-------
平田栄一サイン本
トップページへ

 「余白の風」86号 特集:平田栄一求道俳句100 ホームページ「今を生きることば」に集う人たちの声も載せています。俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿ください。

余白の風

求道俳句とエッセイ

第86号

2003/7/1

発行者:平田栄一

平田栄一求道俳句100

(島一木選)

1986年8月〜2003年7月(複数誌掲載句は必ずしも初出年月とは限りません)まで全発表作品約1300句より

信仰などいらぬという涼しい目をしている

神を呼び神を疎ましく生きている

1986.08 「層雲」香風林(習作欄)

以上2句俳句

切り出しにくい話に鉛筆何度も転がる

1987.01 同欄

大樹深閑と夏を貫く

1987.09 同欄

不治の病人(ひと)見舞った日の妻強く抱く

1988.「層雲自選句集」第五

『現代俳句歳時記』(現代俳句協会刊)「夫婦」の項に採録

妻に憎しみ持つ夜の冷たい足

1989.07 「層雲」香風林

恋に恋した頃もあった洗い晒しのTシャツ

1989.08同欄

言った言葉に嘘はない蝉しきりに鳴く

1989.10 同欄

母の帰りを待ちわびていた子の冷たい手

1990.02 同欄

手相見にもう客がいて浅草仲見世師走の朝

1990.03 上田都史著『自由律俳句とは何か』(講談社)所収。

病室にともす早い灯へ蜉蝣の命透けている

1990.04「層雲」香風林

捨て猫らしい声遠のいてゆく街の黄昏深くなる

1990.05同欄

来ない女を待つブラック一杯分の夕陽

1990.08「層雲」麗日集(自選欄)

