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平田栄一サイン本
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余白の風

求道俳句とエッセイ

83号

2003/4/1

発行者:平田栄一

求道俳句評        余白

なぐりなぐる自爆者イエス眠れる大地    大井 恒行

(「豈」黄金海岸篇(三五号・二〇〇二年十月号)

この「水月伝(二)」の作品群には、歌人「市原克敏氏を悼みて」と前書きされた鎮魂句、<よろぼいて神よと問いし白き貌>をはじめ、<ちはやぶる神もさくらも騒げる大和>など、「神」の句が目につきます。

大井氏の多少の経歴を存じ上げている身としては、こうした句に表れている「神」が、氏より一つ下の<しらけ>世代で、かつキリスト者であるわたしなどがイメージする神と、にわかに同じであるとは思いません。

にもかかわらず、各々が神(的なもの、としておきましょう)を求める求道者の姿勢において、氏に共感を覚えざるをえないのです。それは作品からだけでなく、何度かお会いして知った氏の人柄──謙虚で穏やかながら、内に強烈な志を秘めた人──をわたしが感じていることも影響しているようです。わたしの『豈』への入会も、摂津幸彦作品とともに、当時発行人であった大井氏への信頼感──俳句における求道的寛容ともよぶべきものを直感したからです。

さて掲句のキーワードは「自爆者」です。それでもし、「自爆者」で切りますと、「イエス眠れる大地」=イスラエル、さらにアメリカほか世界各地で、「自爆者」たちが「なぐりなぐる」死闘を繰り広げている、といった報告句になります。

あるいは「前書き」を敷衍して、掲句が表面に自爆テロ問題を詠いながら、この句を含めた作品群が、大井氏の市原氏への鎮魂句であったとも解されます。しかし市原氏に対して「自爆者」という措辞はあまりに悲壮で、鎮魂とはならないでしょう。

となれば、この「自爆者」はやはり第一に、「イエス」自身を指していると考えざるをえないように思います。二千年前の「自爆者イエス」、そして現代の「なぐりなぐる自爆者」たち・・・・と。「自爆者」が上下に係って解されるのです。

いわずもがな自爆とは、敵を殺すために自らすすんで命を落とすことです。「敵を愛せ」といったイエスをそうした「自爆者」と見ることには、おそらくキリスト者一般の同意は得られないでしょう。イエスをもし旧約の政治的メシア、反ローマ帝国の革命戦士と見るなら、そのような死もありえたかもしれません。しかし十字架の死によっては、ローマ帝国をはじめイエスの敵と思われる人たちは、だれも犠牲になってはいません。とすると、彼の自爆は殉教ではあっても犬死でしかなかったのでしょうか。

 

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。(二テモテ一・一〇)

実はイエスの敵は、ローマでもユダヤ当局でもなかったのです。イエスは死そのものを滅ぼす「自爆者」であったのです。なぜ、そう言えるのでしょうか? それはイエスが自爆死したままでなく、復活して──神の懐に迎え入れられ、三次元を超えて生き続けているから。このイエスに信頼すれば、凡愚であるわたしたちも同じように、神の国に迎え入れられるのだ。キリスト者とは、そう信じている者の謂いです。

教会のある風景 その10 二月 

島 一木

春光の十字架見える電車の窓

 

十字架はひかり鶯けきょと鳴く

 

教会の方へ鶯鳴きゆけり

 

教会の名もない草として萌える

 

教会の塀の上ゆく春の猫

 

教会より貰われてゆく春の猫

 

忘れ物して戻る聖堂冴え返る

 

生真面目に祈る青年春の咳

 

春の闇祈る人にもまといつく

 

踏絵のごと絵踏という季語残りけり

Re: 余白:春の、来るべき時への緊張と弛緩の混合風景ですね。

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福音短歌 その1  島 一木

み言葉の内に生命が

この生命

闇に輝く 人間の光

(ヨハネ1の4)

 

ザカリアは

何も言えなかった

人々は 幻を見たのだと悟った

(ルカ1の22)

 

今から後

いつの時代の人々も

幸いなマリアと呼ぶでしょう

(ルカ1の48)

 

幼な児は成長し

その精神も強くなった

そして荒野に住んだ

(ルカ1の80)

