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平田栄一サイン本
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余白の風

求道俳句とエッセイ

84号

2003/5/1

発行者:平田栄一

求道俳句評

ヨブ記読む木蓮の花明りかな

大隅 圭子

 旧約聖書におさめられている「ヨブ記」は難解だとよくいわれます。ヨブという善人が次々と災難に遭い、「なぜ、自分は何も悪いことをしていないのに、こんな目にあわなければならないのだろう?」と悩む物語です。

 一たす一は二、人間真面目に努力すれば必ず良い報いがある。そういう因果応報的な発想がわたしたちの日々のやる気を支えている、というところがたしかにあります。しかし、突然の事故や病気に遭遇したとき、わたしたちは愕然とし、そして憤慨するのです、「なんでこのわたしがこんな不幸にあわなければならないのか・・・・。なんであんないい人が早死にするのか・・・・」と。ヨブ記のテーマは、民族や時代をこえて語られてきた、人類の普遍的課題といってよいでしょう。

 ヨブ記の難しさは、その答えがはっきりと示されていない、という点にあります。ヨブが友人たちと議論を重ねていくと、突然神が次のように答えます。

 

  主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。

 

  これは何者か。

  知識もないのに、言葉を重ねて

  神の経綸(国を治め整えること)を暗くするとは。

  男らしく、腰に帯をせよ。

  わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。

 

  わたしが大地を据えたとき

    お前はどこにいたのか。

  知っていたというなら

    理解していることを言ってみよ。(ヨブ三八・一〜四)

 

 このあと延々と、さまざまな自然現象について、「〜を知っているか?」「〜ができるか?」と神の詰問が続きます。そしてとうとう、ヨブは答えます。

 

  わたしは軽々しくものを申しました。

  どうしてあなたに反論などできましょう。

  わたしはこの口に手を置きます。(同四〇・四)

   ・・・・・・・・

  あなたは全能であり

  御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

あなたのことを、耳にしてはおりました。

しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。(同四二・二、五〜六)

 

 以上のように、主(神)は「善人がなぜ苦しむのか?」という疑問には直接答えていないのです。しかしヨブは、全能の神の前に右のように答えて黙し、神もそれを「正しく語った」(同四二・七)と認めています。一たす一は二のはずだ、という人間の思い込みや傲慢を捨て、自分の限界を知った上で神の前に人生をゆだねること、ヨブ記はそう教えているのではないでしょうか。

 掲句、「木蓮の花明り」のなかで「ヨブ記」を読む作者。夕闇に妖しいほどに浮かび上がる白木蓮の花。その花びらの一枚でさえ、人間には色も艶も自由に操作することはできません。ましてやその「花明かり」の妖しさをどう正確に説明できるでしょうか。作者は不思議な感動に捉えられています。(余白)

 

朝の光  緑の風

地平線に太陽が現れると、
自然界の全てのモノは喜びに震えながら目を覚まし、
一日の始まりの光を飲み込む。
そうして輝きを得た”自然”は、
幸福の余光を身から放ち、
見る者の目に神を現す。
Re: 朝の光  余白
自然が、夜明けを待ちわびて、黙っていられなくて、思わず神様の喜び・叫びを代弁してします・・・・そんなエネルギーを感じる、爽やかな詩をありがとう!元気出ましたー
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たんぽぽのじゅうたんいわたけゆうき

深い根を 誰にも見せぬ たんぽぽや

すみません・・素人歌人がまたもやって参りました。
先日タンポポの絨毯を見ました。
目に見えるのはきれいな山吹色
でも地中には深い深い根を張っているんですよね。
クリスチャンも ひとりひとりそんな根を張ってきた物語を
抱えているんだと なんとはなしに感じてしまいました。
Re:
たんぽぽのじゅうたん  余白
はい。地中深いところでその根はつながっているんでしょうが、自分が花を咲かせた地点からしか相手が見えない。。。。自分を全体の中に置いて見直す目、相対化が必要なんでしょうね。
Re:
たんぽぽのじゅうたん  緑の風
私もタンポポは大好きです。幼い頃、父と母が喧嘩を始めると、私は、近所にタンポポの花を摘みに行きました。小さな手にいっぱいタンポポを摘んで帰り、父のショートピースの缶に生けました。タンポポの黄色と、ショートピースの缶の紺色が、とてもよく合っていて、綺麗だなあと、子供心に思いました。それから一年して、母が亡くなり、私はタンポポを摘まなくなりました。
蝶々が  座るおイスは  タンポポよ 
Re:
たんぽぽのじゅうたん  いわたけゆうき
余白様 緑の風様 コメントをありがとうございます。
たんぽぽひとつにも おひとりおひとり思うところがあるのですね。

