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平田栄一サイン本
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余白の風

求道俳句とエッセイ

第82号

03/2/25発行 平田栄一

正岡子規による簡単な俳句の作り方               島 一木

 

@俳句は文学の一部です。文学は美術の一部です。ゆえに美の標準は文学の標準です。文学の標準は俳句の標準です。

A俳句には一定の音調があります。その音調は普通、五音七音五音の三句をもって一作品となします。

B俳句の意匠には主観的なものと客観的なものがあります。主観的とは、心の中の状況を詠うことで、客観的とは、心象に写りくる客観的な事物をそのまま詠うことです。

C俳句は多く四季の題目を詠います。四季の題目の無いものは雑(ぞう)の句と言います。

D四季の題目(季語)は、一作品中に一つずつ詠み込みますが、詠み込まなければならないというわけでもありません。

E俳句を作ろうと思えば、思うままに作ってみることです。最初からうまく作ろうとか、下手に作りたくないとか、人に見られることを意識してはいけません。

F俳句が作れそうだと思えば、その瞬間に半句でも一句でもともかく作ってみてメモしておくべきです。初心の人は、十七音に作れなければ、出来ないとあきらめて捨ててしまうことが多いのですが、本当にもったいないことです。十七音でまとめにくければ、十五音、十六音、十八音、十九音、或いは二十二、三音でも一向にかまわないのです。また、気のきいた言葉でなければならないということもありません。

G古句などを半分位ぬすんで用いても、残りの半分が自分の創意による新しい作品であれば、まあ許されるでしょう。

H初心のころの作品は、独活(うど)の大木のようなのを貴しとします。

I俳句はただただ自分自身にとって面白いように作るべきです。人のために作るものではありません。

 

 昨年の秋に、初心者むきの講演のプリント用にまとめたものです。正岡子規の「俳諧大要」からほんの一部を抜粋して、文語体を口語体に改めて意訳しました。「俳諧大要」は俳句の原点ともいうべき文章で、書店に出回っている最近の入門書よりずっと読みごたえがあるし勉強になるので、ぜひ一読をお勧めします。図書館には大抵「子規全集」は置いてあるので、係の人に尋ねれば探してくれます。

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(無題)  比田井白雲子

 

命の源はそうか南無アッバかもしれない

 

こころ貧しくとなえてしまう南無アッバ

 

部外者がそっととなえる南無アッバ

 

 散歩時に、アッバアッバ南無アッバと心の中で言うと、心も澄んできて、またリズミカルに歩けますので、時々借用させてもらっています。

 余白さんの定型決まってまいりましたね。特に「牧者・・・・」「右脳・・・・」「残菊・・・・」の句などは一流に近いと思っています。

花めでる心は捨てず捨聖

 この句は、私の心の中にもらっておきます。とても気に入りました。こんな句ができました。

 

散聖を思いつつ空気とすわっている

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正岡子規の「神の子」の歌 

島 一木

紅(くれなゐ)の花みてる野に月出でゝ神の子が吹くくだの音聞こゆ    正岡子規

 

(注)くだ=「管の笛」の略。くだのふえ[小角・管の笛]管状の小さい笛。戦場で大角(はらのふえ)と共に用いた。(「広辞苑」第五版による)

 

 正岡子規の歌集『竹の里歌』を読んでいてみつけた歌(明治33年)。ロマンチックな魅力の漂う不思議な歌だが、この「神の子」はキリストのことだろうか。福音書で述べられている「野の花」は私たちが考えている白い百合ではなくて赤い花だった、と読んだことがあるが、そう考えるとこの歌の「神の子」はいよいよキリストめいてくる。「神」と題された四首の中の一首で、他の三首は「歌の神」「山の御神」「御いくさの神」について詠まれ、この「神の子」の歌は「山の御神」の次に三番目に置かれている。神道や日本的な神の概念よりもむしろ西洋的な、ギリシア神話に近い概念で構成されているような気がする。

 正岡子規はキリストについて知っていたのだろうか。彼は知っていたのである。俳句では「八人の子供むつましクリスマス」という句(明治29年)を詠んでいる。「ランプの影」(明治33年)というエッセイは、病床で頬杖をつき熱のある目でガラス障子にうつるランプの火影をながめている間に見た幻影、について書いているが、その幻影の中にキリストが現れてくる。少し引用してみよう。

