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平田栄一サイン本
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求道俳句会誌「余白の風」第115号 2005.10

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本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:掲示板 ホームページ「今を生きることば

目次:虎さんほんとに可哀そう:いう... 1  求道俳句会9月作品... 2  114号の感想... 2

まえがき&あとがき:今号はとくに、信仰・ネット・俳句の友で、アメリカ在住の「いう」さんに原稿大活躍していただきました。ありがとうございます。

タイトルあるいは俳句の項目でお気づきかと思いますが、本誌を求道俳「句会」誌と改めて銘打ちました。

文学が日本人にとっては無意識に宗教の代役になっている、という論はよく言われているところで、俳句などももともと求道的な要素は強いと思います。

この「求道性」をなんらか意識しながら作品をつくる、わたしたちの方向の独自性はこの点にあるのではないかと思います。

そのために集う「場」がこの「句会」であることを、もう一度確認したいと思います。(余白)

 虎さんほんとに可哀そう:いう     

代母さんのスーザンとあったときのこと。ご好意で送っていただいた井上神父さんの2冊の本の話を、私は興奮気味に伝えていました。

神父さんはフランスでの修道生活を経て帰国し、司祭になられたことを説明。今はキリスト教の日本文化内開花のためにお働きになっていることを伝えて、詩集「風の薫り」と「日本とイエスの顔(英語版)」を見せました。

「どんな詩をお書きになるの?」と聞かれたので、私は詩集を開きました。そこには「虎さんほんとに可哀そう」が・・・。

私のとつとつとした訳で、詩のどこまでが伝わるのかわかりませんでしたが、英語にして読んでみました。

 

   虎さんほんとに

     可哀そう

   親兄弟から離されて

     こんな小さな檻のなか

    たったひとりで淋しそう

     昨日の夢はなんだった・・・

 

最後まで読んだあと、スーザンはぱっと立ち上がり、本棚まで行って一冊の本をとってきました。

「今の詩を聞いて、これを思い出したんだけど・・・」と。

それはウイリアム・ブレイクのThe Tyger。わざとTigerをtygerとつづったタイトルです。

 

Tyger! Tyger! burning bright

In the forests of the night,

What immortal hand or eye

Could frame thy fearful symmetry? ...

 

詩の主題は「虎さん・・・」のほうは、虎への共感や寄り添う気持ちであるのに対して「The tyger」が虎という生き物への感嘆のような気がしますが、やはり虎に問いかけるという形がとても似ていて、興味深く読みました。

ウイリアム・ブレイクのほうは、別のところに「子羊作ったその方(神)がおまえもそうして作ったか」(byイウなんちゃって訳)とあって、なんだか違いが際立ってるような・・・。示唆的・・・。

その後、井上神父がヨーロッパでの神学のありかたに違和感を覚えたことを、(もう、本当にめちゃくちゃな英語でどれくらいちゃんと伝わったか!(><)ああ、もう少しましにしゃべれたら!)いろいろ説明。

「それはよくわかるような気がする。神学って言うのはやっぱり時代や人によって発展していくものだから・・・、」とスーザンがひとつの話をしてくれました。

よく公共ラジオに出るリチャード・ロドリゲスという人は、父親から実験的な英才教育を受けた人なのだそうです。そして彼は非常な秀才であったのですが、あるとき、精神的な挫折を経験します。長らくそういう時間を過ごしたある日、彼は太陽の光に驚かされる時を迎えたそうです。

スーザンいわく、彼はそれまでにも、太陽の大きさや地球までの距離や光線はどんなものだとか、そういうことは知識でわかっていたけれども、初めてそのとき太陽の光をあびて感動したのね、と。

私はガーン(ToT)、という気持ちでした。なんだか、著書の中で繰り返し井上神父が書いている、知識として「知る」ことと体験として「知る」ことは違うというのを、スーザンの口を通してもう一度教えてもらったような気がしました。

私はトーマス・アキナス(最初、「秋茄子」って変換されちゃった!)が幻を見た話を思い出しました。

「あのトーマス・アキナスが、ヴィジョンを見た後、著作をもうすっかりやめてしまったってどこかで読みました」

「そうなの?」

「あれほどの神学者がすっかり書くことをやめてしまうような幻ってどんなものだったんでしょうね」

トーマス・アキナスが詩人だったら、そのことを詩に残したでしょうか・・・?