蝶々が座るおイスはタンポポよ

蝶々が暗喩に私には感じられます。わたしが勝手に想像する 緑の風様の 去就する思いを 感じております。
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福音短歌 その5  島 一木

あなたたちは地の塩である
もし塩が ききめを失くせば
捨てられるだけ
(マタイ5:13)
あなたたちは世の光である
山の上の 町は
隠れることができない
(マタイ5:14)
情欲を抱いて 女を
見る者は 心で
すでに姦通の罪
(マタイ5:28)
けっして誓ってはいけない
天にかけて誓うな
天は 神の玉座だから
(マタイ5:34)
群衆は皆 イエズスに
触れようとひしめきあった
いやす力が彼から出ていた
(ルカ6:19)
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(
無題)  比田井 白雲子

花びら なんとちった

私、空もてぶらだ

芽ぶけばこころ安し

 宗教句は、どうしても信心や思いが先走りしてしまい、二倍三倍の力量がないとよい句は生まれないと思います。もっとも私情を捨て無に近づいているだけ道は近いとも言えるのですが。
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福音短歌 その4  島 一木

時は満ち
神のくには近づいた
悔い改めて福音を信じよ
(マルコ1の15)
朝早く
まだ暗いうちに起きて
人里離れて祈っておられた
(マルコ1の35)
医者を必要とするのは
健康な人ではなくて
病人である
(マルコ2の17)
一艘の小舟にすわり
イエズスは 岸の群衆に
お教えになった
(ルカ5の3)
イエズスは 山にのぼり
ご自分の望む人たちを
呼びよせられた
(マルコ3の13)
<福音短歌について>
 もしこれらの作品にオリジナリティがあるとするならば、福音書の言葉を「引用」という手法によって短歌という形式にあてはめた、という一点のみでしょう。私はむしろ作者というオリジナリティを可能な限り排除しようと努力しています。ここには福音書の言葉と、短歌という詩形式のみがあるべきなのです。そのことによって、福音書という不思議な書物を読むときに私が感じることを、福音書という全体の文脈の中で読むときとは異なった視点や角度から読者の前に提示できないかと考えているわけです。福音短歌を読まれた人が少しでも福音書に興味を抱かれて、聖書を手にして頂けたらと願っています。
 三行分かち書きについては、すでに石川啄木の作品がありますが、以前から私は、歌人の方がどうしてこの手法をもっと利用されないのか不思議に思っていました。福音短歌では、三行分かち書きに一字空白の手法をプラスして用いています。福音書の言葉をできるだけそのまま引用しようと努めていますので、音数律は自然に自由律に近くなっています。
 引用に使っている聖書は、フランシスコ会聖書研究所訳注「新約聖書」(中央出版社)を主に用い、フェデリコ・バルバロ神父訳「聖書」(講談社)や日本聖書協会発行「聖書」を適宜参照しております。
Re:
福音短歌 その4  なん
どれも情景が目に浮かんできそうです、またイエス様の事慕わしい気持ちになります。
Re:
福音短歌 その4  緑の風
「福音書の言葉を「引用」という手法で短歌にして、オリジナリティを可能な限り排除する」と言うことは、自我を極力排除するという事でしょうか。作者の「目」というフィルターを通さずに読者に福音を伝えるというのがねらいなのでしょうか。この五つの福音書の引用は、どのような基準で選ばれたのでしょうか。
 
質問ばかりですみません。短歌の事はあまり詳しくないので、教えて頂きたいのですが、三行分かち書きを推奨しておられますが、普通の短歌の形式と、三行分かち書きとでは、どのような違いが出てくるのでしょうか。また、三行分かち書きに一字空白の手法をプラスすると、どのような効果が出てくるのでしょうか。素人の質問ばかりで申し訳ありませんが、お返事頂けると嬉しいです。
Re: >
緑の風 様 横レスです  余白
え〜と、島さんの書き込みは実は私が代書しています。彼はPCやりませんので、原稿用紙でいただいたものを描き込んでいるのです。
ですから、ご質問のお答えがあるとすれば次々号あたりになるかと思いますが、ご了承ください。
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季節  緑の風