 

 「荒神様が消えると耶蘇が出て来た。これは十字架上の耶蘇だと見えて首をうなだれて眼をつぶつて居るが、それにも拘らず頭の周囲には丸い後光が輝いて居る。耶蘇が首をあげて眼を開くと、面頬(めんぽほ)を著けた武士の顔と変つた。」

 

 熱による幻影の次々と変転してゆく様を描写した鬼気迫る文章なのだが、子規の主なエッセイ集や「仰臥漫録」を読み進んで、子規の病状──腹部や背中に大きな穴がいくつもあいたカリエスの苦しみ──を知ってからこの箇所を目にすると感動的でさえある。「神の子」の歌とこの「ランプの影」が書かれた明治三十三年は西暦ではちょうど1900年であり、ヨーロッパでは世紀末的な終末観の広がった時代。日本では明治六年にキリシタン禁教令が廃止されてから四半世紀ほどだ。正岡子規がキリスト教に対してどのような考えを抱いていたのか、私は全集を読み通してはいないので何とも言えないが、興味あるところである。同じく『竹の里歌』の最後に掲載されている次のような歌(明治35年)を読むと、私は、ひょっとすると正岡子規はキリストの再臨を密かに待ち望んでいたのではないか、という妄想にとらわれそうになるのである。

 

旱して木はしをるれ 待つ久に雨こそ降れ

我が思ふおほき聖(ひじり) 世に出でゝわをし救はず 雨は降れども

正岡子規

(参考文献:『日本現代文学全集16 正岡子規集』講談社)

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「紫」2003年2月号  余白

 

巧妙に無名の神は虹立てり

 

秋の風水面にガダラの悪魔憑き

 

生涯即奇跡なりけり蔦紅葉

 

新しき神話を孕み星月夜

 

無口なる秋の番いや日に一卵

 

美しく泣く人でした死者の月

 

神の使徒コスモス風に揺れ止まず

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黙想集 その4 十字架の神秘と復活

               島 一木

見よ王が来る ロバの子に乗って

 

民はひしめきあう 主に触れようと

 

この神殿を壊してみよ三日で建て直す

 

人の子は書かれたとおりに去ってゆく

 

ユダよ接吻で人の子を裏切るのか

 

皆逃げた 主を置き去りに弟子たちは

 

私は真理を証しするために生まれて来た

 

茨の冠深紅のマント葦の杖

 

ガリラヤに行かれるあなたたちより先に

 

トマスよ目で見たから信じたのか

 

Re:   余白

十字架への緊迫した雰囲気と、復活の喜び・・・・。

Re: 黙想集 その4 十字架の神秘と復活  如月

 

(島 一木様、始めまして)

 

「十字架の道行」を想起させるような黙想集。

行間で思わず応答してしまいました。

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 (無題)  奈菜

 

full moon」

月はあふれんばかり いっぱいになりました

私という器も いっぱいになりました

 

「山」

むかし かみさまがお歩きになると

その足のはなれるさきから

そこは やま になっていった

 

Re: (無題)  余白

>「full moon」

空っぽの私たちの器に、神さまがいっぱいのものを盛ってくださったら、うれしいですね。

 

>「山」

神の足跡、、、それほど大きくないけど、わたしたちも小さな山を残していくのかな?

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教会のある風景 その9 一月 

島 一木

 

木枯らしやどこから来たのどこへ行く

 

小羊の一句をえらび賀状書く

 

テレビは見ず祈りのうちに去年今年

 

元旦のミサには行かず寝てしまう

 

読み初めの句集に神を探しおり

 

弟は来ず初ミサへ母と吾

 

初ミサのあと追悼の式始まる

 

聖堂で赤ん坊笑う淑気かな

 

風花も青ステンドグラス青ならば

 

七種粥聖霊の賜物も七つだった

 

<井上洋治神父様>

「アッバ讃句」良かったです。この調子でどんどん書き続けて頂きたいです。五十句、百句、百五十句、或いは半年、一年と書き続けてゆかれますと、もうこれ以上はどうしても展開できない、というところまで来ます。全体をまとめたり取捨選択したりするのは、それからあとでも良いと思います。御作を目にするのを楽しみにしております。

