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平田栄一サイン本
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 求道俳句会誌「余白の風」第118号 2006.1

特集:待降節〜クリスマス黙想句文集

Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:掲示板 ホームページ今を生きることば

 

<目次>

求道俳句会12月作品W243. 1

待降節U〜クリスマスの黙想:余白... 3

他者の信仰が救う... 3

一方的に探す神... 3

軽いくびき... 3

南無の心... 4

落胆の時にこそ... 4

わたしたちにも教えてください... 4

喜びと感謝のうちに... 4

権威とは... 4

信頼こそ最大の行為... 5

ヨハネのゆらぎ... 5

押し寄せる神... 5

今、ここに... 5

「系図」が暗示するもの... 6

御心のままに... 6

全てが準備される... 6

母としての覚悟... 6

出会い... 6

無条件の福音... 7

産んで育てるということ... 7

救いの多様性... 7

福音の逆説... 8

信頼の予型... 8

いかようにしても光は勝つ... 8

悲愛のリレーランナー... 8

南無の心は
イエスの心
アッバ、アッバ、
南無アッバ

 

口上:2005年も皆様の寄稿により、充実した紙面とすることができ、心より感謝申し上げます。2006年度も引き続き「余白の風」をよろしくお願いいたします。

皆様の上にアッバの豊かな祝福がありますよう祈念申し上げます。(余白)

 

日本人の感性でキリスト教を考える新刊書

平田栄一・著

俳句でキリスト教(サンパウロ)ハードカバーB6270頁、本体価格1,680円税込

井上洋治・著

『わが師イエスの生涯』(日本キリスト教団出版局)四六判上製220 2,520円税込 

山根道公・著

『遠藤周作-その人生と『沈黙』の真実(朝文社)6,300税込

 

求道俳句会12月作品W243

白雲子:今年も、もうあとわずか、よいお年を迎えてください。

  三句

夕陽 ああ いい一日だった   白雲子 

余白:この感覚、なによりともかく無事な一日を。。。

この朝空でもうちょっと澄もう   〃

余白:お空の清清しさにおなかの底から清めてもらえそう。

いい湯でオナラもでたよ     〃

余白:それが自然の人間らしさ!お体ご自愛を。

邦司:クリスマスおめでとうございます。新しい年も主の祝福が豊かにありますように、お祈りいたします。

(近詠です)

武蔵野に住みて日課の落葉掃   邦司

余白:大兄の落ち着いた生活がにじみ出ていますね。

夜の銀座聖樹の前で君を待つ    〃

余白:商売用の「聖樹」でもいい、イエス様を心に浮かべる人も。。。

くつくつとシチューよく煮えクリスマス    〃

余白:今年はとくに寒い聖夜でした。心もあったまりそう!

末子:残り少なくなった今年。余白様の慰めがとても有難い心の支えとなりました。心より御礼を申し上げます。皆様にも。

馬小屋に初声ありてクリスマス    末子

余白:すべては馬小屋という目立たない、貧しさから始まったのですね。

幼な子のさだめは重しクリスマス    〃

余白:マリア様の不安も大きかったでしょう。。。

イエス君を死に追いつめしクリスマス    〃

余白:結果的にそうなる。手放しの喜びだけでなく。。。

精一杯讃美をするやクリスマス    〃

余白:そのイエス様の有難さを噛み締める季節です。

涼星に主の歩まれし道偲ぶ   〃 

余白:星の生死にも比すイエスのはるかな歩み。 

いう:猫・・・重し・・・

吾が鼓動数えて眠る猫の冬    いう

余白:いうさん、体調をくずしておられるのかな。。。病のとき、鼓動や脈がドキンドキンリアルに聞こえきて、不気味に思う、どうなるのか不安になることがありますね。まさか大変なことには、、、と思っても不安。そういうときは「アッバ、アッバ、南無アッバ」と繰り返し、「鼓動」に合わせて唱えます。。。。 

末子:「余白の風」をいつも有難う御座います。足りない小品を暖かく汲み上げて下さいまして、感謝して居ります。現実はきびしい事が多く、皆様の作品に慰められて居ります。

月に二回口げんかして年の暮    末子

余白:夫婦喧嘩は犬も食わない、なんていいますが、ベテラン同士なら手ごわそう(笑)。

七軒の新聞配り冬の月    〃

余白:ご苦労様です。煌々と冬の月が明るい。

冬の雲綿羊寄りて目を閉じる    〃

余白:形の良い雲が出ているとほっとしますね。

人の云う箱根湯本の牡丹雲    〃

余白:今年は雪が多そうです。旅行吟でしょうか。

歳の暮父なく祖父亡く神ありて    〃

余白:そう、年の暮はあわただしいのですが、故人を偲ぶ雰囲気があります。

   十二月(三連)    末子

一枚残った枯葉散った /好きな桜が裸になった /「真冬行き」の切符を貰った

うつむいてそっと歩いた /水仙の細い草の中に蕾を見た /「待春行き」の切符を貰った

日溜りに立ち池を眺めた /一瞬のコバルト・ブルー。かわせみだ! /「驚き行き」も貰っちゃった 

余白:3連が見事に和合、響きあっています。日々の小さな発見に大きな感動を受ける。詩心というのは難しいことではなく、感受性を日頃からいかに養っているか、ということなのでしょう。 

