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平田栄一サイン本
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 求道俳句会誌「余白の風」第119号 2006.2

Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:掲示板 ホームページ今を生きることば

<目次>

最も簡潔な「キリスト教とは」 1

自句を振り返る:余白 1

求道俳句会1月作品W298 3

山根道公先生の「井上神父の『わが師イエスの生涯』に学ぶ」報告:小さき花 9

 

口上:寒い日がまだまだ続くようですね。

世間ではライブドア事件をはじめ、さまざまな不祥事が続いています。

そういう「倫理の欠如」状況のなかで、「だから宗教が大切」といった声を耳にするのですが、宗教は倫理の方便ではありません。

命の根本を問うものです。倫理はその後に来るものであることを忘れないようにしたいものです。

日本人の感性でキリスト教を考える新刊書

平田栄一・著

俳句でキリスト教(サンパウロ)ハードカバーB6270頁、本体価格1,680円税込

井上洋治・著

『わが師イエスの生涯』(日本キリスト教団出版局)四六判上製220 2,520円税込 

山根道公・著

『遠藤周作-その人生と『沈黙』の真実(朝文社)6,300税込

最も簡潔な「キリスト教とは」

井上洋治神父詩集『南無アッバ』より

アッバ アッバ

  南無アッバ

 *「アッバ」とは、イエス様が神様を親しく呼んだアラム原語で、幼児が父親を呼ぶときの「パパ」「おとうちゃん」にあたる言葉。「南無」は、サンスクリット語で、「〜に全幅の信頼を寄せる」という意味。

 イエスさまにつきそわれ

 *どんなときにもイエス様が共にいてくださる、という信頼。

 生きとし生けるものと手をつなぎ

 *人間を含めた自然・万物を大切に。

 おみ風さまにつつまれて

 *「おみ風さま」=「聖霊」は、神様・イエス様の心を現代に伝えるパイプ。

 アッバ アッバ

  南無アッバ

 *すなわち、キリスト教とは、アッバなる神、また、それを指し示し自らアッバの心を生き抜いたイエスに全幅の信頼を寄せる思いをいいます。

 

詳細については、このホームページをご参照ください。

自句を振り返る:余白

神を呼び神を疎ましく生きている   栄一

自分の俳句が最初に活字になった作品(旧「層雲」所収)。

無季自由律。作品の出来より、この当時1986年頃の思い−信仰上の葛藤をストレートに語っている点、自分にとって忘れられない句です。 

・意識的信仰は重要か

信仰などいらぬという涼しい目をしている   〃 1986.08

前句と同時期の習作。後年、

無信者の信に鼓舞され聖母月   〃 2004.10

という句を作るが、その間18年。

意識的な信仰というものが、はたしてそれほど重要なものなのか、一貫して疑問を持っている。

このあたりは、サイトでもとくにプロテスタントの方に以前よく叩かれた問題なのだが。。。

・幸せのなかで

春昼のブランコ児の肩やわらかな   〃 1986.09

いとおしき児と聡き妻といて死思うてみる   〃

まだ長男しか生まれていなかった頃。その幸福感のなかで、ふと「死を思う」のだった。贅沢な話かもしれないが。。。 

・自選句

不治の病人(ひと)見舞った日の妻強く抱く  〃 1988.2

自由律作品としては、代表句として自選する句。

句意はストレートだが、事実この年、妻の叔母ががんを患い、二人で見舞った。数ヵ月後死去。

『現代俳句歳時記』「夫婦」の項に採録。

 ・自由律最盛期

冬陽が斜めに切り取ってゆく病棟の一日    〃 1988.02

人気のない時間が夜の深みへ蛇行する街   〃    

犬の遠吠えが悲しげな冬空の満天の星   〃

まなこ地を見据えて老犬病んでいる   〃

この時期は、自由律時代で一番はりきっていた時期。句が生きていると、今でも思う。 

・「求道記」の句

不発弾眠る杜の蝉しぐれ    〃 1990.10

代表句の一つ。これは写生句といってよい。実家が檀家になっている寺の庭に、不発弾がささっていたのだった。http://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5/kyudo.htm