 

<余白の風 第81号感想>

気になるな ヨナはその後 どうなった     あんこ

 

 本当ですねえ、預言せずに逃げ出して鯨に飲み込まれて、いやいや預言して人々が回心しても不平たらたらの、あのユーモラスな預言者はどうなったんでしょうねぇ。旧約のヨナの書はたった三頁ですもんね。

 

わたしはあなたのとおりみち       奈菜

 

 実際、通ってゆかれるんですよ。息吹も聖霊も天使も、イエス様もマリア様も。心を澄まさないとなかなか気づかないだけなんです。

 

イエス様が嫁においでと言っている   あこ玉

 

 よかったですね。結婚も神様からのお恵みですものね。

 

恩寵も載せて柿の実量りけり       猫目

 

 そうそう、肩の力を抜くと俳句は楽に作れます。内容の深化は時間をかけて勉強量と共に自然に徐々に。

 

讃美歌に流され午前三時の牛丼     余白

天国へ逆さに実る石榴かな         〃

我が内に我が牧者あり秋の暮       〃

犬の目にうつばりはなし秋の空      〃

 

 第一句、「流され」というのがよくわからないんですが、「午前三時の牛丼」というのが妙に心に残る句ですねえ。どういう状況なんだろうと色々と考えさせられるわけです。

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(無題)  比田井白雲子

 

空気にありがとう言ってごらんよ

 

つくしをわたしとおもってね

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御父を 慕う               弐個でも

 

冬空の 蒼きたかみに 御父(ちち)捜す

 

Re: 御父を 慕う  余白

 

弐個でもさん、ICFの方からわざわざ転記くださり、ありがとうございます。

「天にいます私たちの父よ・・・・」やっぱり神さまは、大空に探したくなりますよね。

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神さま                   たんたん

 

神さまは いつも私と 一緒です

 

怒ってた 私を見守り 泣いていた

 

悲しみも 背きもいつか 翼の中

 

神の愛の 光の中へ 入っていこう

 

Re: 神さま  余白

はじめまして、たんたんさん。

とても素直な句で、八木重吉の俳句版という感性を感じます。

今後ともよろしくですー。

イマイキ共同日記
by管理者推薦作家

2003/02/23(日)

まいまい:聖職者の人間性

 先週末 京都に短い旅行をしました。そのさい、ICFチャットで知り合った方々から京都カルメル修道会を知り、朝ミサの訪問をさせていただきました。

 そこで、神父様が説教で「私は宣教師として最初に日本に派遣されました。しかしそこは北海道の寒村で、冬の数ヶ月することはストーブ用のまき割と雪かき、数ヶ月間郵便屋さんしか遇えず、信徒といえば二人だけ、ミサの際にはその一人であるオルターの少年が居眠りをし「水をもってきなさい!」と叱る始末。 ほんとうに、「神さま、私が志し必死に学んだ宣教師の仕事というのは、まき割と雪かきなのでしょうか!」と神に問いたださずにはいられませんでした」と。

 すると、沈黙をむねとするはずの観想修道女さまたちが ミサ中なのに ころころお笑いになりました。

 神父様も耐え難い宣教生活があり、修道女さまたちにも笑いがあるのだな〜 となんだかとてもうれしく思いました。

(ご聖体も ホスチアでなく おおぶりな甘焼煎餅のようでおいしかったです!)
(市内の販売所で 同修道会自家製のお菓子を購入できたのも感謝です〜)

 

2003/02/17(月)

如月: 朝の随想

人間にはそれぞれ与えられた他者には介入できない生活史というものがあり、各々いかに自分らしく輝いて生きるかを希求している。

その中で真摯に自己を問い詰めて傷だらけになって到達した結論に至福や歓喜を抱くならば、その人はもはや自画像に苦しむこともなく自由に生き生きと生きる。

しかしながら、現実にはそのような喜びを奪う脅威が意外に兄弟憎悪という形で存在しえるという事実が確かに「ある」ということは非常に残念なことである。

そこで人は再び自己を見失い他者との相対的な評価のうちに自らの内面を難しくしたり忙しくしたくなる誘惑にかられる。

なぜ、人は自己の弱さやみじめさを覆い隠そうとするのだろう。
卑怯なヒロイズムや雄弁が横行する時代にあって
あるがまま万象を愛する、その人の全人格を抱擁する互いを活かす心の広さを持つこと。
またそのような存在を知ることの大切さをますます実感させられる。

