求道俳句会誌「余白の風」131号 

2007年2月号

Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:掲示板 ホームページ今を生きることば

<目次>

主宰発表作品    1

アンソロジー井上洋治神父の名言9-11  1

求道詩歌会員作品616-640  2

毎日の黙想:平田栄一    8

 

主宰発表作品:栄一

「層雲」072月号

 

叱った親も叱られた子も哀しくていっしょにいる

 

ミサに出そびれ細い雨見ている

 

今日一日はある思案の行き先

 

お空の高い所でボクを待っている雲

 

猫は正しく猫背で座る秋の縁側

 

アンソロジー井上洋治神父の名言9-11

(9)すべてを任す

イエスと同じように、イエスと一緒に、もし私たちが心の底から御旨のままになれかし=iどうぞお望みのようになさってください)と祈ることができたなら、どうしようもない我というものがストーンと落ちて、広い自由な向う側にスーッとでることができるのでしょう。

(『日本とイエスの顔』第八章 幼子の心・無心)

 

 信仰とは、掟を怠りなく守ったり、財産を放棄するといった英雄的行為を行うことではなく、アッバと呼べる神に、すべてをゆだねることだというのです。

 

 祈りとは、そうした「人間が本来あるべき姿に立ちなおろうとする心の姿勢であり、生命−場の働きかけを自分の心に聴きとり、それに任せきろうとする心の在り方にほかなりません。」

 

(10)アッバの方から――ミサの意味

祈りができないのならそれでもよい、悲愛の心がないのならそれでもよい、泥まみれの生活から抜け出られないのならそれでもよい、ただ手を合わせて私の方を向きなさい、私はアバからいただいた私のすべてをこめて、私の方からあなたの中に飛び込んでいってあげる――それがイエスの思いでした。

(『日本とイエスの顔』第九章 悲愛の突入)

 

 「カトリック教会が聖体の秘跡とよぶもののなかには、このイエスの思いのすべてがこめられています」と神父は続けます。

 

 さらに「十字架の愚」(コリントの信徒への手紙T一章一七節以下)というパウロの言葉に触れ、「疑いが湧いて来たら、その疑いをひとまず心の風呂敷でつつみこみ、とにかく童心に立ち返って無心に両手を合わせて、聖体にこめられたイエスの来訪を受けとめること、それが永遠の生命−場に支配され、悲愛の喜びに導かれるためにもっとも大切なことだと」いいます。

 

(11)15歳の決断

求道者の一生は、必ず一度や二度は、もし道をあやまればその人生を台なしにしてしまうような危機に直面する。

 

それは言ってみれば、越えなければならない高い山にも似た、前から迫ってくるような困難とは全く異質なもので、先の見えない深い霧のなかで足もとから地面がくずれおちていくような、どこへどう進んだらいいのかわからないような苦悩に満ちた絶望的な危機感であろうと思う。

 

そこでは己れの力にたよることをやめ、ただひたすら合掌する以外に手だてはないのではなかろうか。

(『法然』少年法然、求道の危機)

 

若干15歳の少年法然が、宗教的天才として将来を嘱望されながらも、叡山に身の置き所がなく、黒谷へと遁世していくときの苦悩を、井上神父はこのように推し測っている。

 

神父は聖書の読み方について、「学者」と「求道者」の向かう方向の違いを『福音書を読む旅』などでも語っているが、こと求道者については、<あれかこれか>の道の選択は必然である。

 

そこには、常に実存的な「決断状況」があり、賭けがある。

そしてその道程には、また必然的に「苦悩」や「絶望的な危機感」が伴なうだろう。

 

そのとき行き着くのは、南無の心、「ただひたすら合掌する」心なのだという。

 

求道詩歌会員作品616-640

[640] *:佐藤淡丘

 

ひたぶるに墜ちしを悔ゆる剪定かな

 

麗かや女医の回診うけてゐて

 

