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平田栄一サイン本
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求道俳句誌

余白の風 第81号

03/1/25 平田栄一発行

 

アッバ讃句  井上洋治神父(余白代書)

朝 目覚め 命なりけり南無アッバ

 

皿洗い茶碗こわして南無アッバ

 

烏鳴く洗濯びより南無アッバ

 

電車待つホームに立って南無アッバ

 

自己嫌悪そっとさしだし南無アッバ

 

夜半に目覚め心痛んで南無アッバ

 

診察室ドアをくぐって南無アッバ

 

心頭を滅却できず

ストレッチャーから天井見上げて南無アッバ

 

名もない小さな白い花

そっと抱きしめ南無アッバ

 

秋深し 風がとなえる南無アッバ

二月十日出版の「南無の心に生きる」のあとがきです。

ご笑覧頂ければ幸いです。

Re: アッバ讃句  余白

昨夜FAXで、『南無の心に生きる』(筑摩書房)の「あとがき」校正稿をいただきました。その最後に載せられた神父の句をアップさせていただきました。

井上神父の長い精神遍歴の果ての現在の境地が端的に表されています。

Re: アッバ讃句  小さき花

最終講座で紹介していただいてから,早く読みたいと思っておりました.何気ない日常の句,でも1句1句の奥に深い気づきや意味があることそれが南無アッバの祈りにつながることを教えていただきました.南無アッバの祈りにつながって生きる指針となる句です。

ご紹介ありがとうございました。

Re: アッバ讃句  D&D's d.

涙がこぼれました。

一日一時も感謝を忘れず大切に生きなければ…をあらためて。

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無題  まっきー

ひっさしぶりに作ってみました。。

 

まず一歩 もう一歩 また一歩

歩き出そう 思う心が恵みなり

求めるものを手に入れる事が恵みなく・・それに向かって歩きつづけられる事が恵み。

Re: 無題  余白

うん、こつこつ生活することが神の国につながる。

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(無題)  あんこ

聖書

あたたかい アッバがいたの さっきまで

気になるな ヨナはその後 どうなった

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、」 こころの貧しいという意味を知った時 山上の説教の御言葉は もしかしたら イエス様ご自身の事をおっしゃってあるのかと思ってみたりする

Re: (無題)  余白自ら心貧しき者となられたイエス様。

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ふるさとの川で  ゆうき

水も時も 流れとなるは 恵みかな 刺さりし棘も 押し流されて

年末に ふるさとの川へ行きました。小さい頃とかわらず 川は流れていました。変わらぬ神様の愛を思いました。いつのまにか棘が少しずつ抜かれているのを感じました。

お邪魔しました。

Re: ふるさとの川で  余白

霊と水との洗礼。ヨルダン川でのイエス様を想いました。

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黙想集 その3 時のしるしと再臨   島 一木

早いです無花果の実をさがすには

 

夕焼けだ時のしるしをなぜ見ない

 

民は民に国は国に逆らい地震くる

 

マントを取りに戻るな畑にいる人は

 

ノアの時と同じ人の子の来る時も

 

盗人のように主は来る長い夜

 

無花果の繁る戸口を主が叩く

 

眠る主よ嵐に舟が沈みます

 

世の終わりヨナの鯨が口あける

 

明日は枯れる無花果の木の繁りかな

Re: 黙想集 その3 時のしるしと再臨   余白

「福音詩篇」のようなものが出来上がりますね。

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三編  服部 剛

 

風の人形

服部 剛

 

聖なる風を両手に集め

無我夢中でかためてみたら

イエス・キリストの形になった

 

深く澄んだ瞳を見たら

じわりとした さざ波が

胸奥(きょうおう)の ひだ にひろがった

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ゴミ箱の詩

服部 剛

 

夜の暗がりに光るコンビニ

冬の冷たいガラスにぺたりと

背筋をつけて

固まった口に

弁当箱やら

空き缶やら

鼻紙やら

投げ込まれ 詰め込まれ 365日

口をあけ ポーと立つ私です

 

家のないボロ着おじさん

ギョロ目で覗(のぞ)き

私の胃袋に細い腕を伸ばし入れ

ウインナー数本をつかむ時

かすかな喜びと哀しみがまざります

 

緑の作業着まとう

フリーターの金髪兄さんが

不格好に膨(ふく)らむ胃袋を

空のビニールにかえると

少々寂しくもなり・・・

 