・アッバへの確信

六月のキリストの神遊ぼうよ   〃 1992.6

「神を呼び・・・・疎ましく・・・・」の初出から6年。

井上神学の学びと句作から、この頃ようやく神を「アッバ」ととらえる確信が持てるようになる。37歳。

この2年後に、最初のエッセイ詩集『今を生きることば』を出すことになる。

・巻頭句に

散文的朝、韻文的夜   〃 1992.11

この頃、マガジンハウス『鳩よ!』という月刊誌に、「創句」という欄があって、永六輔さんが選をしていた。

人からすすめられるままに投句して、隔月くらいで採っていただいた。

掲句は、巻頭になったときのもの。

人によっては、「朝」と「夜」は逆かもしれない。。。 

・未生の溜息

産声以前 たしかに溜息   〃 1993.7

次男・三男の出産に立ち会った。

忘れられない感動があった。

苦しむ妻の傍らで、いっしょに息を合わせる。

産道を通って、ようやく出てきたわが子は、羊水の膜に覆われていた。

一瞬の沈黙があって、「おぎゃー」と産声を上げる。

その一瞬の沈黙に「溜息」を聞いたような気がした。

あの溜息は、どんな意味だったのだろう。。。

・復活の体

夕べ鍵穴から預言者が出てゆく   〃 1995.01

『俳句でキリスト教』にとりあげた自句。

復活体としてのイエスが、なんらか三次元的五感に訴えるものであったこと。また、生死の世界を自由に行き来する復活体、というのを表現しようとした。

過去に読んだ椎名麟三の回心記も頭にあった。 

求道俳句会1月作品W298

・編み物

 最終段手前につきる毛糸かな   いう

余白:「そしていかに中途半端な感じがしても、死は、人生の完成のときです。」

という言葉を思い出させます。 井上神父の言葉に出会う(6)希望の神学

いう:余白さん、いつもコメントありがとうございます。

これくらいで出来上がるだろうと計算して買った毛糸です。完成間近、夢中になって編んでいたら、あと一段というところで、ふっと指をすり抜けて終わってしまったのです。

なんともいえない気持ちがしました。

ご紹介の記事に感動します。また読みに行きます。

・母からの電話

父融通利かず傾くオリオン座    〃

余白:昔かたぎのお父さん、、、わたしの親父もそんな感じです。

でも、同時に私たちの世代にない威厳もあります。

・ハガキにて

    島唄       末子

家族やしなう露天商

やせて小柄な人でした

地面に厚手の布を敷き

あかりをともす露天商

商売ある日駄目な日も

帰ると酒をあおってた

酔うと島唄島言葉

細い手足で踊ってた

あれから長い時がすぎ・・・・

死んだ父を想い出す

父は穏かな晩年を過しました。下着までもクリーニングに出して死の準備をしました。亡くなった三ヵ月後に私の三男が生まれました。

余白:余白:この露天商さんのような方とこそ、イエス様はいっしょに酒を酌み交わしてくださったことでしょう。転生、化身、生まれ変わり、、、教義をこえてわたしたちの感覚に訴えます。  

     *

下萌の冨士の裾野に墓参り    

余白:どっしりとした冨士に見守られて。。。

春浅し父母に伝へる今の幸    

余白:親孝行したいときは父母はなし、わたしもこのごろ噛み締めています。

・寒い日が続いています

今年は妻を大切に雪ふりにふる    白雲子

余白:最後は血縁の子供より夫婦、、、実感します。

冬陽 笑んでみる    〃

余白:大悟かもしれない。。。

振り向くまい前向きに、ゆく    〃

余白:そう、行きたいですねー。

・近詠:本年もよろしくお願いいたします。「余白の風」のご発展をお祈りいたします。

教会へ真直ぐに続く恵方道(えほうみち)   邦司

余白:正月の古くからの慣習と、キリスト信仰の融合。

初弥撒や手に聖餐のパンを受く    〃

余白:年初めの聖餐。気持ちも新たに清清しさがみなぎります。

元朝や家長の席の吾にあり    〃

余白:こういうどっしりしたお父さんが少なくなりました。。。

・カトリック広島司教区『風が吹いたり 雨が降ったり』より

           肥塚侾司神父

神よ あなたは

わたしの道を開く方

 

また新しい一日が始まりました

どのような日が恵まれるのでしょう

 

陽が昇り 陽が沈む

はる なつ あき ふゆ

 

どのような道が備えられても

喜んで歩きたいです

 

神よ あなたは

わたしの道を開く方

余白:どんな状況にあってもアッバにお任せする心。

究極の信仰は、それだけなのでしょうね。

そして、頭でわかっても、それを身に着けるまでの何と遠い道でしょう。。。

(肥塚神父様は、井上神父様の友人です。)

