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求道俳句会誌「余白の風」第122号 2006.5 Copyright ©
2005 余白こと平田栄一, All rights reserved. 本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任) <目次> ●日本人の感性でとらえるキリスト教 ●求道詩歌会4月作品&掲示板から 口上:どうもお天気が安定しませんね。のど風邪もはやっている様子、皆様ご自愛ください。 今号から、井上神父の『わが師イエスの生涯』から、これは、と目に付いた言葉を紹介していきます。 NHK教育テレビ「心の時代」の放送「すべては風の中に」については、すでにお知らせしたとおりですが、ご覧になったでしょうか。 大変よくまとまっています。 井上神父の自伝『余白の旅』を含め、それ以降の神父のイエス理解の発展を、簡潔に、要点をはずさずうまく編集されていました。 これまでもNHKにはラジオ、テレビ何回か出演されていますが、今回の放送が最良の編集だったように感じました。 この番組の中でも神父は、『わが師イエスの生涯』はご自身が最終的にたどり着いた(神父の言葉では「流され着いた」)境地を、後輩に伝えたいために書いたもの、と語っています。 まだ、お読みでない方には、ぜひ、ご一読されることをおすすめします。 (日本基督教団出版局 2520円) 井上洋治神父の名言1
●史実より真実 「いまこの深層意識的原体験の事実を「真実」という言葉で表現してみれば、物語は歴史的事実を伝えていないかもしれないが、しかしその奥には深い真実が秘められているのである。」 (『わが師イエスの生涯』第1章15頁) 井上神父の福音書解釈の姿勢を端的に表した言葉。 「イエスの誕生物語」を史実として文字通り受け取る必要はない(14頁)という点では、いわゆる逐語霊感説や原理主義とは一線を画す。 むしろ「物語」に隠された「深層意識的原体験」を重視し、それを「噛み締め、どこまでも追体験していく」ことで「真実」をとらえることを重視する。 ユング派深層心理学者・河合隼雄、また遠藤周作の発想に類比できる。 ●イエス誕生物語の真実 「 師イエスの生涯は、決して高みから私たちを見下ろしているといったようなものではなく、家畜小屋から十字架の上まで、私たちの苦悩と屈辱と孤独とを共に歩んでくださっている方なのだ。」(同17頁) イエスの「誕生物語」が告げる「真実」を解釈した井上神父の言葉。 ここではとくに、「ルカによる福音書」を中心に語っている。 一般に「家畜小屋」での誕生は、「貧しさ」の象徴として語られることが多いが、神父の場合はむしろ、「苦痛・屈辱・孤独」の象徴として、またそれらマイナス要素を私たちと「共に歩む」イエスという、二つの点を重視していることに、現代的に大きな意味がある。 なぜなら、飽食の時代にあっても、いな、それだからこそ、様々な苦痛・屈辱・孤独を日常のあらゆる場面で感じざるを得ないのが、私たちの現実だからである。 ●全幅の信頼ゆえ 「 しかし生涯を師の弟子として生きることを決意して出家をし、師の心を追い求めてきた私としては、たとえ無謀であろうと、間違っていようと、なんとしても師の心を推しはかってみたいのである。」(同19頁) 井上神父は、かなり早い時期から、「イエスの生涯」をいつか書こうと決意していた。 それは、自分が「平々凡々たる人間」であっても、イエスを「師・先生」と仰ぎ、「弟子入り」を自認する「日本人」として、どうしても書きたい、書かなければならない、という止むにやまれぬ心があったからある。 神父の全著作、その他の活動は、この「日本人キリスト者」としての自覚に支えられている。 