余白の風 第80号
†求道俳句
2002/12/25 発行:平田栄一
●島 一木(137) 題名:黙想集 その2 神の愛と人の子
投稿日 : 2002年12月16日<月>12時08分
みてごらん空ゆく鳥を野の百合を
ソロモンの栄華にまさる白百合よ
数えられている髪の毛の数までも
行きなさい葡萄畑で働きなさい
無花果を下りてきなさいザアカイよ
主よ子犬もパン屑をいただきます
狐には穴が鳥には巣があるよ
枕するところさえない人の子は
茨咲くなんと狭くて細い道
まず罪のない者から石を投げよ
Res:余白(286) 投稿日 : 2002年12月18日<水>08時54分
精力的に様々な連作を試みられている様子。あっぱれです。
●比田井白雲子(974) 投稿日 : 2002年12月17日<火>08時56分
あおぞらみているとほんとのひとりになれる
なぜ悩むと空がある
寒星にいつか届きたい
Res:余白(219) 投稿日 : 2002年12月18日<水>08時53分
いつも素直なストレートな句を楽しみにしています。
比田井氏がとても「堅い?」お仕事の方とはどなたも気が付きますまい。
●島 一木(496) 題名:主の平和 その7
投稿日 : 2002年12月18日<水>08時24分
主は葡萄の木わたしたちはその枝
釣りあげた魚の口が銀貨吐く
後の者が先に 先の者が後に
多くゆるされた者は多く愛する
隅の親石 家造りらの捨てた石
天地は過ぎるみ言葉は過ぎ去らない
清めよ まず杯の内側を
報われる 冷たい水の一杯でも
無花果が採れるだろうか薊から
主よ鳩のすなおさ蛇のかしこさを
Res:余白(133) 投稿日 : 2002年12月18日<水>08時52分
この連作のねらいを、今度ご自身に解説していただけたらいいですねー。
●奈菜(821) 題名:夕陽
投稿日 : 2002年12月9日<月>00時37分
直視できるくらいになると
直線でむすばれる
紫外線があたって細胞が吸収反応するように
陽は私の細胞にあたる
久しぶりにすばらしい夕陽をみました☆
Res:余白(646) 投稿日 : 2002年12月9日<月>16時57分
直感的に、
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です・・・・」
という、宮沢賢治の『春と修羅』の序を思い出しました。
Res:奈菜(294) 題名:鳥肌
投稿日 : 2002年12月10日<火>11時44分
余白さん、ありがとうございます。
この詩を思っていたとき、
賢治の交流電燈の・・というフレーズの
気持ちがよくわかるなぁと思っていたので、
余白さんの書き込みに、鳥肌の立つ思いがしました。
宮沢賢治は大好きで、あこがれです。
●余白(626) 題名:「紫」2002年12月号
投稿日 : 2002年11月29日<金>20時50分
九・一の不安と希望神無月
辺境の月こそ光れ世の闇へ
狡猾なアガペに秋蝶身をゆだね
信仰とはたとえばレット・イット・ビー
雷鳴聞く湯船に復活疑わず
花めでる心は捨てず捨聖
生くるにも死にも時あり穴まどい
●島 一木(445) 題名:聖家族(四十六字歌)
投稿日 : 2002年11月27日<水>11時00分
幼な児を抱きてマリアは笑みうかべヨセフの夢に決意しぬ 諸人ぞ眠れる牧地安らわん
おさなこをたきてまりあはえみうかへよせふのゆめにけついしぬ もろひとそねむれるほくちやすらわん
新仮名四十六字全部を一回使用。気分転換のパズルのように作ってきた一年がかりの労作です。ちなみに「いろは歌」は旧仮名四十七字(ん抜き)で、その替え歌や旧仮名四十八字歌(ん含む)となると、一段と作るのが難しくなります。
Res:余白(484) 投稿日 : 2002年11月27日<水>11時01分
いやー、お見事!
