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余白の風-求道俳句とエッセイ」第109号 2005.5

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本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任) 投稿先:掲示板ICF求道俳句板

 

井上神学を読む:余白

洗濯日和/からすも一緒に南無アッバ     井上洋治

自然との一体感を大切にする井上神父の姿勢が素直に出ている句です。
ご存知の通り、「神父」は独身生活を送りますから、身体が動けるうちは自炊生活。おさんどんは一生のこと。
ですから、80に近い井上師にとっても、「洗濯」は日常茶飯事です。
ちなみに、この一つ手前の句は、
朝食のあとかたづけ/お皿こわして南無アッバ
です。
そして「からす」。井上師の文章にはたしかに自然がよく出てくるのですが、そのほとんどは特別なものではなく、花なら「たんぽぽ」や「すみれ」、鳥なら「すずめ」や「からす」。みな、どこでも見かけるありふれた自然です。
「お皿」をこわしたり、「からす」と洗濯をしたり・・・・わたしたちとなんら変わらない生活をしながら、しかしその心底には深い祈り「南無アッバ」がいつでも響きわたっている。。。やはりこれは、ひとつの境地だと思います。


2005/04/21

 

煩いを神に投げ込み鳥帰る     栄一

「あなたがたの思い煩いをすべて神のもとに投げ込みなさい。神があなたがたの面倒をみてくださっているのだから。」(一ペトロ5:7 岩波訳)

を踏まえての句。
この箇所は新約聖書中でも、大きな慰めと励ましを与えてくれる言葉で、私も大好きなのだが、一般には、

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(新共同訳)

というふうに訳されている。
新共同訳の「神にお任せしなさい」が、岩波訳では「神のもとに投げ込みなさい」になっている。「お任せ」でなく「投げ込む」とは、いかにもぞんざいな言い回しのようだが、わたしとしては、よりリアリティを感じる。

井上神父の祈り方を思い出す。
師はわたしたちのためによく祈ってくださる。御自身のために祈ることはほとんどない。その祈り方がユニークだ。
黙想のなかでイエス様の十字架の下に、依頼された人の苦しみや困難を風呂敷に包むようにして、「アッバ、よろしくお願いします」とポンと置く。
心配事があるときも、同じように風呂敷に包んでまたポンと置く、という具合。。。
ああしてくれ、こうしてくれと、くどくど言う必要はない。本当に必要なことはアッバが備えてくださるから。

 

会員作品集2−180

光浴び新たにされん復活祭   いう

主の御復活おめでとうございます。まるで決まりみたいにイースターから暖かくなります。初めて教会まで歩いていっていました。数十分の道のり、庭先に芽吹いた緑を見つけたりカージナルの恋の歌を聞いたり、楽しい発見がありました。すべてが「主の復活」に生きているようで、うれしいイースターです。

余白:はい、ぼくも普段は車ばかりなので、ミサへ電車にのったり、歩いたりすると、なんか新鮮に風景が感じられますね。今日はこちらも、朝から快晴です。

贈る枝かの地に根付け友帰る   いう

飛行機乗り継ぎでできた時間に我が家を訪ねてくれた友達、ほんの数時間で帰っていきましたが、うちにある鉢植えの枝を挿し木にしたいと、切って持っていきました。

余白:贈ったり贈られたり、、、その間に主人になった家で、大切に育てられ、やがて鳥が巣をつくるほどに、、、、いいですねー。

 

実はその鉢植え、以前、彼女が引っ越していったときに私にくれたもの。枝としてはかつてのご主人様?の元に戻ることになるわけですね。元気にかの地に根付いてほしいです。

ナツメロはみな哀しかりけり宗因忌     栄一

復活の主に祈ります疑えば聖痕見せに来てくれますか ako虫

ついでにさわらせてくれますか?

