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求道俳句会誌「余白の風」第121号 2006.4 Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All
rights reserved. 本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)
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口上:余白――復活祭を目前にして、今号も盛りだくさんの内容をお届けします。記事・作品を提供してくださった方々に、心よりお礼申し上げます。 <目次> 日本人の感性でとらえるキリスト教-yahoo掲示板より抜粋-30 日本人の感性でとらえるキリスト教-yahoo掲示板より抜粋-30●東洋、日本人と、キリスト信仰について、意見交換しましょう。2006/ 3/24〜[No.1]yohaku5 ●わわっ!余白さんってあのサイトの方ですか[No.2]terzet2 はじめまして。 井上洋治師のキリスト教神学が大好きで、あなたのhpでは、時々井上神父の神学を学ばせて頂いています。 井上神父のご本は「日本とイエスの顔」と「法然」きり読んでいませんがとても素晴らしくて、ネットで出会った皆様にお勧めしています。 日本人のキリスト教といえば、押田成人神父と奥村一郎神父の世界も大好きです。 私はこうした“仏教の国で育った日本のキリスト教”が、世界のキリスト教を救うのではないかと思っています(笑 浅学の身で、意見交換とはとても行きませんが余白さんは、キリスト教を深く学ばれておられる凄いお人のようですから色々教えて頂ければと幸いと思います。 このカテは、やはり東洋哲学ですから(笑)クリスチャンの方は殆ど居ないようなので、“お客さま”を待っていてもあまり人は来ないかも知れませんね(笑 余白さんのご意見をどんどん発言なさっていくのがよろしいかと思います。 楽しみにしています。 ●日本人とキリスト教[
No.9 ] toshif7kaze はじめまして。 日本人の宗教観について、考えることがあります。狩猟民族である欧米人は、一対一で神と向き合う事を極自然に受けいれられるのだと思います。また、苦難に合った時に求めるものは、やはり神なのだと思います。また、個と個を結びつけるものも神であり、それがキリスト教における兄弟姉妹に対する隣人愛なのだと思います。 一方、以前の日本の様な、農耕民族の場合は、集団で生活を営んでおり、その為に集団の平和・安定が望まれ、個で神と向き合うことが無かったのだと思います。各村々で、造り上げた神(山、海)を祀っていたのでしょう。 仏教ですら、日本に伝来した当時は、仏=他国の神と考えられ、物部氏と蘇我氏が争ったほどでした。 しまいには、経典の『本地垂迹』を都合よく解釈し、『神は仏の化身であり、神仏は一体である』と、社会に広めたのです。 田舎に行くと、神棚と仏壇が両方ある家がありますが、曖昧の中で村々のしきたりに従って生きてきたのかもしれません。日本人にとっての宗教は、信仰という意味より、しきたり、イベントの意味が強かったのかもしれません。 ある海外の方に、日本人と宗教について説明したことがあります。『生まれた時はお宮参り、正月は神社・お寺、クリスマスを祝い、結婚式は教会で、死ぬ時はお寺・・・』と説明すると、呆れた顔をされます。 これからの日本人にとって、村社会が形を変えて個の集まりとなった現代では、自身の罪の深さや苦難から救いを必要とした時に、心の逃げ場所として求める場所がキリスト教会なのではないでしょうか?教会での高齢化は、世間一般より進んでおりますが、それは神に立ち返る・・・つまり、放蕩息子が父の許に帰るのが年齢を重ねてからの方が、多いからだと思います。 日本人の罪からの駆け込み寺として、キリスト教会に導かれればと望むこの頃です。 とりとめの無い話ですみません。言い忘れておりましたが、私はterzt2さんの信仰の友です。 ●Re: 日本人とキリスト教 [ No.10 ] yohaku5 >これからの日本人にとって、村社会が形を変えて個の集まりとなった現代では、自身の罪の深さや苦難から救いを必要とした時に、心の逃げ場所として求める場所がキリスト教会なのではないでしょうか?教会での高齢化は、世間一般より進んでおりますが、それは神に立ち返る・・・つまり、放蕩息子が父の許に帰るのが年齢を重ねてからの方が、多いからだと思います。 日本人の罪からの駆け込み寺として、キリスト教会に導かれればと望むこの頃です。< これはとてもいい考え方ですね。参考になりました。 ただ、「集団」から「個」へというとき、日本人には欧米人のような強靭な自我を持ち合わせていない。そこには母性的な受け入れがないときついのかなーと思っています。つまり、裁きではなく、受容を中心にしたキリスト教ということです。 それから前半の「日本人のあいまい性」についてですが、私は割合楽観的です。原理主義的な過激な宗教同士がぶつかり合っている現在、<あれもこれも>というのは、節操がないかもしれませんが、とりあえずは宗教が戦争の道具にはなりにくい、と思っています。 ●Re: 日本人とキリスト教