 

マリアは 子を産着にくるみ

飼い葉桶に寝かせた

宿屋には 場所がなかった

(ルカ2の7)

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<余白の風 第82号感想>

命の源はそうか南無アッバかもしれない

            比田井白雲子

散聖を思いつつ空気とすわっている      〃

空気にありがとう言ってごらんよ       〃

つくしをわたしとおもってね        〃

 作者の空気に対するとらえ方が面白いと思います。

 

巧妙に無名の神は虹立てり    余白

秋の風水面にガダラの悪魔憑き   〃

生涯即奇跡なりけり蔦紅葉     〃

新しき神話を孕み星月夜      〃

神の使徒コスモス風に揺れ止まず  〃

 

「ガダラの」も何となく可笑しくて面白いけど、「神の使徒」が好きです。「コスモス」から宇宙への連想が広がります。

 

冬空の 蒼きたかみに 御父(ちち)捜す             弐個でも

 名前は忘れたんですけど、ヒマさえあれば空ばかり眺めていた聖人の伝記を読んだ覚えがあります。

 

神さまは いつも私と 一緒です  

              たんたん

怒ってた 私を見守り 泣いていた 〃

 私なんか、どんなに苦労かけたかと思うと冷や汗ものですし、あっ、またイライラさせているなと感じることって、よくあります。

Re:余白:「受肉」ということ、その有り難みを覚えます。

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 (無題)  比田井 白雲子

はれた私がはれた

 

私からっぽ空もからっぽ

 

神さまっているのいないのどっちなの

 

 余白さんの〈蔦紅葉〉の句で、何もかもが奇跡な人だと思う今日このごろです。

 奈菜さんの〈full moon〉と〈山〉すばらしくて言葉も見つからないほどです。

Re:余白>一句目。「はれた」に「晴れた」「腫れた」「張れた」・・・・いろいろ当てはめて、黙想してみます。

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 (無題)  まいまい

 

痛悔の種に肉食う四旬節

 

心よりの痛悔厭うて罪作る

 

避くるなり 心より痛悔せよとの教えゆえ

 

痛悔を恐れて 拝領避くるなり

 

愛憎は半ばす斎(ものいみ)規定なり

 

 ――正教会には四旬節にはあれこれ食べてはいけないという食物規定があります

うーみゅ、ひたすら痛悔しないですませたい という事だなぁ・・・・

痛悔は「心から悔い改め二度と為さないとの決意を持って」と指導されると、またやりたいから決意なんか出来ないなぁと思ってしまう不良信徒まいまいである

Re:余白:この四旬節に、イエスのいう「罪」とはどんなものか、改めて考えてみたいと思います。

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黙示  服部 剛

 

小学生の頃 道徳の授業で

トマホークというミサイルの映像を見せられた

 

昼休みの図書室で

「はだしのゲン」を読んだ

 

全身を包帯で覆われた母親が

生と死の境目で

息子の名を

とぎれとぎれに呼んでいた

その傍らを

自らの目玉を手のひらに乗せた男が

猫背で歩いていた

 

   僕は こわかった

 

大晦日 両親に連れられて

深夜の初詣に行くたびに

「世界が平和でありますように」

と小さい両手をあわせた

 

祈りは香の煙に溶けて

お経と木魚の音とともに吸い込まれていった

 

境内の屋台で

お父さんとお母さんにはさまれて食べたおでんの味は

大人になった今でも僕の心にしみているんだ

 

拝啓:米国大統領殿

 

あなたは教会で祈ったことがありますか?

今 この時にも

世界のどこかから聞こえる産声を

イメージできますか?

彼らに遺す21世紀は20世紀と同じ廃墟ですか?

あるいはそれよりも悲惨な世の終末ですか?

 

僕は昨日夢を見ました

 

真夜中の教会で

十字架にかけられた人の背後が

一面 ほのかに光るスクリーンとなり

映し出された光景は・・・

 

貧しい国の家無き親子が

テントの中 一本のろうそくを頼りに

三人で一つのパンを裂き

幸せそうに心を充たしている

 

彼等の上から異様な音をたてて

悪夢の塊(かたまり)が落ちてくる・・・・・・・・

 

そんな夢です

 

それを 見る時 あなたは

十字架にかけられた人の 頬を震わす哀しみに

一体 何という 言葉で

祈るのですか?