かず:はじめまして。還暦を迎えた女性で、プロテスタントのクリスチャンです。俳句は本格的には半年前にはじめたばかりで、なかなか思いがまとまりません。先生のご本「人の思いをこえて」を大変感銘深く読ませていただきました。お名前をインターネットで検索しこのサイトを見つけて毎日読ませていただいています。先生を初め皆様格調高い句ばかりで恥ずかしいのですが、投稿させていただきます。

夏の終わりに教会の高齢の兄姉を相次いで天国に送りました。

 また会える希望御国の花野行く    かず

余白:かずさん、ようこそ投句ありがとうございます。この希望の確信が、信仰の最大のお恵みですね。

 爽やかや天と地ひとつ賛美せる    〃

余白:万物が声を合わせて詠っているのですねー♪

 主の御許侍りて紅き花芙蓉    

余白:芙蓉が主の御許に咲くように、故人の人生も御国で花開く。

かず:残された高齢のご主人は御國にて又会えると希望を繋ぎつつも

 秋深し亡妻ある如く独りごつ    

余白:淋しいのは真実ですね。その寂しさもアッバにお任せして。。。。

かず:日々の雑感

 暑さ負け飛ばしておくれちちろ虫    〃

余白:夏に作られた句でしょうか。虫の音に癒される。

 とんぼつり夫少年の瞳して(孫達とともに)   

余白:男子はいくつになっても遊び心がなくならない(笑)。

 孫ら来て今日は嬉しき大根引き    

余白:孫は子よりかわいい、と何となく最近想像できます。

かず:夫とともに旅にでて

 山紅葉打たれし滝の石まろし    〃

余白:人生と同じ。どこでも自然に学べますね。

 鳴るという浜砂も踏み秋の旅    

余白:自然も声を出して詠いたいのでしょう。

かず:礼拝にて

 キリストの愛説く牧師冬日背に    〃

余白:牧師様の誠実さが伝わってきます。イエスの背のような。。。。

 我が太陽沈まぬ約束クリスマス    〃

余白:一年で最も希望に溢れた季節です。

 この年の実りと恵み師走かな    〃

余白:いろいろ難しい問題や不安は公私ともありますが、まずは感謝!

たくさんの投句うれしいです。どれも一読素直に詠まれていて、お人柄がよくでていますね。

これからもよろしくお願いいたします。 

余白:マタイ1:1-17より

主の系図冬青空を貫きて   栄一 

ヨハネ5:33−36より

目を凝らし耳澄ませて聞く冬の業   〃

最大の寒波とも

生きる意味問う青年と冬の窓   栄一 03.11 紫・山紫集) 

いう:両足をそろえた兎の足跡

変わる弱さと変われる強さと雪うさぎ   いう (マタイ21:28-32)

余白:「二人の息子」のたとえ。 「変化」ということをどうとらえるか、不易と流行が一人一人のなかにもあるのでしょうね。

ロザリオの一環積雪一インチ    〃

余白:僕の経験だと一環が20分くらいのペースだと思います。急ぎすぎかな。。。皆さんはどのくらいですか? 口早より一連でもゆっくりの方がいいのかもしれません。 

いう: (^^)私もちょっと大げさだと思ったんです。一インチ。白髪三千丈みたい。うふふ。でも、朝チャペルから出て、積もっているとそんな感じがしたり。

ロザリオ、そうですね。20分くらいなのかな。夕方のカトリックラジオでやっているのにあわせると30分くらい。主の祈りとヘイル・メアリを歌でお祈りすると四、五十分になるのかな。ぼーっと気持ちよくて(?)、時間に余裕のあるときはすることもあります。

ついこの間、私のポケットからチラッと覗いたロザリオを見て、「懐かしい」と言った人がいました。カトリックの高校を出た方でした。 

余白:マタイによる福音(21:23-27)より

信頼の生みし奇跡や暮れ易し   栄一 2003.12 紫・山紫集)

いう:私へ、友へ

掬えどもそばから乾く両の手の空の器に受ける白雪    いう

余白:淡い白雪の思いは、掬おうとする人間の行為をも寄せ付けないのかもしれません。

ただ、側から見つめることだけが許される。。。。 

いう:グアダルーペの聖母

黒髪にグアダルーペの冬の薔薇    

余白:固有名詞を詠み込むのはむずかしい。。。。

いう:待降節第三週。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

雪踏みはしじまに響き朝近し   〃 

余白:夜明け前の予感、期待。そのための先駆けとなって、去って行くヨハネのような人もいる。。。。あこがれでもあり、淋しくもある。。。

待降節第3主日

人知れず咲く喜びや日々草   栄一 2000.05 「豈」32号)