[ No.11] toshif7kaze >それから前半の「日本人のあいまい性」についてですが、私は割合楽観的です。原理主義的な過激な宗教同士がぶつかり合っている現在、<あれもこれも>というのは、節操がないかもしれませんが、とりあえずは宗教が戦争の道具にはなりにくい、と思っています。 確かに、神の御心から離れ争いを求める様な行為に至らない面では、『闇』の選択しない自由を得られているとも言えますが、一方で『光』を選択する自由も持ち合わせていないとも言えると思います。 親鸞聖人は、彼の著作『教行信証』の始めに、『難思の弘誓は、難度海を度する大船』と語っておりますが、これは『苦しみ悩みの耐えない人生の海を明るく楽しく渡す、阿弥陀仏の本願という大きな船がある』との意味を示しております。 彼は、比叡山延暦寺での激しい修行生活の中にあっても、自身に内在する悪から救われること無いことに絶望し去ったのです。その後、法然との出会いにより阿弥陀仏の本願によってでしか救われないと、覚ったのです。つまり、『行』ではなく『信』にでしか救いが無いと知ったのです。それで、信心決定した者は、上記の様な救いに与れると語ったのです。 ご存知だと思いますが、マルティン・ルターも同じような経験を厳しい修道院生活の中から得られております。それは「キリスト教信仰の核心は、自ら努力して『神の義』を獲得するのではなく、神の恵みと愛によって与えられる『神の義−救い』にある」ということの再発見だったのです。 つまり、日本人の宗教との関わり合いは、『行い』でしかなく、その多くは信心決定に至ってないと言うことだと思います。 確かに、日本人の多くの宗教観は、盲目的・狂信的な信仰による争いの種を撒く事もないのですが、一方で信心による救いが得られていない状態に有るのだと思います。 他の宗教の方を排斥する事無く、ただキリスト・イエスを信じ、その救いの恵みに与れるようになれれば良いですね。 ●Re: 日本人とキリスト教
[ No.12 ] yohaku5 >つまり、『行』ではなく『信』にでしか救いが無いと知ったのです。それで、信心決定した者は、上記の様な救いに与れると語ったのです。 古来、「行い」か「信仰」か、というのは、いろいろな宗教で、程度の差はあってもずっと議論されてきたことだと思います。 たしかに、親鸞やルター、そしてパウロのように、とことん「行」の義を得ようとして挫折し、究極のところで「信」こそ絶対、という信心決定の境地に達した人もいます。 しかし他方では、禅宗の只管打座にみられるように、まず「行」を第一とした聖人もいます。キリスト教では、ヤコブの手紙などが比肩されるかもしれません。 >つまり、日本人の宗教との関わり合いは、『行い』でしかなく、その多くは信心決定に至ってないと言うことだと思います。 というわけでわたしには、他民族に比べて日本人が、「信」か「行」かの偏りによって宗教的欠点を持ったとは思えないのですがね。信にも行にも「あいまい」だ、あるいは無自覚だ、ということは言えるかもしれません。 >他の宗教の方を排斥する事無く、ただキリスト・イエスを信じ、その救いの恵みに与れるようになれれば良いですね。 これはまったく、賛成です! ●Re: 日本人とキリスト教 [ No.13 ] toshif7kaze >古来、「行い」か「信仰」か、というのは、いろいろな宗教で、程度の差はあってもずっと議論されてきたことだと思います。 そうですね。仏教においても、浄土仏教と聖道仏教で対比させる事がありますが、それに当たりますね。どちらがどうと結論つけるわけには行かないと思いますが、現実、在家の者にとっては、聖道の選択により往生に至るのは、至難と言えます。 特に内観を徹底して行った者にとって、その絶望感は計り知れないでしょうね。一方、その自身に内在する悪や罪の深さを自覚できない者にとっての難行は、それも労を無意味なものとしてしまうのだと思います。 どちらが正しいとは言えませんが、『信』あって『行』が生きると考えております。 >キリスト教では、ヤコブの手紙などが比肩されるかもしれません。 私は、『信』により自身に内在する神を育て、その働きで『行』を成すと考えております。その事もあり、ヤコブの手紙は、個人的に少し馴染まない所があります。 ヤコブ自体は、当時のファリサイ派を初めとするユダヤ教の『行』を中心とした考え方に準拠する傾向があり、ヘレニストとは異なりますね。 yohaku5さんの個人的な意見は、如何ですか? >というわけでわたしには、他民族に比べて日本人が、「信」か「行」かの偏りによって宗教的欠点を持ったとは思えないのですがね。信にも行にも「あいまい」だ、あるいは無自覚だ、ということは言えるかもしれません。 その通りだと思います。あえて言えば『行い』なのですが、無自覚という表現が一番当てはまるかもしれません。 蛇足ですが、フランス人と食事を取っている時、日本人の宗教観で、フランスの教会で結婚式を挙げる日本人について話題となりました。 日本人のその行為に対し、教会をファッション感覚で利用している所に不満を持っているようでした。異文化を受けれる素地があるのは良いですが、だからといって、海外から良く思われているとも言えないようです。 ●Re: 日本人とキリスト教 [ No.14 ] yohaku5 >特に内観を徹底して行った者にとって、その絶望感は計り知れないでしょうね。 