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平田栄一サイン本
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求道俳句会誌「余白の風」123号 2006年6月号

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本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

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<目次>

井上洋治神父の名言2.. 1

主宰・平田栄一自由律俳句.. 2

求道詩歌会5月作品1616-222 2

日本人の感性でとらえるキリスト教yahoobbsより-83 7

荻原井泉水著『此の六十年』を読む   8

 

井上洋治神父の名言2

●律法のエリート教育

 おそらくは、師(イエス)もヤコブも、将来有望な子供として律法学士やファリサイ派からエリート教育を受けておられたであろう。

(『わが師イエスの生涯』43頁)

 

ユダヤ教の律法を第一とする考え方を紹介した後で、井上神父は、「イエスの兄弟ヤコブ」が「義人ヤコブ」と呼ばれていたことから、イエスも生前、相当律法を熟知していたはずだと説く。

イエスの少年期については、福音書からはほとんど何もわからないが、このことは、その後のイエスの思想形成を知る上で、重要な指摘である。

「律法」の「エリート教育」を受けたはずのイエスが、なぜ、律法を軽視するような批判を受けるようになったか、興味がわくところである。 

 

●律法に精通していたからこそ

師(イエス)が「モーセ律法」に精通しておられたからこそ、師ははじめて、その「モーセ律法」の否定と超克のうえに、ユダヤ教を超えた御自分の新しい教え、新しい宗教をたてることがおできになった・・・・のである。

(『わが師イエスの生涯』46頁 傍線部分は原文では傍点)

 

当時のユダヤ教で、「モーセ律法」を堅持することを最高として、行き着いた先の律法主義。その弊害が、いかに貧しい人や病人、「罪人」と呼ばれた人々を苦しめたか。

イエスは律法のエリート教育を受け、熟知していたからこそ、その現実に心を痛める。この章の表題が示すとおり、まさに「ユダヤ教への疑惑と反発」を深めていったことだろう。

旧約思想の否定・超克的イエス理解は、ラディカルに進められる。

 

●テクトン・イエス

・・・・最も大切なことは、この巡回労働者としての青年時代に、師イエスがガリラヤ地方の貧しい庶民たちと接し、彼らの抱いていた苦しみや悲しみや涙を、痛いほどに御自分の膚で感じとられたに違いないということであり、また同時に、外国のおそらくは子供たちとも接する数多くの機会を持たれたであろうということである。

(同48頁)

 

ユダヤ教徒として律法に精通していたイエスが、なぜ、それを否定・超克していくような思想、行動に駆り立てられたのか。

その大きなヒントが、青年時代の大工職人=「便利屋」のような「テクトン」=巡回労働者としての仕事にあったのだという。

なぜならこの仕事が、貧しい庶民の苦しみや涙を目の当たりにし、異邦人の子供との接触をも可能にしたからだ。

ここには、後に祭り上げられていくキリストからではなく、一人の人間としてのイエスからキリスト教を説き起こそうという「下からの神学」的発想が見られ、説得力がある。 

 

●一つの「神の子」証明

この世でも、そして後の世でも、永久に逃れることのできない悲惨と苦しみをいだいて生きていかざるを得なかったこれら庶民の涙を膚で感じとられた師イエスの心に、次第に「このような掟を遵守したくても遵守できない境遇に置かれている哀しい人たちを、神は本当に罰せられるのだろうか。・・・・」という疑問が、そして遂にはユダヤ教の信仰そのものに対する疑問がふつふつと湧きあがってきたとしても何の不思議もあるまい。

(同52頁)

 

イエス時代、紀元前63年以降のローマ帝国による植民地政策により、ガリラヤ地方は「貨幣経済導入」による「経済的貧困」と、それゆえに律法を守れない結果としての「地獄の火」の恐怖、という「この世」と「あの世」の二重の絶望的状況に追い込まれていた。

巡回労働者としてのイエスが、この状況を目の当たりにし、当時のユダヤ教の在り方に疑問を持っていく様子が、説得力をもって描かれている。

しかしここで何より重要なのは、師イエスが「これら庶民の涙を膚で感じとられた」という「悲愛(アガペー)」の持ち主であった、ということだろう。

キリスト者が一般の人たちに、「イエスが神の子である」ということの証明をするのは難しい。たとえそこに「復活」をもってきても、一般の人は即納得はしないだろう。

しかし、私たちの現実を考えたとき、自分と無関係な他者の「涙」と苦しみを、ここまで「膚で感じとり」さらに行動にまで移すことができるだろうか、と想像するとき、それは説得力ある一つの「神の子」証明になっているのではないだろうか。

「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい・・・・」(ヨハネ8:9)という福音書の一節を思い起こした。 

 

●選民意識の打破

後に民族宗教であるユダヤ教の否定と超克のうえに世界宗教を打ち立てられる師が、この時点で、洗礼者ヨハネにお引かれになったのは、まさにこのユダヤ民族がつくりあげていったユダヤ人と異邦人との間の決定的な壁を打ち破ろうとしたこのヨハネの姿勢にあったと思えるのである。