その過程で、ときに「無謀」や「間違い」も辞さないということは、既存のキリスト教からの批判も覚悟するということを推測させるが、その根底には、師イエスまたアッバへの全幅の信頼が読み取れる。 ●風土と精神形成 「水と緑に恵まれた牧歌的、田園的風土に育ったということが、後の師の教えに極めて大きな影響を与えたということは、否定しえない事実として受けとめられるべきであろう。」(同21頁) イエスの神観−アッバ神学を語るに当たり、井上神父が非常に重視しているのが、精神形成における自然や「風土」といった文化史的影響。 一般に、キリスト教は、ユダヤ教からの延長として、「砂漠の宗教」→厳父の神観をもつと誤解されやすいが、本質は逆に「牧歌的」「田園的」宗教→慈父の神観を土台にしている、と説く。 キリスト教が「旧約」の否定、超克の上に成り立つ、というこの著のラジカルな主張を予想させる言葉。 ●「旧約聖書」の必要性 「キリスト教会は、たんに護教論的な目的だけではなく、迫害を免れようとするためにも、少なくともローマ帝国に対して、自分たちをユダヤ教の傘下にあるものとして見せることが極めて有効だったのではないか。」(同31頁) 風土的に言っても、ユダヤ教と全く異なるキリスト教が、なぜユダヤ教の厳父的神イメージを持つようになったのか、それが、ユダヤ教正典たる「旧約聖書」のキリスト教会での扱いによる、という。 本来、ユダヤ教の否定・超克の上にたつはずのキリスト教が、「旧約聖書」を手放さなかったのは、田川建三のいう、対ユダヤ教、対ギリシャ・ローマ思想への護教的目的だけでなく、皇帝礼拝を拒否し、新興宗教として迫害されたキリスト教の弁証のためだったと、井上神父は推測する。 ●旧約からの脱皮 「いかに師イエスの生涯と教えが旧約思想を否定、超克したものであったか・・・・(同31頁) 師イエスの生涯と教えとは、この峻(けわ)しい、近づき難いユダヤ教の神観の否定と、超克の上にこそ成り立っている。(33頁) そこ(シナイ山周辺)にうかがえるものは、暖かく優しく傷ついた人の心を包み込んでくれる、師イエスを育てたような「母なる自然」ではなくて、どこまでも厳しく叱咤激励する「父なる自然」である。」(36頁) 井上神父が文字どおり、「命を削るような思い」で書き上げた『わが師イエスの生涯』で、第一に強調されているのが、ユダヤ教とキリスト教の決定的なコントラストである。 それは、上の言葉のように、繰り返し語られる。 これまでのキリスト教神学では、「新約は旧約の完成」として語られることが多かった。すなわち、旧約と新約の「連続性」が強調されてきた。 この点でまず、井上神学は大きく異なる。 それぞれの風土から生み出された神観は、水と油、断絶ともいえるほどの関係に近い。 以前、朝日新聞に「旧約聖書からの脱皮を」と題した井上神父の記事が批判を受けたが、それはおよそ、旧約との連続性・等価性を前提とするキリスト者からの批判であった。 もとより神父は、旧約のすべての言葉が、アプリオリに「不要」と言っているのではない。 イエスの思想を直接支持するような言葉も、膨大な旧約の中には散見できる。 そもそも旧約の「否定」といい、「脱皮」といい、「超克」という場合、元になる思想・神観を前提としなければ、イエスのそれの斬新さを知ることもできないだろう。 したがって、本書でも、多く当時のユダヤ教について頁を割いて解説している。 旧約全体として根本にある神観が、イエスの神観とは正反対と言えるほど異なるということなのである。 「層雲」復帰20句:平田栄一