(以上、今朝の黙想から感じたこと)

 

2003/02/16(日)

小さき花:山根さんの聖書講座

「イエスの顔」について井上神父が初めて触れているのは、66年「日本人のみるキリストの顔」(『イエスのまなざし』)です。
イエスのまなざしを自分も持ちたい,そのまなざしを求めていく時,この頃から井上神父は生きとし生けるもの(自然)を見るイエスのまなざしへ。遠藤さんは哀しい人間をみるまなざしへ。
風の家の趣意書では,切実な思いのこもった,日本人の心の琴線にふれる「イエスの顔」を探してイエスの福音の喜びを知って欲しいと。
そもそも福音とは、戦いに勝った喜びの知らせです。
聖書を読もう、教会へ行ってみようという福音体験の芽生えを、教会へ行くと摘み取られ、躓いてしまう。出来上がった神学を上から教えても頭だけの理解で生活の中に根付いていきません。
福音体験を言葉の次元に表していく作業が大事で,自分の福音体験への道をつくってくれます。
遠藤さんは、教義であっても、誠実に自分の実感できるイエスの顔しか小説で書けません。
井上神父の説教は,言葉が人生に裏打ちされている、身にしみて実感があるので心に響いてきます。
「イエスの顔」を著作の中で示すことで、日本人が霊性にふれ福音体験ができるのです。
では福音とはどういうことか。まず宗教とは再び結びつけること。人と人を超えた者との関係・絆が切れ断絶ー原罪。孤絶した一人ぼっちの状態。絆が根本的に回復出来たときの喜びが福音。絆が切れて孤独な人が絆を回復した喜びを見いだしていくことです。
「いつも喜んでいなさい」といわれるのに,感覚的な喜びを感じられないからダメ,或いは曇り空で雲の隙間から感じる光に一喜一憂。
これは違います。太陽の光に暖かく包まれる感覚的な喜びも大切な経験でお恵み。でも、感覚的には喜びがなくても、信頼する。
マザーテレサ、テレーズも,感覚的喜びが感じられない,暗闇の中だと書いています。感覚的な喜びだけでなく,神の掌の中に生かされている安心感。福音体験の喜びは,その次元での「いつも喜んでいなさい」であり,イエスのまなざしに出会え,存在の深い所の平和,平安を与えられ,安心感を得る喜びです。
講座の後、ユダの救いについての質問。真剣な若い女性の質問者と丁寧に答える山根さん。つい聴いてしまいました。

2003/02/16(日)

如月: 「聖書と典礼」の表紙から

「聖書と典礼」の表紙(2003−2−16版)

 ・題: 
重い皮膚病を患う人のいやし
 ・エヒターナハ朗読福音書
 ・ブリュッセル王室図書館 蔵/1050年頃作

本日の福音朗読から、表紙絵を鑑賞する

  「御心ならば、わたしを清くすることができます。」と言った。
  イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ「よろしい、清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 (マルコ福音1:40−42)

非常に切迫した場面のように思われるのであるが
実に素朴でのどかな光景で絵は描かれている。

社会的に疎外されている人々に対するイエスのまなざし。
全くの神性と人性を備えられた神の子羊の表現を素朴かつ存分に発揮している。

絵画の中の心の深淵をあらわす憂うつな湖の濃青と虹色の大地の配色が印象的だ。

赦しを得て、神を讃美をする病者との明るいまなざしの交歓がとても印象に残る。


註釈によれば、直訳では「あなたが望むならば」となり、また、次の節における「よろしい」の部分は「わたしは望む」となるとのこと。
(本日の表紙絵を見る限りは、直訳の会話に親しみを覚える。)

 

2003/02/16(日)