世界は神の愛の手の中で、美しい装飾を施された。

風は神の言葉を話し
木々は神の偉大さを現し
花々は神の優しさを現した。

小鳥は生命の神秘について歌い
光は”存在の秘密”を現した。

空気は全ての生き物を包み尽くし
神の愛が全てのモノを生かしている事を
小さなカタツムリは知っている。
Re: 季節  余白
はい。イエスの「空の鳥を見よ・・・・」、フランシスコの太陽讃歌などが思い出されますねーすてき!
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(無題)  奈菜

地をつたって響きくる
温もり食べてあるいのち

最近、どうもこんな気がします。
板の端をどんどたたいたら、その振動がじんじん伝わってくるように
とおくの場所で祈ってくれているいのりや、私の遠い祖先からのいのり、
知らない国の人の想いとか、どうも地をつたってくるようで・・。
Re: (
無題)  余白
教会の鐘の音は、上から聖霊が降るように、お寺の鐘は、下から響くように、なんて倫理授業では教えています。。。
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アッバ讃句カードプレゼント  余白
最新号『風(プネウマ)63号が届きました。
編集室の山根氏からは、井上洋治神父
朝 目覚め 命なりけり 南無アッバ

をはじめとした句を、ガリラヤ湖の夕陽を背景としてあしらった「アッバ讃句」カードが10枚同封されていました。
それで、もしご希望の方がいらっしゃれば、先着メール10名様に、無料でお分けしたいと思います。
ご住所等連絡先を、メール(拙HP記載)でお知らせください。
(もれた方には申し訳ありません)
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小林一茶の一句  島 一木

君が世や茂りの下の耶蘇仏  小林一茶

 岩波文庫の『一茶俳句集』荻原井泉水編と『新訂一茶俳句集』丸山一彦校注の二冊を読み比べていて見つけた句。丸山一彦校注では下五を「那蘇仏」とし、那の字の右肩に(耶)と記して誤字を示している。脚注には、「耶蘇仏─隠れキリシタンがひそかに信仰したマリア観音像か。」とある。寛政五年(1793)、小林一茶が三十一歳のときの作。丸山一彦校注によれば一茶にはけっこう誤字が多いのだが、この句の場合、ひょっとするとキリシタン禁教令を警戒した意図的なものかもしれない。二冊ともキリスト教関連句はこの一句のみ。

<余白の風 第83号感想>
私からっぽ空もからっぽ 比田井白雲子
神さまっているのいないのどっちなの     
 二句目、「神さま」に「宇宙」「世界」「地球」「日本」「人間」「私」「心」「生命」「愛」・・・・いろいろ当てはめて、黙想してみます。

痛悔の種に肉食う四旬節   まいまい
心より痛悔厭うて罪作る    〃
 福音書やパウロ書簡をていねいに読まれると、あれっ、と思われることがあるかもしれませんよ。

死後三日ポロンと鳴りし冬のギター  余白
十字架の横木に休む目白かな     〃
秋の地に立つあの方へ続く地に    〃
実のなる木ならぬ木もよし冬に入る  〃
 四句目、「ならぬ木もよし」はいいですねえ。
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教会のある風景 その11  三月 

島 一木

啓蟄や天使居眠りしているの

初蝶やマリアをすぎてキリストへ

薔薇の芽や主の冠は刺ばかり

たんぽぽの絮ひとつとぶ聖歌浴び

落椿ジャンヌ・ダルクは火の如く

十字架の道行サボる四旬節

十字架の姿ちらつく四旬節

戦争と平和を思う四旬節

四旬節なにか犠牲をささげねば

四旬節心は天にあげている
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「紫」2003年4月号  余白

寒鯉の欠伸に出づる銀貨かな

人日やわが半生を悔やみ居て

ミサ毎に蕾やわらぐ桜かな

逃げ水を追うて迷いし羊かな

東風吹かばとりどりの花祈り合う

どこまでもゆるされて雲風に乗る

暖冬の顔こそ似やる番いかな

イマイキ共同日記
by管理者推薦作家

 

2003/04/21()