人が棄(す)てたいあらゆるゴミを食べると

だんだん ふくらむ 私の心

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庵の花

服部 剛

 

どこからか

島の風に運ばれ

襖(ふすま)の隙間から聞こえる

三味線(サンシン)の音と唄声に

 

植木鉢の縁にうなだれていた葉を広げ

ほのほのと

紅(べに)の笑みあらわす 炎の花

 

天に向けて顔開き 無心に唄う花器(はなうつわ)

 

庵ですする 茶の味わい深く

鬼の目にも 仏は宿る

一日の疲れ癒える ひととき

 

Re: 三編  余白

キリスト・現代・日本というテーマの、「風の家」メンバーらしい詩群です。

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(無題)  奈菜

わたしはあなたのとおりみち

 

最近、ふとしたときに時々思い浮かぶ言葉です。

土地から湧き上がってくるような息吹が

そのままわたしをとおっていってくれたら・・・

と想って、今年の自分のテーマのようなものかなぁと思っています。

Re: 聖霊のパイプ  余白

「聖霊は、イエスの生涯──生・十字架の死・復活による救いを、わたしたちにもたらすパイプです。・・・・」という、拙著『雨音のなかに』のエピグラムを思い出しました。

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(無題)  奈菜

かたい手ひらくと

木の葉 天高くまいあがる

Res:余白

ちひろの絵の世界のように、メルヘンチック。

木の葉をまいあがらせたのは、きっと余白の風ですね。

自分を手放すこと、それが風にのるポイントのようです。

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(無題)  あこ玉

ケンカして楽しい胸に結婚行進曲

 

イエス様が嫁においでと言っている

 

さみしけりゃそう言やいいのに自慢話

 

わけあって急いで洗濯干している

 

はちまきでソーラン節でケーキ焼く

Res:余白

>☆ケンカして楽しい胸に結婚行進曲

結婚前の女性の気分というのが、わたしにはよくわからないのですが、ともかくも世間的にはルンルンなんだから、この時期を大事にしましょうね。

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恩寵  猫目

恩寵も載せて柿の実量りけり

Res:余白

「柿の実」って意外と重いんですよね。

それは、「恩寵」の分かもしれませんよ。

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教会のある風景 その8 十二月  島 一木

 

木枯らしは思いのままに吹きあれる

 

の虹いまも希望は教会に

 

風邪気味の鼻を気にするミサの間

 

聖堂にくさめ一つの響きわたる

 

教会を出て冬山に向き歩く

 

手袋ははめずミサ帰りの道も

 

久方の聖夜のミサに会いし友

 

聖樹とて灯る教会の大きな木

 

電飾のマリア像ですクリスマス

 

ロザリオに光の玄義クリスマス

(注)光の玄義=もうご存じのことと思いますが、教皇ヨハネ・パウロ二世は今年(2002年)の十月に使徒的書簡『ロザリウム・ビルジニス・マリエ(おとめマリアのロザリオ)』を発表し、2003年10月までを「ロザリオの年」と宣言されました。また、ロザリオの祈りに新たな「光の玄義」の導入を提案されました。光の玄義は次の五つです。@主の洗礼Aカナの婚礼B神の国の宣教と御業C主の変容D御聖体の制定。

 

<余白の風 第80号感想>

あおぞらみているとほんとのひとりになれる     比田井白雲子

私にしまってあった 大空のいろ         〃

帽子に投げ込んだ 秋                〃

 

作者の透明な気持ちが伝わってきます。

 

辺境の月こそ光れ世の闇へ 余白

花めでる心は捨てず捨聖    〃

生くるにも死にも時あり穴まどい  〃

 

第一句、「共同日記」のレイさんの文章と合わせて読むと共感が深まります。

 

パンの香をさせて秋の田通り過ぐ  ふづき

 

マタイ伝12章1〜8節を思い出します。

 

<井上洋治神父様>

南無アッバの三句は面白いでした。私は俳句の連作を数十年試みている者ですが、南無アッバの主題での連作百句を是非試みて頂きたく思います。神父様の『風の薫り』と『南無アッバ』を購入して読みましたが、詩ですと一行が前後と密接に関連しなければなりません。俳句の連作ですと、数十句から百句作ったものを自由に順番を入れ替えて、一行一行をある程度独立した作品として、同時に全体を一篇の詩として読ませることも可能です。完璧な五七五定型にならなくても、一行一行を定型的に表現されることで、諧謔と飛躍が生じてきますから、ずいぶん面白い作品になるのではないかと期待しております。