いわたばこ:キリスト教の遠さ

昨日、あるクリスチャンが別の求道者にこうなってはならないキリスト者像の一つを語っていた。まさにそれは私の姿だった.
 神学や教会論・知識には通じているが,礼拝と説教を通じてたましいを養っておらず,日々の実践との乖離が夥しい・・・・
 現に自分に「信仰」らしきものがあるわけではない。それどころか,理性的にも心情的にも多分にキリスト教とはあいいれないメンタリティを持つ私。「俗」的で信仰とは関連のない幾つかの動機からの「クリスチャンという地位」への憧れと,教会の礼拝への感性的嗜好.これだけが私をキリスト教と結び付けているのだ.
 罪の意識もない,人格神という考えにも拒絶感がある,因果法則すら道具主義的に反実在化するメンタリティを持つ私には,秩序としての神概念すら受け入れ難い.キリスト教は、個別の信条以前に思考法として、私の思考にとって対極的なものといってよい.
 かつて私が影響を受けた神学者はやはりキリスト教教理と自分の思想・信条との乖離に悩み,その間の架橋を求めて思索を展開された方だった.私としてはかなり共感・理解できる思想であったので随分コミットしていた(余白氏にとっての井上師のような存在だったのかもしれない).しかし,彼の思索が神論や倫理の根底に至った時に私は決定的に違和感を感じNeinを言わざるを得なくなった.それ以来,導き手はいない.自分ひとりで自分の思想と非常に異なる性質の思想・信仰との関係を求めていくのはかなり辛いものがある.仮令,日常それから目を背け享楽的な精神に埋没していても,である.埋没しきれはないこととその辛さとを改めて思い起こされた出来事だった.

 

2003/02/15(土)

如月: 今年の聖書通読

今年の聖書通読はバルバロ訳で行っている。

新共同訳ではストレートに表現しきれなかった箇所を理性的な文体でズバっと切り込んで綴っているこの訳に少し新鮮な感覚を抱きながら通読を楽しんでいる。

ようやく「荒野の書(民数記)」までたどり着いた。
例年になくペースが遅い・・・
(それもそのはず・・・註釈を逐一照応しながら読んでいるから。)

自分も以前からこの書の10章以降の印象から
(35章まである)
民数記という名前よりも荒野の書のイメージに趣旨を求めていたこともあり、訳者と何となく意気投合しまったようで思わず喜んでしまった。

 

2003/02/13(木)

レイ:無力なもの

昨日は遠藤氏の「イエスの生涯」を読んでいました。その中で「病人は癒されることを、足なえは歩けることを、盲人は見えることを、人間は現実世界では結局、しるしや奇蹟といった効果を求める。しかし愛は多くの場合、現実には無力であり、直接役に立たない。現実は神の不在、沈黙、怒りを暗示するだけで、そのどこに愛がかくれているのか我々を途方に暮れさせる。イエスは十字架で無力であることによって、愛そのものになっていった。」という様な文章がありました。この前、「日本人神父が見たエイズ」というテレビ番組を見ました。末期エイズ患者の腫れた足をさすり、声をかけ、毛布を整え、共に過ごす・・・病気を治す事はできないし、苦しみを取り去る事もできない、神父様は「一見無駄な事に見えるでしょう、無駄です、確かに、しかし私は無駄だと思いません、無駄ではありません。」というような言葉を話されました。その場景が遠藤氏の本の中とちょうど重なりました。

 

2003/02/09(日)

 りべか:久々の書き込み

母教会に戻ってもう2ヶ月経った。
昔から知っている人が多いということもあり今のところなんとかうまくいっている。しかし、心の中にはなんともいえないもやもやしたものがある。
「私はこのプロテスタント教会の信徒なんだ。」という帰属意識がいまだにもてないのである。離れていた7年間に様々な教会を訪れ、多くの出会いを与えられ、本当に助けられ、励まされてきた。この貴重な経験を与えて下さった主と出会った兄弟姉妹に本当に感謝している。教会に対する帰属意識はとても大切な物なのだろうか?今後、祈りつつ自分の進む方向を時間をかけて模索していこうと思う。

 

2003/02/07(金)

あんじー: 妊婦が毎日感じる事

 初めて日記カキコしますー。 よろしく!

何でも書いてよさそうなので、つれづれとだらだらと書こうかな。

 今妊娠8ヶ月で、4月出産予定です。妊娠初期は胎動も無いしお腹もまだ出てないからあまりピンとは来てなかったけど、赤ちゃんがうごめくように
なってからというもの、毎日思い出す事(確認する事)があります。
人のお腹の中に人が作られているーっ。 これは神様の奇跡以外なんでもないんだー! 
 
