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平田栄一サイン本
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余白の風 求道俳句とエッセイ 第101号

2004.10 発行者:平田栄一

余白

連載 俳句でキリスト教

繰り返す祈り

†永き日のロザリオを手に麻疹の子   佐久間木耳郎

 「日永」を強く感じるのは春の夕暮れ刻でしょう。そんな時間に「麻疹(はしか)」の子が「ロザリオ」をつま繰っている、という光景です。

 病中にかぎらず、カトリック信者はロザリオを唱える習慣があります。「ロザリオ」のサンスクリット語源は仏教の数珠と同じであるといわれています。大玉の間に小玉十個を配して一連、これが五連で一環となったものです。ドミニコ会という修道会が詩編を唱えるために使ったのが始めとされていますが、のちに大玉で主の祈り≠、小玉で天使祝詞(アヴェ・マリア)≠唱えながら、イエスの全生涯を黙想するようになりました。

 ロザリオの祈りは現在でも、聖書を読めない病人や老人、そして子供たちはもちろん、熱心な信者は毎日これを唱えています。ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世も、大好きな祈りだといっています。ベートーベンは作曲に行き詰まったとき、熱心にロザリオを唱えていたとも伝えられています。

 同じ言葉を繰り返す祈りは、現代人には退屈に思えるかもしれませんが、少し我慢して続けていると、深い観想状態を経験することがしばしばあります。念仏や題目の繰り返しが鎌倉仏教でも奨励され日本に定着したように、ロザリオは日本人の体質によく合ったキリスト教の祈りといえるでしょう。

 

<茶摘唄として

†ロザリオの祈りは尼の茶摘唄  秋月すが子

 前句で、ロザリオの祈りが日本人に適した祈りであることを述べました。掲句はその応用編ともいえる情景です。「茶摘唄」という日本に古くからある労働歌へのロザリオの適用、なんともほのぼのとした光景が目に浮かんできます。

 もう二十年以上も前になりますが、長崎に旅行してホテル近くにある教会の早朝ミサに出かけたときのことです。ミサ前の聖堂に、それまで聞いたこともない節回しで何人かの人たちがつぶやくような、ささやくような独特の声を耳にしたのです。わたしはガランとした聖堂の最後列にそっと座ってその声に耳を傾けました。しばらく聞いているとそれがロザリオの祈りであることがわかってきました。ちょうどわたしの受洗予定日が迫っている頃で、ああ、天国で聞く祈りとはこういうものなのかもしれない、という不思議な感動を味わったことを思い出します。東京に帰ってきて、長崎出身のカトリック信者に聞いたところ、「あの地方では平日でも、出勤前の信者がよくロザリオをやりに来るんですよ」と教えてくれました。

 キリスト教の日本への土着化、インカルチュレーション(文化内開化)ということをずっと考えてきて、「その具体は?」と自問するとき、「茶摘唄」としての祈り、「出勤前」の祈りはけっして小さなことではないと思えるのです。

 

<沈黙の祈り

†黙想の耳の底なる囀りよ     中山幸江

 カトリックではトラピストやカルメル会などの観想修道会はもとより、一般信者においても沈黙の祈り、「黙想」が重視されています。

旧約の預言者エリヤが、追っ手を逃れてホレブの山の洞穴に逃れてきたときのことです。

見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」(列王記上一九・一一〜一三

 「主(神)」は「風の中」にも「地震の中」にも「火の中」にもおられず、その後の「静かにささやく声」として語りかけてきたというのです。

このエピソードは、わたしたちが神の意志≠ニか祈り≠ニいうものを考えるときに、大きな示唆を与えてくれるように思います。神の声は、激しい風や地震や火などに象徴される非常事態、熱狂のなかにではなく、むしろ平凡な、ありふれた日常に耳を澄ますとき、「静かにささやく」ような「耳の底なる囀り」として聞こえてくるものなのだ、と教えているのではないでしょうか。