退院のあと一日を日永かな

 

今日の距離ふとであひたる雪の嶺

 

枯木山掌に弾力の残りをる

 

−−−−−−−−−−−−−−

†主の平和

白障子に春の陽光が眩しく映ります。

大兄のご著書『心の琴線に触れるイエス』親しく読ませて頂きました。

ナント三度も読み返しました。

それも病院のベッドの中で、、、、。

それも癒された気分に浸る日々でした。

実は、去る日、ボランティア先の庭園の築山にある百日紅の樹に登り、枝の剪定中、誤って転落、左足首の骨を折ってしまい、救急車で運ばれるという体たらくをしてしまったのです。

9日間入院して、退院してきました。

しばらくは、松葉杖の生活を余儀なくされられています(全治3ヶ月)。

全く恥ずかしい思いで一杯です。

井上神父のおことば、

 

風の己れを

  委せきって

 生きなさい

 

病院のベッドの中で、痛む足を庇いつつも、この本の項に至ると、ふと心の安らぎを覚え、南無アッバ≠ニ心の中で、唱えたものでした。

井上神父の十字架よりも復活への昇華、そして死とはなんぞや、等々考えさせられるところが大いにありました。

そして何故か、安心いたしました。

ありがとうございました。

在主。

 

栄一:お怪我をされてから、快癒するまでの経過が、句の調子で、よく表現されていますね。

まだ、しばらくかかるでしょうが、どうぞ、お大事にしてください。

「私信」ご許可をいただいて、載せさせていただきました。

井上神父の言葉、また、私の拙い本が、少しでもお役に立てたのなら、こんなうれしいことはありません。

 

 [637] 土曜日のお客さん:ひかり

土曜日の夕方

玄関のチャイムがなった。

 

インターホンから子どもの声がする。

ぼくです。・・・あたしです。

2つの声が同時に何か言ってる。

ドアを開けると下のお子さん2人が並んでに立っている。

 

「はい、これ。ママがお仕事お休みだから3人で作ったの。」

手渡されたのは、マーブルケーキ2切れ。

手のひらにまだ温かい。

「まあ、ありがとう。」わたしが言うと

「おうちにまだいっぱいあるの。」と2人は言った。

2人とも誇らしげに立っている。

 

6歳と3歳は手をつないで階段を降りていく。

わたしのところへ来てくれた小さな訪問者。

 

ピンポーンとわたしが誰かを訪ねたら

その人は土曜日のわたしよりうれしいかしら。

 

栄一:>ピンポーンとわたしが誰かを訪ねたら

その人は土曜日のわたしよりうれしいかしら。

これも結句が効いていますね〜!

感動があるから、技巧なしに、ストレートに伝わってきます。

そういえば、最近は、近所付き合いというものが社会全体で下火になってしまい、、、

まあ、いろんな事件もあるから、難しい世の中なんでしょうが。。。

それだけに、こういうかわいいお客さんは、歓迎!ですよね。

みなさん、暖かいうたをいつもありがとう。

(PS:今、近所の書店にぶらっと行って、復刊の『寺山修司青春歌集』を買ってしまいました♪)

 

[632] 問い 聖金曜日に:もず

たとえ三十年の暗い冬のあと

ふいにまぶしい春がやってきたとしても

きのう石であったものは

あすも

石であるにちがいない

たとえ春の息吹が明るく

多くの産声がそこにあがろうとも

きのうの石は

きのうのまま残りつづけ

石が石である以上

春は

石を抱えたままの春である

というにすぎない

 

だが人は待っていた

きのうの石が

水になる季節の訪れを

石であったことのすべてが

報われる日を

 

きのうまでの苦しみを

苦しみのまま明日に残して

その男が十字架にあげられたとき

群集の怒りは一斉に火を噴いた

かれらは男を見上げ

涙ながらに罵り

侮蔑のかぎりを尽くして

自らの希望を恥じた

僕によく似た群集の一人が

地にうずくまり大声で叫んだ

「ちがう、これではまったくちがう!