●比田井 白雲子(645) 投稿日 : 2002年11月25日<月>20時44分
私にしまってあった 大空のいろ
横浜あんぱん物語 エエ アンがおいしくて
帽子に投げ込んだ 秋
<句評>
前号「なんとなく無宗教・・・・」:信仰の句は、どうしても作者の思い入れが強くなりがちですので、このように、なんとなくぼかした方が、かえって感銘を与え、普遍性を帯びてくるように思います。
●ゆうき(582) 題名:初めて投稿します。
投稿日 : 2002年11月25日<月>10時09分
「我無能」 呟く背中に 我を見る キリストなくして 何ができよう
初めて投稿します。すみません、素人歌人です。
未信者である主人の落胆を見るだに感じる 生ある者の立場の違い。
いろいろな思いが交錯しました。
・・・すなおに読みました。
Res:余白(440) 投稿日 : 2002年11月25日<月>12時37分
ご主人の落胆した背中にご自身を見た、ということ。
その「共感」の姿勢に、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」キリストの悲愛の心を読み取りました。
キリストがそこに立っている、ということに気づくには、長い時間がかかるのかもしれません。
ありがとうございます。
●島 一木(532) 題名:主の平和 その6
投稿日 : 2002年11月20日<水>19時35分
何を見に行ったのか風にそよぐ葦か
天からか人からかヨハネの洗礼は
無花果の木の下にいるあなたを見た
一人が種まき一人が刈りとる
風強し湖上を歩くイエズスに
主の足もと マリアは座り聞いている
マルタよマルタ 必要なのは一つだよ
天からのパンは生命を与える
たえず祈れ うるさいやもめは守られる
信仰があなたを救った 行きなさい
●ふづき(644) 投稿日 : 2002年11月16日<土>18時24分
パンの香をさせて秋の田通り過ぐ
秋蝶や小さき原つぱ汝が天地
来る雀迎へてたわむ芒かな
神学というか神様について、また俳句について、何も知らないなあと思い始めるともう句が作れない。う〜ん、スランプかもしれません。
信仰を俳句に詠み込む苦労があるように、未信者としての神様への思いを詠み込む苦労もありそうです。でもともかくもまた三句(^^)
Res:余白(697) 投稿日 : 2002年11月16日<土>19時31分
「神学」というのは、そもそもが矛盾した概念でもあるんですよね。
神という絶対者を、相対者である人間が、あれこれ考察する、ということですから・・・・。
そこに直観というか、神秘主義的なものでのりこえよう、という苦肉の策があるのかもしれません。
とまれ、無理に神学的なことを詠み込もうとしないで、自然体で、句作したいと思います。
●島 一木(905) 題名:主の平和 その5
投稿日 : 2002年11月11日<月>20時41分
あなたの目は体のともしびである
ついて来なさい 人をすなどる漁師にしよう
人からしてほしいことを人にしなさい
最も小さい者こそ最もえらい
金持ちの門前 ラザロは貧しく死ぬ
はかった秤ではかり返される
私は来た 地上に火を投げるために
十人ではなかったか 清くなったのは
神にはできる 人にはできないことが
何をしてほしいのか 主よ見えるように
<余白の風 第79号コメント>
余白さん、拙作「主の平和 その4」へのコメントありがとうございます。さすが聖書をよく読んでおられるだけあって、殆ど生の聖句とよくおわかりになりましたね。実は、このシリーズは最初からいくつかの狙いと考えがあって作ってきたのですが、一般の人には段階を追ってわかって頂けるかもしれないし、最後までわかって頂けないかもしれませんねえ。
「道ばたにタンポポ見つけ一緒にとなえる南無アッバ 井上洋治神父
十三夜虫もとなえる南無アッバ
診察室ドアをくぐって南無アッバ」
三句とも面白いです。もう上手下手の基準を超えてしまっています。定型的に書かれている分、人格が迫ってきて「南無アッバ」の言葉が強烈に印象づけられます。南無アッバ効果ですね!
