-------
平田栄一サイン本
トップページへ

求道俳句会誌「余白の風」第117号 2005.12

Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:掲示板 ホームページ今を生きることば

<目次>

待降節の黙想:余白    1

神の発見    1 ・わたしについて来なさい    1 ・喜びにあふれる    2 

とりなしの祈りは聞き入れられる    2 ・神の御心を行うということは    2 ・主を待ち望む    2 

信頼と伝道    2 ・信頼による癒し    2

新刊紹介    2

求道俳句会11月作品W194  2

待降節の黙想:余白

神の発見

「現実が変わらなくとも、光が見えるのと、見えないのとでは、大変な違いです。それと同じように、信仰とは、遥か遠くに輝きながら、闇のなかで、寒さに凍える私たちを、支え導く光ではないかと思えたのです。その光が、私にとっては、神の発見だったのです。」(五木寛之著【神の発見】254頁)

 

この本のタイトルは、森一弘司教のこの言葉からとったものだろう。

学生時代に雪山で迷ったとき、遥かかなたに山小屋からもれる明かりを見て安心した、という体験から語ったものです。

 

わたしはこの言葉から二つのことを学びました。

1.神は実存の中で現れる

森司教の当の体験は、確かに大変危険なものだったでしょうが、山でなくても様々な限界状況のなかで、私たちは表面的には似たような体験をしているはずです。

病気、けが、試験・・・・自分ではにっちもさっちもいかない状況はいくらでも現実に転がっています。

しかしそこには、にわかに神は現れない、なかなか実感できない。

宗教的には森氏の体験は一種の「啓示」であり、信仰的には「賜物」といえるでしょうが、こうしたチャンスは日常、だれにでも起こり得るということです。

何かのきっかけで、神が実存的にかかわってくるということ。

 

2.信仰とは希望である

信仰を持てば病気が治る、いいことが起こる、というものじゃない。

たとえ「現実が変わらなくても、光が見える」ということは、ものすごく大事なことだということです。

信者でない人からよくある質問に、「信仰して何か変わった?」というのが多い。

くやしいけど、タナボタ式にうまい話はなかなかありません。

相変わらず弱いし、悪いことも考えるし。。。

でもやっぱり何か違うんですわ。

それが何か、と思っていたら、この「変わらなくても、見えると見えないじゃ大違い」の言葉に出会って、あーそーだ!と思ったのです。

この「光」というのは、「希望」ということでしょう。

今は相変わらず苦しいかもしれない。

でもかならずいつか、神様が「永遠の命」=幸福へと連れて行ってくれるんだ!

信仰の第一の恵みは、そういう、だれでもが欲し、わかる、単純なものなのだと思います。

 

キリスト信者は今日から待降節。

クリスマスまでイエスの誕生を待ち望む期間です。

イエスが「世の光」として希望を持てた当時の人たちは、皆が現実に癒されたり、貧しさや差別から解放されたわけではないでしょう。

しかし、「光」が来たこと、そのことを「福音」=良き知らせと受け取ったのです。(2005/11/27 Sun

 

NK:「希望」という名の『光』

幼い頃、私はマンガで描かれていたある科学の本を読んでいて、その本に描かれていた「色は『光』の反射によって、多くの色が映し出され、みることができている。

ちなみに黒は『光』を吸収してしまう。

その証拠に『光』がなければ、すべての色が黒(暗闇)となってしまう。」

という内容に子供ながらに、ハッとするような感動を覚えたことを今でも鮮明に記憶しています。

 

だから『光』ってものスゴイものなんだな、と。

そして、その時初めて『光』の有難さを知りました。

 

故に『光』は永遠に私たちの「希望」の源なんでしょうねー。。きっと。

 

余白:NHさん、ありがとうございます

そうですね。私たちの現実はなかなか変わったように見えなくても、必ずいつか・・・・と思えるのと、そうでないのとでは、元気の出方が違うと思いました。

「なーんだ、現実は何も変わらないじゃないか」という嘆きは、どこか奢りがあるように思えるのです。

 

わたしについて来なさい

『マタイによる福音書』4:18−22より。

福音伝道にあたって、さっそく4人の漁師を召命するイエス。

印象的なのは、イエスに「ついて来なさい」と声をかけられると、彼らは「網を捨て」(20)「舟と父親とを残して」(22)従ったということ。

仕事も親も捨てるというのは、よほどの覚悟です(ただし、絶縁ではない)。

この心境の背景には、たしかにイエスの圧倒的な魅力、いわばオーラを直感したこと、あるいは実際にはイエスと同じくエッセネ派洗礼者ヨハネ教団のなかで、イエスの人格を少しずつ知っていったのかもしれません。

いずれにしろ彼らの心の奥底には、青年の熱烈な求道心、ほんとうの道を求めて止まない一途さがあったのでしょう。

網元に匹敵するような、安定した財産や家族を残して、どうなるかわからない放浪の旅に出るのですから。

そうした切羽詰まった気持ちゆえ「すぐに」イエスに従ったのではないでしょうか(20,22)

 

翻って私たち自身を考えると、イエスとの出会いは、いつ、どのように訪れるのでしょうか。

弟子たちが「網を打ったり、手入れをしていた」(18,21)ときに、ふと訪れたように、刻々の生活は、イエスと出会うあらゆるチャンスを包含しています。

 

人生には熟慮の末の決断も大切ですが、直感的即断も多々あるでしょう。日々の生活では、むしろ無意識に直感で行動している方が多いかもしれません。

そのどちらが良い結果を生むかわかりません。

「後の者が先になり、先の者が後になる」イエスの福音から推せば、人間の熟慮など大した問題ではないのかもしれません。

熟考を放棄せず、しかし同時に直感力も大事にする。

そのためには、日頃から、感性を磨いておく=「目を覚ましている」(25:13)ことが肝心なのだと思います。

 