小さき花

井上神父に学ぶ聖書講座                       仕合わせ

 

イエスの顔の変化  「沈黙」を題材に
来日前のロドリゴにとって、イエスの顔は、父性的、威厳を持った王たるキリスト。それが時とともに変化していきます。
最後に「踏絵の中のあの人は…摩滅し凹んだまま悲しげな眼差しで見つめている」これが遠藤氏の福音となったイエスの顔です。
凹んだイエスの顔というのは象徴的です。こちらを変えようと上から力がくる。ロドリゴの苦しみを受け止める顔です。
逆に凸は、外へエネルギーを向け、力でものをかえていこうとする力。父性的で威厳がある。今のアメリカのようです。
踏み絵のイエスの眼差しは踏む者を罰する父性的な神ではなく、まさに十字架上のイエスの眼差しー自分を釘付けた者に対する赦しの眼差しです。遠藤氏の見つけたイエスの顔は恣意的、ねつ造されたものではなく、福音書を読み、イエスの姿をおい続けた結果によるものです。
マルコ福音書の中で、旧約聖書もユダヤ人の歴史も知らないローマ軍百人隊長が、人としてはただ一人イエスを「神の子」と言います。十字架にかかったイエスが苦しみを与える者に対する赦しのまなざし、それをじっとみていたことによる回心です。
「神さまの恵みと光りに満ちあふれている方で…神の恵みと光の前に透明な神の子と呼ばれるのにふさわしい方なのだと感じたのでしょう。」(井上師、福音書を読む旅)百人隊長をとらえ福音体験となったイエスのまなざしは、踏み絵のイエスのまなざしと同じです。
イエスの十字架のメッセージ、「イエスは死に打ち勝った」とは、十字架の死によってさらに強いきずなとなって結ばれたこと。イエスの十字架の深い意味は、十字架の死は死をこえたきずなを復活、復活はキリスト教の最も大切なもの。永遠(時間、空間をこえて)世の終わりまで共にいる、そばにいてこちらの苦しみを受け止めるイエスと私たちの間に生まれたきずなです。
交響曲「沈黙」や十字架の意味と死の問題など風63号にも触れたあっという間の一時間半でした。
「沈黙」の作曲家マックミランさんと山根さんが会った時の会話で、神は沈黙と言う形で存在している、神の沈黙と神の不在とは違う、苦しみを受け止め写し取って、自分も共に苦しまれる神が沈黙の中にいるとの話が心に残りました。
朝から教会で1500個のイースターエッグを作ってかごや袋に詰めるお手伝い。昼は講座。夜は復活徹夜祭。幸せな一日でした。

 

2003/04/12()如月

花の街(上)                        

 

■出会い
團伊玖磨作曲の「花の街」(江間章子作詞)という曲を知ったのは17年前のこと。NHKの「ラジオ深夜便」を聴取していた際、本曲の爽やかな女性混声重唱に魅了され陶酔のうちに夜明けを迎えた。聴取当時、お金のない余暇ばかりの時代であったため生来の凝り性も手伝ってこの曲が導き手となって團伊玖磨に傾倒することになり、以後現在に至るまで日本クラシック界に関心を持つに至った。

後日、母校のオーディオビジュアル図書館で團伊玖磨の出演番組をチェックしていたところ、かつて日本テレビで「團伊玖磨ポップスコンサート」という番組を放映していたことが分かり、幸い当時の映像を堪能する機会を得た。日テレの番組は團とゲストの対話が中心、話題に関連する曲を彼が読売日本交響楽団を指揮して演奏していた。「花の街」は番組の最後のところで観衆に歌わせていたが、私は長い間、この曲を(譜1)のように理解していた。しかし、当時の現役世代の方々に実際に歌っていただいたところ(譜2)のように聞こえたので不思議に思っていた。私は自分の理解が正しいと決め付けていたが、最近、楽譜を見る機会があり(譜2)が正しいことが始めて分かった。そこでなぜそうなったのか分析してみることにした。双方の解釈にそれなりの理由がある。全ては日本語を西洋音楽の曲に当てはめることの難しさから起こる問題に起因する。