いう:笛吹けど踊らず

フレームを取って開ける大雪原   いう(マタイ11:16-19)

雪掻くを中から我輩笑いおり    〃

余白: HPの方も参考に見せていただき、雪かきごくろうさまー、っと同時に、猫ちゃんたちには、笑えましたー。

昼酒のきくに任せて墓を掘る   栄一 1991.10 俳句空間新鋭作品「地下捜索」)

いう:無原罪の聖マリア

なれかしと言える恵みや聖マリア    いう

余白:そう、なかなか「なれかし fiat mihi」とは言えないですね。この単純なひとこと、心から言えたら、、、あこがれてしまいます。 

いう:休ませてあげよう

雪の野に心沁みゆく無音かな   いう(マタイ11:28-30) 

 業平が言わぬを覚え風の花    〃

余白:一面の雪が、私たちの愛も憎しみも吸い取って真っ白に輝く。心は静寂、無心になっていく。。。。天国の風景

無原罪の聖マリア祭日

真冬日のマンションに棲む聖マリア   栄一 1997.02 現代歳時記「真冬日」)

いう:マイナス15℃の朝

シスターの衣摺れ冴えて朝のミサ   いう

吸う息の自覚マイナス15°C

余白:おのずと気持ちも引き締まりますね。

雪催い数に入る身と知りながら   いう (マタイ18:12-14 

余白:なんか「99匹」のように「残されてる」のも淋しい気がするし、「1匹」のような気もする、、、意外と難しい例えですね。 

逃げ水を追うて迷いし羊かな   栄一 2003.05 紫・山紫集)

一木:福音短歌その55

あなたたちが/散り散りにされて/わたし一人を取り残す時が来る(ヨハネ16:32

しかし わたしは/一人ではない 父が/わたしと一緒におられるから(〃)

これらのことを 話したのは/わたしによって あなたたちが/平安を得るため(〃16:33

勇気を出しなさい/わたしは 既にこの世に/打ち勝ったのである(〃)

父よ 時が来ました/子が あなたに栄光を/帰することができますように(〃17:1

余白:ヨハネによる福音書14章から16章にわたる、イエスの長い別れの説教。これを一般の人たちにどう伝えるかが、問われると思います。

いう:今朝積もる雪

思い閉じつつ降れよ降れ今朝の雪   いう

余白:上5「思い閉じつつ」が、ちょっと難しかったかな? 今朝降り積もる真っ白な雪に、悲しい気持ちを「閉じ込める」「断ち切って」もらいたいという風に受け取ってみたのですが、どうだろう? 

いう:だんな君もどる。ああ〜orz、はい、なんだかつらかったです。(^^;)ちょっと混乱してたのかな、主体がなんだかわからなくなっちゃってますね。そういうときだった、という記録にします。/(^o^;;)

昨日だんな君出張から帰ってきました。それはよかったのですが・・・

夫戻る土産は寒波と洗濯物   〃

・・・でした。Orz 

余白:はい、たった17音でも、正直に心が出る、ってのが俳句は恐ろしくもあり、楽しくもあり。。。 

いう:また出る

 海外出張師走の空へ送り出す   〃

余白:ん、またまた出張かな? 文字通り、世界を飛び回っておられるようで。。。 

いう:ザビエルの日

いつか蒔く麦よ芽と吹けザビエル忌   〃 (123) 

余白:福音の種は小さくとも、神の国は自立的に膨らんでいく。 アッバの力にお任せしましょう。

いう:冬の雷

雪起こし聞き流しけり北に四年   〃 

余白:こちら(埼玉)に生まれ育ちますと、「雪起こし」という現象を経験したことがないのです。。。けっこう大きな雷なのでしょうか? 

いう:初めて聞いたのは雪国に暮らした一年目です。雷鳴を聞いたとたん、「夏が来る」と思ってしまった私。同僚に話すと、「雪起こし」というのだよ、と教えてくれました。冬の間ずっと雲が低く垂れ込める土地でした。雷といえば、関東育ちの私には夏の前触れ。冬の雲の下で夏が来るような感覚にいつも襲われていた私も、数年後には、雪の前触れの雷鳴に慣れてしまいました。アメリカでも、雪が降る前に雷がなることがあります。日本の雪起こしを思い出しました。こちらでの冬も4回目。

待降節U〜クリスマスの黙想:余白

他者の信仰が救う

『ルカによる福音書』5:17−26
「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。(20)
「その人たち」の中には、「中風の人」も含まれるとも解されるが、その中心は、やはり彼を運んできた「男たち」の信仰(信頼)だろう。
このように、ある人(たち)の信仰によって神またイエスの力が働き、別の病人や障害者が癒される、という話は、福音書の他の箇所にもある。(マタイ8:5ー13
カトリックが聖書にはない「煉獄」を想定し、そこで苦しむ人のためにとりなしの祈りをする、という事情は、まるで根拠のないことではないのである。