(第3章「ナザレの村からの出奔・洗礼者ヨハネ教団への入団」より)

 

ナザレでユダヤ教徒として、エリート教育を受けていたはずの青年時代の日々、イエスは次第に、ユダヤ教の厳父的神観に疑問を抱いていった。

そこに、「メシア待望」を背景に洗礼者ヨハネが現れる。

イエスは家族と別れ、のちに弟子となるペトロやアンデレらと同様、ナザレからはるばるヨハネ教団に入団する。

その決意の根拠は何か、井上神父は、『ルカによる福音書』3章7−9節に答えを見出す。

すなわち、「神はこれらの石からでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのだ。」

「石からでも」、ユダヤ人が見下していた「異邦人からでも」起こすことがおできになる。

事実ヨハネは、徴税人や(ローマの)兵士にも差別なく洗礼を授けた。

血縁と無関係に、「悔い改め」という一点に救いの根拠が置かれる。

要するに、ヨハネはユダヤ教徒の選民意識をこえて、ラディカルに父性的神観・厳父的神のイメージを徹底した人物と考えられる。

この点では、厳父的神観に疑問を抱いたイエスに答えていない。むしろ対極にある。

が、まさに「この時点」では、ヨハネの「ユダヤ人と異邦人との決定的な壁を打ち破ろうとした」姿勢に、イエスは惹かれたのである。 

 

●厳父からアッバへ

洗礼者ヨハネ教団と決別し、ガリラヤ地方での師独自の宣教を開始されてからの師の祈りが、・・・・野の花、空の一羽の鳥にさえ配慮をくばり、善人にも悪人にも雨をふらせてくださる母性原理の強い神に向けて、いつも「アッバ」という呼びかけでなされていたということは、疑う余地はない。

(第4章 洗礼者ヨハネ教団からの離脱とガリラヤ宣教の開始)

 

ユダヤ教の血縁、民族主義の狭い枠を打ち破った洗礼者ヨハネに惹かれたイエスが、彼と決別する契機となったのが、「神殿殴り込み事件」(『マルコによる福音書』11:15-17)であったと、井上神父は考える。

その前提として井上神父は、『ヨハネによる福音書』の文脈に即して、この事件をまだイエスが洗礼者ヨハネ教団にいた頃の出来事と捉える。

その根拠として、@共観福音書の編集時の図式化の問題と、A事件の「洗礼者ヨハネによる権威づけ」の問題を置く。

たとえヤーウェの名においてさえ、不正に対して「聖戦」をいどむとき、けっきょくは罪のない庶民の涙がこぼされることになる、神はそういう裁きと罰を下す御方ではない、そういう思いがこの事件を通してイエスをユダヤ教との決別にかりたてていった、というのである。

この父性的神観から母性的神観への転換となる宗教体験が、「アッバ」(「パパ」、「おとうちゃん」の意の幼児語)という、それまでユダヤ人には思いも寄らぬ神への呼びかけとして、表明されるのである。

ここからガリラヤ宣教がはじまる。 

 

主宰・平田栄一自由律俳句

*前号「層雲復帰二十句」から『層雲』6月号(和久田登生選評)を経て、次号『豈』への出句にあたり、再度推敲した。

無口といって不機嫌なわけでもない目借時

 

すっかり日が伸びて鍵穴に鍵するりと入る

 

鶯枝から枝へ花こぼし告解の長い列

 

勤め上げた妻へ贈る花とて断然赤いのを買う

 

春夕暮れ家々のアンテナが十字架

 

求道詩歌会5月作品1616-222

[220] 友よ:色鉛筆

わたしのこころを、

こうして、

取るに足りないふさぎの虫が巣食う間も、

 

友よ、あなたは目の前の

最も愛しい人の苦痛を

目の当たりにしている。

 

その人の

痛む体を夜通し擦り続けている。

 

重責を負って、

力強く地に足をつけて生きた

これまでのように。

 

わたしに、まことのやさしさを

今も送り続けてくれる

友よ。

   *      *      *

突然ですが、ブログを閉じることに致しました。これからは訪問者に徹します。今まで、ありがとうございました。

[221] RE:栄一

なかなか真の友にはなれない私たちですが、その弱さ・ふがいなさもアッバにお任せしたいですね。

ブログのこと、残念ですが、これからもこちらにもご訪問ください。

 

[219] 3句(原稿):淡丘

万緑やピエタの光る昼下がり

 

揚雲雀地軸傾ぶくあたりまで

 

古典的藤の回廊冥くなる

−−−−−−−−−−−−−−−−−

「余白の風」122号拝読しました。

「層雲」復帰20句。これまた、たいへん興味深く読ませて頂きました。一時はまった山頭火の句集を想い出しました。どうぞこれからもご精吟下さい。

井上洋治神父のこと、今まで全くと言ってよい程その著作を読んでおりませんので、今回、本屋に立ち寄り、『余白の旅』を買って読み出しました。一部哲学的な文言が出て来たりして、分からない部分もありますが、神父の生い立ちから始まり、その思想の背景がうっすらと判って来たように思います。(まだ全部読み切っていませんが・・・・)次のような箇所を読みながら、思わず頷いたものです。曰く