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「紫」2003年1月号   余白

 

賛美歌に流され午前三時の牛丼

 

天国へ逆さに実る石榴かな

 

狭き門めざすが如く鳥渡る

 

我が内に我が牧者あり秋の暮

 

仲秋の不信に浸る右脳かな

 

残菊に神を見る目の妬ましき

 

犬の目にうつばりはなし秋の空

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:『中村冨二・千句集』(ナカトミ書房版)より   島 一木

影が私をさがして居る教会です    中村冨二

 

パン買うてキリストの顔静もれよ

 

イエス様 這うて死ぬとは 面白きに

 

もえる銀行、ユダの背中はあるいている

 

疾(や)めば唄う、いま教会はゼロの時間

 

ああマリア 青髯同じ瞳をして跳ね

 

神の説く星が出たから、さよならね

 

復活や 仁王の鼻は虫が喰べ

 

薬局のキリストに問う 遠い道のり

 

キリスト素足 ろんろん蟹を踏んで急ぐ

川柳作家なので皮肉っぽい句が多いのですが、キリスト教に関連した句がちらほら目にとまりますので、いくつか書き抜いてみました。

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<イマイキ共同日記から>

2003/01/18() メンバー

 

タイトル                         SPAT 復帰

 

職場の中庭の小さな池が
このところ 氷りついてしまっています。
石を投げてみたら からんころんと鳴ってすべっていきました。
試しに 片足載せてみたけど 全然割れません。

ちょっと仕事がひと段落して
自宅では やっと 「新しいパソコン」にいろいろなものを移し終わりました。

 

2003/01/12() メンバー

 

タイトル如月: 田舎の神父

 

 

寒く晴れ渡った未明の空を眺めながら主日を迎えた。

越後線=弥彦線と乗り継ぎ、ローカル線に揺られること
一時間半、終点、東三条駅で下車。

この路線は高校時代の通学コースでもあり
見る景色の何もかもが懐かしかった。

しかし、今日はちっとも懐かしさを感じないところに行ってきた。
その場所は・・・・カトリック三条教会。
(故叔父が医学生の頃、ミサに出席していたところである。)

最後にいつ行ったのかも思い出せないほど、
時間を隔てすぎていたため所在を確認するのが
やっとであったが、なんとか迷わず着くことができた。

入り口で、人目はばからず
ズボンを膝のところまで下げ、上着のシャツの皺を
伸ばしている老紳士に出会った。

 「あのぅ〜、夕べ神父様にお電話した如月です。
 朝の御ミサはこちらでよろしいのでしょうか。」

 と問うたところ・・


 「あ、昨日お電話くださった方ですね。
  司祭の○○です。よろしく〜。」


気さくな笑顔でズボンのジッパーを上げていた
この御仁こそ・・神父であった(!)。

ミサ後、ささやかな年始の祝会が催され、
みんなでお寿司を食べながら歓談。

東京の土産話に神父も満悦のご様子。

 「ま、食べなさい。ま、飲みなさい。」

 とま、こんな調子で
 話題がどんどん砕けていった。

「如月さん、神父って男の仕事の中で最高の仕事だよ〜。」と神父。


・・・・・・とにかく素敵な神父であった。

 

2003/01/11() メンバー

 

タイトル如月: 帰省先にて


本日から四泊五日、新潟に小帰省する。

信仰のルーツをたどる旅・・。
明日は故叔父が受洗(昭和29年)した
カトリック三条教会のミサに出席する予定。

 

2003/01/10() メンバー

 

タイトル                         まりあ:感動したことば

 

今日は初めての教会「カトリック大森教会」に行ってきました。
ここの教会の驚いた点は「聖堂」と「聖体安置所」が別であること。
小さい別室(他の教会の「泣き部屋」みたいな感じ)御聖体とランプと御像とがあってお祈りできるようになっていました。部屋が小さいから落ち着いてお祈りできますよね^^。

それはそうと、一昨日麹町教会案内所でいただいたサンパオリーネに素敵な言葉が載っていたのでご紹介いたします。

「ありがとう」一生のうちに口にする祈りがこれだけだったとしても、それで十分である。(マイスター・エックハルト)
この、エックハルト氏、中世の人物なんですけれど、当時はいろいろ(異端だの何だの)言われていたみたいです。