 

Re:余白:イエスの思想には、聖戦という考えはありません。いかなる暴力も正当化できません。

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福音短歌 その2  島 一木

知らなかったのですか

私が 父の家にいるのは

あたりまえだと

(ルカ2の49)

 

人は 悔い改めて

洗礼を受け 罪の

ゆるしを得るべきである

(マルコ1の4)

 

神は 石ころからでも

アブラハムの 子らを

造ることがおできになる

(マタイ3の9)

 

私は 身をかがめて

そのかたの 履き物の紐を

解く値打ちさえない

(マルコ1の7)

 

私は 水で洗礼を

授けるが そのかたは

聖霊と火によって

(ルカ3の16)

Re:余白:各節をこうして3行にまとめると、聖書にリズムが出てきますね。

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会いたくて  奈菜

あの角まがると

梅が二本あって 満開なんだよ

今日も咲いてるはずなんだよ

 

2月中旬、私は雪も降りそうな日が続くのに満開に梅が咲いているのをみて、本当に感動しました。寒い中にも確実に春を感じて、満開に咲く。私もそうでありたい。「雪中梅」という言葉もあるのでしょうか、俳句に詳しくないのでわかりませんが、昔から日本人はそう感動して、そんな言葉もできたのかなと思いました。

Re: 余白:はい、春が来たから梅が咲く、というより、梅が咲いて春を呼んでくる、という力強さに励まされますね。

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福音短歌 その3  島 一木

見るがよい

世の罪を除く 神の小羊

私が言ったのはこの方のこと

(ヨハネ1の29)

 

見なさい

真のイスラエル人だ

この人には嘘偽りがない

(ヨハネ1の47)

 

葡萄酒がなくなったので

母はイエズスに「葡萄酒が

ありません」と言った

(ヨハネ2の3)

 

母は給仕たちに「何でも

この人の 言うとおりに

してください」と言った

(ヨハネ2の5)

 

天から与えられなければ

人間は 何ひとつ

自分のものにはできない

(ヨハネ3の27)

Re:余白:自由律短歌、ということでしょうか。改行が味噌のように思います。

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「紫」3月号「山紫集」より

  平田栄一

コスモスは風に揺られるために咲く

 

裏を見せ木の葉大地に温もりぬ

 

死後三日ポロンと鳴りし冬のギター

 

密かにも奇跡を刻む初時雨

 

十字架の横木に休む目白かな

 

秋の地に立つあの方へ続く地に

 

実のなる木ならぬ木もよし冬に入る

イマイキ共同日記
by管理者推薦作家

2003/03/24(月)

島一木

夢見草:祈りと気づき(1)

 

 現代の生活において信仰を維持してゆく上での最大の障害は、「テレビを見すぎること」である。私たちはテレビの娯楽性のみに目を奪われて、マイナス面には無自覚なまま家庭生活に取り入れ、茶の間の中心に据えてしまった。
 テレビをつけたり消したり、チャンネルを回す自由が視聴者にはあるのだから、全く害はないかのように言う人がいる。それでは尋ねるが、あなたは本当にテレビから自由なのだろうか? 茶の間に据えられたテレビを他の家族が見ていれば、嫌でも見ることにはならないのか? ある番組を見ていて、それが終わっても、つい他の番組もずるずると見てしまってはいないのか? ある人などは、仕事の傍ら昼から夜までテレビをつけっ放しで、そのまま子守唄のようにして眠る。こうなるともうテレビ中毒だ。
 テレビそのものが悪いとは言わない。テレビは単に便利な機械にすぎない。すべてはそれを使う人間の側から問題が生じてくる。番組を創る制作者の考え方。その番組の制作費を出す企業。視聴率に左右される番組の水準。無自覚なままチャンネルを回す視聴者たち。知らず知らずのうちに洗脳されて、世の中とはこういうものだと心に植えつけられていってはいないか? それも、より低俗なレベルへと。