「それぞれにこの脈の音星月夜 ふずき」
チェックしてから猫目さんの感想を読んで、付け加えることがないと思いました。
「競う使徒イエスは暗き泉瞰る 猫目」
復活までは一人の弟子からさえ全く理解されていなかったイエスの心情とは。
「触れるとあつい いのちのともしび 奈菜」
いのちはともしびなんですよね。たしかに。
「わが重荷主の重荷とぞ秋の風 余白
狭き門めざすが如く鳥渡る」
よくできてる句と思います。こういう句をどんどん作ってほしいです。私としては。
「お恵みのあることをしなきゃ南無アッバ ブライダル」
あははっ。南無アッバ波及効果ですねぇ!面白いですよね南無アッバって。ぼくも作ってみようかなぁ。
「生き延びし蛾の寄って行くイエスの光 あこ」
蛾の雰囲気とイエスの意外性。ふむふむ。
「病む姉にしわぶきひとつ 秋風荒らし 警備のおじ」
「秋風荒らし」は微妙な感覚でいいです。
Res:余白(638) 投稿日 : 2002年11月16日<土>01時27分
ぜひこの連作の趣旨が成就することを祈っています。
●猫目(557) 題名:鼻を失ったヨハネ
投稿日 : 2002年11月12日<火>10時29分
この句会に投句して以来、キリスト教俳句に関心が深まりました。だが、自分の句はなかなかできません。島さんみたいに、続々句が生まれるのはうらやましいですね。ただ、句はできませんが、キリスト教俳句を読むことには、熱が入ってきました。ところで、さいきん秋元不死男に、
雪はふる鼻をヨハネは失へり
という句があることを発見しました。ですが、鼻を失ったヨハネというのが、どうも理解できません。聖書にそんな記事があるのでしょうか。どなたか、ご存じの方がおられれば、教えてください。
Res:余白(527) 投稿日 : 2002年11月16日<土>01時25分
う〜ん、この「ヨハネ」は調べてみないと、わかりませんね。
●島 一木(539) 題名:教会のある風景 その7 十一月
投稿日 : 2002年11月14日<木>15時15分
主は来たる冬将軍として来たる
祈り疲れ共同墓地の小春かな
傘持たず来て十字架の初時雨
聖歌集ひらきて長き木の葉髪
主に数えられ聖堂の木の葉髪
貼りついてステンドグラスの落ち葉かな
聖堂に木の葉散り込む二三枚
教会の芝生を木の葉散り走る
綿虫や両手ひろげるイエス像
足もとに枯れ葉のつもるマリア像
Res:余白(429) 題名:黙想風
投稿日 : 2002年11月16日<土>01時23分
句日記的な連載、いつも楽しみにしています。
かく言う私も、最近は、聖書の一節ずつから発想して、句作しています。
自然、黙想的になれますよね。
2002/12/15(日)
13:04:46
りべか:7年ぶりに帰る
今日家族が全員出かけ、家には私一人だった。
ちょっと昨晩から頭痛がひどくいつも行っている教会には
行けないことを告げる電話をして家で大人しくしていることにしていた。
しかし、どういうわけか「そうだ。今日思い切って母教会に行ってみよう。」
と何故か思い立ち、いそいそと支度をして出かけた。
礼拝には遅れてしまった。新任牧師の説教の最中だった。
7年ぶりに兄弟姉妹の集う礼拝堂に入り、特に違和感なく長いすにすわる。
7年ぶりに見る顔ぶれはなつかしくもあり、中には頭にくる人もありでちょっと
いや、かなりフクザツな心境ではあったが、7年前に比べてそれぞれが年をとり、小さくなったという印象を受けた。見たことのない顔ぶれもあり、新旧の入れ混じった母協会の変わった姿を見て新鮮な気持ちであった。