たしかに近代の「個」の自覚は、人権や政治、科学の発展に寄与しただろうが、教会の中で、「個人の信仰」の有り様がすべて、という考え方は、修正されなければならない。

今日わたしたちはとくに、教会共同体の外にいる人たち、また内にいてイエスへの信頼に揺らいでいる人たちのために祈りましょう。
また、弱い私たち自身のためにも、ともに祈り合いましょう。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/05 Mon in 今日、心に残った言葉 コメント

 

一方的に探す神

『マタイによる福音書』18:12−14
福音記者マタイがもっとも強調したいポイントが端的に表れている箇所。
この「小さい者」は、マタイの文脈では「教会内」の弱者と解釈されているようだが、イエス自身はそこに限定してはいない。
常識的には一匹の羊を捜し求めるのに、他の九十九匹を放置する、ということは考えられないが、それほど神は、「迷い出た一匹」に配慮する、ということだろう。
しかも「迷い出た」のは、追い出されたというより、自らの欲望や弱さによって群れから離れたのであり、集団にとっては迷惑な存在かもしれない。
さらに、羊飼い=神は自ら、勝手に迷い出た羊を一方的に探しに行くのであり、羊が悔い改め、謝罪してはじめて、受け入れる、というのでもない。
まさに、神=アッバとしての内実が、わかりやすくたとえられている。

私たちが弱さや欲望に流されたときも、いつまでもくよくよせず、アッバの懐に無心に飛び込んでいけますように。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/06 Tue in 今日、心に残った言葉 コメント

 

軽いくびき

『マタイによる福音書』11:28-30
キリスト教とユダヤ教の大きな違いを、信仰の単純化、という観点で捉えることもできる。
600に余る律法=「重荷」(28)を、アッバまたイエスへの全幅の信頼という一点に絞り、集約したのがキリスト教ということになる。
現代社会は高度な文明を享受したが、その分複雑にもなって、これだけは、という最重要なものが見えなくなっている。
日々の仕事や欲望に振り回され、幸福の本質をわたしたちは見失ってはいないだろうか。
人生や世界をあまりにも複雑に考えてはいないだろうか。
俳句は「軽み」を重視する。
「軽み」は軽薄とは違う(拙著『俳句でキリスト教』あとがき参照)。
自然とは、人生とは、世界とは、と煮詰めていった先に、ふっと単純化された世界が広がる。

イエスの軽いくびき(30)に信頼し、安らぎを得られますように(29)。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/07 Wed in 今日、心に残った言葉 コメント

 

南無の心

ルカによる福音(1:26-38
「神にできないことは何一つない。」(37)
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38)
イエスが生まれる前のマリアのこの言葉は、イエスの最期、オリーブ山でのイエスの祈り、「・・・・しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(22:42)に呼応する。
イエスは極限の孤独と死を前にして、アッバにすべてを委ねていきます。
マリアも、天使の言葉に「戸惑い」(29)「恐れ」(30)疑問を持ちながらも(34)、アッバにすべてを委ねました。
このアッバへのお任せ=南無の心を徹底的に生きぬいたことが神に嘉された、それをカトリック教会では今日、「無原罪の聖マリア」の祭日として祝うのです。

わたしたちもこの南無の心にならい、病気、障害、仕事・・・・日常の物事がうまくいかない(と思える)ときにも、祈りの中でアッバに全幅の信頼を寄せることができますように。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/08 Thu in 今日、心に残った言葉 コメント

 

落胆の時にこそ

マタイによる福音(11:16-19
世俗の価値基準からみれば、イエスの運動は失敗に終わったのかもしれない。
「笛吹けど踊らず、嘆きたれど胸うたざりき」(17)
ガリラヤ周辺の狭い地域の一部の人たちだけにしか受け入れらなかったイエスの福音。
人間イエスは、ときにそのことを、やはり残念に思ったであろうことは、想像に難くない。

アッバ、わたしたちの日々の仕事や目論見が、満足できないものであるときにこそ、あなたへの信頼を取り戻させてください。
わたしたちがつまらない見栄やプライドに縛られることなく、ただ、あなたの「知恵の正しさ」(19)を、人々に示すことができますように。
そのための小さな道具に徹する勇気と、励ましをお与えください。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/09 Fri in 今日、心に残った言葉 コメント

この記事へのコメント

NK:「不信仰」の世の中になろうとも・・・

世論に惑わされることなく、いつも恐れず、どうかアッバと共に自分を保っていけますように。
「こんな世の中だから、身を守るには仕方がない。」
こんなセリフは出来うる限り、私は言いたくない。
「自分のことは、自分で責任持ちます。」
私は、せめてこの程度は言えていたいのです。
そしてもし、これで「困難」に出逢ったとしても、私にはそれが「最適」であったのだと信じていたいのです。
そしてそんな私にできるだけ多くの人と、「信頼」を共にできる知恵をお示しください。。祈。

 

 