この「内観」は、あの浄土真宗での「内観」のことでしょうか? とすれば、最近、藤原直達神父様の『ナムの道もアーメンの道も』という本をいただいて、興味深く読みました。 カトリックでも最近は、座禅だけでなく、内観をする人も出ています。 >私は、『信』により自身に内在する神を育て、その働きで『行』を成すと考えております。 エックハルトを思わせる考え方で、興味深いです。ちなみに、toshif7kaze さんは、キリスト者でしょうか?もし差し支えなかったら、お答えください。 >ヤコブ自体は、当時のファリサイ派を初めとするユダヤ教の『行』を中心とした考え方に準拠する傾向があり、ヘレニストとは異なりますね。yohaku5さんの個人的な意見は、如何ですか? そうですね。ルターが「ヤコブの手紙」を「藁」といったという逸話がありますが。。。私は、やはり当時の教会が、「信」と「行」のバランスをとったのだと思うのです。つまり、パウロ神学をいいように解釈して、「本願ぼこり」ならぬ「福音ぼこり」のような状態になっていた教会に、警鐘を鳴らしたのだと思っています。 私個人としては基本は、 >どちらが正しいとは言えませんが、『信』あって『行』が生きると考えております。 あなたと同じ考えです。「信」が熟すところで、自然に「愛」が実行されるのが望ましいと思います。 >日本人のその行為に対し、教会をファッション感覚で利用している所に不満を持っているようでした。 たまたまフランス人の神父さんと何人か親しくしていただいていますが、同じ意見を持っている人と、逆に、「そのファッション感覚を利用してキリスト教へ」とぺロッと舌を出して、いたずらっぽい目をした、したたかな神父さんもいます。日本人以上に多様かもしれない、と思います。 ●ファッション感覚 [ No.15 ] jokeav おはようございます。日本人は白か黒かという考え方はせずに、優れたバランス感覚によって微妙なものを拾っていける民族性があります。善悪を神という絶対的な設定に頼らずに、他人との兼ね合いの中で見出してきた所とも、大きく関係があります。 キリスト教に対しては、その華美な側面を受け入れ、信仰の対象とはしない付き合い方が一般的です。いえ本当の意味では、初詣で神社に行き、墓参りをしというように、それぞれ信仰の対象とするよう、キリスト教においても同列に置かれています。つまりは同じように、信仰の対象とはなっているのです。ただ教会の側からすると、それを信仰のスタイルとして認めていないというだけの話で。キリスト教が受け入れられているのは、ファッション性が主です。原罪であるとか救いであるとか、日本人の感性には合いません。 宗教は道具です。道具はその人にとって使い良いように使えば良いのであって、道具の側から使い方を強制される道理はありません。私は多くの日本人は、適切にキリスト教を使っていると考えています。それがたまたまファッション性での利用という姿になっているのですが、これが否定されなければいけない道理もまたないのです。 ●キリスト教は性悪説の宗教である。 [ No.16 ] mcgrawhilljp
東洋思想、特に儒教は、性善説であり、基督教やイスラム教は性悪説のように見受けられる。如何? 人之初 人(ひと)の初(はじ)め 性本善 性(せい)本(もと)善(ぜん) 性相近 性(せい)相(あひ)近(ちか)し 習相遠 習(なら)ひ相(あひ)遠(とほ)し ●Re: ファッション感覚
[ No.17]yohaku5 >宗教は道具です。道具はその人にとって使い良いように使えば良いのであって、道具の側から使い方を強制される道理はありません。私は多くの日本人は、適切にキリスト教を使っていると考えています。それがたまたまファッション性での利用という姿になっているのですが、これが否定されなければいけない道理もまたないのです。 これは、よくいう「ご利益宗教」ということで、これはこれで私は大事な動機だと思います。ただこうした場合、あくまでも自分が主で、神仏が従になっている。それが信仰が深まっていくと、逆転して、あちらが主でこちらが従、といふうに、気づかされていく、そこに本来の幸福がある、と説くのが正しい宗教のように思います。 ●Re: キリスト教は性悪説の宗教である。 [ No.18 ] yohaku5 >儒教は、性善説であり、基督教やイスラム教は性悪説 その元の元は・・・・とやっていくと、善か悪かは簡単ではないようですが、どれも、現実の人間をなんとかしないと、このままではいかん、と工夫している点では共通のように思います。 ●Re: 日本人とキリスト教
[ No.19 ] toshif7kaze >この「内観」は、あの浄土真宗での「内観」のことでしょうか? そうです。 >ちなみに、toshif7kaze