    †

樹をながめるのが好きだ

天に向かってすっくと伸びて

心まっすぐにせよと

誘ってくれる

余白:ボクも木や草花が大好きです。

ろくに名前も知らないのですが、どんな木でも、ボクにとっては聖書と同じくらい励ましてくれます。

    †

南無アッバ

あなたまかせの巡礼(たび)に出て

風が吹いたり

雨が降ったり 

余白:まさに「アッバ」任せの境地! あこがれの心です。 

・過去の想い  /01/16 01:18 

新しき 聖堂の中 ひとり静か    yohannna

余白:時代は聖堂も変える。。。。

懐かしき 聖母ほほえむ 広場かな    〃

余白:マリア様の愛と微笑みは変わらない。

教会の ルルドの聖母 帰り待つ    〃

余白:マリア様のやさしいまなざしを想います。

Yohannna:私事で恐縮ですが「過去の想い」を句にしてみました。

もう、何年も訪れてなかった洗礼をうけた教会を訪問すると聖堂は新しくなり、過去の歴史的建築物であった教会の建物は影も形もなくなっていました。でも、庭先のルルドの聖母は私の帰りを待っていたように昔のままでした。そのルルドの聖母もそのうち無くなって売店になる予定と聞き、今回その教会を私が訪れるまでマリア様が待っていてくれたような気がしてならない想いを感じまた。その場所は私にとっては思い出深いものだったからです。 

余白:時はどんどん過ぎていく。

でもその流れていくときの中で、寂しさもあるけど、その流れの中に御心が実現していくのだと思います。

人は去り神は永遠小豆粥   栄一 

・スケッチ

学生の目に冬草は止まらず   いう

余白:「冬草」の味わいは、齢が必要かも。。。

走りたくなる衝動よ冬暖か    〃

余白:厳寒のなかだからこそ、たまに暖かだとホントうれしい。

昨日は、そんな日でした。 (雪崩で亡くなる方もいるのですが。。。)

今日のうち食べるだけ食べ寒雀    〃

余白:そう、できるときにできるだけのことをしておく。それが生きること。

送られるチョコほろ苦しすまなくて    〃

余白:そろそろ、バレンタインかな。。。(ほとんどチョコには無縁になった私) 

・呼ばれる  いう 2006/01/16 07:34 

鐘の音に呼ばれて仰ぐ冬の空 (年間第二主日)    いう

11時のミサに。塔の3つの鐘が美しい音色でミサが始まることを告げます。聖堂に向う人たちが一斉に空を見上げました。 

余白:いよいよ「年間」が始まりますね。

いつも「呼ばれて」原点のイエス様に戻りたいと思います。

迷ったときは、やっぱりイエス様!