ヨハンナ:仕事も親も捨てる

私は以前、この場面は(召命)だと教わったことがあります。でも、今日この部分を読んでみて気がついた事があります、(仕事も親も捨ててイエスに従う)ということは何も実際に親や仕事を捨ててイエスについていった事ではなく「私達にとっては」親もいる、仕事もあるがそれ以上にイエスの教えは優先され、実行されること・・?かなって思いました。

 

余白:霊的関係への招き

そうですね。実際、召命の後でもイエス一行は、ペトロに家に行ったりしていますし、絶縁というのではないですね。

マリア様もついてきたし。。。。

血縁に関係なく新しい霊的関係に招いた、ということかもしれません。

 

喜びにあふれる

『ルカによる福音書』10:21−24より。

御自身が遣わした「72人」が村々、町々をまわって、病人を癒し、悪霊を追い出しながら喜んで帰ってくるのを見たイエスは、自らも喜びにあふれて、神を讃美します(10:1-21)

イエスにある福音は、「幼子のような者」=愚かで価値低いとされた者に示されます。それは「御心にかなうこと」であり、ここにも福音の逆説があります。神に親しく「アッバ」(おとうちゃん)と呼びかける、前代未聞の祈りと讃美は、アッバに受け入れられ(21)

すべてを一任され、イエスはアッバの光をお通しするガラス窓となられたのでした(22)

このイエスがこよなく愛した弟子たちの証言を通して、現代のわたしたちも、アッバへの全幅の信頼に導かれるのです(23-24)

今日一日、ともかくも無事に働けたことを感謝しましょう。

沈む夕陽を眺めながら、イエスや「72人」と喜びを共にしましょう。(2005/11/29 Tue

 

とりなしの祈りは聞き入れられる

「ただ、ひと言おっしゃってください。」(『マタイによる福音書』8:5−13より)。

イエスの福音は、けっして一部の選ばれた人たち、エリートだけのものではありません(5,7,13)

ましてやその願いが自分のためでなく、他者をとりなす祈りであるならなおさら聞き入れられるでしょう(6)

その場合、驚くべきことには、必ずしも癒される者の意識、信仰の有無といったことは問題にされないということです(13)

その要は、願う者のイエスに対する全幅の信頼と確信、そして謙虚に頭を下げる心、ただそれだけです。難しい教義の理解や道徳的行いの実行が条件ではないのです(8-10)

そしてその癒しは、すでにイエスに直接出会えなくなっている人々=現代の私たちにも、イエスの残された言葉に触れ、信頼することによって、実現していくでしょう。(8,13)

 

神の御心を行うということは

『マタイによる福音書』7:21,24−27より。

イエスは、山上の説教の結びとして、どんなに預言や奇跡を行っても(22)、アッバの御心=愛が実行されなければ、天の国には入れない、といいます。

当時のマタイ共同体の状況からの警告でしょう。

 

しかし気をつけなければいけません。

「愛の実行」の形だけを焦り追い求めれば、それこそイエスが最も危険視した偽善者、形式主義に陥るからです。

事実こうした強迫観念に駆られ、病み、疲れ果ててしまった、真面目なキリスト者たちを、わたしは数多く知っています。

 

イエスの言葉に忠実に従いたい、という気持ちは、キリスト者として当然でしょう。

しかし、「愛の実行」を焦る心の奥底には、自分が正しい人間であると認められたい、また自認したいというエゴイズムがひそんではいないでしょうか?

 

どんな形でも、心が伴わなければ、真の実りとはなりません。

私たちのなすべきは、まず、相手の悲しみや苦しみを、写し取る心を願うことです。

おすすめ:「風の家の祈り」をご参照ください。(2005/12/01 Thu

 

 いう:共感ということ

>どんな形でも、心が伴わなければ、真の実りとはなりません。私たちのなすべきは、まず、相手の悲しみや苦しみを、写し取る心を願うことです

先日、お葬式(にあたる会)がありました。日本人もアメリカ人も出席していました。

帰ってきてから、お葬式のことや、なくなった赤ちゃんやご家族のことなど話し合っていたのですが、日米で、悼みかたがちょっと違うのかな、と。

どちらがいい悪いではないことだとは知りながら、また、なんとも説明のつかぬ悶々とした思いに取り付かれています。

この、相手の気持ちを写し取るということ。

日本では、美しい人間関係のあり方なのだと思います。そして私は、そういう人間になりたいと思う。(実際そうじゃないからよりいっそうそう思うわけです)

でも、そういうあり方を理想としない(というか・・・)そんな社会もある・・・。だからといって人間的に冷たいというわけじゃない。それはわかっているのですが・・・。

・・・具体的に言えないです。

うまく伝えることができるかわからないのですが、一応。

例えば、「子供を持っているお母さんたちはショックも大きい(自分だったら・・・、と思ったりして、ご家族の悲しみの大きさは大変なものだろうと推測する)」とか「こちらも悲しい思いややりきれない思いがしてつらくなる(人がいる、自分も含めて)」というようなことを言うと、違和感のある反応が返ってきます。

よほどの親友でない限り、そういう思い方はしないのではないか、と。

たぶん自分まで同じように思おうと努力することが、わからないのかもしれません。

ただ話したのは、主人と、やはりアメリカ人の夫をもつ日本人の友人数人なので、全体としていえません。他のアメリカの人にも機会があったら聞いてみたいのですが・・・。

日本では、悼み方から、人間関係のあり方や、果ては社会問題の報道の仕方や解決の仕方まで、「相手の身になる」理想が影響しているので、いいことと、行きすぎや勘違いで悪いこともあります。