本当に深い宗教体験というものは普通の言語にはできない、ということも井上神父の本に出てきます。

詩の力って偉大・・・、とおしゃべり。スーザンは次々に本を取り出して(これは私とそっくり!)「それはこれと関係あるかもしれない。この本にはこういうことが書いてあるの」と。

薦めてくれた詩に関する本(鉛筆でいっぱい線が引いてあった)をめくっていると、なんと紀貫之の古今集の仮名序が英語になっているのに遭遇!

「スーザン!」と叫んで、「これはこの井上神父の本に引用されている文なんですよ! 何回も著書の中に出てくるんです」

「本当?」

と本をめくって確かめる二人。

(詩の本には、私の好きな和泉式部の歌や、この間の狂歌の元の小町の歌が英語になって載っていて、それに関する解説もついていたのでした。芭蕉の句も・・・。もちろん借りました。今度は英語でも狂歌作りだっ!(^^;))

スーザンは、その後、「日本とイエスの顔」の前書きを読んで、「イウ!これはすごく大切なことだと思う。私、この本を読みたい」って。私は日本語版を持っているので、また会うときまでに読んでおきましょうということになりました。(^^)!

井上神父が遠藤周作の小説の登場人物のモデルになっていることも伝えました。するとそれもメモしている。私は「深い河」の英語版をなぜか(^^;)もっているので、今度貸すことを約束しました。

代わりにスーザンからはたくさんの詩の本、詩の子供への教授法の本、バチカンに関する本などを借りました。

もち切れないのを見て、スーザン、大きな箱を持ってきた!(^^;)

読む本がたくさん!

「若くして死ねません、私。」

「私も同じよ!」

にやりと笑う二人。

こんな代母さんとめぐり合わせてくれた神様、ありがとう(TvT;)

読書だ、読書だ〜!!まずは井上神父の「日本とイエスの顔」じっくり読みますよ〜!!(^o^)!

求道俳句会9月作品

マタイ伝20章「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。」より一句

返信待ちまたハガキ書く秋の窓   栄一

待つ宵の窓に差す明りほのかかな   いう

余白:拙句は昼の、いうさんは夜の句。見えるものは違っても、待つ相手は同じかも。

虫の音に虫の音重ね人黙る   栄一

仲秋の名月しかと脚白き   〃

てんでに鳴きバッハを凌ぐ夜の虫   〃

いう:本当、それぞれの虫にあふれ出す秋の気持ちにはかなわない。

また暑さ戻りて思考逡巡す   栄一

ルカ伝8章「隠れているもので、あらわにならないものはない」を黙想しつつ、埼玉県菖蒲町に散策して2

赤白と咲き移りゆく萩の花   〃

根に近き黄蝶幽かな息づかい   〃

いう:こちらも秋の蝶がよく見られるようになりました。朝晩だいぶ気温が下がっているのでどうしているのかなどと思いますが、だからこそいじらしく命をつなごうとしてるのかもしれませんね。

 

ルカ伝8章「わが母とは、神の言葉を行う人」より

秋雨に御言葉近き交差点   〃

聖マタイ使徒福音記者祝日

聖霊の降るまで野分マタイ伝   〃

いう:イエス様が招いてくださるまでのマタイの心のざわめきを思わせますね。

 

ルカ伝99節「・・イエスに会ってみたい・・」より

秋冷やうわさの主は袈裟懸けに   〃

ルカ伝918節「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」より(赤羽教会にて)秋分や主の先唱に主の祈り   〃

ルカ9:43-45「言葉」より

降っては聞き止んでは聴く秋のロゴス   〃

周辺の気軽さ暗さ秋怒涛   〃

マタイ21:31-32「父の望みどおりに・・・・信じた」より

信頼こそ大業なりや難民日   〃

小さいものこそ偉大(ルカ9

今朝出勤途中、菖蒲町の見沼代用水沿いに出たところで、おびただしいトンボの群れに遭遇。

よく見ると、ほとんどのトンボが前後につながっている。一斉交尾??!

それが、菖蒲から羽生まで、10キロ近くにわたって同じ状況がつづく。すごい!いったい今日は何の日なのか?彼らはどう申し合わせたのだ?!