 科学技術の産み出す便利さは、常に諸刃の剣である。

 テレビを自覚的に、自分の意志で自由に使いこなせるようになるには、泥沼の戦いを要するだろう。まず茶の間からテレビを追放することだ。家庭の中心ではなく、別の部屋に移してワンクッション置くのである。この段階で家族の反対にあうかもしれない。しかし、成功すれば家庭に対話と団欒の戻ってくる可能性がある。子供の部屋にテレビが置いてある場合は最悪だ。テレビ中毒者を養成しているようなものだから。
 テレビから自由になることに成功すれば、いくら時間があっても足りないほどの豊かな世界を手にできることに気づくだろう。祈り、読書、音楽、美術、持てる時間のすべてにおいて自覚的に意識的になること。私たち一人一人がそうなれば、新しいリバイバルを起こすことも可能になるかもしれない。

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2003/03/20(木)

まいまい

南無アッバのミサ

 

南無アッバのミサに初めてあずかりました。

 「カトリックのミサでは 普通立ったり座ったりするところがありますが、立つ事はそれが神への奉仕という考えがあります・・・・ですので」というところで、「全て立って」とくるかな?と一瞬思ったら「最初から最後まで座ったまま行ないます」(爆).他人の言葉は最後まで聞かないと大間違いを犯す典型でした。ごちゃごちゃ立・座・跪が入れ替わってがやがやごたごたしない座ったままというのもいいものだなぁと思わされました.

 「南無アッバ」という一番重要なことば.私には,理性は素晴らしく思われるのですが,感性(もしくは審美性)は嫌がっているようです.というのは南無という大和言葉としても漢語としても意味をなさない漢音調の音の後にアッバという和音・漢音何れでも異様なカタカナ言葉が来ているからなんでしょうね.それに南無阿弥陀仏・南無大師遍照金剛など聞きなれている「南無」のあとと随分違う・・・・
 「南無」自体「namo ナモ」というサンスクリット音の音訳なのだから,「アッバ」も「阿婆」などとすれば私には違和感がなくなるのに・・・・ということは,井上洋治さまと私の語感の違いなのだろうか,わざわざ違和感を出すところに既存の信仰に安住している信徒への問いかけなのだろうか,そもそも語感などの以前で井上洋治神父様には自然に涌き出でる言葉なのかな、などと考えてしまいました.

 アッバという言葉がイエススによって遇えて選ばれた意味からのみ考えるなら、「ぱぱ 大好き!」とか「パパのいうとおりにします!」でいいんじゃないかなぁ。「南無」という語自体すでに現代日本人のかなりにとっては一種異文化なのではないのかなぁ、とか自らの境地にこの「南無アッバ」ということばを選ばれた井上神父さまのお考えをあれこれ推測しています.

もっとも まいまいなら きっと
帰命頂礼阿婆天主!

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2003/03/17(月)

小さき花

南無アッバのミサ

 

南無アッバのミサに初めてあずかりました。
このミサは最初から最後まで座ったまま行いますというアナウンス。
ミサの言葉も奉献文以外は、ところどころ柔らかく変えられ、南無アッバの祈りが随所にちりばめられていました。
回心のことばは、「おかした罪を」ではなく、「反省しましょう」

「主よあわれみたまえ」が「主よ、私たちの思いをお受け入れください」

「聖なるかな、聖なるかな」が「アッバ、アッバ 南無アッバ」
いままで、ただ唱えたり歌ったりしていたミサの言葉一つ一つの意味をあらためて考えさせられました。
歌もなく、座ったまま静かで落ち着いた間のあるミサでした。お説教と感謝の典礼の間、一つ一つの動作の間、明るい聖堂と白い祭服の井上神父様。どれも印象的でした。
いただいた「風の家の祈り」が印刷された春のガリラヤ湖の写真。
今も眺めています。

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2003/03/17(月) 余白

 

井上神父のミサへ

 

3月15日(土)14:00より、井上洋治神父司式のミサが、四谷駅前、ニコラバレ2F聖堂で行われました。
終始落ち着いた、静かな雰囲気の中で、信者・未信者ともども井上師によって丹念に工夫された、典礼を味わいました。
井上師からいただく聖体拝領は久しぶり。。。妻(未信者)は二十年ぶりに按手していただき、感涙。
最後に、「風の家の祈り」を皆で唱和。感謝のうちに閉祭。