 罪なんか赦してくれなくてよかったんだ

 たとえ地獄に落ちようとも

 僕たちはただ

 いままでの涙に報いて欲しかっただけなんだ!」

 

こんにちは。もずです。

作品の整理をしていたら、ずいぶん昔の詩がぞろぞろと出てきました。

この詩も、もう10年以上前に書いたものです。

どこにも発表する機会のなかった作品ですが、改めて読んでみて、「なかなか書けてるじゃん!」と、昔の自分に感心してしまいました(笑)

もうすぐ灰の水曜日ですね。心の準備を整えていきたいと思っています。

 

栄一:>石であったことのすべてが

報われる日を

>たとえ地獄に落ちようとも

 僕たちはただ

 いままでの涙に報いて欲しかっただけなんだ!

 

人生の意味、人間は意味的存在。。。。

ある学者に言わせれば、近代以降の人間は、あまりにも「意味」にとらわれすぎてきた、といいますが、ぼくは、近代に限らず、自分の労苦の意味を求めるのは、人間の普遍的真理だと思います。

 

>、「なかなか書けてるじゃん!」と

そう、いいですよ。展開がすばらしい。

 

ひかり:おじゃまします。

素晴らしいなあと味わっています。

ナルニア国物語を私は知りませんがどうしてか思い出しました。

石であったことのすべてが

報われる日を

私も待ち望んでいます。

 

[631] はじめまして。 :のぶ子

 

麗らかに浮かびくるなり遠き山

 

黄水仙一輪にある鮮やかさ

 

初心者です。

どうぞ、宜しくお願い致します。

 

栄一:こんにちは、ようこそいらっしゃいましたー!

大歓迎。

 

> 麗らかに浮かびくるなり遠き山

とてもよい環境に、お住まいのようですねー。

やわらかな情景が、目に浮かぶようです。

 

> 黄水仙一輪にある鮮やかさ

こちらも、くっきりした花の色と輪郭が、自然に伝わってきます。

今後とも、どうぞ句作をお続けください。。

 

[630] 冬の月:末子

 

刺し通す程の光

痛い程の満月

翌朝五時に

新聞配り

そっと見上げると

突き放す程の美しさ

 

おぼろ月の頃には

泣きたい程懐かしいのに

 

栄一:冬の月は、煌々と、また、冴え冴えと、どこか近寄りがたい美しさがありますね。

その美しさが、ボーっとおぼろになって、人はようやく近づける。。。

 

 [629] 末子

 

散歩道服着た犬がすれ違い

 

暖冬に不安を抱く人の増え

 

欲なくて貧乏暮し浅き春

 

春立つ日五体に満つる力あり

 

早春に「目覚めよ」の声しかと聞く

 

栄一: >散歩道服着た犬がすれ違い

犬にとっては、服ってのは、どうなんでしょうねえ? 猫しか飼ってないのでわからないのですが。。。

 

> 暖冬に不安を抱く人の増え

そうそう、エルニーニョだけじゃない気がするんですねえ。。。

 

> 欲なくて貧乏暮し浅き春

ああ、こういう境地が羨ましい、、、あ、それも欲か。

 

> 春立つ日五体に満つる力あり

うん!こういう力強い句は、励まされます。

 

> 早春に「目覚めよ」の声しかと聞く

はい。これから四旬節そして、復活祭へ向けて、心の準備!

 

[608] 淡丘

 

冬木立余白の風のありとのみ

 

強霜や天蓋ほどのかがやきに

 

冬紅葉散りて詩人の容姿とは

 

寒林になに美しき羽根拾ふ

 

大樹あり桜紅葉を散きつめて

 

栄一>冬木立余白の風のありとのみ

「余白の風」としても、頑張ります!

 

> 強霜や天蓋ほどのかがやきに

力強く、朝日に輝く霜!