わたしたちにも教えてください

マタイによる福音(17:10-13
来るべきエリヤが洗礼者ヨハネであることが告げられる。
当時の人たちが頭の中に持っている旧約の文脈において、今がどのような時なのか、確認されたのであった。
まだかまだか、と待っていたエリヤは「既に来てしまった」(12)のだ。
そして露払い後の救い主が、今や現れたのだ!
その喜びが、イエスの変容物語(17:1−9)の結びとしてここに語られている。
しかし、イエスは最期まで人々の理解を得られない(12)。

アッバ、わたしたちが今の時代がどんな時か、いま何を考え、何をなすべきか、見極める光をお与えください。
ほんとうに大切なものに目を向け、それぞれの使命と持ち場をわきまえて、ともに力を合わせていくことができますように。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/10 Sat in 今日、心に残った言葉 コメント

 

喜びと感謝のうちに

ヨハネによる福音(1:6-8,19-28
当時、メシアはイエスなのか、それとも洗礼者ヨハネなのか、という議論があったことを推測させる。
今日の箇所では、ヨハネ自らに告白させる形で、イエスこそ救い主、と読者に確信させようとする。
イエスは最初ヨハネ教団に属し、のちに離脱して独自の活動を行っていったのだろう。
そのとき、ヨハネの弟子たちのなかにも、イエスについて行こうかどうか、迷った人たちがいたのかもしれない。

アッバ、洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ声」(23)となり、イエスの「光について証し」(8)したように、私たちもそれぞれの持ち場、仕事、生活のなかで、あなたの道具となれますように。

あなたは、「喜びと祈りと感謝」(第二朗読一テサ5:16)のうちに、すべての人を招かれます(24)。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/11 Sun in 今日、心に残った言葉 コメント

 

権威とは

マタイによる福音(21:23-27)
前日の神殿暴行事件をきっかけとした権威問答。
ユダヤ当局者らは、イエスの暴行について、驚きとともに、なんらかの権威にもとづくことをうすうす認めているようにも思われる。
それを確認したかったのだろう。
ところがイエスは、逆にヨハネの洗礼の権威を彼らに尋ねる。
質問者は窮する。。。。

ここには、イエスの洗礼者ヨハネに対する弁護とともに、真の「権威」というものは、虚心にならなければ感じ取れない、という示唆が与えられているように思う。
「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(7:29)イエス。
その「権威」は、「聞く耳のある」「小さい者」にしか直感できなかったのだろう。

アッバ、今イエスを目のあたりにできないわたしたちにも、真の権威を感じ取るやわらな心をお与えください。
見栄やエゴイズムに振り回されず、日常の小さな出来事、出会う人々、自然のなかにも、あなたの暖かなまなざしを感じ取り、それがゆるぎない「権威」にもとずくものであることを、認めることができますように。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/12 Mon in 今日、心に残った言葉 コメント

 

信頼こそ最大の行為

マタイによる福音(21:23-27)
神殿暴行事件の権威問答(23−27)につづく部分。
ペリコーペ前半の「二人の息子」のたとえ(28−30)と、その解釈(31b)以下には無理がある。
権威問答からのつながりを考えると、2731bの方がスムーズ。
すなわち、祭司長たちは洗礼者ヨハネの権威を認めなかったが、「徴税人や娼婦たちは信じた」(32)ので、「先に神の国に入るだろう」(31)とつながる。
徴税人や娼婦たちが先に神の国に入るのは、たとえの「兄」のように「考え直した」からでも、口先だけでなく神の御旨を実行したからでもない。
ストレートに、ヨハネの声やイエスの福音に耳を傾け、信頼した、ただその一点による。

このようにもし、28−31aが別の伝承だったとすれば、このたとえは、言葉より行い、また、自らの非を認めて「考え直す」こと(改心)のすすめと受け取れる。

マタイは全体をとおして、行いの重要性を指摘する傾向があるが、これをイエスの教えに照らすならば、行いを信頼(信仰)に対するものと受け取ることはできないだろう。
むしろ、その行いの最重要のものとして、アッバへの信頼が勧められているのではなかろうか。
たしかに、口先だけの言葉ではない、心からの信頼は、形だけの行いよりはるかに難しいものである。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/13 Tue in 今日、心に残った言葉 コメント

 

ヨハネのゆらぎ

ルカによる福音(7:18-23)
洗礼者ヨハネはすでに、「わたしより優れた方が来られる」(3:16)と言っていたが、それがイエスなのかどうか、確認しようとする。
群集や弟子たちだけでなく、ヨハネ自身も確信がゆらぐことがあったのかもしれない。
イエスは「見聞きしたこと」(22)によって、判断せよ、と確答をしない。

イエスをパイプとしたアッバの、神の国の圧倒的な力が、悲愛が、すでにこの世に実現しつつある、ということ。

アッバ、人間イエスの去った現代において、私たちをキリストの手足、道具として、働かせてください。
それぞれの持ち場にあって、

「イエス様につきそわれ、
生きとし生けるものと手をつなぎ」(南無アッバの祈り

あせらず、落ち着いて、アッバの力に信頼し、神の国の実現に協働することができますように。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/14 Wed in 今日、心に残った言葉 コメント