余白:現代のトマスですね。

春荒れの心四月は立ちにけり   いう

目のくらむような思いをしている人も多いことでしょうね。

余白:まさにここ数日くらみっぱなし状態で〜〜〜す。。。

話し掛けそびれて過ぎし白木蓮     栄一

教皇の御帰天に 2005-4-4

輝けるたまは祈りに送られて天駆け上り主とともにあり   いう

復活の主のもとに君休まれよ解き放たれたかろきたまにて

余白:このような死後のイメージの明るさ、これがなんといってもキリスト教の強みではないでしょうか。

亡くなられた教皇様は、カトリックまたキリスト教のイメージをも大きく変えられましたね。教義的には保守でしたが、包括主義的な考えなど刷新にも積極的でした。

悲愛の日ミサ声響くビル谷間     栄一

2005-4-5

逝きしきみに 祖父の面影重なりて   厳禁

聖名讃美

お久しぶりです>all

法王様って何気に亡くなった祖父とイメージが似ていたのでした@厳禁

今、喪失感でいっぱいです。でも、生きていかなければなりませんですしねぇ。残された者としては・・・

主の平和+Amen

余白:厳禁様<あんな素敵なおじいちゃんは、なかなかいませんねー。あこがれます。

初蝶に手元を休む庭仕事   いう

2005-4-9

春になると早い早い!もうすべてが駆け足です。モンシロチョウがちらちらと飛んでいるのを見つけました。

余白:いう様<そう早いですねー。昨日は始業式・入学式・・・・めがまわりそう〜クラクラ。

聖句より俳句に和む春かなし      栄一

 2005-4-10

冬毛落つ猫は野原を恋うて鳴く   いう

春になるとなぜかじっとしていられない・・・。猫とそぞろな気持ちをもてあましつつ、家の中をうろうろ・・・。

108号、発行おめでとうございます。先ほどざっと見て来ました!「ビジュアル重視」ですね。(^^)も一度じっくり読んだら感想を書きに来ます。

何故と問う自由は恵み桜花   ako虫

本日は自分の教会ではなく、すぐ近所の教会の礼拝に参加しました。

ナゼ?を考えない思考停止状態より、神様にナゼ?とはっきり聞いたほうがいいし、自分の意見は神様にちゃんと伝えないとね、いつか答えはもらえるはずだからね、もし生きている間にもらえなくても、神様のおそばに行ったとき、答えてもらえると思うよ、という内容の説教。

余白:近いところに教会があるのはいいねー。ぼくは最低でも車で30分はかかる。定年後は歩いて3分の教会の近くに住むのが夢です。

満開の桜を抜ける怒りかな     栄一

職場での人事環境の急速な変化やら、体調変化など、ストレスのたまりやすいこの頃。
ふと気がつくと、そういうときは祈りを忘れている。イエス様のお顔を忘れている。

葬儀の行われている教皇様の生き方を思う。人間だもの、怒りもストレスも感じただろう。しかし深い祈りによって乗り越えてこられた。イエス様、アッバに対する堅固な信頼だけが拠り所だったに違いない。
あらゆる人々に対する、あの柔軟な姿勢と、絶対に妥協しない態度、という一見矛盾する姿の中心にあるものは、神への絶対信頼とそれを確認する祈りだったのだと思う。少しでもあやかりたいものだ。

↓三男坊の入学式で満開の桜

 

Re:Hirokochan

今日、ピアノ生徒が私の横にすわったとたん、
「今週は家族全員とっても、かなしかった」といってなきだしたので、
「どうしたの?」ときいたら、
「ローマ法王様がなくなったからだ」ということでした。私の本にでてくるローレンという子ですが、彼女の一家は、カトリックなんです。
「でも、やっと、神様と一緒になれるわね」といって、なぐさめましたが、パウロ法王が、いかに大勢の人々に影響をあたえたのが、わかる出来事でした。

Re余白

そうですね。今日の主日の説教でも、フランス人の神父が、「全世界的のこれほど影響を与えた教皇は歴代いない」と話されていました。
そして今むしろ、亡くなってからこれからが、教皇様の生前のお仕事の結果が出てくるのだと思います。
わたしたちもその苦難に満ちた生涯を、無にしないように努めましょう。

 