「私にとって祈りとは、何よりも、さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での『日向ぼっこ』である」と。

カルメルの観想修道会のご出身の神父様が、今日こういった言葉をお書きになる、この心境をこれからもご著書を通じて探ってゆこうと考えています。

[222] RE:栄一

玉句ありがとうございます。3句とも色彩感覚が明瞭で、潔さを感じます。

祈りを、「神様の日向ぼっこ」ととらえる所は、井上神父の「南無アッバ」=全てを神にお任せする、という境地が出ている、重要な言葉です。

『余白の旅』どうぞ、味読くださいますように。

 

[218] ヨハネ15:9-17:栄一

五月の風朗々と愛を説く福音

 

真珠とりの歌が聞こえる五月晴れ

 

[216] 一句:万梨

鐘の音の間に間に知るや夏来たり

 

私の通っている大学の鐘の音は、季節の音がするような気がします。

ここには大学のY先生の紹介で来ました。すてきな作品を鑑賞できるし、ていねいにコメントをくださるし…いいところですね^^

[217] RE:栄一   Date2006/05/21() 05:44

春夏秋冬、あるいはお天気によっても、鐘の感覚が違うのでしょうね。

この「鐘の音」とともに来る「夏」がさわやかです。句に色がありますね。

求道俳句として読むなら、「夏来り」が「アッバ来り」と重なってきます。

ああY先生、わかります。

ぜひこれからも続けて投句ください。1ヶ月ごとにまとめて、「余白の風」という機関紙にしています。

 

[212] 泣きたい時は:つぼみ

泣きたい時は

思いっきり泣いて

涙とともに全てを流してしまえたら

それでいいのよ

大きな声を出して

泣けたらいいな〜

 

大分前に書いたのですが?俳句が浮かばなくて、それでも友達からのメールで、「そうか泣いてもいいんだね、そう思ったら、心が軽くなりました」と、嬉しかった、エールをおくりたいつぼみです。

[213] RE:栄一

俳句でなくてもいいんだよ、と私も「エールをおくり」たくなりました。

この板は、形式にこだわらないで行きたいです。

それぞれの「求道」に合った文学形式を使えばいいのです。

 

[210] 今日の福音ヨハネ15:12-17より:栄一

愛は念ずべし人に説くべき掟にあらず

 

ヨハネさんに怒られるかな。。。

[211] RE色鉛筆

愛は神そのもの。

愛は完全。

つつまれて、

味わうもの、

わたしが「為る」もの。

 

「わたしが『為る』もの」・・・まだまだ道が長いですね。(??;

[214] RE:栄一

思いついて、パッと書いたので、後から見ると、僕の句は観念的ですね(汗)。

でも、日本人に、ヨハネ福音書のように、たとえ「新しい掟」と言っても、それが「掟」という響きだったらどう受けとるだろう?と考えてしまったのです。。。。

「神は愛」ではなく、貴女がいうように「愛は神」といえるまでの遠き道のり。。。「為る」ものでありたいですね。

 

 [208] 初投稿です 夏の2句:万梨

 

紅薔薇や極上の水滴のせて

 

重力の強き夜かな夏の月

 

[209] RE:栄一

万梨さん、おはつです。

>紅薔薇・・・・

鮮やかな情景ですね。このところ雨が多く、鬱陶しい気もしますが、この句のような情景を目にすると、おっと思います。

>重力の・・・・

巧いですね。心なしか月の色も濃くなったような。。。

この「重力」は、神様の引力かもしれない。あるいは逆に、人間のこだわりや業かもしれない。

様々に想像できる佳句です。

これからも投句お願いします。

 

[206] 風:つぼみ

青いお空を見せてくれる

風よ貴方は何処から来たの

遠いお空の向こうから

幸せ運んで来るのです

雨雲をつれさって

青いお空の向こうには

光り輝く太陽が貴方を待って輝いている

もう心配は要らないよ

笑顔で待っていてごらん

 

[207]RE:栄一

プネウマ=風=神の息、、、けっして見えないけれど、木々のはずれの音や揺れる様で、はっきりその存在を確認できます。

わたしたちも、いつも、こんなに確かに「風」の存在・働きを感じていたい。

 

[204] 3首:末子

窓ガラスには/雨粒が/離れて寄って

落ちて行く/外は緑があふれてる

 

優しいはずの/すれ違い/寄って離れて

しゅんとなる/外は五月の真盛り

 

伝える言葉の難しさ/しゃがみ込んでる青葉影

 