ミサ後、大宮に住むHさんを紹介される。Hさんはなんと、御母堂様が私のいた俳句結社の大先輩と知って驚く。いずれ求道俳句を始めたい由お聞きし、キリストの縁を感じることしきり。

また、このミサのために四国からいらしたFさんとも話す。
教区の問題など、相談。Fさんの真摯な求道心に感服。

本サイトからは、小さき花さん、まいまいさんが出席。
三男坊もいっしょに、サンパウロ・ドンボスコでショッピング。
受け持ち生徒へ贈るメダイを人数分購入。

そのまま山根さんたちと合流するため、喫茶店「エル」へ。
ともども充実したお話で、時間はあっという間に経過。
17:00からは山根さんやKさんとその講座の方々といっしょにお話。
高齢の方々の熱心さに、心うたれる。

18:00過ぎ〜山根さん、まいまいさんと三人で一杯飲みに。
仕事疲れで前日奥歯が腫れ、ミサもむりかも、、、と思っていたので、ここまでこれて感謝!
山根氏を東京駅で見送った。

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2003/03/16(日)

如月

多国籍ミサ

本日は英語ミサに出席。
出席者は、欧米系・アジア系などなど実に多彩。
(こういう雰囲気は大好きである)

昼食は韓国人信徒による手作りの「スープつきビビンバ」。
テレジアホールで、じっと一人で食べていたらいろいろな国籍の方々に話しかけられ、ついついぺちゃくちゃと・・。

ん?・・・そういえば、今日は起きてから家内以外、日本人と会話していない・・。
これは、都会の大型教会でないとできない経験かも。

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2003/03/13(木)

SPAT

旅先ミサ

 

福岡に出張のついでに早起きして司教座聖堂の朝ミサに与ってきました。

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2003/03/10(月)

如月

そろそろ準備も・・

 


啓蟄の候、日脚の長さとともに生命の息吹が少しずつ感じられる季節になりました。
暦の上でも春分、桜の開花も待ち遠しい今日この頃。
しばらく家庭で介護、職場で介護と忙しく過労気味な如月です。

過労も極みに達したのか、先日胃痛に耐えられず意識消失寸前、「もはや、わが命・・これまでか・・」と膝を屈してしまうひとコマもあり、思わず不測の事態に備えてひそかに家内と実家の親族宛の遺書の下書きまでして静かに祈りつつ地上生命の終焉を覚悟していました。

(医師から腫瘍マーカーの検査を勧められました結果が気になります。)

もともと幼いときから入退院を繰り返し五臓六腑全て疾患を経験しておりますが、心身弱ると信仰も純化されてくるようです。
そんな恵みを味わいながら静かに黙想の日々を送っております。

木の芽が出る季節・・これからが勝負です。

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2003/03/05(水)

トマト

 

 

悲しみは心にしまいましょう

 

今日も23時帰宅という恐ろしいスケジュールでした。
もっと悲しいのは「疲れたよ〜」と言うと母親のたまわく、「最近愚痴ばっかだね」と。じゃ、一体私の苦労は誰に言えばいいのさ!って思ったよ。ホントに嫌になるね。ちくしょー、生き抜いてやる!

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2003/03/02(日)

如月

音楽つれづれ(1)

 

プロテスタント教会で降誕節に歌う讃美歌98番「あめにはさかえ」はメンデルスゾーンの作曲。

彼は大作曲家の中ではきわめて裕福な家庭で育った珍しい存在である。ユダヤ人であったが、即、それで惨めな思いをしたということもなかったらしい。

彼の音楽は明るく軽快で分かりやすく品よくまとまっている反面、深みがなくすぐに飽きてしまう、というのが私見である。

高校生の頃、FM放送のクラシック音楽番組を夢中になって聴いていた。毎朝、新聞の番組表を徹底的にチェックして、興味を持った曲名を探し出して聞きまくった。

聞けば聞くほど感動が増してくる日は、ぜひともレコードが欲しくなった。
そんな曲が当時何曲かあった。

しかし、実際にレコードを買おうとすると高価だった(レコードの値段は物価の変動とは関係ない。私が小学生の頃、30センチLPが一枚¥2000だった。この値段は大人になっても殆ど変わらなかった。
しかし一般の物価は数倍は違う。)から、「これだけは、ぜひ!」と思える曲は厳選した。