『自由律俳句とは何か』所収

口笛軽やかに少年の抱く鳩の温もり

1990.09 同欄

捨て置け 神が拾う

1990.10 「青年句会報」

不発弾眠る杜の蝉しぐれ

1990.10 「層雲」麗日集

角川書店『俳句』91年11月号グラビア頁

父を呪った日から詩が生まれる

1991.01 「層雲」麗日集

失業中きのうと同じカーテンの位置

1991.02 「青年句会報」

マガジンハウス刊『鳩よ!』創句巻頭

戦禍告げる無言の速報文字

1991.06 「層雲」麗日集

陶器片、風すさぶ地のその昔

1991.07 同欄

月夜の海体内時計遅れがち

1991.10『俳句空間』新鋭作品「地下捜索」宇多喜代子選

風鈴自在に朝の水中感覚

1991.12 「層雲」麗日集

黄昏に置くレモン風台風沖へ去り

1992.01 同欄

荒れ野にて母と女が交錯す

1992.04 同欄

精子揺籃期 朝のトマトまるかじり

1992.04 同欄

亡父を語る生徒の膝に置いたかたい拳

1992.06 『鳩よ!』「創句」入選

月 背中で祈る

1992.06 「青年句会報」

利き耳立ててる街路樹 人間不信

1992.08「層雲」終刊号異色作家競作

始祖鳥飛ぶ交差点イエス振り向く

1992.09『俳壇』特集自由律口語競詠「始祖鳥」

乳飲み子が遠目に見ている磔刑図

1992.10 第29回「現俳協大会句集」

散文的朝、韻文的夜

1992.10 『鳩よ!』創句巻頭

蝶の舞う崖っぷちに佇つ午後三時

1993.01 「層雲社通信」

訃報聞く朝の冷たい受話器

1993.02 創句

アースに触れた夕日 もう泣かない

1993.03「短詩形ネットワーク」26号

第1回首都圏口語俳句大会注目句

蝶ひとひら 改札で呑む強心剤

1993.03「俳句ポエム」

月刊『宝石』創句入選

第9回俳句ポエム賞優秀作品「黎明の夢」所収

亡者集う茶箪笥の奥の水晶玉

1993.03 第9回俳句ポエム賞優秀作品「黎明の夢」

産声以前 たしかに溜息

1993.06『俳句空間』新鋭作品選外佳作

射祷(マントラ)くり返し赤ん坊は空を飛ぶ

1993.12新鋭作家俳句集『燿』(弘栄堂)所収

美少年Aいつから鍵穴を覗く癖

1993.12同著

もう決めたから終ったから今を生きる

1994.03 「層雲社通信」

テキストのないまま君を愛せるか

1994.05 『現俳協青年部論作集95』

あと一日は待つ一日が雨

1994.05 「層雲社通信」

闇/逆手にとる

1994.09「青年句会報」

椅子 百年の倦怠を運ぶ

1994.11「層雲社通信」蒼海集

(プネウマ) この身いただいたものばかり

1994.11 『短詩型交流合同句集95』      「福音自由律」

群衆をすりぬける神ひとり

同上

夕べ鍵穴から預言者が出てゆく

1995.01『現俳協青年部論作集95』

『現代俳句歳時記』「基督教」項目に採録

雲を喰い尽くした植木屋の消息

1995.05 『現代歳時記』(成星出版)「植物園」項目に採録

砂に埋もれた櫛が公園の日永

1995.05「層雲社通信」蒼海集

死出の旅たとえば豆腐の上を往くような

1995.06『現俳協青年部論作集95』

花絶えし花壇 忘却は罪ですか

1995.10 同上

雷鳴七つ のちの虹 のち広場

1995.11 『21世紀俳句ガイダンス現代俳句協会創立50周年記念青年部論作集97』

接線の虎落笛 闇と光の

1996.05 同上

玉葱を文学するなんて マルテが嗤う

1996.05同上

愛と哀しみの相関 そのXが解けない

1996.07「層雲自由律」蒼海集

妻のいびき押し寄せてくる白樺林

1996.07 『21世紀俳句ガイダンス現代俳句協会創立50周年記念青年部論作集97』

酔いどれ黄金虫 起きよ 手をのばせ

1997.01『青年句会報』「続 触れる神」

入日ドラゴンの舌に帆を立て

1997.02 『現代歳時記』「竜」項目へ採録

真冬日のマンションに棲む聖マリア

1997.02 同上「真冬日」項目へ採録

晩鐘のように母の小言を聞く

1997.07 『月刊宝石』

飲みかけのグラスに映る顔がない

1997.07「層雲自由律」蒼海集

弱さも神の豊かさカルピスすする

1997.09 同上

地球の接線を垂直に生くるタンポポ

1997.09 同上

煙草くゆらす修道士 千年ジャムを煮る

1997.10 「青年句会報」

昭和駆け抜けて樟脳匂う

1998.05「層雲自由律」蒼海集

離人症の足裏疼く夏木立

1998.07 「豈」初出「who's who」

わが肉こそ不気味の極み冬の虹