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ一〇・一七

 個人レベルでも国家間においても、大声を上げ、自己主張することが当然の権利とされている現代にあってわたしたちは、むしろ声なき声に耳を傾けるという「黙想」――祈りの原点に立ち返らなければならないのではないでしょうか。

 

<近詠>『紫』2004年9月号より

†閏年二月晦日を言祝ぎぬ

†亡き人の首しめ悔やむ春の夢

†わが信は銀河を流る戸板なり

†腰すえる覚悟にわかに椿落つ

†さめていく心のままに青き踏む

†哀しみの果てに落葉舞い上がり

†乳母よりも教訓めきて雨の春

* * *

8月30日、実は私の受洗記念日

23年になりました。井上師宅に訪問して、一杯やってきますたー。お互いかなり老けたナー。

NK

おめでとうございますたー:23年ですかー・・・ん〜〜〜23年を迎えてのお気持ちはいかがですか?私の23年後ってどうなってるのかな...相変わらずの調子で、さほど変化なしでいるような気がします(苦笑)

井上神父さま、先日の主日は、しばしの静養から帰られたからか、いくらかお元気そうで安堵致しました。。。
昨晩、神父さまの代理の方から電話があり、今度の主日のミサ後に具体的な洗礼のお話があるようです。
今からドキドキしています*-*
それにしても、お二人とも、良い「人生の深み」がでてらっしゃいますよー(笑)

余白:実はね、井上師の家行ったときも、NKさんの話が出たんですよ^^
僕のサイトから井上師の所へ行って、洗礼まで行きそうな人、っていうことです。
井上師ともども喜んだ、というわけです。もちろん、小さきさんの話も出ましたよー

小さき花

○おふたりともおめでとーございます〜

余白さん、記念日、おめでとーございます。
NK
さん、良かったですね。いよいよですか、婚約期間のようなわくわくドキドキの時期ですね。
ミサがますます好きになるでしょう。
井上神父様もさぞお喜びでしょう。
写真を見て、弟子は師に似るといいますが、お二人ますます似てきたような
のらくろのぬいぐるみがかわいいですね

<井上神父のラジオ番組>

NHK第一放送9/9,10ラジオ深夜便「心の時代」

感想。。。「風」連載中の「わが師イエスの生涯」でも述べられた旧約を乗りこえたイエスの教え(=福音),役割を生きる人生、「福音書を読む旅」「南無の心に生きる」、「アッバ讃歌」の内容など盛りだくさんでした。
いうさん、NKさんとご一緒した南無アッバのミサでの説教、東京教区報のインタビュー、最終講座の話、喜寿のお祝いの時の話と重なる部分があり、その時の神父様の様子が浮かんできました。今までの講座などの話のわかりやすいまとめのようでした。

<風67号が届きました>

 (^o^)/「井上神父の言葉に出会う」、第1部終了お疲れさまです。第2部も楽しみにしてます。

「文章がなってないといわれてきたのが、『愛を見つける』で初めて『あんたの文章になったんじゃないか』と矢代静一氏に誉められた」っていう井上神父様の発言を読みました。余白さんの読みはさすがですね。

年を追うごとに自然な軽みが感じられる神父様の本。良寛様の境地なのかなあと勝手に想像しています。

余白:小さき花さん、恐縮です。でも、井上師の文体の変化は、どなたでも時系列的にお読みになれば、すぐおわかりになることだと思います。明らかに「軽み」が出ています。その「軽み」というのが、これはおこがましいことですが、ぼくは30才過ぎて俳句をやってから理解できるようになったように思います。