[205] RE:栄一

1首目「離れて寄って」2種目「寄って離れて」そして「青葉影」−−日本人には、まず自然があるのだと思います。

そして思い入れが加わる、、、けっして自然は日本人にとって、西欧近代科学のいうニュートラルなものではありません。

自然は、語り、呼びかけ、寄り添ってくれる、、、

そこにアッバもイエスも見出せる。。。

 

[202] では、一句。:NK

「さよなら」に感謝をこめて名残惜しまん

 

たまには詠んでみましたが。

私の場合、どうしても実生活でのことが・・・。恥。

どうも亡母に似て、パッと捨てることが出来ないわたくし。

所謂「貧乏性」。

下着でも靴下ぐらいまでだったら、穴が開いたら、

最後はボロにでもして、汚いところを拭いてご苦労様にするのですが、

さすがにアレだけはボロにするのは、あまりにはしたのうございます。汗。

「今までありがとね。バイバイ。」と呟いて抱擁する。

ああ。こうして、私にとって、ひとつの別れとなりました。

たとえアレでも、たかがアレでも、私の中ではちゃんと生きているのです。笑。

話があまりに、生活味が漂っていてすみません。苦笑。(//o・ω・)

[203] RE:栄一

ああ、「アレ」への「さよなら」なんですねー(笑)

「どうしても実生活」いいじゃないですかー。

実生活、実感から離れた俳句は、どんなに技巧がうまくても、面白くない。。。

生活から遊離してはいけないのは、信仰とやはり共通です。

思いっきり、「生活味を漂わせて」ください♪

 

[200] 葡萄:いう

末端は先端葡萄の苗植える 

 

ヨハネによる福音15:1-8

友へ

憶良らの宴に残せる檸檬かな

 

[201] RE:栄一

「末端は先端」とは、たしかに。最前線のキリスト信者とも。

「憶良」と「檸檬」とは、いい取り合わせですねー!

 

[195] 子どもたちからの贈りもの(母の日):色鉛筆

子どもたち二人して/ はにかみ、さし出す/ 贈りもの/ 私の好きな空色の/ カップ&ソーサー

 

かつては/ 送り手/ 今は二役/ 親と子を与えられて/ 至福の日

 

私のような者が/ なぜ母親に?/ 子らへの過ちを/ 噛みしめて/ 感謝の日

 

 [197] RE:栄一

いい子供さんに、いいお母さんですねえ。

三首目、そう、ほろっと来るようなことをしてくれる時ほど、不思議と、子育て中の後悔が浮かんできたり。。。

でも、そういうことはイエス様をとおしてアッバのお空に溶け込んで、許してもらえます。

有り難いですね。

 

[194] 「わ」:色鉛筆

小さく/ 固く/ 輪となって/ 共同体の/ 煩わしさ

 

皆は「輪」の中、/ わたしは外から/ じっと見つめる。/ それで/ 主を愛せるというのか。

 

ロザリオの環/ まことの環/ 愚かなわたしが/ 祈れない日の/ 慈愛の環 

〜いつも陥りやすい「つまずき」を捧げる〜 

 

 [196] RE:栄一

ちょっとずるをして、HPまでのぞきに行ってしまいました。

わたしもいくつかの教会を歩いたので、、、どこの集団でもいろいろな人がいる、そういう当たり前のことに気付きました。

これは、教会に限ったことではないのですね、あらゆる集団が。

それで、なんとなく一つの雰囲気を作っているのでしょうが、それもこちらの主観的な要素も強い。。。

いずれにしろ、奉仕的なものは強制であってはならないと思います。ご無理せずに。

 

 [191]:つぼみ

もしもわたしがあるけたら

きっとどこまでもどこまでも歩いてゆくでしょう

3年前と同じように土手を一キロ

朝に晩に歩くでしよう教会にも行こう

そして神様にありがとうと涙をこぼしてお祈りしよう

 

もしもこの手が動いたら

やりかけの仕事を皆終わらそう

気になっていた人形の着物

可愛そうに今でも裸、寒いようと震えているね

作りかけの和服洋服全部仕上げて

主人にごくろうさまと主婦を代わろう

ありがとうこれからは好きな植木おもいっきりやってね

もう何にも心配はしなくていいよ

 

個の所毎日きてしまってごめんなさい、頭に浮かばないので前につぼみに、載せた詩です。

なんか恥ずかしいのですが、来方が分かって嬉しくて、何時も入らないのに入っているんですもの。でもごめんなさい。

[192]:色鉛筆

つぼみさんへ

 世に隠れた清いひと。

 あなたの言葉がわたしを救う。

           感謝!

[193] RE:栄一

つぼみさん、どうぞ毎日でもおいでください。

俳句は俳句で、詩は詩でやる方は多いのです。が、そこに求道ということを意識してやろうじゃないか、というのが、この会の趣旨です。

そういう意味では、形式はなんでもいい、まして、上手いとか下手とか、そういう技術も議論もいらない。

むしろ、毎日こつこつ作り続けることこそ、大事だと思っています。

 

[198] いつも毎日、覗きにくるだけの私です。(*-*):NK

 (´・ω・`)ノシ ←振り切れんばかりに振る手。南無アッバ。

[199] RE:栄一

NKさん、ここは「覗き」も大歓迎ですが、また一句くださると、なお歓迎!