一陣の風以上の風が春を引っ張る 無口といって不機嫌なわけでもない青春 無駄ばかりではない半生仕切り直しの春一番 血は愛より固い絆雌が雄を喰う 嘘ついてこんなに眠い夢の逆襲 昼夜逆転の子を叱り今日もはっきりしない天気 すっかり日が伸びて鍵穴に鍵するりと入る夕暮れ どこにも落とし所のない話一番星出てきた 黄梅白梅春の庭いずれ良いこともあるさ 殊更寒い冬が過ぎて春が早そう 路地行く影につかず離れずついてくる猫で この身たまさかと思えば何事も起こるまま 鶯枝から枝へ花こぼし告解の長い列 深山人影霧に溶けやがて沸き上がる声明 勤め上げた妻へ贈る花とて断然赤いのを買う 週末は早寝の枕辺にラジオ小さくかけ放つ 春夕暮れ家々のアンテナが十字架 夏野にひとり思考の襞深くする よく働きよく寝た雀の朝がうれしい 気がかりそれはそれとして初金の朝ミサ 日本人の感性でとらえるキリスト教−yahoobbsより-65
はじめまして [ No.38 / 169 ] 投稿者 : simatorirori シマトリと言います。 どうぞ、よろしくお願いします。 テルゼさんから、余白さんにキリスト教への疑問を訊ねたら、と言われた者です。 キリスト教については、自分なりに少しは学んでもいるつもりですし、 疑問と言っても、批判ということではないので、その点、ご理解いただけたらと思っています。 疑問の部分だけ引用しておきます。 ******* ただ、キリスト教については感じていることがあって、 失礼ながら書かせていただきます。 イエス様が磔にされた十字架像ですが、あれは、そのあとにイエスの復活があるのだから、 磔の十字架のイメージを、祈りの対象とすることに違和感を感じています。 特に、カトリックにおいては神父はマリア様に倣えというのであれば、 いたずらに信者にのみ、原罪の意識を植え付け、 イエスが罪を贖って下さったのだ、申し訳ないと祈りなさいと教えられているように感じるのです。 見当違いと叱られることを覚悟で書きますが、 神父と一般信者で差をつけるところが何だかいただけませんね。 信者に、痛みを感じるために‘良心’を特に問題にされるのではないかとさえ考えてしまいます。 しかし、この娑婆世界がある犠牲の上に生存がある世界である以上、 キリスト教徒も仏教徒も、罪や悪という問題は乗り越えなければならないものだと感じますが。 罪も、悪も、それと対比しての善もなく、良心さえも必要でない世界 それは(善もなくではなく)ありのままで全き善なる世界が、 仏の世界・神の世界というイメージが、私の抱くものかもしれません。 ******* Re: ファッション感覚No.42
/ 169 ] 投稿者 : yohaku5 メッセージ 30 toshif7kaze さんの >私の中での「信仰」は、確かに「信頼」を含んでおりますが、「使徒信条による信仰告白」そのものであり、揺ぎ無い信頼の先にあるものだと考えております。 ああ、なるほど。私のほうはむしろ逆で、「信仰」は「信頼」に含まれるものという感覚があります。このあたりは感性の違いかもしれませんが、掘り下げると課題が見えるかもしれませんね。 メッセージ 32 mcgrawhilljp さんの >人間を裏切り者として憎む「ゴッド」よりも、人を衆生として憐れみ救済してくれる「仏」のほうが、私は好きだ。 砂漠から生まれた一神教としては、「謝罪」を常に求める性格がある、ということは、確かなように思います。 そういう風土の中で、ガリラヤの温暖な気候に育ったイエスは、異端児だったのだと思います。 Re: ファッション感覚[
No.50 / 169 ] 投稿者 : toshif7kaze メッセージ 42 yohaku5 の >感性の違いかもしれませんが、掘り下げると課題が見えるかもしれませんね。 実は、私も感性の違いと感じていたのです。 私の感じる信頼とは、友達関係、上司と部下、先輩と後輩、兄弟姉妹、親子等の人間的な関係をイメージしてしまうのです。 また、自身の救いようの無い醜悪さに思い知らされ、打ちのめされた時に、すがる光が神であり、唯一の生きる希望を与えてくれる存在なのです。それが私の感じる信仰なのです。 これには、何が正しいかという答えが無いと思います。 Re: ファッション感覚