聖日の朝

聖日の朝黄水仙ロザリオの珠とし数え唱ふ祝詞よ    いう

この春初めて咲いたのは黄色い水仙。黄色の花はまわりに明るいパワーをはなってくれていいですね。まるで笑っているみたいです。

余白:はい、日曜にお花見に歩いて、やはり可憐な水仙に、はっとしました。

ロザリオへの発想がユニーク!佳

家抜きカー抜き平和有り   厳禁

聖名讃美

ある意味負け犬の遠吠え?かもしれませんが、厳禁の近所の一戸建てにお住まいの奥様が「家は、家付きカー付きばばぁぬきで結婚したんだけど、なんか歳とってくると面倒見無いわけにもいかないし、家のローンも車のローンも残っているから、共働きで・・・ホームに入れちゃおうかしら」

とこぼされているのを 聞き、家に帰って旦那様に報告!

欲のない嫁で良かったでしょ?な〜んて・・・性悪?かもです。

余白:ぷぷぷ。相変わらずいいのりしてますね、厳禁さま。

家も車もローンが残る。ばばぁ抜きと思っても義理人情が残る。。。わたしたちの人生も必ず何かを後に残すものです。

ダーリンからの返歌を ご披露させていただいてもよかとでしょうか?

といいつつもう投稿しているいけない厳禁

無欲より問題なのが無能力    厳禁旦那様

そうだったのね〜でも、無欲にもポイントはゲットできている訳よね?違う?無欲さを 補ってなおあまりある無能力 自爆っ!

いう:厳禁様へ、うちのだんな君がかつて発したおことばをお知らせします・・・・

「主婦」じゃなく「遊び人」てふ定義され   いう

しかも、その通りだから何も返せず・・・_| ̄|○ ガクリ

余白:いう旦那君、厳禁旦那様句評

けっきょく、貴女方のそういう「無能力」「遊び人」部分に惚れたということでしょ。

ごちそうさま〜〜〜♪

 

2005-4-12 エマオへの道

パンをさく君とし認むエマオへと心燃え立つ道たどり来て   いう

イースター第3聖日の聖書はエマオへの道でしたね。

イエスがパンをさいたときに初めてその人だと気がついたと言うのが不思議です。聖体拝領(聖餐)ごとに感じる主の臨在、そのこととのかかわりを思いました。

さて、108号、じっくり読んできました。お写真楽しかったです。右近さんとガラシャの絵もある玉造教会や、石庭のお写真、おお♪と思いました。(右近は私がカトリック教会に行くきっかけとなった人なのです。)

余白:はい、春休みに三男と妻があちら方面に旅行してとってきた写真です。

井上神父様のお写真、元気な神父様を見てうれしく思うとともに、和風テイストの祭服のストール(正式にはなんというのでしょう?)やお道具類にも興味津々。

余白:いろんなところに日本的心情を素直に取り込んで工夫されています。

今回、「余白の風紹介文」が冒頭に戻ってよかったです。(友達に紹介しています。四谷で学生時代を過ごした彼女は、記述が懐かしかったといっていました。)

投稿句に一言ついているのは背景がわかったり、また味がありますね。

それから、「ヨハ句日記」(^^)!あんなふうに日記が付けられたら良いなあ。

余白:はい、私もこの記事大好きなんです。キリスト信仰のいろんな要素がふんだんに入っている箇所なんですよねー。

ルオーの絵がいい。

春愁にのたうつ蛇や谷深く     栄一

こうと決めて、こうしようと決意しながら、割り切れない何かに引きずられていく私たち。

人を愛する、などと言っても、なかなかできることじゃありません。

せめて、申し訳ない自分を神様の前にそのまま差し出すこと。

アッバはこの苦い酒をいつでも飲んでくださいます。

こうと決めて、こうしようと決意しながら、割り切れない何かに引きずられていく私たち。
人を愛する、などと言っても、なかなかできることじゃありません。
せめて、申し訳ない自分を神様の前にそのまま差し出すこと。
アッバはこの苦い酒をいつでも飲んでくださいます

チェリー0328:主の御手の中で育てられている我が身は神様の前に差し出しこと多く、願いも同じく多くなり(に)けりという感じです。
我が魂の砕かれた心となれるのはいつの日か。ありがとうございます。