ネットで調べたら、こんな文章が見つかる。

http://www.nextftp.com/y_misa/tera/kaki_b024.html

まさに同じ光景を、寺田寅彦がずっと昔に書いていた。

どこかで見た読んだ文章だと思ったら、出典を見て納得。以前読んだ『柿の種』(岩波文庫)からの短章だった。

こんな「俳文」が書けたらいいな、とあこがれていた本である。

一斉に蜻蛉つながるたなごころ   栄一

 イエスはエルサレムに向かう(ルカ9)

一夜明け、あれほどおびただしかったトンボの群れはどこにもなく、かわりに彼岸花が咲き誇っていた。

聖堂を千手に抱く彼岸花   〃

いう:本当だ。彼岸花の細い花弁の一つ一つが、差し出だされた腕のようですね。いなくなった、前日のたくさんのトンボたちのイメージも重なりますね。

 

ネット喫茶からです。立ち寄ったごあいさつに、回文句をおひとつ。

糸瓜の蔓鳥らふらりとルツの町へ   一木

(へちまのつるとりらふらりとるつのまちへ)

古いノートから見付けた句です。キリスト教回文句なんて一時期考えたんですが、回文は、難しいです。ではまた。

余白:回文は、凝るとけっこうはまる、という話を聞いたことがあります。ボクは作ったことがないけど、うまいもんですねー。

 

『俳句でキリスト教』を喜んで拝読して居ります

私も仲間入りしたくなりました。感情の儘の句です。

鶺鴒の足もと叩く雨飛沫  末子

余白:「鶺鴒」というと思い出すのは、海藤抱壷という俳人です。拙著にも何句か紹介しましたが、山頭火の東北の親友です。

山頭火が彼を見たとき、「鶺鴒のような人だ」と評したといいます。

何か飄々として、さわやかな、それでいて優しい人格だったのでしょうね。

道に出る芋虫怒髪天を突き   〃

余白:秋雨の切れ間に、芋虫が這い出ているのを私も見ました。うれしいのか、避難しているのか、図りかねました。

いう:末子さんこんにちは。「いう」と申します。
私の住んでいるところに、「ウーリーベア(毛むくじゃらのクマ)」と呼ばれる毛虫がいます。この時期、林に入ったりするとたくさん道に出てきているんです。
その毛虫、体の中央から前後に茶色と黒に色分けされています。ツートンカラーの不思議なデザインです。道を横切る速さはなかなかなもので、つんつんの毛をものすごい速さでせん動させながら走っています。
地元の人は茶色と黒の比率でその年の冬の厳しさを占うのです。根拠は無いんですけどね(^^)
さて、何か頭に来たことがあるたびに「怒髪亭イウ朝」と変化し、ものすごい剣幕を張る私です。
ですから、末子さんのこの句、外出して何事かに腹を立てた私が、ウーリーベアになって「ブツブツブツブツ・・・」とせん動しつつ行く様子が思い浮かんでしまって、非常に親近感を持った次第です。(^^)なんだか楽しくなりました。
怒髪天をつくような状況でも、いもむしさんだというところが、ほっとできたり、こっけいでちょっと哀しかったり・・・。ありがとうございます。

一振りの鎌に飛び立つ草雲雀   〃

余白:人間の営みと自然との共鳴。「一振りの鎌」は毎日の小さな仕事にコツコツ勤しむ態度の象徴。この「草雲雀」は、驚きというより、祝福の羽ばたきなのじゃないだろうか。

秋灯火「こころ」読みつつ胸痛み   〃

余白:いつまでも古くならない夏目漱石の名作ですね。高校の教科書によく載っていたのですが、この歳になってようやく味わえるように思います。

敬老日嫁の笑顔とギフト券   〃

マタイ2820を頭に刻みました。

余白:いいお嫁さんですねー。今や男の子はみんな実質お婿さんに行っちゃう時代ですよね。うらやましい!

そう拙著にも書いたように、マタイ伝はなかなか読みにくい福音書なのですが、「ともにいるイエス」を繰り返している点は、すばらしいと思います。

 

感謝を込めて

文字は青秋空渡る便りかな   いう

猫に読み聞かせる便り秋日和   〃

秋分の声に見上げる空は青   〃

秋分の日にはがきを受け取りました。何度も何度も読み返して・・・(^^)下がりがちだった口の端(^Λ^)?も自然引きあがって(^v^)!季節は秋へ秋へ。深まる秋を新しい目で見つめたいです。

余白:連作、いいですねー♪

文字も青、イメージも青、そう複写ハガキも青いカーボンでしたね。

わたくし、悪筆に昔から悩んでいましたが、なんだか最近はそれも個性でいいや、と思い直しております(笑)。

下手な文字を「何度も何度も読み返して」くださったとは、恐縮、かつうれしいです。ありがとうございます。

 

朝焼けの後の雨

秋霖や誰の上にも慈しみ   いう

(ルカ8:7-9)

余白:もしかして、参照は(ルカ9:7−9)かな?