 

押し寄せる神

ルカによる福音(7:24-30)
昨日につづく洗礼者ヨハネとイエスのペリコーペ。
イエスはヨハネを十分評価しながらも、「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」という(28)。
ヨハネはたしかに、民族主義・血統主義・形式主義的なユダヤ教の狭さからは脱した(3:8)が、あくまで旧約の延長にある救いを提示した。
ヨハネの救いは、倫理的努力を要求する自力の教えといえよう。
イエスはそこを超克していった。
イエスにとって、神の国は基本的に、自力で勝ち取るというものではない。
むしろこちらの用意がどうであろうと、あちらから押し寄せてきている、という実感をもって語っている。
「時は満ちた、神の国は近づいた」(マルコ1:15)という宣教第一声は、裁きを語るものではなく、まずまさに福音を語るものなのである。

アッバ、わたしたちが押し寄せつつある神の国を受け入れるのに、ふさわしい準備をさせてください。
万物にあまねく浸透するあなたの悲愛を、無駄にすることなく、ふさわしい心で受け入れ、また伝えていくことができますように。

 

生きる意味問う青年と冬の窓   栄一 03.11 紫・山紫集)

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/15 Thu in 今日、心に残った言葉 コメント

 

今、ここに

ヨハネによる福音(5:33-36)
イエスは人の証しでなく、ヨハネの証し以上のもの、
「わたしの行っている業そのものが、証しする」(36)という。

病気は治らず、戦争は絶えず、殺人事件が頻発し・・・・
この現代にあって、わたしたちはどこに福音の証しを見ることができるだろうか。

しかしイエス存命中も、すべての者が癒されたわけではなかった。
初期キリスト教団にも、いさかいや議論が絶えなかった。
証しとしての神の業が小範囲で行われつつ、同時に広く悲惨も絶えてなくなることはなかったのだ。

その状況は、今も昔も変わらない。
逆にいえば、今、ここにも、目を凝らせば、イエスの業を、証しを「見聞きする」ことができるのではないか。

たとえば、マザーテレサの活動・・・・
いや、あの聖人のような活動とは比べものにならないにしても、身の回りに、あるときのわたしたちの行動や思いの中に、小さなイエスの「業」が行われていた、いや今も行われているのではないだろうか。
目を凝らし、耳を澄まそう。

目を凝らし耳澄ませて聞く冬の業   栄一

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/16 Fri in 今日、心に残った言葉 コメント

 

「系図」が暗示するもの

マタイによる福音(1:1-17)
今日の黙想箇所については、拙著新刊『俳句でキリスト教』の冒頭の句評をごらんください。「系図」が暗示するもの
(出版にあたって加筆訂正してあるかもしれません。)

主の系図冬青空を貫きて   栄一

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/17 Sat in 今日、心に残った言葉 コメント

 

御心のままに

ルカによる福音(1:26-38)
待降節最終週です。
クリスマスまで、ルカ1章が読まれます。

「恐れることはない。」(30)
「神にできないことは何一つない。」(37)
「お言葉どおり、この身に成りますように。」(38)

マリアへの言葉は、私たちへの言葉でもあります。
マリアはイエスの受難に向けて、後にどんなにか心配し、不安を抱き、悲しんだことでしょう。
しかし、どんなに辛くても、不安でも、悲しみに打ちひしがれてしまうようなことはなかったのではないでしょうか。
マリアの心は、このお告げ以来、アッバへの全幅の信頼が、文字通り心底に重石のようにしっかりと据えられたからです。

不可能を可能にする確信(37)と、ただしそれは、自分のエゴを通すのでなく、どこまでもアッバの御心の実現へのゆだね(38)−−
このマリアに、イエスのオリーブ山での祈りの予兆を見る思いがします。
それはどちらも「南無アッバ」の祈りです。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(22:42)

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/18 Sun in 今日、心に残った言葉 コメント

 

全てが準備される

ルカによる福音(1:5-25)
ルカは洗礼者ヨハネを、ザカリアとエリサベトの子として描く。
イエスの誕生(出現)に向けて、ヨハネが旧約と新約の橋渡しとなり、またイエスに従属するものとして物語が展開する。
エリサベトがマリアの、ザカリアがヨセフの予型として描かれる。

イエスの宣教第一声は、「時は満ちた」(マルコ1:15)というものだが、すでにイエス誕生以前に、救いの準備の時が満ちていたのである。

アッバ、主の降誕に向けて、私たちの心を準備させてください。
日々の「不安」や「恐怖」(12)、障害(20)や「恥」(25)をも、神の国への「喜び」(14)へとつながるものとして、希望を失わず生きることができますように。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/19 Mon in 今日、心に残った言葉 コメント

 