1998.07 同上

木の影人の影濃くなって八月十五日

1998.09 「層雲自由律」蒼海集

ピンポンのボールの速さ去年今年

1999.00 「豈」

合わせ鏡の奥へ奥へと水中花

1999.04 「青年句会報」

遠く近く鳴くこおろぎ悠久を這う

1999.10 同上

冬瓜煮ても焼いてもボーナス減

1999.12 同上

神を待つ木が季を待つように

2000.01「層雲自由律」蒼海集

しまい忘れた風鈴へ三寒四温

2000.03 同上

闇に曳くレールに傾ぐ彼岸花

2000.05 同上

緑陰の導管しずか壮年期

2000.06 「青年句会報」

春、青い絵ばかり描いている少女

2000.06 同上

虹かかる生死を渡るイエスかな

2000.10 「豈」

祈りを忘れていた虚無が手のひらにある

2001.01 「層雲自由律」蒼海集

霧笛冴え渡る北窓開けて一服

2001.03 同上

バイトから帰った長男の背丈また少し伸びたような

2001.03 同上

珈琲甘く入れ咲き初めし紫陽花の白さ

2001.09 「余白の風」

以後、「青年句会報」を改称、広く詩と信仰の場とする。

陽炎に揺れる無音の花電車

2001.11「豈」カインの裔

清貧という遊行流行る世紀末

同上

死を語るほどロマンチックな春の宵

同上

晩年と思う夕陽や日々草

同上

多発テロ葡萄の重さ手に余る

2002.10「豈」黄金海岸篇「永遠なれば」

会うてさて話す事なし聖母祭

2002.11「紫」山紫集

暑さを言いドラマツルギー始まりぬ

同上

辺境の月こそ光れ世の闇へ

2002.12 同上

我が内に我が牧者あり秋の暮

2003.01 同上

讃美歌に流され午前三時の牛丼

同上

神の使徒コスモス風に揺れ止まず

2003.02 同上

実のなる木ならぬ木もよし冬に入る

2003.03 同上

死後三日ポロンと鳴りし冬のギター

同上

逃げ水を追うて迷いし羊かな

2003.04 同上

寒鯉の欠伸に出ずる銀貨かな

同上

わが身にも御業成るべし春の風

2003.05 同上

イエス様も乗っていなさる遠足バス

2003.06「豈」

長き夜の夢に押されて発つヨセフ

2003.07 「紫」山紫集

 

今月の投稿作品も心なごみますよ! ゆっくり味わってくださーい。

信仰と自然 その2  島 一木

サマリアの女の手より水は澄む

 

幼な児よ枯れ野の道を整えよ

 

蟋蟀にひそかな思いがあらわれる

 

笑っているほらそこの君 桐一葉

 

泣いている君は幸せ山笑う

 

秋の灯は燭台の上に置いてこそ

 

泉にあふれることを口は語る

 

人はみな神の救いを懐手

 

すでに置かれた 斧は枯木の元に

 

ヒロシマや塩気なくした塩ばかり

 

<余白の風第85号 俳句感想>

耳塞ぎ、読んでまぎらす、神父の声

     まいまい

 はっはっ。笑えますね。ぼくも以前は居眠ったことあります。でも余白さんが書いてるように、聖職者はイエス様の代理と考えるとけっこうヒントもらえるんですよ。

ほほえみは 花にとけたアンジェラス

    緑の風

 詩的ですね! 詩の方も楽しみにしています。

風になってこられた

    比田井白雲子

ごめん いわしがうまい   

 一句目、旧約の列王の書上19:12を思い出します。「火に次いでそよ風の音。エリアはその音を聞くとがいとうで面を覆い、外に出てほら穴の入口に足を止めた。すると声が聞こえた、『エリアよ、そこで何をしているのか』」(バルバロ神父訳)。この箇所を読んだとき私はぞくっと身ぶるいがしました。

 

神先に戸をたたいて居まし給ふ  なん

 思い返すと確かにそうなんですよね。私など明らかに助けられても別な方向へ行って遠回りしたり、何と気づきにくいことかと思います。それだけ人類が傲慢で勝手になってるんです。

寒戻る祈りの果実疑わず     余白

暮れてなお優柔不断春の海     〃

わが身にも御業成るべし春の風   

いかにても祈り聞かるる春霞    

祈るごと人は紅葉となり行きぬ   

わが咎なりわが罪なりと木の葉散る 

涼しかり神ひそやかに世をつくる  

 七句目、不思議なリアリティを感じます。いつも隠れて世をつくられる。重要なことは人の目にはとまらずに、ひそやかに・・・・と。

------------------------------------------

福音短歌 その8  島 一木

偽預言者を警戒せよ

羊の衣で 正体は

強欲な狼である

(マタイ7:15)

わたしに向かって

「主よ、主よ」と言う者が

皆 天の国に入るのではない

(マタイ7:21)