例えば、いじめや差別問題を無くそうとするとき、日本では相手の身になって考えましょう、というアプローチをする。いじめられた人、差別された人はこんな気持ちなのです、と心情に訴える方法を取る。

アメリカでは、それは「違法(あるいはルール違反)」だ、とやる。(そうだからこそ、解決されている部分も多く、日本も見習うべきことはたくさんあるのは確かです。)

そもそも、共感、というのを信じていないと思えることが、アメリカでは多くあります。相手の気持ちを推し量ることが理想の社会で育ってきた私にとって、これは、ちょっと複雑です。

しかし、やはりイエスの生き方に照らしてみたとき、

「私たちのなすべきは、まず、相手の悲しみや苦しみを、写し取る心を願うことです」

これは、本当にそうだと感じます。

(もちろん、ポイントは、「写し取る心を願うことです」にあるのですよね。写し取ることはできるかどうかわからない。でも、願う。それなら私にもできるかもしれません。)

余白さんの記事に大いに共感、そしてそうありたいと思います。・・・思うのですが、なんともいいがたい、複雑な気持ちの今。こういう違和感を抱いたまま、こちらに暮らしていって、いつかはここで死ぬのかなと思うと、自分の気持ちをどうもっていったらいいのかと思います。

 

ヨハンナ:相手の悲しみや苦しみを、写し取る心

『相手の悲しみや苦しみを写し取る心』ってそう簡単には養われないと思います。だから・・願う、願ってそうなれるように努力する、自分にないものを感じ取れる心を成長させられるように?でしょうか・・。

でも疑問なのは(いうさん)も書いておられるように

文化の違いや育った環境?はたまた人間性?の違いで

そういう風に思わない〈相手の悲しみや苦しみを感じ取ることを必要だと感じない〉人たちもいるし、その人たちとの関わり方に複雑な心境を持ってしまう・・ということでしょうか・・。

もちろん、人がみんなこうあるべきである・・とか

こう感じないからけしからん・・というわけでなくても、『なぜ、この状況でこんな言葉や行動があなた達はとれてしまうの・・?』って疑問を感じることは多々あります。〈いうさん)のようにアメリカに暮らしていなくてもです。日本人どうしでも、親子夫婦であってもです。

私が最近思う事はどんなに社会的に成功していて表面上は地位もあったり、仕事ができたり、立派にみえる人たちも、心が伴わない言動でその人たちの真実がわかってしまうということです。そして、そんな人達にある意味幻滅してしまう自分がいます。

人間は弱さををもっていますから勿論気がつかないこともあるでしょうし、共感できる心が育ってない場合もあるでしょうが、せめて、自分のそんな部分には気がついていて、そんな足りない自分の心を祈る謙虚さは持っていたいと思うのです。

 

余白:二つのアプローチ

いうさん、ヨハンナさん、ありがとうございます。

深い問題ですね。

根底に、欧米の契約社会的な発想、理性重視の発想への違和感が、わたしたちにあるのだと思います。

「喜ぶ人と喜び、泣く人と泣く」そんなことをしていたら、しかるべき愛も実行できない、という批判もあるかもしれません。

もっと冷静に「正しい愛の実行を」というふうに。。。

しかし、私たちは日本人として否応なく生きざるを得ない。

どちらが正しいか間違っているかではなく、愛へのアプローチの違いなのだと思います。

ヨハンナさんがおっしゃるように、

>『相手の悲しみや苦しみを写し取る心』ってそう簡単には養われないと思います。<

ある意味、理性主義で割り切るより、ずっと難しい、、、心の内面の変化を願うわけですから。。。

そういう非常に困難な道であっても、そういうアプローチが日本人キリスト者の生き方としてマッチしていると、わたしには思えるのです。

 

主を待ち望む

待降節第2主日。

今日のミサ第2朗読(Uペトロ3・8−14)、キリストの再臨を今や遅しと待ち望む心の背景には、原始教会が置かれていた様々な困難、苦しみがあったに違いない。

この世の生活に完全に満足していれば、神を求め、「主の日」(10)を心待ちにするようなこともなかったろう。

 

翻って現代世界を見渡すとき、その状況は根本的に変わっていないように思う。

「分裂や対立による苦しみの絶えない世界」(共同祈願意向2)、近頃の日本でも、青少年の凶悪犯罪、性的混乱、幼女殺害事件等々、目のくらむような息苦しさを抱えている。

皮肉にもこうしたマイナス状況において、原始教会の人々の「主を待ち望む」心に共感するのである。

 

回心を激しく迫る洗礼者ヨハネ(マルコ1・1−8)、そしてイエスによる救いへの期待は、益々大きくなる。

 

「子供を育てる親たちを励ましてください。与えられたいのちをはぐくむ日々の中で、神からの恵みに気づくことができますように。」(意向3) 2005/12/04 Sun

 

信頼と伝道

『マルコによる福音書』16:15−20より。

今日の箇所を含む「マルコによる福音書」の末尾「結び1」(新共同訳)は、福音記者マルコの筆ではなく、後代の付加であることが確定的です。

したがって、解説書などでも多くを語っていません。

しかも、宗教的多元化が模索されている現代に対抗するがごとく、きわめて独善的な内容が記されているのです(16)。

典礼暦では今日、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルの祝日。

ザビエルの宣教以来500年近くたっても、進んで「洗礼」を受けようとする日本人は多くありません。

キリスト者として、「共に働く」(20)イエスへの感謝と全幅の信頼を改めて確認することと同時に、非キリスト者への態度、伝道のあり方が今、問われているように思います。(2005/12/03 Sat

 

信頼による癒し

『マタイによる福音書』9:27−31より。

「究極の祈りとは願いである」ともいわれます。

「あなたがたの信仰(信頼)に応じて、あなたがたにそうなるように」(29直訳【新約聖書略解】

参照)とあるように、治癒におけるイエスへの信頼が重要視されています。

 