とすれば、この短いペリコーペには、「ヘロデ、洗者ヨハネ、エリヤ、昔の預言者」いろいろ出てきますね。

掲句からは、これらの人たち「誰の上にも」時代を超えて、アッバの「慈しみ」のまなざしが注がれているのだ、という主張を読み取れます。

とくにヘロデは、「戸惑い」ながらも、「イエスに会ってみたいと思っていた」とあります。この時点で、ヘロデ自身には好奇心以上のものはなかったかもしれません。

しかし、「あの狐」とイエスにあだ名され、またヨハネ殺しの罪を犯しつつも、イエスにかかわらそうとする、もう一段上からのアッバの「慈しみ」のまなざしが、まったく注がれていなかったとは、簡単に言えないのではないか。。。

二分法的な救済論の是非を考えさせられる句です。

いう:あ!はい、その通りです。間違えて書き込んでいました。(^^;)

この福音箇所の朝のミサ、「この時点でヘロデもイエスに招かれていたのです。」と神父様がおっしゃったのを聞き、その通りだ、と思いました。

覚書には、「秋霖や誰の上にも慈しみ」の後に、「ヘロデの上にも私の上にも」と下の句をつけてあります。

いつもいつも招かれながら、迷いとそむきをもってる自分が、ヘロデに映っていたのです。

コメント本当にうれしいです。ありがとうございます。

 

はじめまして

送っていただいた「俳句でキリスト教」を少しずつ読んでいます。

俳句の作り方自体おぼつかないのですが。。。

まっすぐな瞳に押されし秋の夜   クレッセント

寝る前にときどき聖書を開いたりしていると、こどもが「それ何の本?」 「神様のこと書いてあるよ」 「神様ってお空にいるんでしょ。何て書いてあるの?・・・etc.」 質問攻めにされますが、ギリシャ神話やら閻魔大王やら七五三やらいろんなことがごちゃまぜになっている娘にうまく説明できずにおろおろしている私です。

余白:こんにちは。ようこそおいでくださいました。クレッセントさんのブログも、ふむふむ参考になりますねー♪ぼくもお弁当作り趣味?(強制)なもんで。。。

さて、掲句、この「まっすぐな瞳」は、直接にはお子様のものでしょうが、その純な瞳の奥には、イエス様がおられるように思います。彼女の瞳を通して、「アッバってどんな方だと思う?」と語りかけている。

ちょうど今日の福音は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(ルカ9:18-22)という箇所でしたね。

 

さびしくてやがて食欲の秋かな   道草

秋の訪れを感じた時は訳もなくさびしい気持ちになったりするけど、いつの間にかあれもおいしそうこれも食べたいと、食欲の秋になってしまう・・・

余白:この気持ちはよくわかります。寂しさに対する反動でしょうか、どこかでボルテージを上げようという無意識が働くのかもしれません。

 

私にできること

なほ招く宴に捧ぐる小菊かな   いう

21日 聖マタイ使徒福音記者)

余白:何度拒否しても「なお招く」アッバ! その喜びがわかったとき、どんな小さなもの(小菊)でもいいから心を込めてささげたい。

何惜しむものなし灯せ秋燈   〃

(自戒を込めて)

余白:そう、私たちはつい持っていると思うものを出し惜しみしてしまう。本来的に自分のものなどないのですがね。

夜明け近し十六夜兎は宙返り   〃

(元気出したいです)

余白:元気なウサギさんですね。写生的にはホントにひっくり反っているのでしょうか? 昼夜二つの思いを持つ自分、、、そんな深読みもできます。

 

こちらにお引越しとか・・・

ICFからこちらに求道俳句はお引越しとか・・・

こちらにこれから投稿させていただきます。よろしくお願いいたします。

夏過ぎて 月も涼しき 虫の声   - yohannna

余白:どぞどぞ、これからもよろしくです。

ふんだんに季語を取り入れて、にぎやかですね。

季節のめまぐるしさが出ています。

 