[ No.64 / 169 ] 投稿者 : yohaku5 メッセージ 50 toshif7kazeの >実は、私も感性の違いと感じていたのです。 はい、このあたりを、お互い感性が違うんだからしょうがないよ、とやってきたのが今までの教派間の争いや、他宗教への排他的態度につながってきたのだとも思うのです。 >私の感じる信頼とは、友達関係、上司と部下、先輩と後輩、兄弟姉妹、親子等の人間的な関係をイメージしてしまうのです。 また、自身の救いようの無い醜悪さに思い知らされ、打ちのめされた時に、すがる光が神であり、唯一の生きる希望を与えてくれる存在なのです。それが私の感じる信仰なのです。 はい理解できます。おそらく、あなたと私とでは、求道過程=宗教体験が違うので、「信仰」「信頼」のイメージが異なるのでしょうね。 誤解を恐れずに推測すれば、私の宗教体験はあなたのように「自身の救いようの無い醜悪さに思い知らされ、打ちのめされた」経験が、強くないのではないかと思います。 しかし、その罪意識の比較的な希薄さ、というものも、「日本人」をある意味で、象徴しているようにも最近思うのです。 はたして、「人間、この罪深き、どうしようもないもの」という原点からしか、キリスト信仰はありえないのだろうか?そういう課題として、考える余地もあるのではないか、ということです。 >これには、何が正しいかという答えが無いと思います。 はい、そう思います。 *他の方へも:このスレッドの目的は、キリスト教が正しいか否かの論争・証明ではありません。 ここで、キリスト教に対するいろいろな質問が出ることはうれしいですが、ここに参加するキリスト者は、当然キリスト者であるかぎり、神は善であり、イエスは救い主だ、というのは大前提なのです。 そのうえで、どうやって日本人に福音の素晴らしさを伝えようか、という目的です。 その点で、他宗教、あるいは信者でない方からも、ご意見がいただければありがたいです。 Re: はじめまして。[
No.65 / 169 ] 投稿者 : yohaku5 メッセージ
38 simatoriroriさんの >イエス様が磔にされた十字架像ですが、あれは、そのあとにイエスの復活があるのだから、 磔の十字架のイメージを、祈りの対象とすることに違和感を感じています。 よくわかります。とくに日本人には十字架のイメージから宣教するのは、マッチしていない気がします。 最近は、四谷のイグナチオ教会のように、復活を前面に出した十字架を掲げているところもあります。 >特に、カトリックにおいては神父はマリア様に倣えというのであれば、 いたずらに信者にのみ、原罪の意識を植え付け、 イエスが罪を贖って下さったのだ、申し訳ないと祈りなさいと教えられているように感じるのです。 はい、私も必ずしも「贖罪」表現が、キリスト教の唯一の表現だとは思いません。このあたりはhttp://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5/inouesinngakumokuji.htm にくわしく述べていますので、お時間があったら、ご覧下されば、幸いです。 >見当違いと叱られることを覚悟で書きますが、神父と一般信者で差をつけるところが何だかいただけませんね。 一般論で言えば、カトリックの場合、たしかにいろいろな場面で、神父と一般信者は異なる、と考えています。 >信者に、痛みを感じるために‘良心’を特に問題にされるのではないかとさえ考えてしまいます。 キリスト教の道徳主義的な問題についても、上のサイトで論じています。 >しかし、この娑婆世界がある犠牲の上に生存がある世界である以上、キリスト教徒も仏教徒も、罪や悪という問題は乗り越えなければならないものだと感じますが。 そうですね。「罪」「悪」は否定しようもなく存在していると思います。その点では、「申し訳なさ」というのはどうしても出てくると思います。 >罪も、悪も、それと対比しての善もなく、良心さえも必要でない世界 それは(善もなくではなく)ありのままで全き善なる世界が、仏の世界・神の世界というイメージが、私の抱くものかもしれません。 あらゆる「分別」を超えた世界、とでもいいましょうか、そういう憧れは、私もあります。 >こちらに、このトピがあることは、素晴らしいことだと思います。 ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。 求道詩歌会4月作品&掲示板から−1616-152