若い頃は、福音書に次々に出てくる、似たり寄ったりのこうした奇跡物語に、正直辟易したものです。

しかし近年ではその感覚はずいぶん変わってきました。

 

それは、わたし自身五十路に入り、こうした奇跡物語、とくに病気治癒の物語に出てくるそれぞれの病人や障害者の心に思いを馳せたとき、その苦しみや悲しみ、治りたいという長年の願いがどれほど大きなものであったか、わずかながらも感じ取るようになってきたからかもしれません。

 

また、その人たちが、「イエス様にお頼みすれば、きっと治して頂ける!」、藁にもすがる思いで、冷たい差別の目(当時病気・障害と罪は結びつけて考えられていた)を振り切って願い出たであろう勇気(27)、そして、もちろん癒されたときの喜びの大きさ、そうしたことを思いやると、似たり寄ったりと思っていたペリコーペそれぞれが、生き生きと心に沁みてくるのです。

 

やがて自分のなかで、実際医学的にあの病気、この障害が治ったのかどうか、という若い頃こだわっていた科学的・第三者的関心が、薄れていることに気がつくのです。(2005/12/02 Fri

新刊紹介

平田栄一俳句でキリスト教(サンパウロ、20056月刊)

俳句は祈り日本人のためのキリスト教入門−

楽しみながら、自然に祈りへと誘う「求道俳句」の世界。 さまざまな俳句作品を、日本人キリスト者として読み解きながら、本当に大切なものは何か、今をどう生きるか、どう祈るかを模索した、日本人とキリスト教を同時に生きるためのエッセイ集。
俳句またキリスト教のちょっと変わった入門書としてもお読みいただけます。
ハードカバーB6270頁、本体価格1600円+税。

ご購読は、販売元サンパウロ社、全国お近くの本屋さんからも注文できます。

また、ご希望の方には、著者サイン本直送販売も承ります。 お申し込みは、余白メールにて。

井上洋治著『わが師イエスの生涯』日本キリスト教団出版局)

四六判上製220ページ 2,520円税込 ISBN4-8184-0557-4 C0095      2005-01

西欧文化や西欧の生活感情と一体となってきたキリスト教は、日本人に様々な違和感を引き起こしてきた。日本人の心の琴線にふれるキリスト教とイエスの素顔を真摯に求めて長い旅を続けてきた著者が、誕生から復活までを記したイエスの生涯。著者が渾身の力を尽くして完成したライフワーク。Copyright 2005 

山根道公著『遠藤周作--その人生と『沈黙』の真実』朝文社

「『沈黙』の背後にある遠藤の人生について、母親郁、井上神父、棄教神父や病床体験等の関わりを考察。そして原題である「日向の匂い」に込められたテーマを、多くの資料を緻密に読み込むことで浮き彫りにした渾身の書。」 写真右は、山根夫人・知子氏(ノートルダム清心女子大学文学部助教授)の、これも渾身の著『宮沢賢治--妹トシの拓いた道』

平田栄一既刊:エッセイ詩集;『今を生きることば』(女子パウロ会 94年)、『やわらかな生き方』(サンパウロ 96年)、『人の思いをこえて』(ヨルダン社 99年)、『雨音のなかに』(ヨルダン社 2000年)など。既刊サイン本直売も承ります

求道俳句会11月作品W194

寒さの楽しみを存分に味わっています。

小春日の杖つく夫の笑い声    末子

小春日や丹沢眠い目をあげて    〃

小春の日雀の声は早くから    〃

小春日に今日の仕事はテンポよく    〃

小春日を掬ひて讃美くちずさむ    〃

冬は好きな季節です。木枯し、朝冷え、枯菊、うずうずする位に外は素敵です。

残り少ないカレンダーを見ながら、クリスマスを待って居ります。

余白:今年は、予想以上の小春日が続きましたね。

それを当たり前のこととして受け取らず、日々の生活への感謝に結びつけている、感受性豊かな心情がこの連作から伝わってきます。

 

テレーズの小さい花 その5  一木

主は/何もわきまえず 弱々しい/泣き声しかあげない 幼子や/自然の掟だけを/行いの規範としている/人々をも 造られ/その心にまで/お下りになります/彼らこそ/その単純さによって/主の み心を奪う/野の花なのです//神さまは/このように 低く/お下りになることによって/ご自身の/限りない 偉大さを/示されます (テレジア自叙伝原稿A,6/7,P24

<テレーズ・マルタンについて 3>

 テレーズの母親ゼリー・ゲランは、修道女になるのをあきらめてから生計を立てるためレース学校に入り、服の飾りになるレースの技術を身につけるが、ある日、サン・レオナール橋を渡りながら一人の青年とすれ違ったとき、その上品な面差し、静かな歩き方、気品のある態度に心打たれた。同時に内的な声が、「これがおまえのために私が準備した者である」とささやいたという。もちろんこの青年は、後にテレーズの父親になるルイ・マルタンである(前出『ある家庭の物語』ドン・ボスコ社参照、テレーズの家族については以後同じ)。 

余白:>その単純さによって/主の み心を奪う/野の花なのです

信仰とはものすごく単純なことなのですね。

すべてをお任せしてゆるぎない信頼、それだけなのでしょう。

テレジアのお母さんも、希望をゆるされない生活の中で、マルタン氏に出会った。そのことがテレーズを産む。。。

そのテレーズの信仰が現代にこれほど糧を与えてくれている。。。

摂理への信頼、ということを改めて教えられました。

白雲子:信心もなく不安な日々を過ごし、自分の弱さをいやという程感じました。

これからは、少しでも祈りの時間を、多く持とうと思います。

白い月が黄色い月になる間の点滴   白雲子

朝陽おがむ 夕陽おがむ    〃

いちょうのはいちまいわらべからもらった    〃

余白:「白い」−「黄色い」、「朝陽」−「夕陽」、「いちょう」−「いちまい」、病苦の中で、心のバランスをとろうとする気持ちが痛いほど伝わります。

原稿をこうして送ってくださる、送れる、それだけで有難いですね。

お大事にしてください。南無アッバ。 

しぐるるや一言待ちて耳澄ます   いう(マタイ8:5-1

余白:ローマ百人隊長の謙虚な言葉、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。・・・・」からですね。