母としての覚悟

ルカによる福音(1:26-38)
今週の主日の福音と同じ箇所。
カトリック信者は、毎日のようにアヴェマリアを唱えるが、黙想の度に新鮮さを失わないペリコーペである。
「おめでとう、恵まれた方。主はあなたと共におられる。」(28)
「どうして、そのようなことが・・・・」(34)
天使ガブリエルの祝福と励ましを受けて、マリアは「fiat mihi」(我になれかし)と答える。
そのすばやい転換、覚悟、潔さ・・・・母あるいは女性としての強さか・・・・。

わが子たちが生まれた頃を思い出す。
たしかに、産み月が近づくと、恐いものがなくなったように、温和でどっしりした妻の姿があった。
そして、お産に立ち合ったときの感動がよみがえる。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/20 Tue in 今日、心に残った言葉 コメント

 

出会い

ルカによる福音(1:39-45
マリアがエリサベトのところに出かけていき、二人が出会う。
二人の交歓が美しく描かれている箇所。
ロザリオの祈り、喜びの第二玄義として度々祈ってきたが、一五(二〇)玄義のなかでも、最も美しい光景を黙想できる箇所である。
マリアとエリサベト、イエスとヨハネの霊的出会いは、二人の母の胎内にまで溯ると、ルカは伝えている。

今日は、「出会い」、あるいは「縁」の不思議に思いをいたす。
半生を振り返れば、何気ない出会い、偶然のように思えることの積み重ねによって、今の自分がある。
たとえば、井上神父との出会い。
あのとき遠藤周作氏の本に出会っていなかったら、井上師との出会いもなかった。
同じころプロテスタントの一信者に出会わなければ、やはり井上師を知ろうともしなかったろう。
書物、人、事件・・・・そしてさらに病や苦しみなど、一見マイナスな事柄こそ、大切な出会いのチャンスになっているのではないか。
blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/21 Wed in 今日、心に残った言葉 コメント

この記事へのコメント

青葉:メリークリスマス

わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変わることなく慈しみを注ぐ。エレミヤ 31:3

もず:必然と人為

仕組まれた出会いというべきものを、僕も感じます。神経症を病まなければ妻との出会いもありませんでしたし、あのやんちゃな娘もこの世に存在しなかった。
いや、それ以前に、僕が僕であるためには父が父であり母が母でなくてはならなかったし、その二人が生きて出会わなくてはならなかったし、兄や姉がいなくてはならなかったし・・・これをずっと人類の祖先にまでさかのぼれば、自分の存在を肯定するために天文学的な数の偶然を肯定しなくてはなりません。
そうしたすべての偶然が、実はご計画であり必然だったのだと考えることは楽しいし、使命感をおぼえます。

しかし、ここがよくわからないのですが、生そのものや生きている人同士の出会いを必然として肯定するためには、一方で死んだ人の死も必然として肯定しなくてはならない、ということにはならないでしょうか?

つまり、生きている人同士が出会い、そこに何かが生まれるためには・・・たとえばご主人を亡くされた女性と、ご主人の友人であった男性とが愛し合い、そこに新しい生命が生まれるとして、その命をご計画として肯定すると、ご主人の死もご計画の一環として考えなくてはならないのではないか。それともご計画とは、ご主人が亡くなって、その奥さんを神が哀れに思ったところから始まるものなのか・・・このあたりがどうも釈然としないのです。

さらにファルージャの虐殺で亡くなったイラクの民、テロの犠牲になった人々、犯罪で亡くなった人々の死は、これは人為的事故であって必然ではないのか。だとすれば、そこで生き残った人にのみ、主のご計画がはたらくのか・・・。

主の恵み、ということを聞くとき、その考えがいつも生きている人本位のものになっていることに、立ち止まってしまいます。死んだ人の無念や悲しみは、そこでは排除されているように思えてならないもので。

余白:もずさんへの

答えにはなっていないかもしれませんが、意識しながら書きました。
http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-110.html

 

 

無条件の福音

ルカによる福音(1:46-56
マグニフィカトと呼ばれる有名なマリアの賛歌。
ここにも逆転・「逆説」の思想が見られる。
「畏れる者」に「憐れみ」、「思い上がる者」は「打ち散らされ」、「権力ある者」は「引きおろされ」、「身分の低い者を高く上げ」、「飢えた人を良い物で満たし」、「富める者を空腹のまま追い返す」神。

貧しく、健康にも恵まれず、あらゆる能力に劣っている、と自信をなくしていた人々には、この逆説の神の論理は、文字通り「福音」であり、ストレートに心に沁みたことだろう。
それが無条件に、「浄不浄・信不信を問わず」というラディカルなものであってみれば、なんと新鮮な響きの福音ではないか。

律法、善行、信仰・・・・あらゆる条件を超えたところにイエスの見た福音があったのではないだろうか。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/22 Thu in 今日、心に残った言葉 コメント

 

産んで育てるということ

ルカによる福音(1:57-66
「この幼子はいったい、どんな者になるだろうか。」(66)
天使の予告どおりに事が進んでいくにしても、母になるエリサベト、父になるザカリアに人間として不安がなかったということは、考えられない。
マリアやヨセフも場合もこの点は同じだろう。