初出句3句 千年の一日けぶる山桜
佐藤淡丘 校庭の浪立ちてをる花吹雪
〃 わが望み天にあづけて花の下 〃 栄一:春爛漫の光景ですね。桜の見事さに、「わが望み」をアッバにおまかせできる境地が、すばらしいと思います。 ps:淡丘さんは、愛知県にお住いのカトリック俳人です。 初投稿 闇に伏し言(ロゴス)に縋る祈り道
俊 toshif7kazeこと俊です お粗末な俳句にも、恥を感ぜぬ自由人です。 次回は、懲りて詩で挑戦させて頂きます。 栄一:一読キリスト者なら、ヨハネ伝冒頭を思い起こす句ですね。 どぞどぞ、詩でも俳句でも、投稿ください。 文学系の板とここが違うのは、作品を「求道」という観点からよもうということです。 最近また私の中で復活している自由律俳句は、「詩の最後の一行だ」と言った人もいます。 俊:井上神父の説教を聞かせていただきました。 その中で、おそらく星野富弘の事だと思うのですが、彼の事を触れておりました。 私の教会に、彼の美術館でお手伝いをしていた方がいらしたので、存じておりましたが、神の栄光を知った一瞬でした。 栄一:はい、3月のアッバミサの説教ですね。 http://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5/abbamissa06-3-18.mp3 井上神父は、人の苦しみが無駄ではなく、他の人を救う、という意味で、星野さんやリジューのテレジアを、例に挙げていました。 鳥のさえずり 黙祷のチャペルに届く鳥の歌 いう 「余白の風」お忙しい中の発行ありがとうございます。読み応えがありますね。内容が濃いので、二度三度読んでから、また、感想をお伝えできればと思っています。 栄一:ありがとうございます。 yahooBBSでも真摯なカキコミがされ、充実した記事ができました。昨日、井上神父からもFAX戴きました。 いう:余白さんwrote >井上神父の考えに、死は単なる人生の最終点ではなく、人生の使命・意味を完成させる積極的な行為というのがあります。 意表をつき、それから納得させられるお考えだと思います。 >私たちは、とくに人生に行き詰ったとき、苦しいときに、「何のために(何の意味があって)生きるのか」と自問しますね。しかし事はむしろ逆で、意味があるから生きるのではない、生きること自体に意味があるのだ、ということ。 ああ、そうか。私が思っているのとは違った方向から?の生きることの捉え方ですね。(私はあくまでも自分中心でお気楽に捉えてるなあ・・・。「意味があるに決まってる」でも、その意味は私のものか、どうか、という感じに・・・。わがままだなあ。) >それは、アッバが私たちの人生を通して、「意味をつくっていく、創造していく」ということではないのか、つまり人生は「意味創造過程そのもの」なのではないかと、思うようになったのです。 この捉えは、私にとっても必要だと思っています。 >それは何らかアッバと共に新しい「意味をつくっている」のだ、ということが、再び生きる力になるのではないかと思うのです。 >まさに、イエス様の挫折の生涯はそのことを証しているのではないでしょうか。 なるほど、深いですね。一見、敗北の人生を送ったかのようなイエスはアッバとともに偉大な「意味」を作り上げていた・・・。そして、それは私たちに「生きる力」を与えている・・・。 