聞いても 行わない者は

土台なしで砂の上に

家を建てた人に似ている

(ルカ6:49)

ただお言葉だけで十分です

そうすれば 私のしもべは

いやされます

(マタイ8:8)

イエズスの 衣のふさに

手を触れた 触れるだけで

治ると思っていた

(マタイ9:20)

信仰と自然 その3  島 一木

偽善者よ目から氷柱を取りなさい

 

飢えている人は幸い馬肥える

 

キリストの眼差し露の世のともしび

 

天高し人をすなどる漁師にしよう

 

してほしいことをしなさい風光る

 

草の花小さい者こそ最もえらい

 

金持ちの門前いつも凍死人

 

夏霞湖上の影はキリストか

 

天からのパンの生命や泉湧く

 

木枯らしや絶えず祈れば守られる

 

福音短歌 その9  島 一木

神のみ旨を

行う者は だれでも

わたしの兄弟 わたしの姉妹

(マルコ3:35)

あなたたちを 遣わすが

羊を 狼の中に

送るようなもの

(マタイ10:16)

蛇のように賢く

鳩のように素直になれ

人を警戒せよ

(マタイ10:16)

来たるべき かたは

あなたですか それとも

ほかのかたを待つべきですか

(ルカ7:20)

彼女の 多くの罪が

ゆるされたのは 多くの

愛を示したことでわかる

(ルカ7:47)

(無題)  なん

うぐいすの声清すぎる今日の朝

人の罪とか考えていたからなのか、うぐいすの鳴き声がいつもより澄んで清く、それがすぎるくらいに聞こえて来て、罪とかは人だけにあるんだなーと、思わず悲しくなって来るような朝でした。

星星を眺むる我に清き風

星をじっと眺めてるうちに、だんだんと自分の内側から清められていくような気持ちになった事がありました。

しんしんと輝く星も神の業

 (無題)  比田井白雲子

みすずさんがさえずっておられる、ほら

 

小鳥は鳴くだけ 私どうする

 

空気は カミカミができぬ

 「アッバ讃句」、深い感動を覚えます。求道者ではない私には、南無の心、アッバの思いの深さは実感できません。しかし、飾らずありのままに率直に詩った言葉には、力があり、人を感動させるのだと思います。他人に認めてもらおうとか、うまく作ろうという心が、全く無いことが、感動させる原因だと思います。私もこんな境地になりたい。

比田井白雲子句集『求心』発刊 

余白

おめでとうございます。

イブ、風の迷路

風は 神様からのおやつです

テレジアに逢うのが遅かったと酒

等々、氏はキリスト者ではありませんが、わたしたちにとっても求道俳句として黙想に値する素直な句が、満載されています。

(層雲自由律事業部発行:1300円)

 

求道 20句(2003年6月『豈』36号)           余白

冬日さす図書館銀河の一点へ

 

冬枯れの舌点々と門の外

 

外灯に群れることなし冬の蝶

 

生温き炬燵に刺さる楔文字

 

異端とは何ぞとロムる秋の夜

 

正統を名乗る人いて秋寒し

 

イエス様も乗っていなさる遠足バス

 

秋雨にさきたま煙ることもあり

 

この秋を晩年と思う在所かな

 

言わずもがな図書館晩秋咆哮す

 

平らかに死を願う朝花曇り

 

イエスというモノに触れたし昼下がり

 

定型に盛るキリストや秋歪む

 

赤い羽根床に貼り付く多発テロ

 

校舎から言霊吊し眠い秋

 

冬へ向く雑魚の目数多憂いなし

 

あばら骨門地無用の主の救い

 

携帯や昨日の話は明日のため

 

父の輪に立つ十字架や秋果てる

 

雲飛ばす秋風深き憂い持つ

「紫」2003年6月号  余白

春愁や生きるはキリスト死ぬは益

 

炎天に奇跡の水を呑みて佇つ

 