さんは、キリスト者でしょうか?もし差し支えなかったら、お答えください。 ジャン・カルヴァンの流れをくむ改革長老派の者です。 >つまり、パウロ神学をいいように解釈して、「本願ぼこり」ならぬ「福音ぼこり」のような状態になっていた教会に、警鐘を鳴らしたのだと思っています。 ヘブライストとヘレニストは、信と行いの対立を示しておりましたね。ただ、エルサレムの教会が「福音ぼこり?」の歯止めとなったかは分りませんが、確かに警鐘にはなったと思います。 >「信」が熟すところで、自然に「愛」が実行されるのが望ましいと思います。 念仏で言えば、『自然法爾の念仏』と言うところでしょうか。 >逆に、「そのファッション感覚を利用してキリスト教へ」とぺロッと舌を出して、いたずらっぽい目をした、したたかな神父さんもいます。 ファッション感覚が切っ掛けでキリスト教に入信したとしても、それも神の招きと言うことになるでしょう。 ●Re: ファッション感覚[ No.20 ] toshif7kaze >キリスト教に対しては、その華美な側面を受け入れ、信仰の対象とはしない付き合い方が一般的です。 多くの日本人がそうだと思います。 日本におけるクリスマスは、聖ニコラス(サンタクロース)が神様と勘違いされているケースもあるくらいです。 >つまりは同じように、信仰の対象とはなっているのです。 それはどうでしょうか? お寺では、故人の冥福を祈りたいという気持ちが含まれております。また、神社においては、家内安全等の祈願などで祈る気持ちがありますが、キリスト教に関して言いますと、一般的な日本人は、信仰の対象となっているかは、些か疑問ではあります。 >キリスト教が受け入れられているのは、ファッション性が主です。 異文化として受け入れれられているのでしょう。ただし、百万人とも言われている日本人キリスト者の信仰の現場では、毎週の主日礼拝に代表されるように、とても信仰心の篤い方が多くいらっしゃいます。 >宗教は道具です。 その様なご意見を持たれる方に、時々お目にかかります。霊的な至福への渇望から求道へと歩む方にとって、その登山道のキリスト教口、仏教口、イスラム教口と選択しているに過ぎないとの考えもあります。 しかし、神は道具ではありません。神の御前に頭を垂れて、自分を招いていただいた事へ、感謝の気持ちから讃美をする。その様な敬虔な気持ちが信仰ではないでしょうか? >それがたまたまファッション性での利用という姿になっているのですが、これが否定されなければいけない道理もまたないのです。 おっしゃる通りだと思います。ただ言える事は、それは異文化への憧れでしかなく、涅槃を求める信仰者のそれとは異なります。 ●キリスト観音 [ No.21 ] mcgrawhilljp 日本人にとって、キリストは、観音様のお一人、 八百万神(やおよろずのかみ)の一つ。 アメリカの知人に、京都三十三間堂を案内し千手観音「群」を見せ、仏教は多神教(polytheism)であり、キリストやムハンマドはその一つであると、説明したらビックリして、腰抜かしたよ。 http://www.asakusakid.com/diary/image/diary-091006.jpg http://www.shikisai.jp/kyoto.10.jpg そして中央に座す千手観音は歎いていた 2006/ 3/28
5:09 [ No.22 ] 即ち、最近不心得な千手観音が二人いて、その名を、キリストとムハンマドというのだが、最近喧嘩ばっかりして困っていると歎いてござった。 ●クリスチャンの違い [
No.23 ] nekonekosimba こんにちは。 タイトルにつられてお邪魔します。 クリスチャンのパートナーをもつ者ですが、同じクリスチャンでも日本人と欧米人は根本的に捉え方が違うんだなあ、と日々感じております。 やはりキリスト教文化の中で生まれて、すぐに洗礼を受けて育ってきた人はキリスト教が体の一部のような感覚、そんな感じがします。 ●Re: ファッション感覚 [ No.24 ] jokeav >それが信仰が深まっていくと、逆転して、あちらが主でこちらが従、といふうに、気づかされていく、そこに本来の幸福がある、と説くのが正しい宗教のように思います。 それは、そういう風に思い込む使い方もあるという事ですね。 ●Re: ファッション感覚 [ No.25 ] jokeav >キリスト教に関して言いますと、一般的な日本人は、信仰の対象となっているかは、些か疑問ではあります。 結婚式をキリスト教式で挙げる際には、一応はそういう気分になって神様に誓います。そういう信仰です。まったく神様なんて否定して、完全にファッションとして行なうかというと、そうでもありません。 >異文化として受け入れれられているのでしょう。ただし、百万人とも言われている日本人キリスト者の信仰の現場では、毎週の主日礼拝に代表されるように、とても信仰心の篤い方が多くいらっしゃいます。 少数の割合ではありますが、そういう熱心な信者さんも当然おります。ファッションとして受け入れているのは、その他ほとんどの日本人のお話です。 >その様なご意見を持たれる方に、時々お目にかかります。霊的な至福への渇望から求道へと歩む方にとって、その登山道のキリスト教口、仏教口、イスラム教口と選択しているに過ぎないとの考えもあります。 はい、宗教はあくまでも道ですので、それは事実ですね。相性の良さそうな道をみつけて、歩いていけば良いわけです。それを「この道だけが正しい」と懐の狭い事を言い出す人達がいるものだから、話がややこしくなります。 >しかし、神は道具ではありません。神の御前に頭を垂れて、自分を招いていただいた事へ、感謝の気持ちから讃美をする。その様な敬虔な気持ちが信仰ではないでしょうか? 神は道具ではありませんが、宗教は道具です。またそのような信仰のスタイルは、キリスト教内でのイメージですね。神と人間との上下関係も、人間同士の上下関係のイメージを投影したものです。