礼拝が終わり、私は「久しぶりにきた人。」として拍手で紹介された。
その後私に電話をしてくださった姉妹と抱き合い、お互い涙で再会した。
その姉妹とだんなさんに電話で話せなかった事情(新しい教会に行き始めたこと。)を話し、今後のどうするかかなり迷っているということも話した。
私の話を聞いた2人は「りべかさん自分を責めることなくゆっくり考えていけばいいよ。」と言って下さり、ほっとする。
昔、色々あった人たちとは一応話はしたものの、やっぱり目に見えない確執がまだあるなと感じずにはいられなかったが、その人たちのために教会に行っているわけではない。神様を礼拝に行っているのだから・・・。
家に帰ってから、「こんな風に良い方向に変わるのならどこにも行かずに時がくるまで待てばよかったのかもしれない。私は「とにかく落ち着ける場所で礼拝を守りたい。」一心から新しい教会に行き、そこの方たちにお世話になり、新しい関係が築けつつある。また、私も変わろうと思っていた矢先こんなことになろうとは・・・」と悔いている。
とにかく良い方向に進めてくれた神さまに感謝しよう。
神さまやっと7年間の葛藤から私はこの日解放されました。
本当の意味での解決は今から始まるのかもしれませんが、あなたは良い方向に私を歩ませてくださいました。これからどうなるか分かりませんが、どうか良い方向に進ませてください。
主の御名によって祈ります。アーメン
2002/12/14(土)
22:59:24
SPAT:
望年会
世の中の平和と正義が保たれなくなってくると
それに比例して忙しい そんな職場で働いています。
残念な事にここ二年ほど
戦後の混乱期ののち 安定して以来 もっとも繁盛しています。
年末に向けて ますます大繁盛しています。
それでも 笑って宴会できるうちはまだまだ大丈夫。
カミサマ 来年もこの小さな平和の砦にご加護を。
願わくは またヒマな砦になりますように。
2002/12/13(金)
20:05:30
如月:
病棟にて
夜勤時間帯、未明に一人の老人患者さんが
息を引き取られた。
介護職員として最後の介助は
遺体となったその方の瞼を閉じて
あげることであった。
終末期医療の現場において
医療行為のすべて終えられたとき残された職員のお仕事は
患者さんが”その人らしく”人生の終焉を迎えさせるための
思い出作りのお手伝いをすること。
ご遺族からは職員一同あてに
大変懇ろな感謝のご挨拶をいただいた。
2002/12/09(月)
21:15:42
如月:
来年に向けて
雪中、麹町教会に行きY神父と面談。
当教会への転会に向けて仮手続きを行った。
17年間の信仰生活の歩みの中で新たに
カトリックに帰依するまでの心境と過程については、
伏線がたくさんあるためここでは到底書き尽くす
ことはできない。
ともあれ本日の面談にて、母教会より
「洗礼証明書」を受領、麹町側に提出することにより
転会手続きが成立する旨確認した。
(すでに、母教会側には逐次連絡・了解を得た)
教派を超えての転会(すなわち改宗式)実現は
最短で来春の復活祭になる模様。
今後は、Y神父の講座に出席し具体的な準備を
進めることになる。
2002/12/08(日)
23:35:28
レイ:ゆるし