系図ごと背負いて御国へ秋の空

 

重吉の秋に会うてか老い易し

 

人生の帳尻如何に復活祭

 

日陰こそ年々歳々ニラの花

 

生けるものすべて春野に抱かるべし

 

イマイキ共同日記
by管理者推薦作家

2003/06/23(月)

小さき花

南無アッバのミサ                       

梅雨の晴れ間、天気に恵まれたミサでした。
急に暑くなりましたが、井上神父様はお元気そうで、声に艶があり嬉しかったです。この3か月、新聞等にぎやかだったのでお疲れではと案じておりました。
第一回より参加者が多かったように思ったのは気のせいでしょうか。
祝福をいただく人が多いのも、外に向かって開かれたミサのすばらしいところと思います。
信徒だけで内に向かってしまう教会が多いことを憂えるH神父様などが見たら、喜ばれるだろうなと思ってました。
白い祭服に、紅葉が襟にあしらわれていました。良寛さんの「うらをみせおもてをみせて散るもみじ」の句が浮かびました。
明るい聖堂での静かなミサ。心豊かな時間をいただきました。
7月の三越劇場での講演会、10月4日のミサ。楽しみにしています。

2003/06/03(火)

いわたばこ

:信仰の難しさ 信仰にいたる難しさ      

 信仰を全うするって難しい、人間には不可能な事だとはよく言われますね。
それに比べて、信じる事それ自体は気軽に「信じなさい」といわれてしまう事があります。でも、たとえその制約をまっとうできていないにしても神を信じている人には「信じている」こと自体はあたりまえで容易にみえるのでしょうけど、信じたい気持ちがあっても信じられていない人にとってはそこが巨大な壁なんですよね。
 壁なら梯子をかければいいけど、「信じる」っていうのはどうやったらいいかマニュアルがまったくない感じ。( いわば、数学の難問で、どうやったら解けるのかわかっていなくて困っている問題をどうやったら「解く」ように「考える」ことができるのか、そのやり方それ自体がわからないのにも、「信じる」事・信仰の第一歩それ自体の難しさは通じるように思います。)
 遠藤周作氏の著作を読むと、何か切なさやじぶんに収まりきれないもの( 信者ならそれを超越者と呼ぶのでしょうか? )を感じさせられはします。この感じるのは一歩目なのだろうか?と思わされます。 が、そこから、「イエス・キリスト」や「キリスト教」へと収束する次の一段をどうやったら登ったらいいのか? とてもとまどってしまいます。 遠藤氏が一生かかって追求せざるをえなかったのも、その一歩なのでしょうか?

2003/06/01(日)

余白

:主の昇天の主日                       

今日の聖書朗読から感銘した箇所を抜粋します。
「神の招きにふさわしく柔和で、寛容の心を持ちなさい。主はすべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。わたしたちに、はかりに従って、恵みが与えられています。こうして、聖なる者たちは業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、一つのものとなり、成長するのです。」(エフェソ4)
「それぞれに与えられた賜物を生かすことができますように──キリストは復活し、いつもともにいてくださる。」(共同祈願)

 

ホームページ掲示板imaikibbsからの抜粋です

▼余白
>小さき花さん共同日記
>祝福をいただく人が多いのも、外に向かって開かれたミサのすばらしいところと思います。<
井上神父が教会外の人達への宣教を目指した成果が実りつつあるように思います。
6/23(月)