もし、この「百人隊長」が、十字架処刑を実行し、あの有名な信仰告白、「本当に、この人は神の子だった」と言った(マルコ15:39)百人隊長だったら・・・・などと想像してしまいます。

小さな魂を送る

 吾子はよく闘いにけりと言う友は若し右手のハンカチ白し   〃

余白:お子様の死を「よく闘ったね」といえる強さとやさしさ。気丈でもあり、また絶大な愛情と哀しさ。。。子様は天国に、真っ先に入っています! 

 

「余白の風」ありがとうございました。

益々の充実ぶり、これからが一層たのしみです。拙句を巻頭にご紹介下さり大変うれしく存じます。

幼子に聖菓を分かち母若し    邦司

余白:今月も玉句ありがとうございます。このお母さんもお子さんも初々しい。「天国は彼らのものである」とイエス様も微笑んでいなさるでしょう。

町々に鐘鳴り響き聖夜来ぬ   〃

余白:待降節に入りましたね。鐘の音が町全体をやさしく包み込むようです。

買ひ物につき合ってをり冬ぬくし   〃

余白:奥様かお嬢様とのお買い物でしょうか。まさにこの関係こそ「ぬくし」!

九十九折の道は秩父へ柚子の里   〃

余白:なつかしい風景ですね。私は埼玉なので秩父には馴染みがあります。

夜祭の過ぎし秩父の山眠る   〃

余白:三大夜祭のひとつ。そう、その後のひっそりした年末に、大学時代友人と鴨鍋を食べにいったことが思い出されます。そのうちの一人はすでに病死。。。掲句に触発され、祈ります。

 

うつろうのは

不変知るための無常や小雪舞う   いう(ルカ21:29-33)

余白さんの句を読んでいて印象的な言葉、「無常」。ちょっとお借りしたような感じですが・・・。 

余白:ありがとうございます。「天地は過ぎ去るが、キリストの言葉は過ぎ去らない」(21:33

現実がどんな悲惨な状況でも、かならずいつか喜びに変わる。そして不変なキリストの言葉はかならず成就する。そういう喜びの知らせとして受けとめたいと思います。 

クリスマス?  2005/11/26 19:10 

クリスマス・ツリーを心で蹴り飛ばす   ako 

名も知らぬ神をたたえる日本人   〃

そのまんまです。デパートとか商店街とか行くと、無償に腹が立つ。

けど、それでもやらないよりマシなのかクリスマス。

余白:ぼくも信者になり始めの頃は、「おいおい、チミたち、キリスト教知らないのに、なにやってのー?」みたいな発想がありました。

ところが近頃のぼくは、「クリスマスもバレンタインデーもどんどんやれー!ついでに復活祭やマリア様の祝日も祝って〜!!」なんて気持ちです。

生意気なこと言わせてもらうと、こういうなんでもありありの試行錯誤の中から信仰の「土着化」(インカル)が生まれてくるのだと思っています。

>クリスマスは、自分の醜さを思い起こさせる時期。

>自分がこれほど醜いからこそ、その意味が無限に大きくなるキリストの誕生。

>それがクリスマスの意味。

勝手ながら、akoさんとこのHPからもってきちゃいますたー。まさに、これですね。 

 

教会暦の大晦日

任されるこの心なり雪仰ぐ   いう (ルカ21:34-36) 

余白:「大晦日」の雪だったのですね、HP見てきました。明けて今日は、待降節第一主日。「目を覚ましていなさい」というキリストのメッセージが読まれました。

まさに、目の覚めるような真っ白な雪景色のなかで迎える待降節をじっくりあじわって下さい。

こちらは、暖冬のようです。 

感謝祭

 両の手に恵みあふれり感謝祭   〃

感謝祭のミサにはかなりたくさんの人が出席していました。演台の足元に、オレンジ色の南瓜や麦の穂などがきれいに飾られていていい雰囲気でした。

ミサの朗読箇所は、感謝祭用の特別なものだったみたいです。ルカの17章の、十人の人を癒して一人の外国人だけが感謝しに戻ってきたというくだり。

恵みは数え切れないほどいただいているのに、感謝することの少なさを反省させられます。背中からいつも抱きしめてくれているアッバ。立ち止まり、振り返り、いつも感謝を捧げるようにしたいです。 

余白:そう、ぼくらが一番忘れるのは感謝。憎しみや怨恨を長い間忘れず、事件を起こす、などというニュースもこのごろ聞きます。

感謝を忘れるのは、やはり自分だけで生きてる、自分が頑張ってるから当たり前、みたいなエゴイズムなんでしょうね。

「感謝は祈る心」山頭火の最期の言葉です。  

幼子の魂

 棺小さく冷え若い母立てり   〃 (ルカ21:23)

やりきれない、やりきれない思い。受け取ってください。幼子の魂とご家族の悲しみ。 

余白:掲句、たしかに17音ですが、素直に読めば、9・5・3となります。この5・7・5で収まりきらないリズムが、悲しみの大きさを表しています。

このお母さんの悲しみはいかばかりかと、、、子供を持つ身としても計り知れません。

なぜ、このような小さき者の、罪なき者の死が許されるのか、、、「エロイエロイレマサバクタニ」と、イエスとともに叫びたい。 

 