 

[189] 風薫る:つぼみ

風薫る5月の聖歌(うた)に主を思う

 

なんか変な俳句でごめんなさい、浮かんでこないの、恥ずかしいもう少し勉強します。

[190] RE:栄一

いえいえ、とてもわかりやすですよ。

ただ、「風薫る」と「五月」は、同じような雰囲気なので、どちらかを違う言葉に換えると、もっと句の意味が広がりますね。

 

[187] 朝ミサのボー:いう

無意識に流れるミサは春の朝

 

[188] RE:栄一

これは大事。ミサを理解するんじゃなくて、感じる。。。無意識の深層意識に「流れるミサ」こそ、本物!

 

[184] 雨:いう

春雨のたてるほこりのにおいかな

 

[185] RE:栄一

季節は夏に向かって、ちゃくちゃくと準備されているのでしょう。

[186] RE:色鉛筆

雨に濡れ始める土の匂い。私、大好きです。すがすがしさとともに、何故か懐かしさを感じます。

 

[181] 亡き父の句:つぼみ

師の墓前心で仰ぐ冬の梅

思い出の旧師病窓雪激し

アベマリア歌う教会冬ぬくし

聖マリア慈悲の姿や小正月

水郷のマリアの像や初霞

 

父は平成5年12月90才で亡くなりました、

消して上手くは無いが、死ぬまで俳句を読んで

いました、私が行くと大学ノートにぎっしり書いた俳句を一句、一句読み上げて「どうだい!」と嬉しそうに言うのです、約2年間、2階の部屋から一度も外に出なかった、いつも古びた(御ラッシュ)と言っていたお祈りの本を持ってお祈りを欠かさなかった。ボケずにいられたのは、俳句のおかげ

[183] RE:栄一

ご投句ありがとうございます。

まっすぐな信仰がじかに伝わってくる句風です。

きっと、アッバへの贈り物として納得いくまで、「大学ノートにぎっしり」書いておられたのでしょう。

バッハの創作姿勢を思い起こしました。

>ボケずにいられたのは、俳句のおかげ

これはそうかもしれません。

私の知る俳人も、90以上はたくさんいらっしゃいます。そして、みなかくしゃくとしておられる。驚きです。

 

[179] 草むしり:いう

追いつけぬ時追いかけて草むしり

 

[180] RE:栄一

えーと、こちらと16時間の時差だったかな?とすると、朝の5時くらいに書き込んでくださった。ありがとうございます。

そうそう、だからこちらの「追いつけぬ時追いかけて」ってなことになるんですよね(笑)。

「草むしり」は焦らず、楽しくやりましょう、ってボクほとんどやらず、うちも奥さん任せですー(汗)

 

 [176] 生きること:つぼみ

生きよ!と言った主の言葉、生きて男は働き

女は子を産み育てる

辛いこの世を生きて生きて

天国の門をたたけ、

 

どんな姿にせよ、生きることは素晴らしい

悩み苦しんでもこの世は短い

思う存分生きてゆこう

明るい空を見て

美しい花を見て

幸せとは何か分からない人に

教えるだけで分かる幸せ

さあ 頑張って生きてゆこう

さつきの風はさわやかに

緑の木々をゆらしてる

ユリが咲き薔薇が咲く

それがこの世

生きていれば貴方に会える

手を合わせ空をみつめる

5月の御母

何故か心が洗われて涙がにじむ、胸がドキドキする

ありがとう

 

[177] RE::栄一

井上神父は、「本当に生きるのが大変なのは、身体の自由がきかなくなる老後だよ」とよくおっしゃっています。

老いや病、天国への道は、乗り越えなければならない課題がたくさんありますね。

ときどき弱音を吐きながらでもいい、そう、この詩のように、花を見て、空を仰いで、、、あとはアッバにお任せする。。。それが人生の現実なのでしょう。

勇気の出る言葉をありがとうございます。

 

[173]「生きる」(3つの五行歌):色鉛筆

ときたまに/ わたしを襲う/ 「タナトス病」に/ いのちの意味を問い/ 黙って生きる           

 

喉もとの哀しみを/ 呑み込んで/ 生きる日もある/ 空を舞う燕にも/ 気づかずに

 

「女は弱し、されど/母は強し。/ いや、/ 女も母も /弱くない。

 

 こんにちは。こちらでは、初めまして、ですね。

 以前、つぼみさんが私に贈ってくださった「生きる」という詩について、自分なりに味わってみました。

 