宗教はどこまでも、人間が作り出すイメージからは逃れられません。 ですから逆に言えば、これが自分にとっての信仰だというスタイルは、各々が自由にイメージとして持てば良いんです。友達関係のイメージを投影する人もいれば、恋人をイメージする人もいるかもしれません。流石に主従で人間側が主になるイメージは持ち難いかもしれませんが、まあ用途によってはそれだってアリです。 ●Re: 日本人とキリスト教 [ No.26 ] yohaku5 >>浄土真宗での「内観」のことでしょうか? >そうです。 私も内観には興味はありますが、実践まではいきませんね。 >ジャン・カルヴァンの流れをくむ改革長老派の者です。 ああ、そうなんですか。改革派の教会には受洗前に何度か足を運びました。しかし、そのなかでもいろいろ考え方の違いがあるのでしょうね。 >ヘブライストとヘレニストは、信と行いの対立を示しておりましたね。ただ、エルサレムの教会が「福音ぼこり?」の歯止めとなったかは分りませんが そうですね。エルサレムとディアスポラ、律法の扱いを巡っての対立は、原始キリスト教のなかで、いち早く起こったことを考えると、信か行か、という図式がキリスト教の中でも常に問題になってきたのだと思います。 >念仏で言えば、『自然法爾の念仏』と言うところでしょうか。 キリスト教の場合は、根本にスプランクニゾマイする心がないと、愛が偽善となりやすい、といえるかと思います。 >ファッション感覚が切っ掛けでキリスト教に入信したとしても、それも神の招きと言うことになるでしょう。 私もきっかけは何でもいいのかなー、って思います。そもそも純粋な気持ちで信仰に、といっても、その「純粋さ」ってのは、何なのかなーって考えてしまいますし。 ●Re: ファッション感覚 [ No.27 ] yohaku5 >キリスト教に関して言いますと、一般的な日本人は、信仰の対象となっているかは、些か疑問ではあります。 私はこの「信仰」というのは、「信頼」と読み替えたほうが適切だと思っています。とすると、キリスト教というのは、「イエスに信頼を寄せる」宗教、ということだと思います。 「信仰の対象」といった場合、一般の日本人にとっては、やはり、神や仏に信頼する、というほうが、キリストに信頼する、というよりなじんでいるのでしょうね。 >神は道具ではありません。神の御前に頭を垂れて、自分を招いていただいた事へ、感謝の気持ちから讃美をする。その様な敬虔な気持ちが信仰ではないでしょうか? 自我の満足のために接近した宗教も、なにかの機会に自我が打ち砕かれて、「あちら」が主、「こちら」が従になるということはあるのだと思います。 そして、最終的には神の作られた「作品」(エフェソ2:10)、あるいは、ちょっと信者でない方には抵抗があるかもしれませんが、神の「道具」としての自覚、「神が道具」なのではなく、自分が「神の道具」になる。。。そういうことをキリスト者は、めざすのだと思います。 ●Re: そして中央に座す千手観音は歎いていた [ No.28 ] yohaku5 >即ち、最近不心得な千手観音が二人いて、その名を、キリストとムハンマドというのだが、最近喧嘩ばっかりして困っていると歎いてござった。 面白いたとえですねー。そして日本人の宗教意識がよく出ていると思います。 ●Re: クリスチャンの違い [ No.29 ] yohaku5 >クリスチャンのパートナーをもつ者ですが、同じクリスチャンでも日本人と欧米人は根本的に捉え方が違うんだなあ、と日々感じております。やはりキリスト教文化の中で生まれて、すぐに洗礼を受けて育ってきた人は キリスト教が体の一部のような感覚、そんな感じがします。 そうですね。日欧の違いはもとより、日本人でも幼児洗礼やいわゆるクリスチャンホームで育ったキリスト者と、成人になって洗礼受けたキリスト者の違い、さらに世代とは教派。。。いろいろですね。 ●Re: ファッション感覚 [ No.30 ] toshif7kaze >私はこの「信仰」というのは、「信頼」と読み替えたほうが適切だと思っています。とすると、キリスト教というのは、「イエスに信頼を寄せる」宗教、ということだと思います。 確かに「信頼」という言い方は、一般の日本人にとって自然と受けいれやすい表現で、躓きになりにくいと思います。しかし、私の中での「信仰」は、確かに「信頼」を含んでおりますが、「使徒信条による信仰告白」そのものであり、揺ぎ無い信頼の先にあるものだと考えております。しかし、一般の方では、そこまで考えておられる方は殆ど居ないと思います。 >自我の満足のために接近した宗教も、なにかの機会に自我が打ち砕かれて、「あちら」が主、「こちら」が従になるということはあるのだと思います。 そうですね。自我の崩壊から信頼・信仰が始るのでしょう。 >神の「道具」としての自覚 そうですね。この言葉で思い出すのが、この聖句です。 『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。』(1コリント6章19-20節) 求道詩歌会3月作品−1616-95 *=余白評
・生きる意味:栄一 生きることは、それ自体に
意味があるだけでなく、