39年の団地は老人が1/3をこえました

  別れ   末子

県営団地の同じ棟/八年来のお付き合い/今年になって御主人が/左膝下切断し/右の親指切除する/糖尿病の恐ろしさ/七十過ぎの御夫妻は/三階住い歩けない/明日越されて行かれます/長男夫婦の住む他県/(多くの悩みを持った儘・・・・)/神様涙があふれます 

余白:七五調の響きにのせて、人生の悲哀が素直に表現された詩ですね。井上神父の「南無アッバ」詩集を思わせます。

様々な困難や病が繰り返されるこの世。ときどき「何のために・・・」と神様に食いつきたくなることもあります。

しかしそういうときこそ、わたしたちの主イエスは、「罪以外に、あらゆる点において、わたしたちと同様の試練に遭われた」(ヘブライ4:15)ことを思い起こしたいと思います。

その思い起こしは、即祈りです。その叫びを必ずアッバはお聞きになっています。

 

ミシガンの天気は

 当たらない雪の予報や空の青   いう (ルカ21:5-11  

余白:「神殿の崩壊を予告」し、「終末の徴」を描くルカ伝のくだり。「世の終りはすぐには来ない」ともイエスはいいます。イエスの言葉・預言の真意をすべて了解できるわけではないわたしたちですが、いずれにしろその時は、新しい「神殿」、「戦争や暴動や災害」のない「神の国」が到来することを、信じます。

私の音はどんな音

 寒風の貫くわが音色を証とす   〃(ルカ21:12-19) 

余白:「王や総督の前に、証しをする機会」には、「どんな反対者でも、対抗できないような言葉と知恵を、わたし(イエス)があなたがたに授ける。」(ルカ21:13-15

掲句、寒風にさらされたわが身そのものをさらけだす覚悟、それは自らを相対化無化し、アッバに全幅の信頼を寄せる覚悟とも受け取れます。 

「何をしてほしいのか」

 木蓮の願い届けリ冬芽出づ   〃(ルカ18:35-43 

余白:「エリコの盲人のいやし」の物語ですね。

盲人の「目」と掲句「冬芽」が呼応します。

イエス様は、苦悩に沈みこんでいた盲人の目を開け、わたしたちの希望の目を開かせてくださった。。。

黄疸等で入院: 白雲子

手術も済み、2ヶ月となり、外泊許可もでて、自宅でこの手紙を書いています。

まもなく退院できると思います。

そしたら、また「余白の風」に出句したいと思います。よろしく。 

余白:また、期待していますよ、あなたのストレートな作に! 

 

神の御手が働いて

  あの子   末子

幼い頃は愛らしかった/小学生で金を盗り/就職しては大騒動/その後も一、二度警察の/呼び出しあれば面会に/家主も驚く自堕落さ/親の手元で二年間/あの子は離れて行きました/今は普通の労働者//あの子は一体何だった/あの子が愛を耕した

−−−−−−−−−−−−

祈る時いつも口元がゆるみます。子馬鹿、親馬鹿結構、死ぬまで通します。神様に感謝!

余白:イエスの神の国は、善悪を超えている、という論があります。それ以前に、全幅の信頼をアッバに寄せられるかどうかが、大きな試金石なのでしょうね。

今、ここ

王たる主日文脈乱る福音書   栄一

2005.11 余白の風116号改作)

今日の福音は、「王であるキリスト」=年間最後の主日にふさわしく、終末を視野に入れたイエスの最後の説教である。

このペリコーぺも多くマタイの編集が加わり、また矛盾もひそんでいるが、論旨は明確である。

24章で教会の指導者へ、25章前半で一般信徒へ警告がなされ、ここでは福音を耳にした「すべての国民」が警告の対象となっている。

ただ、マタイの文脈では、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」とは、一般の貧者や病者ではなく、福音伝道者、そして彼らと同定されるイエスを意味している。

実際マタイ時代には、こうした無一物で放浪しながら伝道をした者がいたのであり、彼らへの態度は終末の裁きを決定的にする、というマタイの考えが出ている。

マタイは、そのおかれた状況のなかでイエスの言動を善意に編集し、適用しようとしたのである。

このマタイの文脈がどこまでイエス自身に遡れるか、となると簡単に答えは出ない。

が、たとえばマザーテレサの活動−−宗教の別なく貧しい人々に手をさしのべた−−は、他の福音書を含めた様々な箇所を見る限り、イエスの活動とけっして矛盾するものではない。

わたしたちは、福音書の文脈をたどりつつも、それをこえて「今、ここ」に注がれているイエスのまなざしを求めなければならない。 

空港に送る

夫送る空港凍てて言い足りず   いう

余白:何か温かい言葉を、と思いながら、あたふたとして言いそびれて後悔する、っていう見送り、だれでも経験ありますよね。

そういうときは、背後からそっと「南無アッバ!」とつぶやいてください。

現実の言葉より、きっと相手のお役に立つかも、です。

霙に打たれて

 なりきれぬ霙の映る眼かな   〃

 俳句は少々孤独な心持でないと出てこないものなのでしょうか。日本から戻り落ち着いてからまた作り始めました。

余白:もう、霙の季節なんですねー。

なにか毎年季節の駆け足が速くなっているように思うのは、年のせいかな。。。

そうですね。あまりにめまぐるしく他者とかかわっていると、何も浮かびません。

さてと、と自分を振り返った時に沸いてくるのだと思います。

ゆく季節悼みうすらに初の雪    〃

余白:刻々変わる季節を惜しむように。。。

猫が子のように意味問う雪景色    〃

余白:いつまでも子供のような猫の目がうらやましい。

実家にて

長崎の枇杷川崎に芽吹きたり   〃

枇杷の鉢があったので尋ねると、私が長崎から持ち帰った枇杷の種だと母が答えました。その枇杷は、去年の長崎で、娘さん3人がシスターになられたという方が振舞ってくださったものでした。

よみがえる場面、おっしゃられた言葉。

人と人の出会いの不思議、通り過ぎた一瞬が後に芽吹く不思議を思いました。 

余白:一本の木にも、様々な思い出や教訓があります。うちの庭の雑然とした木々や石にも、小さな歴史が思い起こされます。 

 

猫に学ぶこと

 小春日の猫今という時を生く   〃

余白:まさに、「今を生きることば」ならぬ「今を生きる猫!」

いやいや、それだからこそ、私たちへの「ことば」ともなっているようです。あっぱれ猫ちゃん!!