やはり十五夜ですものね

雲の間に私だけの今日の月   いう

余白:この「雲」は、世間の荒波や常識といったものでしょうか。灰色の雲間に、かけがえのない個性を持つ作者の主張が感じられます。そしてそれは、今日ただ今のこと。

でも、安心してください。アッバだけはすべてをご存知で、けっして貴女を忘れることはありません。

今日満ちて月の落とせる影長し   〃

日本はすっきりした良いお天気だったのでしょうか。すばらしい写真をUPされている方のブログなど見ました。

こちらは、少しさみしい十五夜だったかな。

余白:お月様が精一杯に「満ちて」、万象の影を色濃く残す。

月は自ら光らない。お日様の光を反射させて、ぼくらにくっきり影をつけ、人生とは何ぞや?と考えさせる。。。謙遜でも存在感の大きいお月様。

やはり「十五夜」という感覚は、日本を思い出させるのでしょうね。

「私だけの」「影」=生きる証をしっかり刻んで行ってください。

人去りて句は残りなん十六夜   栄一

 

なれないので

秋の部屋駱駝の影がふと覗く   一木

疲れた、今日は、この辺で失礼!

余白:ほいほい、どうもご苦労様です。

だんだん慣れてきますよ。頑張ってください!

この「駱駝」なんとなく不気味ですね。何かを暗示しているのでしょうが、メルヘンチックでもあります。佳。

 

明日は満月

待宵や少し欠けたる美人かな   いう

余白:少し欠けているからこそ「美人」が引き立つ。

人間も、完全といわれる人って、どこかかたくるしかったり、余裕がなかったり。はたで肩が凝りますね。ちょっと抜けてるところがあるほうが、かわいいし、お付き合いしやすいものです。

御国待つ宵や薄雲敷く明り   〃

明日も晴れると良いですね。

行き合わす喧嘩にそらすぎぼしの目   〃

立ち尽くす男は知らぬ柘榴の実   〃

明けぬ夜の聖者いたみて草の露   〃

二十六夜四句

杯に無明預けて六夜待ち   〃

照らされて二十六夜の闇くきり   〃

二十六夜は傾きて闇を抱く   〃

傾ける月杯に干す無明   〃

線一本引く秋冷や歩を進む   〃

ひげに秋とまりてぴくり眠り猫   〃

秋は澄む私を通った風の色   いう

腹の帯は移りにけりな穴の位置わが身世に太るながめせしまに・・・(Oh!No!の小町)

小鳥らを発たせて銀杏揺るぎなし   栄一

曇天を仰ぎ十字架称賛日   〃

死は生へ十字架に主をいただきて   いう

悲しみの聖母にアッバ寄り添えり   栄一

露宿る御母の袖は悲しみになほ開かれて雀らを抱く   いう

僧正忌殉教せんと季が動く   栄一

寒くなってきましたー(^^;)

はや林檎色付く君よ顔上げよ   いう

(ルカ9:43-45)

余白:高いところで林檎がすでに色づいていても、まず「顔を上げ」なければ、気づくことが出来ない。参照箇所中イエスが「この言葉をよく耳に入れておきなさい」というのは、そういう意味なんだと思います。
含蓄のある句ですね。

ポケットの両手に気付くそぞろ寒   〃

余白:身体感覚を改めて取り戻す季節。さわやかさ、冷たさ・・・・なんでもないような原始的感覚ですが、自然とともに生きていく私たちは、事あるごとに、この原点を確認する必要があるのでしょう。

記憶には秋の蝶とて残りたし   〃

(マタイ21:28-32)

余白:参照箇所は「二人の息子のたとえ」ですね。
掲句に触発されて、このペリコーペをしばし考えさせていただきます。ただし解説書を参考にせず、テキスト(新共同訳)そのままを前提とした感想ですので、学問的には的はずれもあることを覚悟で−−。