・俳句デビューです。

寒空に またたく星の 美しさ    フィベ

余白:「冬の星座」=♪かがやく夜空の星の光よ♪

これ「いつくしみ深き」ですね。思い出しました。

ゴスペルを 今日も歌いつ 歩みゆく    〃

余白:「歌は祈り」いや究極の祈りは歌かもしれません。

風呂に入り 今日の幸せ かみしめる    〃

余白:これは日本人ならでは、ですね。頭に手ぬぐいのっけて、ゴスペルってな姿がうれしいです(笑)。

フィベ:こんにちは。初めまして。

いうさんに励まされて、初投稿です。ドキドキ・・^^ゞ

俳句も初めてです。

上2つの俳句は、教会のゴスペルクワイアの練習の後に浮かんだ俳句です。

ゴスペルは私にとっては、賛美だけではなく祈りであります。

日々、ゴスペルを口ずさんで神へ祈り、

神が創られた自然に目を向けると星がきらめいていたり、

お風呂の湯船に入ってリラックスしている時に神の恵みをひとつひとつ数えて感謝しているという意味です。

余白:すばらしい信仰生活ですねー。

歌は私も大好きです。お祈りの文としても歌詞は優れていますね。

今後とも投句ください。 

・松が取れて

日脚やや伸びて聖樹を納める日 9    いう

余白:そう、こちらのミサでも、最後だと思ったので、幼子イエス様の写真を撮ってきました。

チェリーさんのと同じでしょ。こちらは第一ミサ7:30にて。

ツリー納める日のイエスこそ輝けり   栄一

除夜の鐘神に感謝の涙のみ    末子

余白:108の煩悩を払う鐘といいますが、あの厳かさは感謝の心を引き出しますね。

新年も主に手をとられスタートし   〃

余白:アッバに寄り添ってもらえる喜び。

一切れのパンを喜ぶ寒鴉   〃

余白:鴉に比べ、わたしたちの贅沢を反省。。。

年玉を受くる身となる複雑さ   〃

余白:そういう身の上は、有難いことですね。

肩の荷のおりて四日目口げんか   〃

余白:気安くなれば口げんかできる幸せ(笑)。

 初めてのお年玉    末子

長男次男ののし袋

三男坊には泣けました

厚手の靴下入浴剤

玄関ノブに掛けてある

顔も出さずに置いて行く

お前はサンタじゃなかろうに

親を泣かすのやめてくれ 

余白:すばらしい息子さんたちですね。うちの息子3人に聞かせてあげたいです(笑)。 

・ブラック・アイス

いう:・・・と地元の人が呼ぶ凍結路をはじめて経験しました。路面はいつもと変わらずに見えたので、知ったときには怖かった。いろんなことを考えてしまいました。

凍てる道知れば危うき一歩かな    いう

余白:嵐の中を湖に乗り出した弟子たちが、イエス様と出会う場面を思い出しました。。。。

怪我をなさらないように、お気をつけて。 

・初金、今年初めてのお天気

今日晴れて気付けば夫は年男    〃

余白:ありゃま、ご主人年男だったのですかー。おめでとうございます。

こちらも最低気温続き、寒い寒い。。。 

無題   しんご

ざくざく霜踏み また新しい年 星空少しは綺麗になったか

十字架糾う 過去と未来よ

余白:おひさしぶりです、お元気かな?

新しい年への希望と不安、、、祈りだけは忘れないようにしたいですね。

・今年も草花に励まされそう

石蕗や花枯れいよよ葉の光   栄一 

・新年おめでとうございます!

新春の 犬のさそいに 行く門で    yohannna

新年のお喜びを申し上げます。

今日は犬に散歩を誘われて、なんとなく道を散策

しましたが(牛に引かれてではなく・・)、干支の犬に習って散歩を楽しむように「道」を進んでいきたいものです。 

余白:犬は健康的ですね。ぼくはどちらかというと猫族なんで、ちょっと運動しなきゃ。

今年もよろしくお願いいたします。 

・正月遠くなりにけり

ミサ始め聖母に捧ぐ甘き香 (1日 神の母聖マリア)  いう 

余白:早くも五日ですね。今年もクリスマス以来ほとんど早朝ミサに出席できました。

二日よりスクールバスを見送りぬ   〃

余白:ん?そちらでは、もう学校なのかな??すごい!

お降りや猫も窓辺に物思う   〃

余白:こんなときは、じっと今年の抱負を思案しているのかな?

お人好しが裏目に出ては日なたぼこ   〃

余白:善意がうまく受け入れられないことも。。。 

いう:初投稿まとめてだしてごめんなさい2

 あけましておめでとうございます。余白さんの求道俳句会がますます発展していきますようお祈り申し上げます。

これからもどうぞよろしくお願いします。

余白:おめでとうございます。こちらこそよろしくお願いします。

これからもマイペースで、細く長くいきましょう。 

・年の瀬〜元旦

食住のための媚態か冬の猫   いう

余白:生活がかかってる。背に腹は変えられない狡猾さ、いや率直さ!

吹かれ行く枯葉はせめて遠くへと   〃

余白:最期まであきらめない、できるだけのことをする人生でありたい。

半日を遅れ紅白衛星放送   〃

余白:ついに見ませんでした。ラジオは最近よく聞きます。

年越しのそば講釈も10回目   〃

余白:アメリカで作るなら、講釈も堂に入ったもんでしょ(笑)。

年越しのミサや恵みを数えつつ   〃

余白:除夜の鐘ならぬ「恵みの数」、対照的で面白い。

猫しかる第一声や年明ける   〃 

余白:年越しても、しっかりしつけないとね(笑)気合!