メンデルスゾーンの曲は始めはよい曲だとは思っても2,3回聞けば覚えてしまい、あとはつまらなくなった(私見)。
覚えたから飽きたわけではない。
覚えてしまっても感動が続く曲は確かにある。

その頃買ったレコードの中に一曲だけ、彼の曲がある。
「ヴァイオリン協奏曲」である。
ただし、これは買いたくて買ったのではない。
欲しかったチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」のB面に入っていただけのこと。

彼は、作曲家としては有名であるが、彼の音楽業績で評価するべきことは次の二点であると思う。

一つは、ライプチィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を育成したこと。
これは今でも続いており、ほぼ最古のオーケストラになる。
(旧東ドイツの地域にあったため、第二次世界大戦後はベルリンフィルやウィーンフィル等に比べて陰が薄くなってしまったが。)

もう一つの大きな業績は、バッハの「マタイ受難曲」を再現演奏しバッハ(J・S・Bach)を世に再認識させたこと。

さて、この「マタイ受難曲」についてであるが、この曲の存在についてはかなり前から知っていたものの実際に大真面目に聞いたのは高校合唱部時代(後期)からであった。

2003/03/02(日)

如月

音楽つれづれ(2)

 

折りしも、四旬節間近。
(「受難曲」を思い出す。)
過日、友人のオルガニストの研究室に
遊びに行った際、1969年、大阪国際音楽フェスティバル(招聘元は日生劇場)にて収録されたカール・リヒター、ミュンヘン・バッハ合唱団と管弦楽団による「マタイ受難曲」の貴重な録音がある、というので実際にそこで再生してもらい
じっくり鑑賞してきた。
正直、音楽的な興味の上では、宗教音楽はあんまり個人的に面白くはない分類に入るから、最初は話を合わせる程度に・・・「まァ〜、有名な曲でもあるし、最初だけでも聞いておこうか〜」という程度の気持ちだった。
しかし、聞き進んでゆくうちにハマってしまい、ついに3時間、最後まで聞いてしまった。演奏がすごい迫力で迫ってきた。
ところで・・・
このバッハ作品とその時代について・・・
「マタイ受難曲」に挿入されている有名な「血潮滴る」の楽章。
(全曲の中で計五回登場するのだが)実はバッハのオリジナルではない。
ポール・ゲールハルト作詞、ハンス・レオ・ハスラーの作曲である。
よく調べてみたら、当時曲調としてはかなり世俗的な響きだったらしい・・。
(讃美歌にも「血潮したたる」が収録されているが)

この世俗音楽にポール・ゲールハルトの作詞を加えることによって信仰的なコラールに生まれ変わった。
さらに、これをバッハが「マタイ受難曲」に流用したというのが史実である。
(これは盗作とは言わない。パロディーと言う。)
いまでこそ、バッハというと古典派とか
「音楽の父」とか呼ばれて皆、小難しそうに解釈しているけれど、バッハの生きていた時代がそこまでのどかな時代だったことを思えば、格別堅苦しくなく、楽しめるような気がする。
(了)

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2003/03/02(日)

D&D's daughter

逃避

 

現実逃避願望からなのかこの頃よく寝れる。夢はいつも優しい。
でも今日は違った。うなされて起きた。出張先で予約したはずのタクシーが来ない。ホテルの部屋が取れて無い。焦って電話番号を探すのに手間取る。やっと見つけてダイヤルするにも番号が記憶できずにいちいち見直し、途中で切れてしまう。何度やり直しても間違える … そこで目が覚めた。嫌な気分の目覚めだ。自分がまともに機能しない人間として社会から脱落していく恐怖に襲われる。
今夜の雨は心も冷たく打つようだ。

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2003/02/28(金)

小さき花

「作家の日記」

 