「軽み」は「軽薄」じゃないんですよね。

でもなかなか、いわゆる「信仰熱心な」人は理解しがたいのですね。ラジオでそんなことを井上師も言っていましたね。

「井上神父の言葉に出会う」第2部は、「罪」の問題を考えることから始めようと思います。ただいま悪戦苦闘中。。。。毎日数行しか進まないのですが、それも御心のまま、という気持ちでコツコツやっています。 南無アッバ

nyankichi32950

○良い記念写真ですね。
記念写真は大事にしましょう。
今度こそ、会ってのみたいですね

澪泉

†煩悩を汗で流して秋の空

余白:108つの煩悩は、自分で汗をかき、働き、他者に奉仕することによって払拭される、自己相対化の境地のようです。

8月の善光寺にて

†梵鐘の 炎天の空 響く庭

余白:響くのが鐘であるより「炎天の空」かもしれないという錯覚、ダイナミズム。

†春の風無常迅速葉の桜

『無常迅速』人生はあっという間だから・・・

†瞑想に鶯の声共鳴す

本堂で瞑想をしていました。

静寂の中、鶯の声が聞こえると言うより響き渡っていました。

心地良い時間でした。

†万華鏡 綴れ織りなす 無限かな

「寂庵だより」8月号の入選作です。

余白:寂聴さんのファンなのですね。

私の恩師井上洋治神父のところへ昔、寂聴さんが来られたこともあったようです。

澪泉:はじめまして。ご挨拶もせず、投稿いたしましたことお詫びいたします。『余白の風』掲載なんて、身に余る光栄です。
一日一句、言葉遊びのつもりで句をつくっています。が、今 気がつきましたが私は縁あって仏教徒です。差支えがなければ ぜひお願いしたいのです。
求道俳句の趣旨には反してはいないと思いますが、読者の方に違和感はないでしょうか。

余白:ご覧になったかもしれませんが、『余白の風』は前回100号になり、細々とですが、14年余り続けてる個人誌です。
今はネットが中心で閲覧者はけっこういても、なかなか作品の投稿が多くないのですね。ぜひ継続して投稿お願いします。
月一回ペースで、まとめてパンフレットにもして何人かには郵送しています。
ご覧の通りぼくは井上洋治神父のシンパでして、神父はまた『法然』などの著書もあるとおり、仏教にも非常に好感を持たれているカトリック司祭です。
今のカトリック教会自体、他宗教との対話を奨励しています。俳句をとおしてお互いの学びや対話ができればうれしいですね。

   瀬崎峰永

<山ごもり>

†その夜、山が吹雪いた。

山の中で野宿していたぼくは、はげしく吹きなぶる雪風の中、

寝付かれず、凍った水筒の水を舌で溶かして渇きを癒し

深雪の上に湯気を立てて放尿した。

(もう傷付くのがいやだった二十歳の頃

 ひとり山ごもりを思い立った

  狼のような冷たい孤独と

 氷のように非情な眼が欲しかったのだ)

 

参道の老杉が風に大きく揺れ

空は黒く渦を巻くような音をたてていた。

指の先から凍りつくので

手を脇の下に突っ込み、エビのように小さく体を縮めて

震えているうちに尿意をおぼえる。

小便はあたたかい

まだ生きている証拠だった。

一方、飲む水は凍っていて、冷たい。

 

夜はさらに更けて

ぼくはたびたび小便に立ち、その都度生きている証しを確認した。

凍りついた水が

ぼくをとおって、湯気を立てて出てゆく

こんなふうに

他人からの冷たい仕打ちも

あたたかい情けにして世に返すよう

人はもともとそのように作られているのだと

それが生きている温度なのだと

横なぶりの吹雪にはげしく拒絶されながら

僕は感じ、そう感じたときにようやく

のっそりとした

まどろみが訪れた。

真樹

†麗らかな

春に乱れる八重桜

散るのも咲くも

風の悪戯

 

同じ桜木にありながら、ある花は散り、ある花は残る。いったいこの差は何だろうか?花びらの意志を顧みず、風が吹いて散る花びらがあれば、雨に落ちる花びらがある。けれども、全体として、桜木は完全な美を讃えて咲き誇っている。生と死と、散る人と残る人。あるいは人生における浮き沈みと。個人の意志を超えた運命の風に翻弄される人間を、それに重ねては切なくもあり、それぞれに差を持ちながら、全体として美を漂わせる桜木を見て、人間には割り切れない調和の奥深さに感嘆する毎日です。