(譜1) なない ろ|のた  に|をこえて
(譜2) なない ろの|たに を|こえ|て
注)、本当は楽譜で比較したいのであるが、上記の書き方で何とか差異をあらわすことを試みたい。
・「 空白 」をつけたところが小節の区切り目。
・「 | 」の部分は、小節の中で区切りを入れる場合に合理的と考えられる位置である。
2003/04/12(
)如月

花の街(中)                        

 

■考察
まず歌詞を見てみよう。
「花の街」
江間章子作詞・團伊玖磨作曲

 ♪七色(なないろ)の谷を越えて
 流れて行く 風のリボン
 輪になって 輪になって
 かけていったよ
 春よ春よと かけていったよ

 ♪美しい海を見たよ
 あふれていた 花の街よ
 輪になって 輪になって
 踊っていたよ
 春よ春よと 踊っていたよ

 ♪すみれ色してた窓で
 泣いていたよ 街の角で
 輪になって 輪になって
 春の夕暮(ゆうぐ)れ
 ひとりさびしく ないていたよ

歌い出しは「七色(なないろ)の谷を越えて流れて行く 風のリボン」・・・である。強弱のみのアクセントを持つ西洋の言葉と違って、日本語は高低のアクセントを持つ。だから歌詞の言葉の高低を、音符の高低に合わせるのが極めて自然に聞こえる。そこでこの歌詞を分析してみると下記図のようになる。
 な        に
な/\い−ろ−の た/\を

音符の高低とこの歌詞の高低をなるべく合わせたいが、(譜1)、(譜2)のどちらがより良く当てはまっているだろうか。違いは「たにを」という言葉の当てはめ方で、「歌詞の高低」、これだけを考えれば、

(譜1) なない ろ|のた  に|をこえて

の方が良いことは明らかだろう。ところが作曲者(團伊玖磨)は

(譜2) なない ろの|たに を|こえ|て
 
・「 空白 」をつけたところが小節の区切り目。
・「 | 」の部分は、小節の中で区切りを入れる場合に合理的と考えられる位置

のようにした。なぜだろうか。それは、「歌詞の区切り方」と音符の「小節の区切り方」の問題となる。これだと全く事情が異なり、圧倒的に(譜2)の方が優れてくる。
2003/04/12

如月

花の街(下)                        

 

■歌う側、聴く側

♪七色の谷を越えて
    ↓
(譜1) なない ろ|のた  に|をこえて(高低重視)
    ↓
(譜2) なない ろの|たに を|こえ|て(区切り方重視)

團が(譜1)を採らず(譜2)としたのは、日本語の「高低」よりも「区切り方」を重んじたからである。これは明治の西洋音楽を導入した頃からの問題で現代では陳腐なテーマかもしれないが未だに解決を見ていないように思う。(山田耕筰は高低を重んじていた、が山田の弟子であった團は独自の視点から師の面前でこれに逆らったという)。

西洋音楽は西洋のもので日本語とは相容れないと思えばそこで着底してしまうが、それでも、これを乗り越えて何とか良い歌を作りたいというのが作曲家の願望であろう。明治以降、日本クラシック界にも多数の作曲家が輩出されたが、器楽の作品では国際的に高水準の作品が出来ても、いまだにオペラは海外に通用する作品が出現せず依存状態にある。團伊玖磨のオペラ「夕鶴」(木下順二台本)はその中でも傑作と言われており、確かによく出来ている。しかし、今一歩惜しいところで試行錯誤していおりまだまだ実験的な部分に満ちている。歌手が、「歌詞の区切り方」と音符の「小節の区切り方」のはざ間で大変苦労(苦闘?)して歌っている。正しい言葉の意味が観衆が理解できるように歌うためには、アクセントの置き所など神経を使いながら歌うことになる。未だに日本人はリラックスして作り手と聴き手が分かち合える自国のオペラ作品を手中にはしていない。

振り返って、キリスト教で歌われている聖歌・讃美歌という分野は如何なものか。詳しく調べたわけではないが、少なくとも聖歌隊奉仕経験者として試行錯誤してきた中で、うまく歌詞と小節が一致したという曲に未だに出会ってはいない(大抵はいずれかに妥協してきた)。概して歌う側は、あまり不思議に感じてはいない。理由は簡単である。理由は単純。歌詞を見て理解しながら歌うからである。しかし、手ぶらでキリスト教に道を求めこれからこの未知な世界に踏み込もうとする人がその歌を理解し素直に共感できるかはについては甚だ疑問が残る。
(了)