いう:初投稿まとめてだしてごめんなさい

・待降節〜クリスマス

喉枯れて譜面目で追うキャロルかな   いう 

余白:お風邪をめしておられた由。そうでなくてもつい力入っちゃう讃美もあります。

今朝の早朝ミサ(1/2)は、歌う人が少なかったので、2,3人で声張り上げてしまいました(笑)。

降誕前夜わら敷き詰めたまぶねかな   〃

余白:馬小屋、藁・・・・イエスの貧しさが準備される。

暖かなイブでがっかりしてみたり   〃

余白:ああ、そうかもしれない。イエス様の惨めさを共有するのは難しい。

みどり児や冬暗闇に希望あり   〃

余白:羊飼いや星の博士たちはしっかり希望を見つめていた。

しぶしぶの夫と降誕夜半のミサ   〃

余白:ははは、お仕事お忙しくてお疲れなのかも。。。年に一度、ということで。

気は乗らぬはずの讃美の声響く   〃

余白:ミサも始まってしまうと、疲れがすっとぶ。終わる頃は、やっぱり来てよかったと、たいてい思います。

降誕祭最も暗き夜を越えて   〃

余白:毎年毎年気持ちが新たになるようですね。希望!

抱かれるだけを望みてみどり児は来たり明日無し今抱き上げよ   〃 

余白:ぼくらがイエスを抱く、そのぼくらがイエスともどもアッバに抱かれる。。。 

弟子たちは言った   一木

ああやっと

はっきりと お話しになって

少しも たとえを

お使いになりません

あなたは 何でも知っておられ

人が 何をお尋ねしたいか

言ってもらう必要のないことが

今 わたしたちにわかりました

このことによって

あなたが

神から出て来られたことを

わたしたちは信じます(ヨハネ16:29~30

 余白:ヨハネ伝は、初期キリスト教の信仰の持ち方がよくわかる福音書ですね。

 2005年も残り後わずか・・・

クリスマス めでたき日にも 救いなし   yohannna

十字架の 意味がわかりし 神の愛   〃

その痛み 人の救いを 遂げるため   〃

2005年も残りわずかですが今年も最後までいろんな事件がありました。子供の誘拐殺人・耐震設計をめぐる事件・そしてクリスマスのさなかの列車事故・・・。人の命が軽々しく扱われたり、大勢人の命にかかわる建築設計のごまかし、そして自然をもが、将来ある人々の命をもてあそんでいるようで・・。

楽しいはずのクリスマスもあまり心にひびかなかった。

最近思うのは、苦しみや心の痛みは他人の痛み苦しみを理解するのに必要な要素だ・・という事、苦しみや痛みを持たない人は他人の苦しみや痛みは理解できないのでは?という事。

そして、キリストの十字架に至るまでの苦しみ・痛みは、きっと人の苦しみや痛みに沿ってその果てには救いに至るためにあった・・・そして、それは神が人間を愛したがためになされた事であった・・と、最近思いました。

2006年は良い年でありますように・・・・アーメン・・。 

余白:はい、悲しい痛ましい事件が多かった一年でした。

イエス様は極限の苦しみと屈辱と痛みと孤独を味わわれたのですが、われわれ人間は、自分の苦しみは理解してもらいたいのに、他人の苦しみには意外に無理解なことも多い。

井上師がよくおっしゃるのは、「私たちは、自分と同じ種類の苦しみには共感できても、異質な苦しみには無理解」ということ。

初めてこの言葉を聞いたとき、ショックでしたが、それが現実の私たちの姿なんだなーと合点しました。

そう思うと、まこと神の子であるイエス様だけが、アッバと同じくあらゆる苦しみの理解者なのだと。。。。

降誕節、このことを黙想し、感謝したいと思います。

 

山根道公先生の「井上神父の『わが師イエスの生涯』に学ぶ」報告:小さき花

山根先生の2回目の講座です。

前回は深い芸術体験はとうてい言葉にできない深層に響くものであり、言葉による「物語」も日常の生活次元の喜怒哀楽の言葉と違う深い次元の言葉であるという話で、心理学者河合隼雄氏の言葉など

を紹介しました。

ルカ福音書の降誕物語には私たちを闇から光へと導く救い主キリストなのだという信仰告白という真実がこめられています。

こういう生まれ方をしてこういう死に方をしたナザレのイエス、この人こそが、キリスト、私たちを闇から光へ導く方なのだという信仰告白です。

誕生の時からもっとも惨めだったイエスは、私たちの苦悩屈辱、孤独とを共に歩んでくださる方です。イエス自身が苦悩、屈辱、孤独を生涯で味わわれたからです。

誕生から十字架までという生涯で、受難物語は福音書共通です。十字架上での死がまずあって、十字架にかかられる以前はどのような生涯を過ごされたのか。誕生物語は後から語られました。