 

比田井白雲子

†空が いのり

 

†おとずれ とんぼうやってきた

 

†空に とかしてもらう

 「鍵穴から預言者」の句は、警世の秀句と思われます。いつの世にも、人々の心のすき間に、よりそい訴え続けていくと信じています。

no name

†行く道を月は見ているネットカフェ

よく分からないけど、不純な動機で掲示板(キリスト教系だけど)を見に行ってるようで・・。

島一木

<テレーズの小さい花 その2>

†主は 私の目の前に
大自然の本を開かれました

主が 造られた花は
どれもみな それぞれに美しく
バラの 輝くような美しさも
百合の 清らかな白さも
小さいすみれの 香りや
ひな菊の かわいらしい
あどけなさを
そこなうものではないと
悟りました

もし 小さい花が
みな バラになりたい
と思うならば
自然は 春の装いを失い
野山には もう
色とりどりの花が
咲き乱れることがなくなると
悟ったのです

(自叙伝原稿A、5,p23)

<「テレーズの小さい花」について 2>
 最初、福音短歌と同じように31音前後でまとまったフレーズを抜き出せないかと試みたが、これは福音書とは文体が異なるので不可能だとわかった。そこで、音数幅は自由にして短詩の形で抽出することにした。
 幼いイエスの聖テレーズを私が知ったのは、1987年にアラン・カヴァリエ監督の映画「テレーズ」を観たことによる。まだ教会に行ったこともない頃だった。自分が生きている世界とは全く異なる静謐そのもののような修道院の生活のシーンが、強烈な印象になって頭に残り、三度も映画館に足を運んでシスターが売っていた聖テレーズの自叙伝を買った。映画「テレーズ」は、信仰者の目で見るとテレーズの人格を歪曲している箇所があったりしてかなりの問題作だが、キリスト教にそれまで関心のなかった者にとっては、キリスト教や修道生活への認識を深めて憧れを抱くきっかけになったように思う。
 「テレーズの小さい花」は、幼いイエスの聖テレーズの思想のエッセンスを抽出するというような大それた気持ちではなく、まだキリスト教に関心を持たず教会にも行っていなかった頃の私が、なぜこの聖女に魅かれたのだろうか、という目で引用箇所を選んでいる。
 従って、信仰上の価値観からすれば、なぜこんな箇所を引用したのか、なぜこの部分を選ばなかったのかという不満を抱く方も出てくるかもしれない。私は、読者にこの純粋無垢のような聖女に興味を抱いて欲しいと願っているし、興味を抱かれた読者にはぜひ原本を読んで頂きたいと願っている。そのきっかけにでもなれば、という気持ちでこの作品を作ることにしたのだから。

余白:わたしたちも、つい「おれが、おれが」と思わず力んでしまい、結果が現れないと、自分が小さく見え、いらだちや落ちこんだりしてしまいますね。どの正当な宗教も、その基本は自己相対化にあるということを、思い起こさせてくれるすばらしい言葉です。常に心したいものです。

ウッディ

<はじめまして>

今つらつらと身の上話を書いていたですが、重く、暗いのでいったんけしました(苦笑)

はじめまして。簡単に言ってしまうと、私は人生挫折しまくりの無宗教のものです。無神論者? というほどでもありませんが、無関心でした。しかし、遠藤周作先生の「深い河」や、メル・ギブソン監督の「パッション」をみるにつれ、キリスト教にひかれつつあります。ただいま入門書のようなもので少しずつ勉強中です。近いうちに、教会のミサというものに参加してみたく思っております。 しかし、キリスト教もその中でたくさんの宗派のようなものがあるのですね。