遠藤周作さんがフランス留学中にほぼ毎日書いていた日記です。発表するつもりもなく、小説家になる以前、フランス文学を研究し、不安だらけで前向きに進んでいた20代の日々が描かれています。勉強量、読書量に圧倒されます。
井上神父に遠方会いに行ったときの日記もあります。
行く前はのんびり過ごす予定でいましたが、実際は、フィリップはオフィス(聖務)中だからと会わせてもらえない。祈り、労働、聖務で忙しく,わずかな休憩時間にしか話せない。頭の頂きをそり、カルメルの茶色の粗服、十字架をさげ、額のあざのせいか顔色が青白い。純粋の孤独の中で全てを捨てキリストに従う姿に遠藤さんは胸うたれます。傲岸さも教えるところもなく(ってことは船中ではそうだった??)、真に実感にあふれていた。ただほほえみ、「そんなにこわくないよ」と。
井上神父は何を話したか記憶がないと著書で書いておられますが、日記では交わされた会話の様子もわかります。
「主よ、僕にも井上のような厳しい信仰を与えたまえ」と書き結ぶ言葉には迫力があります。
テレーズも決して単に甘えている幼子ではありません。厳しいカルメル会の中で、小さなことにも忠実であろうと励み、犠牲をささげています。それでも足りないところを自分を責めるのではなく、信頼しおまかせしているようにみえます。
井上神父のカルメルでの日々を思うと、一途に道を求め生きるとはこういうことなのかと厳粛な気持ちになります。
今の優しい表情や文章の中に強さが感じられる所以でしょうか。
いい加減で、のほほんと甘えている私にとって、喝を入れられるような本でした。といいつつ、また同じような失敗。洗礼うけてもちっとも進歩しませんね。

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2003/02/27(木)

如月

人形とぬいぐるみ

 

■帰宅途上にて
まもなく、ひな祭り・・・
雛人形を想像していたら無性に雛人形を
見たくなって帰宅途上、柳橋の老舗「人形の久月」にてかなりの長時間ウィンドーショッピングを愉しんできた。
市松人形の表情など見ると日本人形って癒し系とは言えない気がするし、むしろ何となく魂が宿っているような妖気さえ感じる。そこが何とも痺れるのだが・・
家内の実家に行って”八段飾り”引き取ってこようかな・・

■ぬいぐるみを眺めながら
我が家に遊びに来ると玄関に夥しい数のぬいぐるみの行列が
お客様を歓迎する仕掛けになっているのを見るはずだ。
そのほとんどは、家内のセンスによるもので各地方版のキティちゃん、ミッフィー、スヌーピーなどいかにもという感じの可愛らしいものが多い。
よくここまで粘り強く収集できたと思う。
以前、私も趣味のお付き合いをしているうちにNHKアニメ「おじゃる丸」の主人公”坂之上おじゃる丸”のぬいぐるみがどうしても欲しくなり、何かに憑り付かれたようにデパートをハシゴしたり、渋谷のNHKスタジオパークまで行って問い合わせたりしたことがあった。
(一体このエネルギーはどこに蓄えてあったのだろうか)
不二家のペコちゃんと同様に、このキャラクター(おじゃる)は非常に平面的な表情をしているため忠実に三次元化されたぬいぐるみに出会うまでには大変苦しい思いをした覚えがある。
それだけに、寝てもさめても、おじゃる丸のことばかり考えて食事はおろか仕事も手に付かないありさまだった。
(こういうものはこだわり出すと本当に止まらないものだ。)
今日はそれに似た気持ちを久々味わった。

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2003/02/27(木)

D&D's daughter

深い淵の渦

 

同じ過ちを繰り返す愚かで弱い私を主よ憐み下さい。どうぞみ手を差し延べて下さい。希望の光を・・・

<後記>

 復活祭前の告解も済ませ、年度末の残務と新年度の準備、そして親和会幹事長の仕事等々のただ中でこれを編集しています。仕事がハードなのか、この一年で体重が6キロも減ってしまいましたが、とてもかわいい生徒に恵まれて、なんとか無事年度末を迎えることができました。

 不幸にもイラクでの戦争ではすでに多くの犠牲者が出始めています。どうにもやり切れません。井上師が常々おっしゃっているとおり、イエスの思想には聖戦という名の下に戦争を正当化するような考えはどこにもありません。いかなる理由があろうと国際問題は暴力で解決してはならない。今こそ現代人の信仰が試されているように思うのですが。。。

気温差が激しい時期、皆様におかれましてはお体ご自愛のほど。

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