 

> 冬紅葉散りて詩人の容姿とは

イエス様の容姿を、あれこれ想像します。

 

> 寒林になに美しき羽根拾ふ

春から夏にかけて、羽ばたいていた鳥を思う。

 

> 大樹あり桜紅葉を散きつめて

紅葉の中に、どっかり安心して佇む自然。

 

[620] 畑の男の子:ひかり

 

畑から男の子が飛び出して来てにこっと笑った。

私もつられてにこっと笑った。

「こんにちは」とその子が言ったので私も「こんにちは」と言った。

通り過ぎたあと後ろから「バイバイ」という声がした。

振り返って私も「バイバイ」と言った。

もっと行ってから「バーイバーイ」という声がしたので振り返ると手を振っている。

私も「バーイバーイ」と手を振った。

曲がり角に来た時また「バーイバーイ」と聞こえたので振り返ったけれど、今度は姿が見えない。

畑の物置の陰になってしまったのか探してみるが声だけがする。

引き返そうかと思ったけれど帰りにまた同じ道を通ろうと思った。

スーパーに着くまで私はなんだかにこにこしていた。

 

帰り道同じ道を歩いてみたけれど、耕されたいい土の畑があるだけだった。

きっとあの奥の家の男の子だろうと思った。

 

栄一:その「男の子」が、少年イエス様だったら、、、、

私たちの生活と自然のすぐ傍におられるイエス様。。。

 

[621] 太陽と:つぼみ

 

どんなにさむくても

どんなに風が冷たくても

心の中に温かい

太陽を持とうよ

いつもあたためてくれる

太陽さんありがとう

もう何も恐くはないわ

胸を張って歩いてゆこう

主の身元まで

 

栄一:ある種の開き直りが大事なんでしょうね。

大切なことが、一つ在って、

あとは、どうでもいい、

なるようになる、、、

 

日常の中では、

そういう覚悟が必要なんだと思います。

 

 

[617] 讃美歌332番:末子

 

「主は命をあたえませり

主は血しおをながしませり」

三十代の私は上の空で聞いた

「一晩、あなたのために祈ります」

妙な気がしたが無感動だった

四十代でふと心に落ちた

三年後に罪を告白した

牛の歩みで七十代になった

多くの方の祈りが積まれた・・・・今も

「われ主のためになにをすてし」

 

 聖餐式

「取りなさい。これはわたしのからだです。」

銀盆の上のパンを戴く

「これはわたしの契約の血です」

グラスの中のぶどう液

一人一人の心の中に波動が起きる

静寂と恐れの中に立ちつくす

 

[618]末子

 

初咲きの蝋梅見し日教会へ

 

説教は宣教されし人の妻

 

み恵みを祈り続ける日を祈り

 

愛餐会メロン味わう少しずつ

 

初礼拝讃美する声輪となりて

 

 寒木瓜

水仙だけが咲いている

枯木、枯草、残り菊

心もすがれて急ぐ道

赤い造花が目にとまる

造花は大きい寒木瓜で

不意に私を驚かす

ぱっちり咲いて目を合わす

 御免奈さいと云ってから

春の気配を知りました

 

栄一:> 「主は命をあたえませり

祈りの効果?というのは、

どこで現実するか、わからない。

頼りないようですが、

なんだか、謎めいて楽しみでもあったりして。。。。

 

>  聖餐式

最後の晩餐の「主の死を告げ知らせる・・・・」

不思議と、そのとき抱えている問題に、

示唆されることがあるのですね。。。

 

栄一:> 初咲きの蝋梅見し日教会へ

どんな季節もアッバは答える。

> 説教は宣教されし人の妻

世代世代へ受け継がれる福音。

> み恵みを祈り続ける日を祈り

祈りの継続、連鎖。

> 愛餐会メロン味わう少しずつ

こういうときの食材は、格別おいしい!