ある少年が父親のふとした暴力で半身不随になってしまいました。病院へ行っても治療らしい治療を受けることの出来ない国で、ただ寝ているしかありません。帰っても掘っ立て小屋がひしめくような住まいには車イスも使えません。家では他に子供が何人もいるので、この少年にお金をかける余裕もなく、食べるだけで精一杯の両親は疲れはて、次第に少年を放置するようになりました。少年は食事も満足に与えられず、排泄も垂れ流し状態で、骨が見えるほど床ずれが酷くなりました。もう長くはないと父親がイスラム教の死を迎える祈りを捧げています。カトリック信徒のAさんが毎日訪問し、少年の「生きたい」という願いを聞いて、両親を説得し病院へ運び込みました。
そこではヒンズー教の医師が全力を尽くしてくれました。少年は今まで一度も父親を責めたり恨み言を言ったことはありませんが、あまりにもひどい状態にAさんは正直なところここで命を取り留めても、またあの貧困で劣悪な家庭環境の中で不自由に生きていかなければならないのなら、このまま静かに・・その方が幸せなのではないかと思ったそうです。しかし、もう少し任せてくれと言った医師に応えるように少年は回復していきました。そして第一声がなんと「お父さんに会いたい」だったのです。
「まずしい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」
Aさんはその少年の姿にイエス様の姿を重ねました。裏切られ、剥ぎ取られ
鞭打たれ、全て受け入れ従順に従われたイエス様。自分ではどうすることもできない少年は、ただただ父親やAさん、治療も不可なあちこちの病院、周りの全てに自分を任せていたのです。「まずしい」ヘブル語でアナウイーム
は心の砕けた、柔和な、霊的に飢え渇いた、神に向かってのみ生きようとする意味があるそうです。人をゆるすということは自分にはこれ以上なにも失うものはないという貧しくなった者だけができることではないか。そしてAさんはこのイスラム教の少年、ヒンズー教の医師、キリスト教徒のスタッフ達の関りの中に神の国が現されたと感謝したそうです。
このお話は今日、教会でのAさんのお証しをもとに書き込んでみました。
2002/12/07(土)
23:14:02
D&D's daughter:マラソンコンサート
友人が予約をしてくれていたイタリアから来日したアーティストの前半はチェンバロで後半はパイプオルガンのコンサートを聴きに行ってきました。
間に2時間の休憩がありますが6時間です。素晴らしい演奏をしっかり堪能いたしました。
またどちらの楽器も目を見張る美しいものだったのにも感動。
武蔵野市民文化会館で何とチケット代は1500円。外は冷たい雨だし懐も寒いのに豊かに恵まれた一日に感謝。
2002/12/07(土)
21:08:43
小さき花
市民クリスマス
市外局番が同じ全教会合同のクリスマス礼拝に参加しました.
プロテスタント教会になじみが深い私にとって,年3回の合同礼拝は楽しみな集いです.
今回はカトリック教会で,若い女性牧師さんが説教や祝福など司式を行いました.
前半はキャンドルサービス.讃美歌と奏楽中心の礼拝でした.幼児連れの家族も多く,暖かな雰囲気の礼拝で,恵まれました.
シスター渡辺和子さんが隣に座っていて,珍しそうにシスターを見る小さな子と握手してました.プロテスタントのお子さんが多かったので.
「主にあって我らは一つ」ですね.
クリスマスイブは家族で過ごすので,夜のミサには行ったことありません.
昼だけです.一足お先のクリスマスを御祝いしました.