 

とうとう・・・

 雀らのふくれて朝は氷点下   〃

余白:ああ、いよいよ本格的な冬なのですね。

こちらも日増しに寒くなっています。それでも今日は小春日和かな。

「雀ら」も厳しい冬に覚悟を決めているのでしょう。 

 

カレンダーもあと二枚になりました

来月はクリスマス。悲しみと喜び静かに胸の中に・・・・

小春日や尚あまりある神の愛   末子

余白:りある」ことがなかなかわからない、私たちですね。

初時雨車内の誰も気づかずに   〃

余白:誰も気づかない」ところで、お恵みが働いている。

柊や末の息子も巣立ちたる   〃

余白:気がつくと子供はひとり立ちしています。そうでないと困るのですが、ちょっと淋しいような気も。。。

食器拭く夫の思ひや石蕗の花   〃

余白:奥様が洗ってご主人が拭く。こういうときのなにげない会話こそ、心に残るのでしょう。

冬初め終りある日を気づかされ   〃

余白:その日のためにも、小さなことを積み上げていきたいですね。 

 

ルカ17:20-252005.0340号・饒舌な秋

秋分や神の国への回帰線   栄一

燃えてゆく秋故郷は遠ざかる   いう

今日作ったものです。「秋」と「帰る国」つながりなのですが、私のは後ろ向きだなー・・・(^^;)

余白さんの句にあるように、ほんとの国籍は神の国なんですよね。

余白:一時帰国して、またアメリカへ渡る気持ちが察せられます。

寂しさもあるだろうけど、けっして後ろ向きの句ではないです。

「燃えてゆく」に、しっかり生きようという、前向きの姿勢が表れています。 

透きとおる秋空に続く天の国   NK

ふっと思いついたら、私はこんな句。

最近、みょーに前向き?な私です。。苦笑。

帰っていくところは皆同じなんですよねー。 

余白:そうそう、この世のどこに暮らしても、帰っていくのは「天の国」。

お会いしたみなさんと、そのまま天国でごいっしょできるなんて、すてきですね! 

いう: (^^)/いいですね!シュにありてシュの交わりができる!

冴える空いずれ集はん主のもとに   いう

余白:そう、この空、この大地にイエス様も見上げ、立たれていた。主を初穂としていただいた私たちは、また天の御国で集えるのだと思います。

 

年間第33主日 A年 マタイ25:14-30 タラントンのたとえ: 余白

待降節には少し早いが、妻と三男坊をつれて、ゆるしの秘跡を受けるためミサへ。

ともども告白の後、丁寧なアドバイスを神父様からいただいた。

様々に日常の不安や罪はあるが、貸し与えられた力を、神の国のためにたゆまず発揮すること。

たとえ間違っても、気づくたびに改めることを忘れなければ、無為を決め込むよりはずっといいこと・・・・

今日の福音がそのまま、答えになっているような、恵まれた秘跡を受けました。

気がかりを預けて溶けよ秋の雲    栄一2004.08改) 

いう:この句はとても気に入っていて、良く口ずさんだりしています。(あの時は春でしたね。) 心配、思い煩いは何にもならないですものね。

この句、ICFに投稿版があったときに、レスの中に書いていただいたような気がしていたので探してみたのですが、昔のログはやっぱり消えていたのですねー。ちょっと残念。

確かめられなかったけど、「ふっ」と気持ちが落ち着く優しい句で好きです。

ネット上にUPしてくださった10/1アッバミサで井上神父がおっしゃっていた本、テレーズのお姉さんのセリーヌが書いた本を見つけました。(My Sister Saint Therese

本当にすばらしい本でした。テレーズの神様への幼子の信頼に感動します。すっかり「気がかりを預け」られる方なのだと教えられます。

神様への委託・・・、己をまかせきること。それは(人任せの楽な道なのではなく)利己心を捨てさり、神様の御旨に聞く生き方なのですね。

湖風に流れて白し冬の雲   いう 

余白:ありがとうございます。

ちょっと旧作を見直してみたくて、しばらく聖句と結びつけてアップしようと思っています。 

 

夕べ雷朝は時雨れて昼強風

今日はいろんな天気だなー。

雨降って紅葉押されるアスファルト   〃

余白:一日のうち、刻一刻変わっていくのが自然。

その変化のうちに、神の国のダイナミズムを見出せれば、うれしいですね。 

 

短詩3

      末子

高い梢に雀がとまっています/私は子雀と勘違いしました

 

  鳩

雄が雌を追っている/いつもの「追いかけごっこ」です/物陰から伏兵一羽

雄の側に寄りました/どこかの世界にもありましたっけ

 

  ことば

坊やが電車をみつけた/爪先を立て口をとがらし/人指し指をそらしている/「お母さん/これが僕のことばです」 

 余白:ぼくが愛読している『柿の種』(寺田寅彦)を思わせるような短詩、短唱ですね。

なにげない日常を切り取った、さりげない俳文が好きです。それはおそらく、「アッバ」に「南無」する心を思い起こさせるからでしょう。 

誇らぬこと

 つわぶきや誇らぬ顔に日の光   いう(ルカ17:10) 