「たとえ」の方は、ぶどう園へ「行け」と言われて、最初「いや」だといい、後に考え直して「出かけた」兄が良しとされ、逆の行動をした弟はだめだという設定になっています。
そして後段(31b32)でイエスは、このたとえを現実にあてはめて、徴税人や娼婦が良しとされ、話し相手である「あなたたち」(前段から「祭司長や民の長老たち」)は叱責されるわけです。
ただ、このペリコーペをさっと読んでしまうと、たとえの「兄」=徴税人・娼婦、「弟」=祭司長・長老、と単純に類比してしまいますが、テキストをゆっくり素直に読むと、どうもそうではないかもしれません。
というのは、「ヨハネが来て義の道を示した」とき、「兄」のように、徴税人・娼婦は最初「No!」といい、後から思い直した人たちに分類できるか、という疑問があります。むしろ彼らは、最初から「Yes!」と言った人たちではなかったか?すなわち、福音書のコンテキストから見れば、最初から「信じた」人たちだったように思います。
「弟」=祭司長・長老、という断定も単純にはできません。弟は「Yes」と言って実際「No」だったわけですが、祭司長らはヨハネの示しに対して、最初から「Yes」とは言ってないのですから。「弟」の文脈を借りるなら、祭司長らは、「No」と言って後もやはり「No」だったのだということです。
整理すると、次のような関係になります。
兄:No→Yes、 徴税人ら:Yes→Yes
弟:Yes→No、 祭司長ら:No→No
このペリコーペの並行箇所はないので、マタイ独自のM資料が基になっていたのだと思いますが、このように「たとえ」と類比が直結していないところを見ると、別々に語られた2つの伝承を、マタイが編集したのかもしれません。
しかし、全体としては、祭司長らの「No」が徴税人らのように、遅ればせながらも「Yes」になる=「考え直す」ことを教えていることに違いはありませんね。
もう一点。「父親の望み」の内容は、「考え直して出かける」ことだったわけですが、これを後半部にあてはめれば、「彼(ヨハネ)を信じる」ことにあたります。
つまり、父親の望み通りの「行い」とは、すなわち「信じる」こととなっているのです。
このように、このペリコーペでは、古来議論されてきた「信仰か行いか」という議論が、信仰(信頼)が大事な業(わざ)として、信=行と置き換えられていることも、興味深いものです。

いう:・・・今余白さんの付けてくださったレスをゆっくり読みました。
>整理すると、次のような関係になります。
兄:No→Yes、 徴税人ら:Yes→Yes
弟:Yes→No、 祭司長ら:No→No<
なるほど、確かにそのように読めますね。ここは、兄、弟に、徴税人たち、祭司長たちをあてているのではなく、聞き手に、変わることができる可能性を伝えているのですね。
その日、秋の蝶を見て(神様はこの小さな虫の今の姿をごらんになるんだよな。こんなに遅れて、もう草陰をゆっくりとしか舞えない時期になっても、さなぎから痛みをもって出てきた蝶の、その勇気と姿を覚えてくださるんだよな)と思いました。
「神の記憶に残る」・・・というのは、余白さんがよくお使いになる表現です。いいなあ、と思います。
私の場合、さなぎから出ようってがんばるときもあるのですが、外に出たとたん「寒ッ!!!」と、さなぎの寝袋に戻ること多しでトホホです。神様も「オイオイ・・・」と思っていらっしゃることでしょう。
でも、この日の福音箇所のように、最後まで可能性を言ってくださるところに、救われるなあと思うのです。

 

私たちが見ることになるもの

開かれる天つ扉に秋の風   いう

ヨハネ1:47-51、今日(9/29)は天使の日ですね。

余白:はい、天使がイエスの上に上り降りする・・・・というくだりですね。天の扉が、秋風で開く、とは、すてきな発想です。しかもその扉は、黙示文学的に雷のような大音響でなく、「秋風」ですからそーっと開く、、、優しさがあります。

打たれつつ啄木鳥宿す大樹かな   〃

余白:体中傷だらけにして、じっと啄木鳥を住まわせている大樹。そのようにどっしり不動の懐があれば、安心できますね。

忘らるる草に奇しき露光る   〃

ルカ10:13-16

余白:このペリコーペからのボクの句は、別スレにあるように、聖ヒエロニモ教会博士をうたっています。
あなたの句の方が、ずっといいですねー!
そもそもこのペリコーペから、アッバのイメージを汲み取るのは、なかなかむずかしい。コラジンやベトサイダをのろうイエスの言葉を、どう受け取るか、昨日はずっと、どう句にするか考えてしまいました。
それでボクの場合は四苦八苦の末、聖ヒエロニモにご登場いただいて、救いの手を差し伸べてもらい、なんとか一句にしたわけです(笑)。
それに比べ、あなたの句は、「不信の町」や「拒む者」をさらに包み込むアッバの御心が「奇しき露光る」に見事に凝縮しています。脱帽!!