2003/01/06() メンバー

 

タイトル                         如月: 書生生活に入る


主の公現の主日、麹町のミサ出席。
書籍部で「余白の旅」を購入。

早速、帰りの車内で本書を開きはじめた。

職場に向かう通勤電車、路上で読み、
職場の休憩時間、白衣姿で食堂でも本書を読んでいた。
今も、脇に本書を置いている。

とにかく時間が惜しい。

 

2003/01/05() 22:05:47 メンバー

 

タイトル                         小さき花 年明けに

 

正月休みが終わってやっとほっとしました
年越し,親孝行のまねごとなど
それでもこの休みに,点訳の校正と「余白の旅」を読み直しました。
今ほどはっきりとはおっしゃっていないけど,
井上神学はちゃんと読みとることができるのですね。
一体昔本当に読んでいたのか疑問です。
今年初めてのミサは,買い物ついでの外出で所属教会の夕方の英語ミサ。
年末年始は自由に行動できないので。
フランス語訛りのあるアフリカ出身の神父様の説教はあまりわからないけど,
諸人こぞりて(Joy to the World)The first Noelなど
クリスマスキャロルを楽しんで歌ってきました。
平和の挨拶でキスをする人,握手する人,お辞儀する人様々です。
第1面が井上神父インタビューという永久保存版の教区ニュース1,2月号を早速いただいて帰りました。
「あと1pの人生」は最終講座でもはじめに話されていました。
何より嬉しいお年玉です。

 

2003/01/04() メンバー

 

タイトル                         生きる望み:D&D's d.

 

 

「もう僕は死ぬのだから」と言いだしてから何回目かの正月を迎えた父。意識は宙をさまよいながらも食欲も衰える様子もない。
父よ、神は決してあなたをお忘れになっているのではなく、生きてまだなすべきことがあると言っておられるような気がするのです。
あなたをまだ安心させて差し上げることができないいたらない娘の願いでもあります。どうぞまた来年のお正月も共に祝うことができますよう健やかに生きて下さいますように。

 

2003/01/02() メンバー

 

タイトル                         如月: ひとつの節目を迎えて

 

昨年、母教会にカトリックへの改宗の旨を伝えたところ
母教会側は快諾したように見えた。

しかし、転籍に必要な肝心要の自らの洗礼の事実を証明する
「洗礼証明書」がなかなか到着しないことから
母教会の真意が、今ひとつ掴めぬ日々を悶々と送っていた。

 ( 同じキリスト者として信義は貫かねばならない。
  この計画は、決して母教会に迷惑をかけることなく、
  理性的に紳士的に解決したいものだ。)


  円満転会を実現するように

  これは転籍先の神父とも
  確認・約束したことである。


わたしにとって最初の告解体験のような
厳粛な気持ちが重苦しくのしかかっていた。

焦燥感の中、ふっと、カレンダーを見た・・。


  今日は二日、牧師も休暇を取得しているはず・・
  来週は役員会(転籍には役員会の承認が必要)。

  最短距離を考えると今日身を起こさない限り
  確たる進展も遠くなる・・・。

  役員会で承認を得るには・・
  やはり主管牧師と交渉するのが一番確実だ。

 

そう考えながら、思い切って母教会に電話し
直接、同教会の主管牧師にアポイントを取ることにした。
幸い、牧師は出張先から帰国しており在宅していたので
即日面談が実現することになった。

夕刻、母教会に向かった。
先方の水際作戦に
かなりの出血も予想されたのだが・・・

    (面談での会話)

如月:「改めて転籍にあたり洗礼証明書の発行をお願いします。」

牧師:「先方(麹町)の教会では、
わが教会の洗礼は有効と認められてますか?」

如月:「はい。」

牧師:「それなら(洗礼証明書を)書きましょう。
早速ご自宅に送付します。」

如月:「よろしくお願いします。」

牧師:「これで枷(かせ)がはずれてよかったですね。」

如月:「はい(笑)」


帰宅後、麹町のY神父に電話した。

     (電話の会話)

麹町のY神父:
「よかったですねー。
早速、堅信礼の具体的な日程と準備を進めましょう。
手続きを説明したいと思いますので、
次週にでも、私のところまで来ていただけますか。」

如月:「あ、しかし洗礼証明書の提出が間に合うかどうか・・・」

Y
神父:「あ、いいんです。それは〜届いたときで結構です〜。」

(というわけで、南無アッバ!)