アッバの手足となり 作品となって 意味を創造している いう:「アッバの手足となり」 実はなかなか受け入れがたいこと。 井上神父さんの本に「人生は自分を表現するといったようなものではなく・・・」とありますよね。そして、この余白さんの詩の内容につながる。 初めて読んだときは、えーっと思いました。お芝居やバレエや物作りをしていたから、常に「自分を出しなさい」「表現しなさい」と言われていたのですよね。 「個性の重視」が言われはじめた頃、学生時代を過ごしたような気もしますし、雑誌では「自分自身の人生を」といった特集。 自分を表現するのではない生き方ってなんだろう、と思ってしまいました。 でも、それから神父さんの本を何冊も読み、また、俳句に触れるようになったりして少しずつわかってきたことがあります。 私がそうだと思っていた「自分を表現する」は「我を出す」だったということです。 自分にとらわれてすぎていることに気がつきました。悩み事がここに発するのが多いことにも。 今は、自我を少しずつときほぐして、もっと自由になりたいと思っています。 神父さんの本の「お芝居が終わった後、王様も家来も馬も車座になって憩っているのを見た」というエピソード(「樹座」の公演でのこと?)が好きです。 自分だけで生きてると思っているけれど、本当はもっと大きなまなざしのうちにあるのですね。 自我から解き放たれて、神の息吹きを身体に吹き込ませる時、その時にこそ出る私だけの音がある。 それが本当の表現、「アッバの手足となり/作品となって/意味を創造している」ことなのですね。 *いうさん、レスありがとうございます。 井上神父の考えに、 >死は単なる人生の最終点ではなく、人生の使命・意味を完成させる積極的な行為< というのがあります。 (たとえば、http://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5/kotobanideau6.htm参照) 私たちは、とくに人生に行き詰ったとき、苦しいときに、「何のために(何の意味があって)生きるのか」と自問しますね。 しかし事はむしろ逆で、意味があるから生きるのではない、生きること自体に意味があるのだ、ということ。 そして、井上師が言うように、「私たちの人生は、アッバがご自身を表現する場」なのだ、ということをずっと考えていくと、それは、アッバが私たちの人生を通して、「意味をつくっていく、創造していく」ということではないのか、つまり人生は「意味創造過程そのもの」なのではないかと、思うようになったのです。 そうであれば、なかなかうまくはいかなくても、どんな人生にも意味がある、どんなにつまずいても、それは何らかアッバと共に新しい「意味をつくっている」のだ、ということが、再び生きる力になるのではないかと思うのです。 まさに、イエス様の挫折の生涯はそのことを証しているのではないでしょうか。 ・四旬節第四火曜日:栄一 今日の聖書朗読箇所は、水と清めがテーマ。 昼からは 晴れるという 雨模様の 街が 静か ・四旬節第四月曜日:栄一 今日の福音ワンポイントhttp://www.seseragi.gr.jp/prayer/2006-3-27.htm
ヨハネ4:50の「信じて」は、まだ奇跡を確認しておらず、イエスなら必ず直してくださるという、全人格への「信頼」といえる。 一方53節の「信じた」は、奇跡を確認した後なので、むしろ「確信」といった方がよい。 信頼が 確信に 変わるとき 未生の花に 蝶が舞う ・四旬節第四主日:栄一 告解すませた 一家に 土手の 桜が 三分咲き 家族4人でイグナチオ教会に行ってきました。 ・マリアのお告げ祭日:栄一 勤め上げた妻へ 贈る花とて 断然 赤いのを 買う 画像http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-197.html ・ロザリオの祈り:いう 融けてゆく淡雪珠を繰る無心 悪夢を見てしまいました。こんなことはめずらしいのですが・・・。心が汗をかいたようになって、不安が沸き起こってきました。 それを取り去りたくて、朝ミサの後、チャペルに残ってロザリオを手繰りました。一珠ごとに繰り返す祈り。指の間から送り出されるビーズの光と感触。ふっと、テレーズの顔と「surrender・・・」という言葉が浮かびました。「お委ねする・・・」
それからいくつビーズを送ったでしょう。凝り固まった恐怖や不安が、融けていったような気がしました。外は淡雪。 *ロザリオのことは拙著「俳句でキリスト教」にも書きましたが、単純な祈りの繰り返し、具体的な手に触れる道具、、、こういう要素は、「祈りの身体性」と大きく関わっていると思っています。 観念である「悪夢」を払拭する身体性があるのではないか。。。 ・四旬節第三金曜日:栄一