 

2003/04/10()

小さき花

受洗から1年たって

 

大学の聖書研究会でオブザーバーとしてお世話になった真生会館のシェガレ神父さんに20年ぶりのメール。洗礼と堅信の報告とお礼。
カトリック研究会の流れをくむ伝統ある会ですが、当時は信者はゼロ。アンチキリスト教の法学部の学生たちが中心。自分は賢いと天狗になっている学生たちもかなわない幅広くて深い学識をお持ちの神父でした。ハイライトをくわえながら、表情豊かに話す明るい人柄も魅力的でした。
日本語では自分の思いを十分に伝えられなかったと当時を振り返られていますが、神父さんの存在自体が私にとって伝道でした。
パリ大学時代の学生運動の話題で盛り上がったこともありました。バスク人の血が騒ぐのでしょうか。
井上神父さんの本とシェガレ神父さんに出会ってなければ、キリスト教シンパではあったけど、信者になろうとはしなかったでしょう。それでもずいぶん遠回りしましたが。
1年たってあらためて出会いの不思議に感謝してます。

 

2003/04/08()

余白

神を呼ぼう(1)

 

「ときと
 ところと
 すべてはキリストへむかっている
 おがんでいる」

 わたしが大好きな八木重吉の詩集『神を呼ぼう』(新教出版社)にある、無題の詩である。
 ところで新約聖書におさめられている四つの福音書は、それぞれに対象とする読者がいたことが知られている。『マタイ』はユダヤ教からの改宗者、『マルコ』は異邦人へ、等々。つまり聞かせる対象が異なれば、福音の内実は同じでも、その伝え方は微妙にちがってくる、ということである。また、旧約聖書にある「詩編」はユダヤ教のものであるが、キリスト者はこれを「第二福音書」などとよんで、キリスト賛歌として読んでいるのである。
 こうした意味で重吉の詩は、「日本人へ向けた」福音書あるいは「日本人にとっての」詩編として、日本近代詩のなかで最良のものではないかと密かに思っているのである。

2003/04/10()

余白

神を呼ぼう(2)                   

 

 キリスト者であれば、日常のなかで度々聖句を思い起こす時がある。それと同じくらいわたしは、重吉の詩をよく思い出すことが多い。
     *
 先日、家族に難しい病気を抱える方から相談を受けた。話を聞いていくうちに、彼の様々な苦しみの根本には、「なぜ、わたし(の家族)ばかりが、こういう不幸に見舞われなければならないのだろうか・・・・」という感情があることがはっきりしてきた。
 「人の幸不幸は何によって決まるのか?」という問題は旧約聖書の「ヨブ記」で有名であるが、洋の東西を問わず人間が古くから考えあぐんできた疑問である。わたしは今までも断片的に拙著でこの問題を取り上げて来た。そしてさらに考えを巡らしていくうちに、この問いの奥には、「人生は何のためにあるのか?」という、人生の目的・意味の問題が横たわっているのではないかと、思うようになったのである。

 

2003/04/01()

トマト

心の準備

 

3月22日に叔母の一人が倒れ脳梗塞の可能性を示唆された。
一回目の検査で脳梗塞ではなく脳幹塞とのこと。
しかし、命が危険なことに変わりはなく、懸命な祈りの日々です。
と思いきや私も多忙と心労のためか急に体調不良に陥り38度4分まで体温が
上がってしまいました。1日で平熱に戻ったからよかったけど、
結構きてましたね。
どなたか、心の準備の方法を教えて頂けませんか?

 

2003/03/28()

如月

マーラーの歓喜(上)


グスターフ・マーラーは作曲家であると同時に優れた指揮者であった。カトリック信者であったがユダヤ人であるため苦労したらしい。(メンデルスゾーンの生涯と対照的)今ではスメタナやドヴォルザークと同じ旧チェコの作曲家と言われているが、私の中学時代には前二者はボヘミヤの国民楽派の作曲家、マーラーはオーストリアの後期ロマン派の作曲家と教えられてきた。彼は、「自分は三重の意味で苦悩を負っている。」とし、「オーストリアの中のボヘミヤ人、ドイツの中のオーストリア人、全世界の中のユダヤ人」と死ぬまで自称していたという。