 一体どうやって?どこが?どのように? って考えれば考えるほど、神様の力を思い知って、おののいて、感謝でいっぱいに!
信じられません! 素晴らしいー! 

 今日もまた1日良い日でありますように

 

2003/02/06(木)

D&D's daughter:ブックレポート

やっとこ高橋たか子の「私の通った路」を読み終えました。
私はこの方の書かれたものを今まで読んだこともないのでこの著作一冊のみからの感想しか書けないのと、また有名であるらしい井上
神父とのやりとりとのことも具体的には知らないのですが・・・。
最初は、向田邦子などの女流作家によく見受けられる生臭ささと、日本人であるアイデンティを捨てたい願望みたいなものが感じられて抵抗を覚えたのですが、読み進むうちに何故だか気にならなくなりました。それは多分、求道という特殊な環境であっても異国文化の中での生活、また多国籍の人々とのかかわりが私にも理解できるからだと思います。
彼女の神の愛の「男女の愛」説ですが、今まで考えたこともありませんでしたが、それも有りなのではと思わされます。それはクリスチャン系掲示板などの、特に若い女性の書き込みを読むと、イェスはジャニーズ事務所に所属しているアイドルであるがごとくだからです。
それにしても、全てではないのでしょうが、修道会の人間臭さにいたく感動しました。何かお腹の奥底から神の愛に包まれる思いです。

 

2003/02/05(水)

如月: 温情電車

新聞の社会面にひさびさにおもしろい記事が載っていました。
 高校受験に向かう女子中学生が、緊張感から誤ってノンストップの快速電車に乗車してしまった。
 動揺し泣き出した中学生を見た乗客も彼女の家族に携帯で連絡をとったりと介添えもあってこの電車を運行していたJRが特例措置として途中駅で臨時停車させ、この中学生は無事に試験会場に間に合うことができた。
 (当日のこの路線のダイヤに乱れはなかったとのこと。)
記事の内容は概ねこのようなものだったと思います。
都市の秩序と流通を担う鉄道が、乗客の要請に応えて特例措置をとったという事実も意外性がありますが、「あくまでも特例措置」と断りながら「若者の将来がかかってるのだから」止めようという動機はなかなか買えるものがあります。
この女子中学生をはじめ乗客、家族、社会に与えた喜びはいかばかりか・・・。少なくともこの日は、この中学生にとって生涯心に残る出来事となったことは間違いないことでしょう。

 

2003/02/01(土)

如月: 余寒のみぎり

(いつもイマイキ共同日記ではお世話になっております)
本日は
如月のご挨拶。
2月の異名は、如月・梅見月・令月・・。
わたしのインターネット上でのハンドルネームも如月・・・、特に2月にこだわりがあるわけではありません。ですから、四季通じて
如月です。さながら月の如く陽光を映し出すものでありたい、というささやかな願いをこめて自称させていただいております。
世間では
ニッパチなどといい、とかく景気の沈滞する季節の代名詞のような響きも与えておりますが、如月自身も満ち欠けのある日々を送りながらも、日々満月生活を目指しております。
ともかく今月も来月もよろしくお願いします

立春とは名ばかりの寒さ、受験生の皆さんにおかれましては、ひときわ春が待ち遠しいことでしょう。本日は受験中の皆様、そして就職活動をしておられる皆様のために特にお祈りさせていただきます。(よい春を迎えたいですね!)
+主にありて

 

2003/01/27(月)

脱クリスチャン(トマト)

脱クリスチャン気味です。
理由・真面目に生きるのが嫌になった。
  ・土日の時間を有効に使えないことによる欲求不満
  ・教会で友達ができない。
  ・自分にキリスト教が合わない気さえする
もう、疲れました。(。。;+)むぅぅ・
因みに憂鬱なのは降雨のせい。雨が大嫌いなもんで。
   

2003/01/26(日)