[174] RE:栄一

人から送られた詩から、返歌のように、新たな詩が生まれる。。。美しいことですね。

「3つの五行歌」、生きることの大変さ、切なさ、弱さを気負わず、あるがままに生きようという心が伝わってきます。

[178] RE:いう

>喉もとの哀しみを・・・・

哀しみが喉もとに、というところ、本当にそういうことあるなあと思って読ませていただきました。確かに、哀しみを呑み込んで生きる日もあるって。

[182] RE:色鉛筆

皆様、ありがとうございます。

でも、お蔭様で、かつてはその「哀しみ」も呑み込めずに、寝たまま起きられない日があったことを思いますと、自分の「根の部分」に大事な「ちから」が生まれつつあるのを感じます。

 

[171] 福音短歌 その56(原稿):一木

永遠の生命とは/真の神である あなたを知り/キリストを知ること(ヨハネ17:3)

 

わたしは 与えられた/業を 成し遂げて/あなたに 栄光を帰しました(ヨハネ17:4)

 

今 父よ あなたが/おられる所で わたしに/栄光を 与えてください(ヨハネ17:5)

 

聖なる父よ/あなたの名によって/彼らを 守ってください(ヨハネ17:11)

 

一緒にいた間/わたしは あなたの名によって/彼らを 守っていました(ヨハネ17:12)

 

[175] RE:栄一

福音記者ヨハネの信仰告白が、そのまま伝わってきます。

 

[164] 飛び込めば・・・:いう

蛙鳴く井戸は深けりゃ狭いのか

 

[166] RE:栄一

「深けりゃ狭い」が何か意味慎重ですねー。

なぜか「狭い門から入れ」という聖句を思い出しました。

[169] RE:いう

余白さんからレスいただいて、目からうろこが落ちそうな予感・・・。何のことなのかわからないですね。でも、何かヒントをもらいました。

[170] RE:栄一

いえいえ、もしかすると、この句は、そちらのHPに行くと、背景がわかるのかもしれませんが、ここ?からはアクセスできないのと、本来句はそのもの独立して鑑賞すべきと思いまして、勝手に読みました。

なんにしろ「何かのヒント」になれば、うれしいです!

[172] RE:いう

/(^^;)・・・。すみません、私も俳句はそれだけで読むと思っているのですが、たまにふざけたい衝動が抑えられず、自分のページにあれこれ書くことがあります。

でも、あれこれ書いたことをわかっていただくための俳句ではないつもりなので(この間のカッコウはちょっとあれでしたけど)?HPに出かけなきゃ?、なんて思わせてしまっていたらごめんなさい(><;;)

「俳句は俳句で勝負」(-v-)ニヤリ。(←と言ってみたい・・・)

 

[162] 初めて作った詩:つぼみ

まばゆい朝日に目覚めて

タンポポがあくびを一つ

ふあ〜

茶色に枯れなかった今年の土手は

青々として片隅に一つ

タンポポが目覚めた黄色いタンポポ

花が咲いて種になったら

白い羽を付けて飛んでゆこうどこまでもどこまでも〜

希望と憧れを乗せて

だから寒くても綺麗に咲いていてね

タンポポさんあくびをすると幸せがにげちゃうよ

ふあ〜〜

 

私がプログを立ち上げて、詩に興味を持って小学校以来初めて書いた、詩とまで行きませんが、思いつく日記も書けなくて、思うまま幾つも、書いているうち、詩も面白い、と書いたりしたのですが、NKさんや、ゆうさんの親切で、書けたらと思いました、マダマダ恥ずかしく、プレッシャーがかかりますが、よろしくお願いいたします。

思いつくか分からないのですが。

 

[163] RE:栄一

つぼみさん、投稿ありがとうございます。

素直な心情がストレートに出ていて、心慰められますね。

散文とはちがい、やはり詩や俳句には、「あいまいさ」ゆえの面白さと、書いている本人が気づかないうちに、新しい発見が生まれたりする驚きがあるのです。

RE:いう

やったー!つぼみさん、直接初投稿ですね。求道詩歌仲間として、これからもよろしくお願いします。(^^)

希望の種をいっぱい抱えながらも、ゆったりのんびり、季節に任せてあくびしてるたんぽぽなんですね。

[167] RE:栄一

そう、だんだん求道詩歌の輪が広がってきて、うれしいです。

みなさん、なるべく構えないで、お気軽に投稿してください。

 

[160] 初出句:つぼみ(NK代筆)

散歩してふと見る道に初夏の風

 

杖突いて歩く足取りさつき風

 

[161] RE:栄一

NKさん、代筆ごくろうさま。つぼみさんのところからは、ここ書き込めないかな?

リハビリに励んでいるお姿が想像されます。風はこの連休で、急激に夏へ向かっている感じですねー。

お大事にしてください。

ゆっくり歩くほど、季節の賜物を見つけられるでしょう。

 

[158] 深い霧の朝:いう

寝覚め心に取り残されて春の霧

 

そっと切り出す春霞をお土産に

 

[159:栄一

幻想風景のような霧。これも日本とはやはり違うのかな?