愛を 愛と思わぬ 愛を受けて 空が 真っ青 マルコ12:28−34より ・四旬節第三木曜日:栄一 赤白黄 神の指から 花こぼれ アッバの膝に 抱き取られ ルカ11:20より ・春分の日:いう 春分の日の野に放つ羊かな その日は日差しが暖かく、牧場に点々と羊が歩いていました。春だなーと思った・・・のですが、今日はまた雪が・・・!春の本番はやはりイースターまで待たないとならないようです。 *御復活祭まで、あと25日ですねー。こちらもどんどん季節は春めいています。下の梅の枝にうぐいすが・・・・という光景は、事実の写生です。 たまたま共同回心式があったとき、本当にうぐいすが、2,3羽、梅の小枝を揺らし、花をこぼしていきました。 この冬、いろいろあったけど、わたしたちも、新たの心で、ご復活祭が迎えられるように、祈りましょう。 ・四旬節第三水曜日:栄一 ほめ言葉 どこかに 嫉妬くすぶらせ また一つ 告解のネタ ・四旬節第三火曜日:栄一 お彼岸の 私ひとりが 拝領する 今朝のパンを 忘れない 休日なので朝ミサへ行ったら、「今日は、お墓参りにみんなと行くので、ミサはないのです。。。でもせっかく遠くから来てくれたのだから、御聖体を」といって、私一人のために、祭服を着、いくつかのお祈りの後、聖体拝領をしてくださったのでした。いたく感激しました。 ・「つながり」:NK 私が出逢いを通していつも感じることです。 神の下散らばる点や線と成り *松本清張の「点と線」、いや、モームの「人間の絆」に出てくるペルシャ絨毯のたとえを思い出しました。 ・四旬節第三月曜日 聖ヨセフ祭日:栄一 意味があるから 生きるのではない 生きること自体に 意味がある、と 夢から覚めたヨセフ ・四旬節第三主日:栄一 うぐいす 枝から枝へ 梅ほころばせ 告解の 長い列 ・四旬節第二土曜日:栄一 いかにても 生きることに 意味がある 降るだけ降って けろりと晴れ ・雨のうた:じぇいじぇい 春雨や 寒さをしのぐ 雨宿り うつむいて 待ち望むのは 梅雨明けか *今日は、風が強いですね。お天気がなかなか安定しなくて、何かを待つような日々です。 ・四旬節第二金曜日:栄一 捨てられた石 こそ 親石となる 春嵐に立つ 学び舎 ・五行歌3首:末子(はがき) とても寒い冬でした 盆地の里にも雪が降り
空飛ぶ鳥は矢の様で 枯木はじっと耐えていた
月は冷たく冴えていた はこべが咲いていぬふぐり
春の日射しに猫柳 白梅紅梅沈丁花 昨日は土筆今日こぶし
四つ星てんとう風に舞う 春の光に目を覚ます 今日も生きてる此の不思議
冬と春とを見る不思議
誰もが今を生きている
生かされている此の不思議 *七五調のリズムが心地よい連作ですね。1首目は冬の、2首目は春の情景、そして3首目は、作者の心に起こる変化、驚き。 冬から春に移っていく自然を、有難い心で眺め、受け入れている様子が、よく伝わってきます。 ・四旬節第二木曜日:栄一 金持ちとラザロの 天地逆転 春の日 晴れたり 曇ったり ・四旬節第二水曜日:栄一 禍転じて福となす 十字架の 逆説 人生 捨てたもんじゃない ・四旬節第二火曜日:栄一 受難節 おとなしく 節制できない わたしを見る 御目は優しい ・四旬節第二月曜日:栄一 慈しみとは たとえば 風にふるえ 小さな芽を吹く 枯れ枝 ・四旬節第二主日B年:栄一 高き山 雲を吐き 人の子 まぶしき 復活の予兆 朗読箇所http://www.seseragi.gr.jp/gospel/2006-3-12.htm ・四旬節第一土曜日:栄一 節制した分だけ 献金せよとは 神父の教え 春の日 晴れ渡り ・末子(はがき) いつも暖かく見守って下さる皆々様に宜しくとお伝えくださいませ。 プロテスタントの方にも、一緒に楽しみたいので、お伝え下さいませ。 *そうですね。ここは超教派、というか、超宗教かも。 たんぽぽの笑ひかけるやゴミ置場
*どんなところに咲こうと、花は手抜きをしない。 ものの芽や釣り舟うかぶ丹沢湖
*春が静かな湖水に忍び寄っている。 丹沢の山ひだ深く雪光る
*その深いところに何かありそう。 薬師堂裏に廻りてすみれ草
*薬師堂を裏で支えているような草花の景。 釣人の集ふ湖水に梅の花
*一幅の山水画のようです。 ・マタイによる福音(5:20-26)より:栄一 良いことは なかなかできない せめて 素直に謝れる 人になりたい ・余白先生のイエス入門:NK@ネカフェ 面白いですねー。。しかも私にとっては勉強にもなっている!(´△`)ゞ 四旬節叙階の拍手や春を告げ 沖縄の学習会でご一緒した助祭さん。 ご自分の叙階式当日でさえも、いつもながらの、 まめで気の回る機転の早さには、正直驚かされたのと、感服したのとの両方でした。 *ありがとうございます。 だいぶ前から書き溜めていたもので、授業で試行錯誤しています。 おー、気配りのゆきとどいた助祭さんですね。 まさに「仕えられるためでなく、仕えるために来た」方ですね。 ・マタイによる福音(7:7-12)より:栄一 寄る辺ない心が 主を求める ただ 幼子のように 南無アッバ ・ルカによる福音(11:29-32)より:栄一 送辞として 揺れる時代へ 動かぬしるし 人の子の 言葉 ・四旬節のミサ:いう ひとかけのパンの甘さや四旬節 ミサでいただく小さなパン(平たくて丸いウェファースのことが多いですね)。 軽くて、うす甘くて、ちょっと喉にくっついたりします。 「わたしは命のパンである」「とって食べなさい。これは私の体である」と言ったイエス。 ミサごとにこのパンをいただくことによって、イエスを文字通り身体に迎え養っていただくのだ、と、カトリックでは捉えているのですね。 じんわり溶けながら喉を通っていくパンのはかない甘さを、しっかりと味わいます。 こんなに小さくなってきてくださってありがとう。あなたを迎えることで、私の心が養われますように。私も小さくなれますように。よい四旬節を送ることができますように。 *はい。これはあのウェハースを味わった人ならでは。 たいていの子供たちは(うちも)がっかりします。待ちに待った御聖体が、こんな味気ないものだったかと。。。初聖体の練習は、かっぱえびせんでやってたんですね(笑)。