▼余白
Re:N.K.さん
> 昨日の四谷でのミサでは本当にお世話になりました。
> そして、この「出会い」を与えてくださった神様に本当に感謝しております。
> 帰宅後、夫にミサとミサ後の話をしたら、珍しく興味深く聞いてくれました。(いつも仕事で超多忙な彼とは会話する時間もないのですが、昨日は偶然にも仕事が休みだったのです。)
> 夫が最後に言った言葉は「イスラエル」に一度行ってみたいなぁ〜と。(但し現在、当地方は悲しいことが続いており、観光できるほど余裕のある地ではありませんが・・・)
> さて、余白さんは高校の教師でらっしゃるから、一度私の「持病」の話を聞いていただきたく思っております。
> なぜなら、私の持病は思春期のころに発病しやすく、また非常にやっかいなことに、周囲や当の本人でさえも「病気」と気付かずに悪化させてしまうことが多いからなのです。
> そして、一番病気の兆候に気付き易い立場にいる方が「教師」の方々です。
> けれど、大変残念なことにこの病気に対しての認知が現在でも大変乏しく、学校で見過ごされてしまうことが実に多いのです。

はい、わたしも過去に、そうした生徒を担任しました。そのときの話をもとに、『雨音のなかに』で少し書いています。
わたしも持病を持っている身なので、、、

> 詳細については、後日この掲示板上ででもお話します。(私は「患者会」の役員をしているので、とくに公表しても構わない立場ですので)
> では、取り急ぎこの度のお礼まで。。。

はい、またゆっくり書いていってください。
ここでは具体的なレスがつかなくても、祈りのうちに見守ってくださっている方は、たくさんいますから♪6/23(月)

▼余白
Re:ストレイシープさん
> 土曜日は思いがけずお話できてうれしかったです。

ほーい、いつでもまた来てくださーい!6/23(月)

D&D's daughter
Re:N.K.さん
土曜日はど〜も♪
私は来年、仕事でエルサレムに行く予定でいます。それまでに落ち着いてくれるといいなって。みこころに従う気でいますが・・・6/23(月)

D&D's daughter
Re:のぶちんさん
> おひさしです。結婚して旦那と聖書の読み合い分かち合いしてます。先日はマザーテレサのビデオを見て神様の愛について話し合いました。クリスチャンホームっていーなー。

はいはい。幸せそうで何よりです(^^)。安心しました。6/23(月)

▼余白
Re:小さき花さん
> パソコン直りました、というか、操作ミスでした(恥)
> 100句選、句日記いいですね。自分では作れないけど、人の句を読むのは好きです。短い言葉からいろいろイメージが広がります。
> イエズス会の東京黙想の家で日帰り黙想会に参加しました。婦人会の企画でしたが、参加者が足りなくて、会員でないのに声をかけていただきました。
> どこか見覚えある雰囲気の建物だと思ったら、元々カルメル会の修道院で、今その修道院は、家のすぐ近所に移転し、シスターたちも移られたとか。
> お目にかかったシスターたちが長く住んでいたところでした。和洋折衷のつくりなどよく似ています.扇風機も暖房もない生活、昔も今も変わらないそうです。
> 黙想の家になって、冷暖房施設がつきました。
> 講話はカルメル会の話ではじまり、十字架上で死にいたるまですべての人間を尊重し、感謝し、愛し赦し祈っていたイエス.それを見守る聖母。その十字架のキリストが聖体に現存するというカトリックの信仰のありがたさ。
> 参加者全員で祭壇を丸く囲み、皆で聖体を同時にいただくミサ。
> お昼ご飯は量も品数も多く、おいしかったです!!

それはそれは、最も贅沢な時間だったかもしれませんねー。一人で祈るのもいいけど、祈りの時間の共有も大切ですね♪6/19(木)

▼まっきー
今朝は、仮眠中でメル友のモーニングメールで目がさめました。
家の人間以外の人から、起こしてもらった事が何だか、とても嬉しくて・・<何故?