小さき花:井上神父に学ぶ聖書講座「イエスの顔」

遠藤・井上のキリスト像はよくわかるといわれますが,それは「なぜか」まで考えてほしいのです.
キリストの道を生きる信仰にとって何が一番大切か井上神父に質問したら自分の「イエスの顔」をもつことと答えられました.
それが明確で,焦点が結ばれていないと生涯をかけて生きることは出来ません.
「イエスの顔」に込められた意味は,日本人だから和風の顔に描けばいいということではありません.
「イエスの顔」は一つではありません.四福音書ごと,また聖書を読む側の時代,文化の違いによってイエス像を変化させてきました.
よくわかるのはなぜかというと,ピントがあっているからです.
このイエス像でなければついていけない,自分のすべてをかけて見つけたイエス像.これでなければというぎりぎりです.聖書を読み込み,祈りながら見いだしたもので,焦点が絞られ,はっきりしたイエス像を呈示しています.
意識,無意識の一番深い所にある魂・存在の次元の渇望に答えるイエス像です.
「イエスの生涯」で遠藤は「旧約の完成者としてのイエスの姿はない」と書いていますし,井上神父も,旧約と結びつけることで「イエスの顔」に混乱を与えているといっています.
聖書の言葉は対機説法であり,背景を無視して言葉だけを持ってくるとイエスの顔が混乱します.
遠藤井上の優しいイエスのまなざしが感じられない,聖書の言葉の厳しい顔で躓き苦しみ混乱する人もいます.
「イエスの顔」を見るとはまなざしをみること,その向こうにアッバである神をみることです.
アッバの光,まなざしは魂・存在の次元の根元からふいてきます.
罪,エゴイズムに汚れた私達はイエス様のように透明で完全に光を通すことはできません.光を通すイエスを見て,光を通すことのできない,いたらなさ(罪)に気づく,私達は赦されて救われる存在であると.

聖書の学問的読み方が参考になる事もあります.マタイ福音書が旧約を生きてきたユダヤ人を対象に書かれた事を知ると,そのイエス像が納得できます.
求道者としての聖書の読み方は,福音を生きる自分の体験的認識として聖書を読み込み,焦点を結ぶこと.
「日本とイエスの顔」ではっきりした焦点,はっきりした視点を持って,イエスの生涯にこだわり,ピントを絞りこんだのが「福音書を読む旅」です。

山根氏の穏やかな語り口に引き込まれ時間を忘れてしまいました.

 

2003/01/25(土)

如月:「心の残雪」(全4回)

【 序: もう一つの日本 】
今もし、日本の中心は何処かと漠然と問われれば、一般的に東日本地方であれば東京を始めとした京浜地区を挙げるか、西日本地方であれば、京阪地区を挙げることであろう。
戦後、地方自治の時代になったとはいえ現代に至るまでその傾向は存続していると思う。
これらの地方は「日本」、「日本人」を語る上に史的にも風土的にも言語的にも常に
海外という島国日本の固有の表現の中において文化的な指標として対比されてきた。
上越新幹線が開通して20周年を迎えた今日、かつて使用されてきた「表日本」、「裏日本」という言葉は、死語になりつつある。
この忘れられつつある言葉から
二つの日本なるものが存在していたことについて改めて注目したい。
そして、私自身、「裏日本」出身者として「表日本」の中心地、東京の地から、「裏日本人」特に日本海側の深雪地帯の人々と暮らしについて自らの経験のうちに振り返ることを試みたいと思う。
(つづく)

2003/01/25(土)

如月:「心の残雪」(1)

【 第1話: 記憶と追憶 】
昭和56年、「三八(サンパチ)豪雪」(昭和38年の豪雪)を上回る、気象台観測史上、最深の積雪が故郷を襲った。
無風の中、いつ果てるともなく雪は降り続き、その勢いは、とどまることを知らなかった。
みな自分の家屋を潰されまいと大型スコップ(通称ママさんダンプ)を使っての必死の除雪作業を続けたが、たちまち一切が埋没し、通信・交通も途絶した。
山間部では一家が家の倒壊により全員が生き埋めになるという、現代では考えられないような事態も起きていた。
とにかく後にも先にも、個人でこれほどの雪を見た経験はなかった。
今でも同胞に会うとおりに触れ「五六を(昭和56年豪雪を)覚えていますか?」と尋ねられることがある。
お互いに与えた当時の雪の記憶はそれほどまでに深い・・・。
当時の心境を分かち合えば、おのずと友情という感情も生まれる。
試練と思い出の共有がこれほどまでにお互いの立場を超越するという経験は、皮肉にも、雪の試練とは無関係な土地においてはじめて与えられたものだった。
(つづく)