 

2003/01/02() メンバー

 

タイトル                         余白:お年玉

 

昨日、元旦ミサへ。
四谷駅を降りると、白いものがちらつく。
電車もミサも適度な人出で、ここちよい。

帰宅して、昼酒を一杯。
三男坊と1年ぶりにテレビを見る。
ビデオを借りて、「ペイ・フォワード」を見る、、、泣ける、南無アッバ。

夕刻、井上師より「東京教区ニュース」が届く。

夕食時、井上神父より電話。一瞬、どきっとする。
いつも来るクリスマスカードか年賀状が来ていなかったから。
しかし、いつものやわらかな声で、「ただ、挨拶だけだよ。。。」という。
20年前と少しも声が変わっていないように思い、安心。
「ニュース」の礼を言うと、「今までああいうところに取り上げられるっていうのはなかったからなー」という、南無アッバ。
そしてしきりに、「時間取らせてわるかったねー」「呼び出してすまないねー」とただ繰り返す。ジーンときて南無アッバ。

今、その「ニュース」を読んでいる。
http://tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/2003/kn199b.htm
私にとって、何よりの「お年玉」だった。

南無、南無アッバ!

 

2003/01/01() メンバー

 

タイトル                         りべか:元旦礼拝

 

今日は母教会の元旦礼拝に出席する。
この教会が元旦礼拝を行うのは何年ぶりなのだろう???
私が行っていた頃は行っていなかったように思う。
主日礼拝より出席者は約半分くらいしかいないものの、新任牧師の心に響くメッセージは新年にふさわしいものであった。
今日は牧師夫人のお母さんと妹さんも来ていた。
礼拝後、それぞれ新年の挨拶を交わす。
私は思い切って信頼している役員に「正式に籍を戻したい。」事を伝える。
それを聞いた役員がすぐに私の意向を牧師に伝える。
牧師は「ちゃんと復帰してもらえたらと考えていました。」と言ってくれた。
家に帰り、「これでもう迷わずに済む。もうふらふらしなくても良い。」とほっとしたのも束の間。2年間過ごしてきた教派のことを知らず知らずのうちに身に付けてしまったことやそれを捨ててしまうことは今までの自分を否定してしまうことなのだとか、これまで色々と関わってきた司祭や青年たち、信徒たちともう関われなくなるのだと思うと、自分でも思っていなかったような寂しさがこみ上げてきて、涙が溢れてきた。
7
年前のことは母教会の礼拝に出たことでもうクリアになっているはずだし、もうこだわるつもりもない。昔から知っている母教会の人々は暖かく私を受け入れて下さっている。それに新しい牧師を迎え、今まで知らなかった新しい若い人たちが教会の中心になり、色々とあった人たちは年を取り、新旧交代の時期に来ている。これから教会が新たに歩みだそうとしている、その姿を見て「ここは私の居場所、ここでやっていこう。」と確信して留まろうと決めたはずなのに・・・。
人間関係がうんぬんとかそんなのじゃない。それなのに何故こんなにまだ揺れるのだろうか。自分の教会だけにこだわり、他教会に対して保守的になんかなりたくない。例え母教会がそうであっても、私自身はもうそれではやっていけない・・・。
7
年間の間私は色々と見すぎたのだろうか?見ないほうが良かったんだろうか?
私の信仰は7年の間で変わってしまった。それだけは確実だ。
こんなんで母教会でちゃんとやっていけるのだろうか???
選択を早めてしまったのだろうか???後悔の気持ちが拭い去れない弱さを持つ自分が情けない。

 

2002/12/25() メンバー

 

タイトル                                   まりあ:主の降誕の夜のミサ

 

今日、所属教会の夜ミサに行きました。
ダンナが「A教会(=所属)のミサなら行く」とのことで、ダンナは復活祭以来半年ぶりの教会です^^;。(ダンナは音痴だが、なぜか「歌ミサ」が好きらしい・・。)
去年までは半ば無理やり連れて行かないと行かなかったのが、自発的に「A教会なら行く」と言ってくれたのもとても嬉しかったし、「今日くらいは祝福を受けないとやってられない」という謎の理由で自ら祝福を受けに行ってくれたのも、私にとっては「泣いてしまうくらい」嬉しかった。
こんな少しのことで嬉しくなれるのも、未信者さんと結婚したお恵みだと思ってます。
いつも、神様は、私が神様を忘れかけると、何かの手段で「神様の存在」を思いおこさせてくださいます。