余白:完全に魂が砕かれるのは、死の時なのかもしれません。その意味でも、井上師がいうように、「死は完成の時」なのでしょう。

チェリー0328:主よ憐れみたまえ キリスト憐れみたまえと祈ります。ありがとうございます。

連翹が揺れるを眺め春の風邪   いう

水仙に続いて連翹咲くも、春の風邪にて私も鼻盛り・・・?!くずかごティッシュの山なり・・・。

 

福音短歌 その50   島一木

わたしは 真の

ぶどうの木であり

わたしの父は 栽培者である

(ヨハネ15:1)

わたしに 付いていて

実を結ばない枝は すべて

父が 切り取られる

(ヨハネ15:2)

実を結ぶものは すべて

もっと豊かに 結ぶように

父が 刈り込まれる

(ヨハネ15:2)

わたしの内に 留まって

いなさい そうすれば

わたしも あなたたちの内に

(ヨハネ15:4)

ぶどうの枝が 木に付いて

いなければ 枝だけで

実を結ぶことはできない(ヨハネ15:4)

ごめん、空にいってみた   比田井白雲子

空にとける さえずりのなかに、おられる

ちょっとおちこんで、今月号(108号)には、あらゆることで救われました。ナームアッバ。

http://bbs.christian.jp/modules/bluesbb/viewsread.php?topic=8&sread_id=128&number=101-200 より編集分を含む)

近刊『俳句でキリスト教』

こんにちは。著者の余白こと平田栄一です。
このたび10年来小誌「余白の風」等に連載してきました「俳句でキリスト教」をまとめ直し、また書き下ろし稿も加えて、サンパウロ社より上梓する運びとなりました。B6版約270頁(予定)。定価・出版月(今月中には。。。)は決定次第、掲示板等でお知らせします。

そこでさっそくですが、著者直送の予約販売を受け付けたいと思います。
ご購読いただける方は、余白メール(またはハガキ)にて、
(1)
送付先 (2)ご氏名 (3)著者サインの有無(「〜様」の指定)(4)冊数をお知らせください。
予定ですが、今回郵送料はサービス(著者負担)させていただこうと思います。お支払いは本書到着後、郵便振替等でお願いすることになるかと思います。
どうぞよろしくお願いします既刊書

<内容紹介>
キリスト信仰の立場から、俳句によって触発された求道的エッセイとして、気楽に読んでいただければと思います。俳句やキリスト教について初心の方にもお読みいただけるように、できるだけかみくだいて書いたつもりです。
俳句からキリスト教へ、あるいはキリスト教から俳句へ、心の旅をごいっしょしましょう。

 

山根先生ー井上神父『福音書を読む旅』による聖書講座:小さき花2005.04.16

井上神父『福音書をよむ旅』はNHKラジオ講座のテキストで、1冊にして出版されるとき、短くするために「無理解な弟子達」の章が省かれました。

政治的解放者であるメシアを待望していた人々や弟子達はイエスを政治的王.上からの力、武力によって世界を変えるメシアだと期待していました。
最後の晩餐のときまで弟子達の誰かえらいかという議論は,イエスは王で、重要な地位、大臣は誰か。これがイエスと一緒に過ごした生前の弟子達の姿です。私達と同じく俗物的でイエスが何を一番大切にしたか無理解でした。
上に立つ者、本当にえらい者は仕える者となりなさいとイエスは教えました。
「支配を委ねる」という聖書の言葉も権力によって,上から支配するのではなく.愛によって下から支えるという意味です。
カトリックのヒエラルキーはヨハネパウロ2世の葬儀,コンクラーベの報道で理解が広まりましたが、「上に立つ者が一番仕えるものである」教皇はすべての人に仕えるものという意味はあまり伝わっていません。