何か、最近思うのですが、人への生活や人生の関わり方って色々有るのですが・・・
一里塚みたいな、関わり方が出来ると良いなー
って最近思うんですよね・・・。6/18(水)

▼余白
Re:訪問者さん
> アジサイ、綺麗ですね!季節の変化が表現されていてとても素敵です。

ありがとうございます。
梅雨だからといって気持ちまでじめじめしたくないですよね。紫陽花のように、爽やかに生きたいものです〜♪6/17(火)

▼余白
Re:訪問者さん
> 先日紹介いただいた余白さんの「雨音の中に」を読ませていただいています。いろんな疑問についての答えが分りやすく書かれていると思います。機会がございましたら他の本も読ませていただこうと思っております。事後報告ですみませんがこの本は「826村」というホームにも紹介登録させていただきました・・。

まことにありがとうございます。
『雨音のなかに』の内容はさておき、この本と『人の思いをこえて』は、ヨルダン社というプロテスタント系の出版社がカトリックである著者の本を出した、という点も、面白い感じがします。
そういえば、井上神父の本も多く、日本基督教団出版局から出ておりまして、エキュメニズムの一端を垣間見るようです。6/10(火)

▼小さき花
「井上神父に学ぶ聖書講座」より
イエスの生涯にこだわったとき、一般の神学者と違って井上神父も遠藤さんもイスラエルを何度も訪れ実際に歩き、イエスは何を思い巡らせたのか、イエスの生涯はどういうものであったのかを考えました。実際にその場所を歩いてユダヤ教の生まれた風土とイエスの育った風土の違いを体験的に問題にしています。
朝日新聞「こころ」最終回で井上神父のインタビュー「旧約的キリスト教から福音的キリスト教へ」が掲載されました.『南無の心に生きる』『風』で既に述べられている内容ですが、朝日ということで大きな反響があり、カトリック新聞、キリスト教新聞でもとりあげられました。『目には目を歯には歯を』、大辞典で「イエスが山上の垂訓でも述べている」と誤解を招くような説明さえあります。実際は、逆に復讐、報復はするな、敵を愛しなさいというのがイエスの教えです。旧約の報復の戦争、聖戦を否定しています。
旧約と新約で対立する部分があるので、ユダヤ教の神とキリスト教の神は別のものという疑問がでます。同じ唯一の創造神、全ての命の源である神であってもその神の性格、姿をどのように捉えるか、どう伝えるかが違っています。
イエスの伝えるアッバは善人にも悪人にも太陽や恵みの雨をふらせるかたであり、善人悪人を区別し、悪人を憎み善人を愛する旧約の神とは違っています。
神の性格をハッキリさせ、神はどういう方なのか、矛盾なくとらえるには、イエスの伝えている神のイメージを根本におき、焦点を合わせることが重要だと井上神父は述べています。
 ユダヤ教の神とイエスのとく神のとらえかたの違いには風土の違いが背景にあります。風土はものの考え方、感じ方に大きな影響を与えているものです.神のイメージの背景となる風土、その風土の違いからうまれる宗教性の違いは大きなものがあります。
井上神父と一緒にイスラエルへいくと、いつも荒野の町で一泊します。夕暮れの美しさは『死海のほとり』表紙写真のように、美しく神秘的です、しかし夜になると星は輝いているが風が吹き荒れます。周りに神の気配、命がない世界です.超越者である神の言葉が垂直に下ってくる感じで、人間の卑小さが実感できます。私たちが親しみを感じる自然の姿と違っています。
厳しい風土の中、ルールを守らなければ荒野の中で暮らせず、共同体が滅んでしまう。厳しい神の掟が必要です。
 一方、100kmほど北上したガリラヤ湖周辺は自然の命に満ちあふれています.色とりどりの野の花(アネモネ)が咲く、豊かな農村地帯です。ガリラヤ湖は豊かな漁場です。
イエスの最初の弟子が漁師でした。海の幸は人が手を加え、収穫するものではなく、恵みであり、漁師は自然の恩恵にあずかる職業です。
 イエスが洗礼者ヨハネ教団のもとを離れたのはなぜか、なぜ『死海のほとり』というタイトルで、「ガリラヤのほとり」ではないのか。それは自分の風土の中につかっている時ではなく、異質な文化、考え方の中にあって本当に自分が求めているものが何であるか、自覚するからです。イエスは死海のほとりで神がどういう方であるか、それを伝える自分の使命を自覚しました。
これは井上遠藤両氏にも共通のことです。井上神父はヨーロッパに骨をうめる覚悟で溶け込もうとしたが、異質な文化の中に入っていけず、逆に自分自身の中にあるものは何かをみつけたのです。