でも、霧の柔らかさは、心地いいですね。

 

[155] 働かぬ蜂:いう

働かぬ蜂も蜂なり春うらら

 

くまんばちが飛び回る季節です。「働かない蜂」が蜂集団にいるという話を思い出して。

[156] RE:栄一

え〜と、いうさんのHPをのぞいて、思い出しました。

ぼくがうろ覚えなのは、北大だったかの先生が、どんな集団も、いくつ対いくつ対いくつという割合で、序列ができる、といった話。

そんで、下位集団は邪魔だからと、取り払うと、残りの集団の中で同じ割合の下位集団が、やっぱりできるって話です。

これはどんな集団にも当てはまるそうで、具体例をあげると危ない話にも。。。。

でも福音の光に照らすと、逆説になるかも。。。

[157] RE:いう

そういう研究があったのですね。

確かにいろいろ当てはめて考えていったら微妙ですね。

ブログには笑い話にして書いてしまったのですが((^^;)←悪い癖)、ここ数日の余白さんの「キリストの体」に関る句を読んで、蜂をみたときにこの話を思い出しました。

 

[153] 気付くことの大切さ:いう

風に乗るしるし林檎の花香る5/2ヨハネ6:30-35

 

[154] RE:栄一

自然って、やっぱすごいと思います。

人間が一番鈍感かも、、、ってか、ぼくが鈍感なのかな。

今日の福音朗読、「天からのパン」=「マンナ」=イエス、、、ちょっと耳傾ければ、無限にアッバのメッセージが聞こえてくるはずなのですね、南無アッバ!

 

日本人の感性でとらえるキリスト教yahoobbsより-83

「旧約聖書」は、醜悪・・・・[No.67]: mcgrawhilljp

  私は、クリスチャンではないが、旧約聖書を読んでみようということで、日本聖書協会発行の「アートバイブル」を買いました。これは、世界の名画でもって聖書を解説しようとしたカラーの美しい本です。そして旧約聖書の酷さを知ったのです。

新約聖書はそれなりに内容が立派であり理解できるのですが、旧約聖書の解説はへきえきしました。

ちょうど、初めて焼肉店に入ったような感じで、独特の臭気にへきえきしたようなものです。

ここで、こういうことを申し上げるのは、ここは東洋哲学のトピであり、日本人の感覚でキリストをどうとらえるかという、タイトルだからなのです。

焼肉の嫌いな人は、焼肉店に行かなければ良いだけなです。

焼肉店の人が、寿司屋に来て焼肉をどう思うかとう問うからこそ、寿司屋にとっては、臭いが臭くてたまらんと申し上げているのです。

*旧約聖書に「詩篇」が存在するのですか、もしあれば貴殿の好きな詩を紹介してください。購入するか、図書館に行き読んでみます。 

 

Re:[No.68] :yohaku5

横レスですが、

>焼肉の嫌いな人は、・・・・

 

よく解ります。

ただ、私などは、キリスト教が最初から「焼肉店」ではなかったと思っているのです。

「寿司屋」でも焼肉店でも使えるネタ「素材」が、原点にあったと思っているわけです。

そういう普遍的素材をどう料理するか、どう日本的に料理できるか、を考えたい、ということです。

たとえば、牛肉。

江戸時代までは食べなかったのに、西欧経由で明治に入ってきて、西洋ではステーキで食べていたものを、すき焼や、寿司屋で「あぶり」にして出した。それは日本人の口に合うように作り直したのですね。でも「牛肉」は、西欧の専売ではない。「牛肉」そのものは、それまでの日本人は食わず嫌いだったかもしれないけれど、けっしてアプリオリに日本人に不適なものだったのではなく、素材としての牛肉をどう料理するかで、その民族の口に合う料理ができる。しかし栄養としては同じ普遍性がある。同じなら、うまく食べたほうが消化がいい。。。

「ここに牛肉があります。どう料理すればお口に合いますか?」というのを、一般の日本人にお聞きしたいわけです。

 

>旧約聖書に「詩篇」が存在するのですか・・・・、

 

これも僭越ですが、私などは、詩篇23などは、大好きです。

(ただし、ここなどにいう「敵」や、また別の箇所にある反対者や罪人などは、「自分の中に巣食う悪しき欲望やエゴイズム」といったように読み替えないと、排他的になる危険があると思っています) 

 

旧約はユダヤ教の聖典[No.72]:pxd025462002jp

 失礼します。おせっかいです。

基本的には旧約聖書はユダヤの聖典で、キリスト教とイスラムは考えを借りてきた宗教です。

確かに旧約聖書はカインとアベルのような兄弟殺しとかノアの箱船のような皆殺しの話しがあります。それは当時の人々がその当時の文化で書いたものだからです。

それをイエスの教えを通して後の人々が書いたのが新約です。通常キリスト教は新約(イエス)の解釈で旧約を再解釈します。

本当は現在の時点での聖書特に福音書が要りますが、ニケア公会議以後追加はなくなりました。

この辺は世界宗教では類似があります。

ヒンズー教と仏教の関係でも同じかも知れない。 

 