イエスは弟子達の足を洗うという自分の態度で、弟子達に何が大事かを示しました.汚れた足を洗うのは召使いでさえしない、奴隷の仕事です。一番低い人の行為を最後の別れの時に行い「この上なく愛し抜かれたのです」,自分の体すべてで愛を示したのです。
イエスは弟子達でさえ、教えが生きている間に伝わらないことを覚悟しています。実際弟子達は分かっていませんでした。
キリスト教は不思議です.普通は師が生きている間に弟子達に教えを伝え、広めるのものです。
一番汚いところを私に出しなさい.私がそこにふれることで私との絆ができますとイエスは言ってます。これが洗足です。
足を洗われた時ペトロは恐縮するばかりだったでしょう。
イエスの死後、この時のことを思い出し、自分の汚い部分にふれて清めてくれた、一番下の人がする仕事をしてくれた,あの行為は極みまでの愛でイエスが自分たちを愛してくれたのだ,と追想の中で内なる喜びがわいてきたでしょう。
血とホコリで汚れた足を踏み絵の上におろす喜びー『沈黙』の最後の部分です。汚しながら喜ぶーこの部分は評論家に近親相姦的だとか、いろいろ解釈されてきました.
汚れた足をイエスに受けとめてもらう「喜び」。ロドリゴの5年後の追想の中で喜びがでてきます。踏み絵を踏んだ時は足の痛みだけでした。
キリストが愛によって自分を受けとめてくれたということをあとから思い出したのです。

イエスは「互いに足を洗いあいなさい」と教えます。互いにお互い醜い部分にかかわっていきなさい。醜い部分にふれて絆がうまれるのです。醜い部分には関わりたくない、あるいは相手を責めたり裁いたりしてしまうのが普通です。洗足はお互いのそういう部分も受け入れ大切にする「愛」を教える象徴的行為です。

イエスのイメージはローマ公認後、政治的王の権威を高めるために、さらに上の高い権威ある姿となりました。イエスの言う人々に仕える者、自らを捧げる生き方という王のイメージが失われしまいました。ヨハネパウロ2世が人々、平和,人権のために奉仕する姿は本来の王,上に立つ者の姿というものです。

最後の晩餐で弟子の足を洗いミサを制定するイエス。なんと深い愛と思うのに、
ユダだけが冷たく取り扱われていると聖書を読むとひっかかります。裏切ることが分かっていてなぜ弟子にしたのか、イエスに失望し去っていった人は大勢いたのに、なぜ会計の大役を.福音書のイエスはユダに冷たく、イエスの愛から除外されています。弟子達も皆イエスを裏切り見捨てたのに。
福音書が書かれた時には、弟子達の中で自分の罪の大きさに首をつって死んだユダだけがいなかったため、ユダが悪いとなりやすい状況でした。
福音書自体、旧約によって根拠づけられているので旧約に描かれた裏切り者の存在が必要でした。実際のユダがどのような人物であったかはわかりません。
新興宗教であったキリスト教は当時ローマでも認められていたユダヤ教の旧約の権威づけが必要でした。旧約による根拠づけの重要性は、「わが師イエスの生涯」でも詳しく書かれています。
その後の歴史でユダがずっと差別され嫌われることが分かっていたので、イエスはかわいそうにと思って「生まれてこなければ良かった」と言ったのか、あるいはその言葉も言わなかった可能性もあります。
『その前日』という遠藤さんの小説で生死をかけた大手術の前日,井上神父との話でユダへのこだわりが語られます。「しようとすることをするがいい」にはユダの苦しみも分かっていての言葉で、イエスの極みの愛にはユダも入っているというのが遠藤さんの解釈です.
http://plaza.rakuten.co.jp/sarusuberi/diary/200504160001/ より転載させていただきました)

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ここ20数年、78a5131d.JPG俳句を自らの求道形式、祈りととらえて実践してきました。と同時に、「俳句」という最短詩型に、過去・現在の日本人キリスト者が自分たちの信仰体験をどう詠み込んでいるか、また、わたし自身キリスト者として俳句一般をどう読むか、にも関心をもつようになったのでした。 奇しくもそれは、「日本人とキリスト教」という、故遠藤周作氏が文学において、また井上洋治神父が神学において追い求めてきたテーマに直結することでした。そして俳句によってこのテーマを追求することが、わたしのライフワークと考えるようになったのです。 みなさんも、句作による祈りにぜひご参加ください。(余白)

付記:ヨハクブログhttp://blog6.fc2.com/yohaku5/ も始めました。遊びにきてください。

 

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