2002/12/06(金)
09:59:50
余白:お前の中のイエス
また、風邪を引いてしまって、、、「やっと直ったらまたひいてしまい、、、それだけでも人間、なんだか自分が情けなくなるものです、、、」とは井上師の言葉。然り。
熱でぐったりすると、何も欲しくなくなる。創作意欲もPCに向かう元気もない。
そんななか、
いつも布団を並べて寝ている三男が、なにかとぼくの面倒を見てくれて、、、「お父さんの近くにいるとうつるよ」というにもかかわらず、せっせと水枕を替えてくれたり、身体をもんでくれたり、、、、ああ、こういうときは、人の親切だけが身に沁み、慰めになるんだー、と改めて実感した。
その三男も、とうとう今朝から39度の熱を出した。
うなっている。。。。かわいそうに。
昨晩は食事しながら、「お父さん、イエス様って本当にいたの?」なんて、今更のような質問をしてきてぼくは困って、イエスの史実性・・・なんてもうろうとした頭で語ろうとしたが、、、ぷぷ。
今は簡単にお前に答えてあげられるよ。「ほら、ちゃんとお前の中にイエス様がしっかり生きているじゃないか!」ってね。
さ、はやく年休を出して、すぐお医者に連れていってあげるからね、待ってなよ。
2002/12/05(木)
11:19:33
如月:
昨夜の勤務にて
夜勤明け帰宅。
昨晩は新患さんの頻回なナースコールにじっくりとお付き合い。
(老人療養病棟にて)
・如月―――:「どうなさいましたか?」
・新患―――:「あのぅ、何時になると”朝”なんですか?」
どう応えたらよいものか・・・(ーー;
(すごく悩んだ・・・)
・如月―――:「・・・寝ましょう・・・・(^^;」
今度は、もっと気の利いた冴えた応答をしたい(汗;)
2002/12/04(水)
18:38:00
りべか:中途半端な私
昨日で期間限定のアルバイトが終了した。5ヶ月間あっという間に過ぎ、慣れた頃に終わりとなったとでなんとなく淋しくもあり、気抜けしたような気分である。
また新しい行き先を探さなくてはならない。そこで今日は朝からハローワークに行く。午後とは打って変わって新しい求人もいくつかアップされている。良さそうなところがあったので応募することにする。そのすぐ後、登録してあった派遣会社から連絡がある。内容を聞いてみるとそんなに悪くない条件である。しかしハローワークを通じ応募しようとしていた矢先だったので一応返事を保留にする。どちらにしろ、新しいところで1から人間関係を築くことを思うとまず「うまくやっていけるだろうか?大丈夫だろうか?」と不安になってしまう。どうしてもうまくいかなかった場合のことを考え過ぎてしまう。マイナス思考はよくないが・・・。
就職問題の前に教会問題も浮上し、頭を悩ませている。
7年前にわけあって離れた母教会戻るか、今礼拝を守らせてもらっている教会に留まるかの決断を迫られているようで、私自身かなり追い詰められている。
発端は母教会に戻った人からの電話であった。2度電話をもらいそのたびに説得されたがやはりすぐには結論をだせない。今別の教会に行っているという事は伝えなかったが。私を思い説得してくださるのは本当にありがたい。でも、「すぐに結論を出さなくては後では遅い。」と言葉の端端にどうしても感じてしまう。
その気持ちは分かるけど、次第に追い詰められていっている気がする。
そんなに簡単に結論が出せるものならもう解決してるだろう。
私だって中途半端な立場を好んでいるわけじゃない。どこかに根をおろしたい。
でも、ひょっとしたら中途半端な状況に甘んじてきたのかもしれない・・・。
一番必要なのはどの方向に進むとしても相手を「ゆるすこと」なんだってわかっている。そうしなきゃ前に進めないっていうのも分かっている。分かっているけどそれがなかなかできない・・・でもできなきゃ前にすすめない。
こんな状況に陥ると途端に信仰がとても重いものになり、キリスト教、教会に行くことは私にふさわしくないことなのかもしれない。
かなりDEEPな内容ですみません。
後記:今年はもう2回も大きな風邪をひいてしまい、その余波がずっと尾を引いています。皆様お体には気を付けてください。
さて、今号は、拙ホームページの仲間=イマイキ会員の最近の「共同日記」も載せました。なかなかの名文もあり、ほろっと来るものあり、で読者の参考になるかと思います。エッセイとしてお読み下さい。
わたくしめの方は、勤務校が2学期制になったけっか、先日中間考査を終えて、学期末処理がありませんので、はじめて比較的余裕のある年末になっております。もっともその分が学年末にどっとくるのですが。。。。
現在、手がけている俳句関係と「風」の原稿を少しずつ書いているところです。
皆様、よいクリスマス、よいお正月を。(余白)
「余白の風」作品募集*俳句・短歌・一行詩等作品数制限なし。エッセイ・評論も歓迎。(但し、採否は主宰に一任してください。)
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