暮れ残る秋の洞穴ありてあり   栄一

ルカ9:57-62

「どこまでもついて行きます」と申し出て、その覚悟を確かめられた人、「ついて来い」といわれて、「ちょっと待ってください」とためらった人・・・・短いペリコーペに様々な立場の人が登場する。
しかし、それぞれに神の国を伝える使命が与えられるだろう。
「有りて有る」(出エジプト3)アッバは、あらゆる機会に介入するから。

いう:今まではここを読むと、「そんなに厳しいんですか。私にはそこまでできません」と思ってしまっていました。
しかし、このエピソードは文字通りの意味(実際に「父を葬りに」行ったり、「家族にいとまごい」に行くことそのもの)ではなく、もっと深い象徴的な意味なのですよね。

>それぞれに神の国を伝える使命が与えられるだろう<
上に引用した余白さんの言葉のようなとらえ方にほっとします。それぞれの器に合わせて、それぞれの機会に用いてくださる神・・・。

 

久しぶりに投稿

秋風に路傍のボロ猫末案ず   NK

爽やかだー♪と心地よい気分でいたら、
遠い目をして、座ってこちらをみてるのです。
野良猫にはこれからの季節は厳しいよなーとしんみりしつつ、祈りました。

いう:あっ!NKさん♪しかも猫の句でちょっと切ない・・・。
 Λ Λ
ToT)ごろにゃーん。(祈ってくれてありがとう)
と申しております。

余白:そうですねー。うちのタマ見てると、ホント「おまえは、のほほーんとしていられて、幸せだよなー」って思います。
何の因果で野良猫に生まれるか、飼い猫に生まれるか、、、なんだか複雑な気持ちです。

 

テレーズの小さい花 その4   島一木

「私は また/主の愛は/主の恵みに 少しも抵抗しない/もっとも単純な 人々のうちにも/もっとも崇高な 人々のうちに/おける場合と同じように/表れることを 悟りました//愛の 特徴は/自分を低くすることにあります//もし すべての人が/教会を 学識の光で輝かせた/教会博士たちのようだったとしたら/神さまは/この方々の ところまで/お下りになっても/それほど 低くなられたことには/なりません(自叙伝原稿A,6,p23~4

<テレーズ・マルタンについて 2> ヨセフ・ピアット著『ある家庭の物語 テレーズを育てた母と父』伊従信子訳編(ドン・ボスコ社)によれば、テレーズの父親ルイ・マルタンは22歳の時に修道院生活を志すが、ラテン語の知識不足から修道院に入るのをあきらめて時計商になる。テレーズの母親ゼリー・ゲランも若い時期に修道女になろうとするが、修道院の院長から神のみ旨は別にあると言われてあきらめる。しかし、この二人の修道生活への憧れは、はしかのように一時的なものではなく生涯にわたって保ち続けられたように思われる。

114号の感想

いう:余白さんの出版に当たっての言葉。一人だけの歩みではなく、神を見上げるもの同士が響きあい絡み合いながら歩んできた成果が、今、目に見える形で次々と実を結んでいるのですね。

余白さんが句作に取り組まれるようになったいきさつも、そうなのか〜、と読みました。

おもにここ数年の余白さんの句を読んでいると、もうすでに出来上がった余白さん(^^)がそこにずっとあったような気がしてしまうのですが、「大きな精神的試練の時期」を経ておられた・・・。確かに、初期の作品を読ませていただくと、胸が詰まるような、はっとさせられる句に出会い、驚くことがあります。

「頭から心へ下りていくような体験」この、初めて身になるといった感覚、表現をだんな君と話し合ったのですが、それはまた別のときに。

「詩心が必要」「俳句は道楽」・・・なるほど、いいな、と思うことがたくさん。いろんなことを訴えかけられたような文でした。

「誠実さと批判精神」

「禅の思想が徹底的に“主観主義”であるからです。」というところ、面白いと思って読みました。禅のことはほとんど知らないのですが、どこかに鈴木大拙の本があるので読み返してみようと思います。

「信仰とコミュニティー」

自分の書いたものなんですけど、今、BBSのほかのところで話題になってるのと、究極には同じこと書いたのかな?と思っちゃったりしてー。(・_・;

講演「人間 山頭火と旅」について

小さき花さんのレポートはいつも楽しみにしています。文章に優しいお人柄が表れていますね。今回は山頭火の紹介でまたそれもうれしい!(^^) なるほど、「歩く」は仏教で修行の意味になるのですね。「道」ですね。