それぞれがどういうもので、自分に合うのは

どれどれだというのはやはり見極める必要があるのでしょか? 乱文失礼しました。

ちりの こ:主イエス・キリストがウッディさんを導いてくださっていることを神に感謝します。

しもべは『キリスト教がよくわかる本』が最初です。ほめ歌を歌うのもいいです(^^

余白: そうですね、遠藤さんのご本にひかれたのなら、やはりとりあえず、カトリックか聖公会あたりの教会がいいんじゃないですかね?もちろんカトリックの人がみんな遠藤さんの信仰に100%賛成、というわけでもありません。なかには批判的な人もいるし、プロテスタントでも遠藤ファンはたくさんいます。ただ、遠藤さんもメル・ギブソンもカトリックではあるので、そういう懐の深さみたいなものは、ミサに出ると感じられるかもしれません。いずれにしろ、「これこれの信仰の持ち方じゃないとダメだ」というような教会や信者には近づかない方がいい、というのが僭越ながら、ぼくからのアドバイスです。

 いう

<ネット復活>

 さて、だいぶ前のことになりますが、井上神父様のアッバ・ミサ(6/19)、しみじみと味わいました。ミサ前の鳥の声、いいですね。メッセージの中に、奇跡物語の捉え方が触れられていましたが、非常に共感できるものでした。

ひとつ、自分自身不思議に思ったことがあります。祈りの中で「アッバ」と呼びかけるとき、気恥ずかしさを感じました。「おみかぜさま」も(ああ、こんないい表し方がある)と感動したのですが、やはりその場では、口にするのが気恥ずかしかったような気がします。

多分慣れていなかったせいもあるのでしょうね。今は「アッバ讃句」カードをベッドサイドにおいて、寝る前に口にしています。

余白:これは大事な指摘だと思います。日本的イエスを模索するなら、日本人が「気恥ずかしい」というのは問題なのですね。実は僕自身のことを告白すると、キリスト者になったとき「イエス様」というのが「気恥ずかしかった」のです。今でもちょっと恥ずかしい。何か偽善のような感覚?をちらと感じてしまうのです。「倫理」の授業などで、「イエス」というのはなんら抵抗はないのですが。で、カトリックの昔のように「イエズス様」というのは、抵抗がないのです。なぜでしょう?けっこうこれは、根深い原因が自分の中にあるようにも思っています。いうさんは、鋭い指摘をされている。「アッバ」というのは、アラマイ語の解説をされなくても日本人は、赤ちゃんをあやすとき、「アババババー」なんて言います。幼児語だと感覚的にわかっちゃうのですね。それが神の名だ、なんて言ったら、「おいおい」ってなことになるのは普通なんだと思うのです。でも、その当時としても「おいおい、普通じゃないよ、おまえ頭大丈夫か?」っていうふうにとられる異常な?感覚で、イエス様は前代未聞に、「アッバ!」と叫んだんだと思うのです。怒ったり、恐れ多い、気恥ずかしいって直感した人も、たくさんいたと思います。でも、その「アッバ」こそ、父なる神様に「よし、よくぞわしを言い当てた」と誉められた名前だったのですね。それは復活が証明している。だから気恥ずかしくてもぼくらは、聖霊とともに、「アッバ」と祈ってイイのだと思います。みんなの前で恥ずかしかったら、布団かぶって小さく「アッバ」でもいいんじゃないかな。。。というか究極的には、言い方は何でもいい。ともかく手の届かない、堅物のお父様じゃなくて、「おとーちゃーん」って抱きついていける方だという思いが込められていれば、なんでもいいのだと思います。

後記:本誌100号をこえたことを機に、今号から1号分の体裁をA4版4頁に限定し、主宰の編集意思が、より明確に示されるようにしました。したがって今後、紙面に収まるよう投稿を精選させていただくことになります。なお洩れた原稿は即ボツではなく、次号以降の候補作品とさせていただきますので、あしからずご了承ください。(余白)

「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先 メール掲示板yahoo求道俳句板

 

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