無事に生まれてくるだろうか、という心配から始まって、子が成長するまで幾度、「どうなってしまうのだろか」という場面に直面することか。
それを乗り切っていくことが、父になること、母になるということである。

小さな生命を育むという喜び、楽しみとともに、不安や苦労の種によって、父母自身も教えられ、訓練され、神の国へと準備される。
それは本来最大の楽しみとなるはずである。

今日の朝刊トップの見だしに、「人口減 産めぬ現実」
とあった。

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/23 Fri in 今日、心に残った言葉 コメント

 

救いの多様性

ルカによる福音(1:67-79
77節「罪のゆるしによる救いをその民に知らせる」は、「救いを体験的に知らせる」ことである(注解)。

聖夜を迎える今日、わたしたちは自らの救いの体験を、どう受け取り、どう伝えるかを考えよう。

今日の箇所「ザカリアの賛歌」は旧約の文脈にそった救いを語る。
しかし、わたしたちはそれぞれの置かれた文化・環境において、これを受け取り直さなければ、体験的に実感することはできない。

こうしたインカルチュレーションとともに、さらに個人史をもそこに重ね合わせることになるだろう。

そう考えると、「救い」とは十把一絡げのものでなく、個々の国民性・個人史を網羅する多様性に富んだものでなければ、普遍性をもたないことになる。

今届いた井上神父からのクリスマスカードには、
「時の流れを超えて /風(プネウマ)の営みのなかで /私たち一人一人の人生を/共に歩んでくださる/イエスさまのお誕生」とあった。
井上クリカ

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/24 Sat in 今日、心に残った言葉 コメント

 

福音の逆説

ルカによる福音(2:1-14)
イエスの誕生によって「今日」(11)救いが地上に実現していることを、ルカは伝える。
しかしそのしるしは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」にほかならない。
救い主は、人の目にはまったく目立たない、貧しく、小さく、つまらない者としてわたしたちの前に示されたのである。
驚くべき救いの実現が、驚くほど小さな事から始まる、という福音の逆説。

一方、当時世界最強のローマ皇帝の行動(勅令発布)が、ベツレヘムでのこの小さな救い主の誕生に貢献する。
ここにも福音の逆説がある。

「二タラントの者」とて生きんクリスマス  栄一(マタイ2522より)

blogrank2お役に立てたらクリックを 2005/12/25 Sun in 今日、心に残った言葉 コメント

 

信頼の予型

ルカによる福音(2:15-20)

<
マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。>19

イエス懐胎以来、めまぐるしく事が運んでいく。その意味を探ろうとするマリア。
受胎告知のとき、天使の言葉に「戸惑い、考え込んだ」(1:29)マリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、すべてをアッバに委ねた。
今また、イエス誕生の出来事をいくら「思い巡らし」ても、ついにその意味が明らかになったわけではないだろう。
しかしわからないままに、今回もアッバにすべてを委ねたに違いない。

イエスがアッバに全幅の信頼を寄せた、その予型をマリアに見ることができる。

降誕や天地を御子が縫合す   栄一(2004.05紫・山紫集)

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いかようにしても光は勝つ

ヨハネによる福音(1:1-14

命の光を<民は受け入れず>(11)<暗闇は理解しなかった>(5)。
わたしたちは、罪や弱さや怠慢、エゴイズムによって、目が遮られ、暗闇の中を歩く。
そして失敗し、無気力になる。間違いを犯し、互いに争う。

にもかかわらず・・・・<光は暗闇の中で輝き、暗闇は光に打ち勝たなかった>(5)。
南無の心は、この光――弱さも罪も<万事が益となるように共に働かす>(ローマ8:28)アッバに信頼する心。

このように光は、いかようにしても必ず勝つのだが、この福音を知った者は、それでもあえて悪に留まろうとするだろうか?

  秋霖や万事御国(みくに)へ招かれん  栄一(2005.11余白の風116)

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悲愛のリレーランナー  

マタイ10:17−22 ステファノ殉教者祝日
このペリコーペは、「由来と背景の異なる種々のロギアが、迫害というモチーフで結び合わされ、・・・・イエスに帰せしめ得る部分はほとんどなく、教会の事後預言がイエスの発言として弟子派遣説教の中に折り込まれたものである。」(注解1

とはいえ、この箇所をステファノの殉教(使徒7章)と合わせて読むとき、大きな示唆を受ける。
ローマの百人隊長に「本当に、この人は神の子(ルカでは「正しい人」)だった」(マルコ15:39)と言わしめた十字架上のイエスの姿と、サウロ(パウロ)の回心の背景にあるステファノをはじめとする殉教者の姿とが重なるのである。
そして敵をどこまでもゆるすこの姿勢は、アッバの悲愛の心の体現であった。

日々祈るわたしたちにも、少しずつアッバの心が伝染し、世々悲愛のリレーランナーとなることができますように。

アバ霊(たま)よ街から街を吹き抜ける   栄一

お役に立てたらクリックを 2005/12/26 コメント | コメントを書く

 

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