だからなおさらあの味にがっかり。。。 それでいいと思います。 あの薄味の甘さを、そう「しっかりと味わう」こと。 四旬節ならではの醍醐味かと。 ・マタイによる福音(6:7-15)より:栄一 幸福とは たまさかなもの 主の祈りに こめられた 深い悲しみ ・うちのリス:いう つらら食むりすに優しき陽が注ぐ 朝、窓の外を見たら、リスが木にぶら下がってつららを抱きかかえるようにしてぽりぽりと食べていました。 3月に入ったとはいえ、まだ水溜りができるほどには暖かくありません。そうやって水分を取っているんですね。 がんばれ、もうすぐ春が来るよ。 *こちらも、きのう春一番が吹きました。って、ここ埼玉の果てでは、まったく風を感じませんでしたが、気温はたしかに暖かでした。 しかしまた、今日はちょっと下がり、まさに三寒四温です。 リス君ぽりぽり生活に余念ないですね。 愛らしいというより、たくましさを感じます。 ・マタイによる福音(25:31-46)より:栄一 私が気づかず、また 無視してきた 無数の 小さな人々、そして イエスのまなざし ・レント第一週:いう ミサ知らす鐘や飛び立つ春の鳥 *受難節第一主日の鐘。これまでの生活を見直す、よい機会でもあります。「飛び立つ春の鳥」は、わたしたちに一つの決断を促しているようです。 ・四旬節第一主日 マルコによる福音(1:12-15)より:栄一 荒野の誘い お恵みは その時 その場で 与えられる ・ミサ:margarita_m_a 手を合わせ まっすぐに 司祭見る 我が子の顔に イエスを見る 余白さん、お久しぶりです。 自分の書いた詩(と言えるでしょうか?)を他の方が読まれるところに書き込むのは、初めてで、少し恥ずかしいのですが・・・・。 この詩は、男3兄弟の真ん中、次男のことを書きました。小さい頃は、病気ばかりしていました。今は、学校へ行くのが、すごくつらくなるので、欠席の多い子です。 *marugaritaさん、ようこそいらっしゃいました。 その節はいろいろありがとうございました。 御歌、十分詩ですよ! 私は、詩心をもって書かれたものはすべて詩だと思っています。 ご病気がちで学校に行くのがつらいご次男のこと、しかしお歌からは、彼の素直さ、誠実さ、そしてそれをそっと見守るお母様のやさしさ、そして信仰心がよく出ていますね。 私は日々、「学校に行くのがつらい」子供たちと付き合っています。彼らはそれだけに、行事なども丁寧に参加してくれます。教えられることが多いです。 こういうところにも、福音の逆説を見る思いがします。 ・ルカによる福音(5:27-32)より:栄一 喜び イエスを迎える 宴会の 大勢の一人として 末席につく 淋しさ 不安 恐怖 かかえたまま イエスの 宴に 招かれよう 淋しければ 淋しいイエスに 出会い ずっと先で かがやく ・春への想い。:NK またまた今日も雨...。。寒い。 冷たき雨に しばしうなだれ 春待ち草 *「しばしうなだれ」ても、きっとまた、顔をあげることでしょう。南無アッバ! ・マタイによる福音(9:14-15)より:栄一 われら病む 全地に イエスのまなざし そそがれ 今は喜びの時 ・祈り:めでたし団 ロザリオの 珠を繰る指
祈り込め *拙著『俳句でキリスト教』にも書いたように、ロザリオを使った祈りは、とくに日本人には大変マッチしたものだと思います。 単純なものほど、奥が深い。 ・いよいよ四旬節:いう いやみ面当てかわして今日の二月尽 灰と帰すいずれ吹かれて空の色 (灰の水曜日) *生きていると、いろいろなことがあって、、、でもすべての人は「灰と帰す」。。。。そのはかなさを思いつつも、イエスのまなざしのなかに抱き取られるとなれば、なんと慰めになることでしょう。 ・ルカによる福音(9:22-25)より:栄一 復活祭に向け、受難節中の黙想として、 祈りとして 施しとして その日 その日に 十字架はある ・今日、灰の水曜日:栄一 典礼暦は、今日から受難節に入ります。 だれに与え どう祈り 何に耐えるか と、あたたかな まなざしが問う ・道草 辛いとき降る雨は 悲しい雨 祈ってる時降る雨は やさしい雨 私を包んでくれる *心の変化に自然も変化する。 ・代カキコ:白雲子 氷雨、一日心の芯を焚く 寒イチゴの大きさをほおばる 青空 うたってみる *短律で、詩情を出すのはなかなか難しいですね。 一句目は問題ないとして、二句目、三句目となると微妙です。 ・朝、窓を開けたら:いう 真白です。 淡海の風道行に落とす雪 Lake effect snow、という雪です。低気圧でできた雲から降ってくるのではなくって、湖からの湿った風が冷えて降る雪。海みたいな大きな湖から来たんです。 *おー、それはすごい雪のようですね。 普通の雪ときっと違うのでしょうね。その土地ならではの自然現象は、知らない人間には驚異です。 ・多利田久美句集より その3−2:一木 鐘の音に薄紅梅も匂ひたつ 暖房の部屋にひもとく殉教史 聖母像台座のひびに雪間草 聖母像肩よりしだれ桜かな たんぽぽの絮(わた)も食卓に来て留る 母の忌日 なでしこに水替ふること祈りとす 蟋蟀(こほろぎ)や一夜の宿は靴の中 地に垂れて白萩を尽くしけり *祈りの生活が、静かに描かれています。 |
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