しかしながら、彼が具体的にどんな苦労をしたのかは全く定かではない。それどころか、彼は指揮者として超一流の評価を得ており、ウィーン国立歌劇場の総監督にさえなっている。

(この地位は簡単になれるものではなく、歴代の総監督には名指揮者が並び、該当者がなければ空席にしておくポジションである。ちなみに現在の総監督はクライディオ・アッバードで、ベーム、カラヤンの後、長年空席であった。)そのような恵まれた評価を得ていながら、マーラーの交響曲は決して明るくない。とにかく謎が多い作曲家である。いろいろな評論があり、それぞれまことしやかに彼の自画像を追っているように思われる。

例えば、彼は病者であったから・・という説。
確かに彼は自ら精神疾患であることを認めており、彼自身その影響が作品に色濃く出ていると主張する。それ故、彼の曲想は同じ曲の中でも一貫性がなく、場当たり的で突如曲風が変わったりするので時に難解である。一鑑賞家として一応頷いておこう。

音楽的功績から拡大解釈するなら、彼の作品ジャンルは、歌曲と交響曲に集約され、最終的に二つのジャンルを融合することを目指したものとも考えられる。マーラーは声楽の独唱曲である歌曲にオーケストラの伴奏をつけ、しかもそれを拡張した。音楽的興味からみれば、そこまでで筆をおきたくなる。これについては、もっとウンチクのある人に語っていただきたい。
2003/03/28(
)

如月

マーラーの歓喜(中)


市井のキリスト者としてマーラーの交響曲をキリスト教的に観察しようと試みると面白い発見もあることに気づかされる。一言で言うと、案外彼はキリスト教には真面目な関心を持っていたのだといえる。

例えば、第二交響曲「復活」、第四交響曲「大いなる喜びへの賛歌」がそれ。いかにもキリスト教でしょ、という題名。特に第四では「天国の生活」が描き出されている。彼としては短い曲(といっても50分くらいかかる)で親しみやすく分かりやすい。

次回に歌詞を紹介。

2003/03/28()

如月

マーラーの歓喜(下)

 

早速、歌詞を味わうところから始めてみたい。
■第四交響曲「大いなる喜びへの賛歌」
 「天国の生活」より歌詞抜粋。

注)下記の拙訳は筆者によるもの。したがって自身の能力を超えて訳し難いものは遠慮なく省略させていただいている。

 ♪私達が楽しんでいるのは天国の喜び
 だから地上の世俗の暮らしは避けている
 俗世のやかましい騒ぎなど一つも
 天国にいると聞こえて来はしない!

 何もかもこよなく穏やかに安らいで生きている。
 私たちが送っている暮らしは天使の生活。

 そればかりか実に嬉しく朗らかな私たち
 踊ったり、飛んだり、跳ねたり、歌ったり
 私達は歌う

 天国の聖ペトロの眺めている中で
 聖ルカときては、うっかりとよく考えもせず
 牝牛を殺し、肉にしてくれる

 欲しいものは何でもあって
 動物たちの方から駆け寄ってくる
 だから魚がこぞって喜びながら泳いでくると
 聖ペトロは待ってましたとばかり
 網に餌をつけ生簀(いけす)の中に走りこむ
 料理をするのはマルタさん♪
        −以下略−   
この歌詞は使徒や聖書の登場人物について聖書から読み取って性格づけをしている。ペトロが天国にいる人たちと飛んだり跳ねたりしている様子を眺めているのは、使徒言行録3:2−8の記事に基づく。ルカが「うっかり」とした記事はないが、使徒言行録全体を通して読むと分かるような気がする。

ペトロは元漁師だから魚を取るのは得意だろう。マルタはルカ10:8によれば家庭で説教を聞くよりも、接待のために奉仕するのが好きな人のように思えるから、多分、料理自慢であろう。

天国に行くと、こうした有名人に直接会うことが出来、そういう人々の仲間として楽しく付き合え、友達にもなれるというのだ。

確かに彼は病んではいた。彼の荘厳かつ薄暗い評価の林立する中で、このような信仰生活の歓喜を奏でる作品を鑑賞すると、小生としては、多少(いや、かなり・・)安心するところがある・・・。こんな自己完結してしまうのはわたしだけであろうかと思いつつ書き逃げさせていただいた。
(おしまいっ)

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余白こと平田栄一の本

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