ありがとうございました。 桜 末子 団地の桜 咲きました カーテン引けば 花あかり 桜に雨が 降ってます 花は重くて 冷たくて 月の夜桜 迫り来る 心に嘘を かくしてる 青シート 多摩川べりに 青シート 土手は桜の トンネルが 多摩川べりの 青シート 私の代りの 人が住む 多摩川べりの 青シート 風にゆれてる 糸柳 栄一:「桜」「青シート」という、三連ずつの二つの作品ともとれるし、それぞれ4行の6つの作品としても味わえますね。 末子作品の魅力は、素直でストレートの持ち味。そして自然のリズムに乗っている所。 一クラス分の群れ 感謝祭生き抜く七面鳥の春
いう びっくりしました。車から脇の林を見たら、七面鳥が3,40羽、日向ぼっこをしていました! 余白:それはすごい光景でしょうねー。「感謝祭」の七面鳥ってところが、またすごい! 夜 赦されるのが悔しくて春の闇 いう 気持ちを受け取るイエス 香油を髪でぬぐう女 〃 花の雨香りうつして彼を送る 〃 栄一:「ゆるし」に素直になれないことも、しばしばありますね。その気持ちこそが「闇」なのかもしれません。 雨に溶け込んだ、ゆるされたことへの感謝の「香り」を、イエスはしっかりと受け止めたことでしょう。 あの頃の家と太陽チューリップ
末子 うららかや外出と眠りの振子かな
〃 義士祭やどこか似ているユニホーム
〃 春の鴨 投げ餌上手な 人の来る
〃 あしび咲く SOSを 聞かぬ母
〃 ロッテの選手が大好きなのですが、あのユニホームとヘルメットをいつも笑ってしまいます。鮫の歯にも似ていると思います。 たんぽぽ 末子 たんぽぽに 黄蝶がとまった 葉が光り 花の頬が 染まった つくし 〃 つくしんぼが 家の跡地に 生えている 日射しをあびて どっと笑った すみれ 〃 すみれが 風にゆれた 石垣のすき間に 紫色 深い想い 栄一:連作が巧みですね。一句、一詩が、それぞれ味わい深いものですが、連続して読んでも、春の情景が美しく、また切なく描かれています。 受難節 「いつ菓子が食べられるの」と受難節
いう ちょっとわかりづらいのですが、今日の出来事から。 いまどきめずらしく、レントに入ってからお菓子を控えているという若いお母さん。「子供がいつデザートがいっぱい食べられるの?って聞くのよね」と。 びっくりしたのですが、ちょっと昔だったら程度の差はあれ子供はそういう思いでイースターを待っていたのかもしれません。「もういくつねると」だったわけですね。 お祝いのお菓子を待ち焦がれている子供たちにも、イースターは片手で数えられるまでに近づいてきました。 いよいよ聖三日間 柳黄に煙り近づく復活祭 いう 栄一:返信する間に、今日は聖金曜日になりました。お菓子を待つ子供さん、お母さんはえらいですねー。ろくな節制もしなかった私は、恥ずかしいです。。。 そんな思いで、今せめても「毎日のミサ」該当箇所を読み、黙想しました。 聖金曜日 生かされて狂人バラバの重き軛 NK 栄一:イエスの代わりに釈放されたバラバは、その後どうしたことでしょうか。。。(ヨハネ18:39−40) NK:体たらくな身だからこそ 人の至らなさを知っているが故に 我が身至らなさに絶望する人を キリストの道へいざ導かん 栄一:そう、キリスト信仰において、「人を導く」ということは、なんでもできる、なんでも知っている先生として、生徒を先導するというものじゃありませんね。 自分の至らなさ、弱さが人にキリストを魅力あるものとして映る、、、逆説だと思います。 聖土曜 明日花を咲かす水仙聖土曜 いう 栄一:夜明けの復活を待つ時間、、、水仙の蕾にエネルギーが充満してくるようです。 徹夜祭を待つ聖土曜 この日突然の春になり鳥の歌 いう 栄一:ご復活おめでとうございます。 受難週のレポートHP興味深く読ませていただいています。 国や民族によって、いろいろアレンジされていて、祭儀の意味深さ、面白さを感じました。 