で表現していきたいと思います。


Res:あこ  題名:おやつ!風のおやつとは、絵に描いたモチみたいなものかなー。そんな「かなしい」ものじゃなくてもっとうれしいものかなー。比田井さんがどんなおやつを想像したのか知りたいなー。と思います。 Res:余白>私のなかにいたあなた 風 風に呼びかけている、人格として気づいていますね。キリスト者は、「風」=プネウマ=聖霊、と発想しますから、人格として呼びかけることは、単なるメルフェンじゃないのですね。


あこ  題名:トマト!


路地植えのトマトはちきれ夏来る

Res:あこ  題名:ちがうトマト↑ 不満なのでちょっと変えます。

 

ビキニ着て完熟トマト頬張れり

 

Res:あこ 題名:?!なんかビジネスジャンプのグラビアのコピーみたいな句になってしまった?!
意図としては、頑張ってビキニきてるけど、おやつに畑から採ってきたトマトを食べる田舎娘のトホホな心境をうたってみたかったんですが〜(笑) Res:
余白 

 

路地植のトマト頬張るビキニかな 

あこさんの趣旨を生かして、二つの句をミックスしてみました、ププ。


1年生  題名:初投稿

なんとなく思いました・・・


現代のクーラーよりも夏の風


Res:余白 「昔のクーラー」と比べたら、どうですかね?まだ、生まれてないか・・・。


猫目  題名:投句


復活祭鳥にも頒つパンと水


Res:余白 題名:返評です ようこそ、猫目さん。掲句の「パン」で、聖体拝領を思いました。カトリック教会はなかなか他教派に拝領を認めませんが、鳥に神父が聖体授けていたら、面白いねー。動物だって、神様の救いに預かりたいよねー。


あこ  題名:なつ 


歳時記を読みてすぐ飽きスイカ食う


Res:余白  題名:S音 「歳時記」のSA、「すぐ」のSU、「スイカ」のSU。S音の連なりが、スイカのサクサクした感じ、夏の雰囲気を効果的に表現していますね。 Res:あこ  題名: 

怒るべき怒り放ちて夕涼み

 Res:あこ  題名:ちがう怒 

癇癪玉うまく弾けて夕涼み(どっちもこっちか・・・・)

真っ黒な森分け入りて湿気吸うどろどろとした夏よまた来い

Res:余白  題名:どっちがいいか>怒るべき怒り放ちて夕涼み>癇癪玉うまく弾けて夕涼み ぼくは、あとの方がいいと思います。「〜べき」という作為より「うまく」と自然体の雰囲気があるから。


余白  題名:「海程」8・9月号3句

 

命疲れ春宵に酌む赤ワイン

和せぬまま別れる雲の速さかな

夢高く居眠り難き花水木


Res:猫目  題名:寸感○和せぬまま別れる雲の速さかな 作者の気持ちが、雲に投影されているのですね。雲に命が感じられます。○夢高く居眠り難き花水木 この句も、花水木に作者の気持ちが乗り移っているのですね。ただ、「居眠り難し」と一応切ることも、考えられますね。私は、その方が好きですが。先日、この句会をネットで見つけて、始めて投句させて頂きました。勝手な批評をお許し下さい。 Res:余白 結社を「海程」から「紫」に移籍しました。


ブライダルの司祭  題名:十字架行進

肩に来る 十字架行進 恵み満つ


警備のおじ  題名:警備員の夏、日本の夏♪

 

炎立つ 坂上指して 笛響く

雨よ降れ 同僚の声 夏近し

入梅や これが恵みの 通り雨

(クリスチャンの警備員として・・・)

木々の間に ほめ歌 響く 蝉時雨

断食に 祈りも細き 聖金曜日(きんようび)

青年の家に 祈りの夏 開く

聖会を 招く海にも 風薫る

(堅信を受けられた2姉妹思って)

永き道 臨みてすずし 堅信礼

柔和なれ 主も交われば 夏遍路

炎たつ 信仰坂に 道迷う


Res:テレジア おじさん、お久しぶりです♪お言葉を、有難うございます〜堅信の秘蹟に与ることができ、あたたかい勇気をいただきました。夏らしい歌句がいっぱいなので、合せてみますね

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あんず飴 夜店をうたう ぼんぼりか

七夕と いへども会えぬ 瞳あり

朝顔の いのちで染める 衣かな

麦茶煎れ いつしか母に 似る我か

百合の香は 髪梳く夜に ほほえみて

貝殻に 耳を澄ませば 神の声

洗い髪 しずくつもりて 梅雨は明け

待者の子の 柔きしぐさで 西瓜食む

落つる陽を 吸い給ひて 聖水盤

くじら雲 抱かれ泳ぐ 神の愛


後記: 「風」の連載「井上神父の言葉に出会う(4)」を仕上げ、「聖母の騎士」から依頼のあった10月号巻頭エッセイも送稿し、今はクーラーのない社会科準備室で、蝉の声に励まされながら、ライフワーク「キリスト俳句探訪」を少しずつ書き進めている。

例年通り、先日井上神父のお宅におじゃまして、寿司をつまみながら、あれこれ話し込んできた。健康の話題から始まって、教育・文学・哲学・神学・教会論とりとめなく語り、4時間あっという間に過ぎてしまう。若い頃は記録をとるためにノートをとったり、テープレコーダーを持ち込んだりして、「いいかげんしろ」と怒られたこともあった。今はもう、知り合いを引き合わせるために連れて行くこともない。話の内容より、井上神父の「まなざし」を心に刻み、忘れないように、一年に一回のチャンスを大事にしょうという一心だけである。75歳になる師の酒量は毎年たしかに減ってはいるが、内に燃える志には今も圧倒されるばかりである。

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