十字架の死を重ね、こういう場所で生まれ、最初からたいへんな苦しみの中にあったのだということ。

馬小屋から十字架まで、一番苦しまれたのはマリア様でしょう。生まれた時はイエス様は自分の状況を覚えていらっしゃらないから。

西洋の教会でマリア様の像の前で祈る人が実に多いです。生活の中での苦しみを本当にマリア様はよく知っておられる、だからわかってくれる、恵みをとりついでくれると信じているのでしょう。

もう一つのクリスマス物語は最初に救い主の誕生を知らされたのは野営してた羊飼いたちで、貧しい身分の者だったことです。天使の声を素朴に素直に信じ、飼い葉桶の中のイエス様を捜し当てました。

日本最初のクリスマスは1552年頃。キリシタンの時代ですが、ハンセン病患者など差別されている貧しい人々が集い祝ったそうです。まるでベツレヘムでの時のように。

聖書は私たちの救い主イエスとはどういう方なのか伝えたいという思いで書かれています。

マタイ2.18、異国の占星術の3人の博士が訪れることで井上神父はユダヤ人だけでなく、全世界の救い主という意味を語ろうとしたのであろうと述べています。

井上神父は聖書からこういうインスピレーションを得ました。物語だからこういう意味と説明できるものではありません。物語は味わうときにメッセージが伝わります。

一度救い主にであった3博士は、立派な宮殿に寄らず、帰りは別の道を通りました。

イエスと出会うと「別の道」を通っていく。「帰りが違う」ことをヨハネパウロ2世は強調しました。

実際イエス様の誕生は3人の博士の話からみて、ヘロデ大王の死のBC4年以前だったでしょう。

人類の歴史を1本の線と考える歴史観、キリスト教の場合はBC(BeforeChrist)とAD(Anno Domini、主の年)です。

イスラム教ならばマホメッドの年が歴史の区切りです。気づかずにキリスト誕生を中心に日本人も歴史を考えていますね。

井上神父は風土がその精神形成の上にきわめて大きな影響を与えていると考えました。

ナザレは水と緑に恵まれた地でした。がリラヤ湖は当時の歴史学者の著書に、水は澄んでいて、魚も多く捕れ、気候は温暖で、クルミ、無花果、オリーブも実っていると書かれています。

井上神父さんは、育った風土が人間の精神形成に大きな影響を持つと、風土を強調しています。キリスト教はユダヤ教と同じ「砂漠の宗教」と考えている人が多いようだが、これは大きな誤解で、ナザレもガリラヤ湖も水と緑に恵まれた牧歌的風土だったと著書に書かれています。

イエス様は30歳過ぎまで大工ーといっても家を建てるのではなく農具や家具などを作る巡回労働者として村々をまわって働かれたのです。

2006/01/23 死を滅ぼす

今日のアレルヤ唱510-2の原句より、

>キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。(二テモテ一・一〇)

十字架の死によっては、ローマ帝国をはじめイエスの敵と思われる人たちは、だれも犠牲になっていません。とすると、彼の自爆は殉教ではあっても犬死でしかなかったのでしょうか。

実はイエスの敵は、ローマでもユダヤ当局でもなかったのです。イエスは死そのものを滅ぼす「自爆者」――自らの死によって「死を滅ぼし」たのです。

それは、イエスが十字架上で死んだままでなく復活して神の懐に迎えられ、三次元を超えて今も生き続け「不滅の命を現して」いるからです。

このイエスに信頼すれば、凡愚であるわたしたちも、同じように神の国に迎え入れられるのだ、端的に、これが福音の本質です。(拙著『俳句でキリスト教103-4頁より)

 2006/01/24 イエスの周りに集う

>マルコによる福音書 / 3 31-35
....大勢の人が、イエスの周りに座っていた。....イエスは、....周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

イエスは、「周りに座っている人々」を「私の母、兄弟」だといった。
すなわち、イエスの周りに集う者は、血縁に関わらず、イエスの家族となる。

彼らは、集まって、イエスの話に耳を傾けていたことだろう。
イエスのもとに集い、その話に耳を傾ける者、それはまた、「神の御心を行う人」ともなる。

わたしたちも、いつも御言葉のもとにつどい、耳傾ける者となりますように。

アッバ・イエス 南無アッバ

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