少年(関町教会報「こみち歌壇」より) 少年の涼しき瞳吊革に手をのべゐたり席を譲りて るみ子 栄一:少年のまっすぐな、澄んだ瞳が想像されます。こういうところに、家庭の教育がでるのかな? お久しぶりです! 以前のホームがいつのまにやら閉鎖されていて・・・ごぶさたしました ICFもなにやら接触悪いようで遠のいています。 またよろしくお願いします。 冬過ぎていつの間にやら春来る ヨハンナ 復活の過ぎ行く時を見送る日 〃 栄一:おひさしぶりですね。いつでもおいでください。 季節の移り変わりは、時に早く感じたり、遅かったり、面白いものだなあ、と思います。 復活祭の頃は、いつも年度切り替えで、あまりゆっくり味わえないのが、日本ですねー。 春の朝にも露 芝青く朝日に結ぶ涙かな いう 栄一:芝の露が涙のように光っている情景が思い起こされます。 でも朝陽に、清清しい情感もたたえて。。。 青空のした、私のあしもとのスミレ
白雲子 空気も祈ってくれている八月
〃 ベンチにゴロリ 空にゆれてサクラ 〃 イノチあるありがたさ、今年のサクラは、かくべつです。 栄一:ときに病後の感覚は研ぎ澄まされ、健康なときはなんとも感じなかった、自然のすばらしさ、ありがたさを痛感するのかもしれません。 雨待ち木蓮 木蓮に桃の香のある憂いかな いう 栄一:今年は木蓮も、こちらでは遅かったようです。 この「憂い」は意味深長ですね。「木蓮」に乗り移った「桃」のようにも読め、面白いです。 春の菜でアベルと語る父の愛
俊 栄一:創世記の「アベル」でいいのでしょうか。ちょっと考えてしまう句ですね。カインは農耕者、アベルは牧者なので。。。 toshif7kaze:良き信仰者のアベルです。 春の菜と申したのは、それが咲く大地を示したかったのです。 つまり、土に帰ったアベルの叫び。 私は、復讐を求めたのではなく、神の下に帰ったアベルの喜びの声と理解しているのです。 そのアベルの声が、春の菜の合間から沸きあがり、私は語らい、共に喜びを分かち合うと言いたかったのです。 少し紛らわしかったですね。 栄一:toshif7kazeさん、解説と詩のページの紹介、ありがとうございます。 句のほう、承知しました。これはやさしい心がないと、私のように、難しく考えてしまうのかもしれない。 そして、詩のページ、言葉と写真と音楽がピタリマッチしていますねー♪ 私も知っている詩が、よりじっくり味わえました。 ぶらんこの毛虫に花は遠ざかる いう 踏まれては紫香る花すみれ 〃 私だって怒ります カッコウにうまく使われもうケッコウ! いう 栄一:例の大きい毛虫ですか?それは時期が早いかな。。。 踏まれて香る、、、キリスト教的な逆説を感じます。 文句ばっかり 不機嫌の黒猫いとし春のどか いう 栄一:そう、猫はマイペース。自分をストレートに出す。うちのタマも、なぜか今日は居間に入ってこないので、心配になって、お迎えに行ってしまいました。 けっきょく人間が気を使っている始末で。。。(笑) 多利田久美句集より その3−3:一木選 二国語の祷(の)りの座を占む蟋蟀も 愛に国境(くにざかひ)なしと知るアヴェ・マリア 死者の月桐の実すべて天に向く 木枯しは地を掃き雲は月を駆り 日曜の風花へこころ放ちゐる 聖樹とて星にも雪の積りゐる 栄一:同じカトリック俳人として、俳句や詩、文学に、日本の風土の中で、キリスト信仰を読むことは、まだまだ難しいのだなあ、と痛感します。 「聖樹」や「日曜」は、言葉そのものは一般的であっても、その思い入れはかなり信仰者は違うだろうし、「アヴェ・マリア」や「死者の月」に至っては、コメントなしには思いは伝わらないように思います。そこをどうするか、、、、短詩形は難しい、、、、だから興味も尽きない、ともいえますね。 |
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