余白:ちょうど今、うちの日陰の庭にも、可憐なつわぶきが咲いたところでした。お写真もありがとうございます。 

ヨハネ2:13−22 神殿なぐりこみ事件

1990.03層雲・上田都史著『自由律俳句とは何か』所収。

手相見にもう客がいて浅草仲見世師走の朝   栄一

ルカ14:12-14

思春期の無口極まり十月尽   〃

いう:もどかしく伝えられない思い。傷つけてしまうほど強い思い。それが涙になってとけていくのは、ずっと後のことなのかもしれません。 

つわぶき

 京都、下賀茂神社のお庭に咲いていたつわぶきです(1020)。日の光を受けて輝いていました。 

ルカ17:7―10 神の当為 :余白

この17章は、共に生きる者たちへの配慮。当時共同体の中にいる「小さき者」=貧しい人、無力な人は軽視されることがあったのだろう。

原始教会といえども、けっして理想的な、完成された愛の場ではなかったことがうかがわれる。

2001.03層雲自由律52号改

神の道具たれ吾が喜びとなれ   栄一

ルカ17:1:6 からし種の信頼

人生に無駄なし御国の種と化す   〃

マタイ25:1-13

「その日その時はわからない」からこそ、今、この時、一日を大切にしたい。「目をさまし」「油を用意する」とは、このことにほかならない。

いま生きる詩(うた)こそ父母に聞かさんや   〃

ルカ16:9-15

「不正な富」=「小事」ととらえるか。「友達をつくる」=「神に仕える」ととらえるか。

2003.07「紫」へ

友は去りカナンを去りて後の月   〃  

葉が散り敷いて

吹き抜ける晩秋白き心置く   いう 

 余白:「白き心」がポイント。

この心、これから待降節・クリスマスへ向かうこの時期、「無心」と受けとめたいと思います。 

ルカ16:1-8 不正な管理人のたとえ

この世の富=金・財産だけでなく、能力や才能をどう生かすか、どう神の支配と結びつくか、考えさせられます。ちょうど別スレに献金の話があったところですね。

2004.2豈38号・デュナミスより

春愁や陥落跡にユダの金   栄一 

息白し朝の讃美は空へ空へ    いう

11月になりました。無事に日本に行ってこられたことを感謝。2日、朝ミサへ。All Souls Day. 賛美歌はアメイジング・グレイス。来る人を追い出さないといってくださるイエス(ヨハネ6:37)。私も迎えてくださいますね。

チャペルを出ると夜が明けていました。冬時間になって時計が一時間遅れたから。朝日を見ながら思わず口ずさんだ賛美歌は、白く立ち上っていきました。 

余白:諸聖人祭の翌日が諸霊祭=死者の日、そして今日、日本では文化の日=平和憲法公布記念。

「私の平和、平安を与える」とおっしゃったイエス様に信頼しましょう。 

 

おかねです

この献金身を切るようでさし出せぬ    ako 

余白:ぷはっ、この気持ちよくわかる。

三浦綾子さんだったかは、「献金の額は少し痛いな、って思うくらいがいい」というようなことをおっしゃっていましたが、なかなかそうは、、、って感じですね。

こういう句、正直でいいですね。 

Ako虫:自分だって献金するとき辛いのに、牧師の家庭はその献金から出る謝儀で生きてゆく・・・・考えただけで恐ろしい。重すぎます・・・・・・

ルカ15:1-10 迷える羊・なくした銀貨:余白

人や自然に傷つく人生。それはまた、人や自然を傷つける人生でもある。

個々に見ればこのような世界が、全体として「アッバ」に支配されているといえるのだろうか、ふと疑問に思うこともある。

原始キリスト教会もけっして理想郷ではなかった。

しかし、傷つけあっても、どこまでも神を仰いでゆこうという意欲はついに絶えることがなかった。今後も絶えることがないだろう。

イエスこそアッバに信頼する叫びであり、メッセージではなかったか。

イエスこそ先駆けであり、印であり、証だった。

一糸まとわぬ主の十字架や致命祭   栄一(豈41号) 

その人を つうじて慕う 神の家    yohannna

私のキリスト教とのかかわりは、やはり、尊敬する司祭との出会いでした・・。良くも悪くも人に左右されやすい自分に本当は人よりもイエスの教えを見るべきなのに・・と思う昨今ですが、なかなか成長のない自分です。

余白:そうかなー? 突っ込むわけじゃないけど、ボクは、「教え」より「人」の方が確かだと思いますが。

イエスにしても、イエスが口で話した「教え」よりは、生涯全体にわたる行為、「人柄」を感じ取りたいと思っています。

マタイ23:1-12

弱さ知り些事たのしまん秋の暮   栄一

いう:ポプラの枯葉を踏んでかさかさ言わせること、ビルの隙間から見上げる青い空、大切な人と飲む一杯のコーヒー、店員さんと交わす短い会話・・・。そんな小さな出来事がいとおしい。自分の小ささを知るほどに、そういう出来事が立ち上がってきて私を喜ばせる。 

五十路入り奥歯に響く柿の音    〃

ルカ14:1,7-11

柿食みて不調をかこつ昼下がり   〃

するすると柿むく母の肩まろし   いう

柿、やっぱりめずらしく、それを言ったら母がむいてくれました。大きな柿。一緒に出されたちいさな二つ割れの果物用フォークは、何年前からあるのだろう。刺すと柿が重くてあたまでっかちでふらふらします。そんな感覚も楽しみながらかじった柿は甘い味でした。 

マタイ5:1-12 諸聖人祭

○耳鳴りやつまらん虫の騒ぎ立ち   栄一

○気になびく髪の薄さや聖人祭   〃

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送