神様、ありがとう。感謝します。

 

2002/12/22() 22:33:41 メンバー

 

タイトル                                   小さき花 南無アッバの祈りに生きる

 

南無アッバと祈るのではなく,南無アッバの祈りのなかに生きる
井上神父最終講座の冒頭の話です.
来年2月に筑摩書房から「南無の心に生きる」が出版されます.
あとがきに,「余白の風」に投稿されたような「アッバ讃句」が載せられているそうです.
2,3年前の講演や文章が中心の本文よりも神父様の今の心情に近いものだそうです.
その幾つかを紹介してくださいました.
「自己嫌悪 そっと差し出し 南無アッバ」
「皿洗い 茶碗こわして 南無アッバ」
「捜し物 今日もイライラ南無アッバ」

師イエス様が教えてくださった主の祈りは素晴らしい祈りだが,さあ祈るぞと座って祈る感じ.
南無アッバはいつでもどこでも.南無アッバの祈りは日常の次元から,神さまの方,そっちの次元へ上の方へひゅっと向ける
ふと,どこにいてもアッバの大きなまなざしの中にいることができる祈り
電車を待つホームで,スーパーのレジで,洗濯物を干して,お皿を洗って
南無アッバに生きるとは旧約の否定
南無アッバに流れ着いた,岸辺についた50年を振り返る
アッバの腕の中に生きる私にアッバの子守歌がきこえる

熱気あふれる会場と,井上神父様の優しい顔が印象的でした.
最終講座で余白さんが控え室に届けた一輪の花.井上神父様喜ばれたことでしょうね.

 

2002/12/22() 07:00:33 メンバー

 

タイトル                                   余白:最終講座

 

前日忘年会幹事長の疲れをひきずって、30分遅れで四谷へ。
大入り満員、椅子出してもらって、わき通路に座る。
21年前、真生会館で5,6人で聞かせてもらった頃の井上師の面影・・・・。
26年こうして講義されてきたんだなー、と感慨無量。
老若男女・・・・あの頃もいろんな人が入れ替わり立ち替わり、師の周りに来ていたなー。
最後に、「イエスの福音と旧約との断絶・・・・」という井上神学の必然的に行き着くであろう結論めいた宣言、ともとれる示唆が印象的だった。
師は残りの時間を意識されているのだ。
既存のキリスト信仰からはたとえ非難があっても、信じた所を表明し、まとめていくことに、これからの時間を使っていくだろう。
それが師の「日本人へのプレゼント」なんだと思う。
ますますあのたれ目のにっこり顔が温和で、柔らかな表情になっていく様子がよくわかる。
南無アッバ、と神様に、イエス様に任せきること、その御手の中で、「ただまどろむ」ことを、ご自身が実践されているからだ。

帰途、小さなご絵カードを100枚購入。
24日生徒に配っちゃうもんねー、ぷぷ。

 

2002/12/19() 15:49:58 メンバー

 

タイトル                                   余白:今年最後のホームルーム

 

今年最後のホームルームだったので、たまにはお遊びを、と思い、生徒たちに俳句を作らせた、ぷぷ。
「え〜」と困って騒いでいた生徒も、だんだん紙と鉛筆をもって、じっくり黙り込む。落ち着いた雰囲気になる。
そこへ、そろそろと、97年に「さんまのからくりテレビ」で中村玉緒さんと映っている小生の映像を流す。大受け!!
しかしそれが終わると、またシーンとして、句作に取り組む生徒たち。

勉強も学校も、たまにはギアを入れ替えなきゃだめなんだなー、と実感した。
驚きや喜びを素直に表現する生徒たちをみて、嬉しかった。

 

後記:早いもので、1月も下旬。いかがお過ごしでしょうか?

今回も、井上神父様の句を載せさせていただきました。

この句があとがきにのった『南無の心に生きる』(筑摩書房)は2月10日発売予定ですので、ぜひご一読ください。

好評の「イマイキ共同日記」は今後も、掲載予定です。メンバーのみなさんありがとうございます。

小生只今、入試業務・三年生学年末考査・「風」原稿等々で、忙しくしております。

どんな生活も神の御手に、神の記憶に残ると信じ、今年もこつこつマイペースでいきたい思います。(余白)

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