Re:[No.83] :yohaku5

>基本的には旧約聖書はユダヤの聖典で・・・・

 

イスラムのことはよくわかりませんが、たしかに旧約聖書はユダヤ教の聖典で、キリスト教はそれを「お借り」したのだと思いますが、その「考え」をどこまで継続したか、というと、私見では、むしろ断絶・否定・超克したといってもいいくらい、新しい宗教なのだと思います。

 

荻原井泉水著『此の六十年』を読む

■宗教は損か

 芭蕉は・・・・「此の道に古人なし」と揚言した。この精神に立ち還って、俳句を一つの道として樹立しなければならないと私は信ずる。・・・・ 俳句というものは「俳句の道」の上において、道として研究すべきものである、と私は信ずる。・・・・

俳句を作って自分で楽しむ。それは一おう、それでよろしい。だが、それをもう一つ掘りさげて、俳句を創ることをもって自分を創るという方法があるのではないか。それが、日本ふうに言う「道」の理念である。

(「道ということ」2−3頁)

 

井泉水は、「道」にこだわった。

このことが、多くの文学者からはよく思われない。

「井泉水の晩年は、宗教に傾き、文学的価値が乏しい作品となったことは、残念」との論である。

 

遠藤周作が文壇にあって、宗教にかかわることは得なことではなかったのではないか、とは、先日NHKテレビ「心の時代-すべては風の中に」での井上神父の言葉である。

だが、井泉水(仏教)も遠藤(カトリック)も、宗教と関わることを止めなかったことはもちろん、すべての創作の根源に置いた。

一般の見方とは逆に私にとっては、これだけ生き方や「道」にこだわる俳人・作家であるがゆえに、大きな魅力となっている。 

 

■共感の大切さ

俳句が「わたくし文学」として成立するということは、自分の「わたくし」が自分ひとりだけのものではなくて、他に多くの人の「わたくし」と共感を呼ぶためである。

(「わたくし文学」より)

 

万葉集以来の日本における「わたくし文学」の成立経過を説明したあと井師は、「俳句という短表現を文学的に確立せしめたのは、これに「わたくし文学」という性格をもたせたためだ」と結論し、この意味で芭蕉は俳句の開祖であり、この行き方が近代俳句まで一貫しているという。

しかし大事なことは、引用文に示すとおり、日本特有の「わたくし文学」成立の根拠を、「わたくし」自身の感覚にとどまらず、他者の「共感」を呼ぶことに求めた点にある。

これは、この本の巻頭項目「道ということ」で求道的な句作を奨励しながら、「「みずから」としての自己はとかくエゴになる、「わたくし」になる。それではいけない。「みずから」がすなわち「おのずから」であること・・・・」(二一頁)といった言葉に照応する。

単なる記録(日記)ではない「文学性」をもつ、ということは、「自分にも他の人々にも通ずるもの」、「みずから」(自己)にして即ち「おのずから」(自然)なるものを捉えることにある。

こうして、「自己」即「自然」となったとき、それは同時に即「自由」でありうるというのが、井師が提唱する「自由律の精神」である。

本項の「わたくし文学」における自他の「共感」の問題は、前項で私が述べた、上下句間の「独断的飛躍」に対する戒めとも受け取れ、興味深い。

 

■「層雲」の趣旨

俳句を純文学の立場から研究する、文壇にも新傾向俳句の出生したる精神を参考としてもらいたいという意味での、新しい機関紙を作ろう――それが私の層雲発刊の趣旨だったのである。

(「新傾向時代」より)

 

 この項目では、新傾向俳句のいわれ、また出現の経過を、子規以降の碧梧桐対虚子という図式を中心に、一挙に語っている。

 「層雲」発行の目的を、もう少し敷衍すると、@新傾向の研究と普及、A新しい俳句表現を俳壇・文壇に紹介する、B俳人に広く文学領域に目を向けさせる、Cこの意味で、文壇・俳壇相互の仲立ちする<橋>となること、と井師はいう。

 この趣意文が俳壇だけでなく、文壇を意識して語られているという点は、当時「ホトトギス」が、夏目漱石の「わが輩は猫である」「坊っちゃん」を連載して、世間的に注目されていたことと無関係ではあるまい。事実、村野四朗の詩や滝井孝作の小説は、層雲で彼らが言葉を磨いた賜物とも思われる。

 さて、問題の@〜Cだが、これらを一言で結論できる資格も力量も今の私にはない。が、全体としていえることは、個々の俳人や結社誌のレベルにおいては、研究も紹介も真摯に行われているという感想をもっている。実作においても、現代の自由律秀句をいくつもあげることができる。卑近なところでは、高校「国語」では、「自由律俳句」という言葉はほとんどの生徒が知っており、山頭火や放哉の一,二句は多くの生徒が口ずさむことができる。しかし、それが、俳壇レベル、大衆レベルで大きなうねりとはなってはいないことが残念である。

 

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