2003/01/25(土)

如月:「心の残雪」(2)

【 第2話: そこに息づく人々】
雪国に対する誤解は多い。
一般に過酷な自然環境で温かい人間関係を経験することは難しいのではないかという見解も聞く。
しかし、それは如何なものであろうか。
実際にこのような土地に住んで自分が経験してきた限り、昔ながらの温かい隣人関係が健在であったし、因習とはいえ濃密な互助精神というものが確かに存在していたと思う。
弱い人間が、少なくとも生存に適さないような土地にあって生活を営んでいるという不思議。
そこに根を下ろさねば分からない不条理との共生生活。
同胞たちは逞しかった。
そして同胞たちは不思議なくらいに雪そのものの成す業に対して寛容であった。

なぜなら、豪雪の年には豊作になるものだという経験則と楽観が彼らの全生命・全生活を支えていたから。
昭和56年の秋の稲作は 古からの言い伝えどおりの大豊作であった。
(つづく)

2003/01/25(土)

如月:「心の残雪」(3)

【 第3話: コタツ文化 】
雪国の生活に欠かせないものの一つに家庭の暖かい団欒がある。
これは通称、「コタツ文化」とも呼ばれるものである。
深雪は音をも吸収し沈黙を作る。
暖かな家庭の団欒も一歩外に出れば沈黙の世界である。
沈黙は即ち本能的に死を想起させるから囲炉裏の火と同様に会話を絶えず繋いでゆく。
しかし、その会話たるもの、往々にして一貫性のないものが殆どで一旦、中座してしまうと全くついてゆけなくなってしまうという代物が多かった気がする。
話題が底を尽くと一家の長老が登場し、即興の昔話(再現不可能な昔話)が始まる。
時には連続長編ものもあるが、大抵最後まで聞くことなく子どもたちは眠りに落ちてしまう。
(わたしも話の最後まで覚えているものは極めて僅少である)。
長幼の序が重んじられていたこの風土にあって
大人に対する信頼が非常に厚かったという事実もあるであろう。
厚い信頼の中で眠りを迎える心地よさは雪さえも協力してくれたのではないかと思わされる。
ともかく子どもは春まで雪を布団に寝ておればよかったのである。
(つづく)

2003/01/25(土)

如月:「心の残雪」(4)

【 第4話: 雪国の春】
ここまで特に、私個人の雪国に対する思いの一部を記してきた。
思いは尽きないが、他県の雪国人との分かち合いにも時間が欲しい。
ただどうしても感じていることがあるのでもう少し記す。
雪国と雪
そのものについて解明という試みをしようとするならば、雪の害なる部分を真実に受け入れ、その美しさをも率直に認めなければ本質は見えてこない。
この営みを省いて嘲笑をもってそれらを記憶から消し去ろうとすることは、故郷
そのものを喪失するばかりでなく、いずこの地にあってもその風土に対し不平を繋ぐものとなる。
これは不幸なことであると思う。
いわゆる現役の雪国人は高邁な理想家でもないし、行動の動機を問う余裕もない。
ただひたすら与えられた普遍的な
あるがままのものに純朴に仕えることによってのみ感受性を養い、全てを超克するのである。
そして春になれば雪中からのぞく生命の萌芽に感動し素直な涙を流す。
そして、泥だらけの苗代に深く足を入れ、次の大収穫を素朴に信じ、その土地に汗して仕えることを喜ぶのである。
(了)

<後記>

「風」春号の連載原稿を山根さんにお送りしたので、学年末の心労と伴走しながら、井上洋治神父の新刊『南無の心を生きる』をゆっくり味わっています。今朝、書棚を整理しつつ、平成2年からの「余白の風」(旧青年句会報)が13年目になるのかーと感慨無量です。誌面もすっかりかわり、メンバーも当初からの方は、本号にも寄稿してくださっている比田井白雲子さんだけになってしまいましたが、俳句の方ではカトリック俳人の島一木さんはじめ、「共同日記」メンバーなど新しい方が次々と書き手に加わってくださっており、うれしい限りです。今後ともよろしくお願いいたします。(余白)

 

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