> 初礼拝讃美する声輪となりて

自然にハモったり!

>  寒木瓜

自然も造花も、季節によって、顔が違う。

  ――――――――――――

毎日の黙想:平田栄一

にもかかわらず

喜び踊りなさい。

天には大きな報いがある。

(ルカによる福音書6)

モーツァルトのK165、「踊れ喜べ、幸いな魂よ」を思う。

「天」は、死後より、神の視点でみた、「神の支配」の時。

昨年行われた、晴佐久昌英神父様の川越教会での講演録を読んだ。

まさに講演会当日、ご母堂が亡くなられた。

病魔との壮絶な闘いだった、という。

「しかし」約束どおり、講演会に来られた神父様。

「にもかかわらず」は、デーケン神父様の口癖でもあった。

人生の意味を疑わせるような壮絶な苦しみのなかで、「にもかかわらず」「福音宣言者」として、

生き抜かれたお母様のこと。

 

今日の第二朗読、コリント1書。

「復活」を疑う人たちに、パウロは、「実際、イエスは復活し、わたしたちの初穂となった」と宣言する。

 

福音朗読、「今、貧しくても、餓えていても、泣いていても、憎まれていても、・・・・」「喜び踊れ!」 と宣言するイエス。

 

現実が、人間的にどう見えようと、この「にもかかわらず」を大事にしたい。

 

しるしは与えられる

はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。

(マルコによる福音書8)

わたしたちが求める「しるし」とは、どんなものだろうか?

目を見張るような一瞬の「しるし」を欲するよりも、自分の過去を、じっくり振り返ってみよう。

過去と今がどうつながっているか (切り離されている過去は、ありえない) あのときの、あの事件、 あの些細な決断や、偶然が もしなかったら、、、、今の自分はない。

遠藤さんがくり返し言っていた「人生に無駄な事は一つも無い」

まずこの言葉に信頼し、自分を、周囲を見渡すなら、すべてが「しるし」となってはいないだろうか。(2007/02/12

 

どんなパン種か

「わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑(くず)でいっぱいになった籠(かご)は、幾つあったか。」

(マルコ8)

わずかなパン種は、パンを大きくふくらます。

問題は、その種が、偽善の種か、愛の種か。。。。

今、わたしが醸成しているのは、どちらの種だろうか。

アッバ、今、目の前の仕事を、心をこめて成し遂げる力をお与えください。(2007/02/13

 

●イエスによって見る

イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。

(マルコ8)

すべてのものを、イエスを通して見ようとするのが、キリスト者

イエスが、私の目に、耳に、足に、手に、全身に、家族に、友人に、同僚に、社会に、世界に、自然に、宇宙に、触れてくださいますように。

 

そのとき 私たちは、「顔と顔を会わせるように」

物事の本質を 「はっきり見る」ことになるだろう。

 

愛とは、私みずからが、(無理に)愛そうとすることより、イエスご自身の愛が、その人にそのものに、そそがれることを願うこと。(2007/02/14

 

イエスは叱る

ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

(マルコ8)

たちまち、ペトロはイエスに叱られる。

この時点では、ペトロは、イエスを地上的メシアとしてしか、とらえられなかったことが、うかがわれる。

灰の水曜日を前に、イエスの受難の意味を、十分に黙想できますように。(2007/02/15)

kokoronokinnsenn-small.jpg

平田栄一の新刊

『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)

−井上神父の言葉に出会う 0612月発行 525(税込)

*イエスとともに、アッバの風に己を委せきって生きる――日本人求道者のためのキリスト教――井上洋治神父に長年師事してきた著者の体験にもとづく格好の井上神学入門書。

○お求めは、聖母の騎士社、お近くの書店・インターネット書店でお求めになれます。

    また、著者サイン本直送をご希望の方は、平田までご連絡ください(その場合は郵送料が別途かかります。)

投稿先:掲示板

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送