「死んだ小鳥の肉」

ちくり!ちくり!痛みをもって読みました。もずさんの研ぎ澄まされた感性。(個人的には『宮本武蔵』とテレーズっていう組み合わせがつぼにはまりましたです。(^^)

「作品群」

夏から秋へ!全体でひとつの流れですね♪

余白:ありがとうございます。

そう、まさにご縁というほかないような体験をさせていただいたと思っています。

今だって、もちろん右往左往、出来上がってはいませんよ(笑)。そんなわたくしどもが、アッバに句を作らせて頂いていること自体が、救いなのかもしれません。

ぼくは自律神経の関係か、のぼせが強いので、血(あるいは気)が下がる経験というのは、とても心地よいものです。

俳句に限らず、どんな文章も、心が大事ですよね。ブログ見ていただいているか、ここのところ「ハガキ」にはまっています。(これはまた後ほど)

「誠実さと批判精神」

大学で研究・教授しながら、土曜日に準備して日曜日に牧師のお仕事を奉仕でされている、、、いつ休んでいるのか?そういう土屋先生の真摯な説教ですね。本誌でも紹介した『福沢とユニテリアン』も高い評価を受けています。

「信仰とコミュニティー」

なるほど、信仰と文化、これは別物ではなくコインの裏表、そんな感をますます強く持っています。

講演「人間 山頭火と旅」について

山頭火のは、自ら「歩行禅」といっていたのですね。破滅型の部分はまねすべきではありませんが、あのストレートな放浪人生にはあこがれてしまいます。小さきさんのまとめも、いつもながら要点をついていますね。

「死んだ小鳥の肉」

よい書き手が増えてきて、編集方としては、大助かり!これからもお三方の原稿いただきにあがりますので、覚悟しておいてください(笑)。

「作品群」

そう、ほんとは、ここでの句評も載せたいのですが、印刷したときの紙面の関係で、なかなか難しい。(ちなみに、印刷すると、今回はA4で10ページになります。)

皆様へ:俳句関係以外の本HPに関する質問などは、以後、楽天のBBSにお願いします。

http://plaza.rakuten.co.jp/imaiki2/bbs/

 

平田栄一俳句でキリスト教(サンパウロ、20056月刊)

俳句は祈り日本人のためのキリスト教入門−

楽しみながら、自然に祈りへと誘う「求道俳句」の世界。 さまざまな俳句作品を、日本人キリスト者として読み解きながら、本当に大切なものは何か、今をどう生きるか、どう祈るかを模索した、日本人とキリスト教を同時に生きるためのエッセイ集。
俳句またキリスト教のちょっと変わった入門書としてもお読みいただけます。
ハードカバーB6270頁、本体価格1600円+税。

ご購読は、販売元サンパウロ社、全国お近くの本屋さんからも注文できます。

また、ご希望の方には、著者サイン本直送販売も承ります。 お申し込みは、余白メールにて。

井上洋治著『わが師イエスの生涯』日本キリスト教団出版局)

四六判 上製 220ページ 2,520円税込 ISBN4-8184-0557-4 C0095       2005-01

西欧文化や西欧の生活感情と一体となってきたキリスト教は、日本人に様々な違和感を引き起こしてきた。日本人の心の琴線にふれるキリスト教とイエスの素顔を真摯に求めて長い旅を続けてきた著者が、誕生から復活までを記したイエスの生涯。著者が渾身の力を尽くして完成したライフワーク。Copyright 2005 

 

山根道公著『遠藤周作--その人生と『沈黙』の真実』朝文社

「『沈黙』の背後にある遠藤の人生について、母親郁、井上神父、棄教神父や病床体験等の関わりを考察。そして原題である「日向の匂い」に込められたテーマを、多くの資料を緻密に読み込むことで浮き彫りにした渾身の書。」 写真右は、山根夫人・知子氏(ノートルダム清心女子大学文学部助教授)の、これも渾身の著『宮沢賢治--妹トシの拓いた道』

 

平田栄一既刊:エッセイ詩集;『今を生きることば』(女子パウロ会 94年)、『やわらかな生き方』(サンパウロ 96年)、『人の思いをこえて』(ヨルダン社 99年)、『雨音のなかに』(ヨルダン社 2000年)など。

     既刊サイン本直売も承ります

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