風土と宗教性の結びつきなどの話は昔専門だったのでなつかしく聞いてました。
季節はずれの台風を避けるため、始発の新幹線で上京した山根さん、ご苦労様です。 6/2(月)

▼余白
Re:小さき花さん
いつも、貴重なご報告ありがとうございます。
イエスは洗礼者ヨハネ教団のなかで、ますますアッバと呼べる神観への確信を強くしていったのでしょう。
最近、レオン・デュフールを少しずつ読んでいますが、教会では常識として定着しているような教義や信仰宣言を、最初の趣旨にもどり、また現代に引き付けて見直す作業が必要なのだと思っています。6/2(月)

▼猫目Re:まいまいさん
>>プロテスタントの合同教会では、さいきんは
>>「使徒信条」よりも、自分たちで現代的な信条
>>を制定し、それを唱和するように変わってきま
>>した。
>  とてもすてきな事に思えます.古代においては特に異端vs正統の線引きは<一面>キリスト教そのものを確立させるために要請された必要悪だったと考えていますが,今となっては単なる<不要物>に成り下がっている感じがします.
>  特に,古代の神話論的世界観と形而上学とを前提としてその枠組みで語られた信仰の定式化は,真摯にキリスト教信仰と対峙しようとすればするほど現代人の多くにとって<躓き>の種となるのではないでしょうか.
>  信仰内容もその定式化も,時代と文化に合わせて変容していくものであるべきだ,と考えさせられます.
>>カナダ合同教会の信条など、かなり現代人の感
>>感覚に近いと思います。
>  どのような信条が造られたのかとっても知りたいです.

まいまいさん

コメントを頂き、ありがとうございます。私が現代的だと感じた、カナダ合同教会の信仰告白は、次のようなものです。
新しい信仰告白(カナダ合同教会)
人間は孤独ではありません。人は神の世界に生きるものです。
私たちは神を信じます。神は創造の主であり、今もなおその御業をなしておられます。神は真実の人、イエスとして、和解と革新をもたらすためにこの世に来てくださいました。
神は聖霊によって、私たちと他の人々のうちに御業をなされます。私たちは、(そのように)神を信じます。
神は私たちをキリストの教会であるようにと招いてくださいます。その臨在を祝い、他者を愛し、他者に仕え、正義を求めて、悪に抵抗し、十字架と復活の主イエスを宣べ伝え、私たちを審き、私たちに希望を与える方を私たちは証しします。
生きている時も死ぬ時も、死のかなたにおいても、神は私たちと共にいてくださいます。
私たちは孤独ではありません。神に感謝をささげます。
(一九六八年、カナダ合同教会総会にて採択)

現在、プロテスタント教会では、カトリックとプロテスタントの『共同訳聖書』を使うところが(私が知る限り)多くなっていますから、将来的には、カトリック教会と合同で礼拝を行うことも可能だと思っています。同じイエスに従う者という原点に戻れば、歴史的な分裂を克服できる時点が、近づいているのではないでしょうか。夢でもよいからそう思いたいです。6/1(日)

▼余白Re:猫目さん
> 異端とは何ぞとロムる秋の夜    余白
> 正統を名乗る人いて秋寒し     余白
> イエスというモノに触れたし昼下がり 余白
> 定型に盛るキリストや秋歪む    余白   
> 余白さんの最近句を読ませて頂きました。正統と異端の問題が、主題ですね。気持ちはよく分かります。教義によって包まれたイエス様は、近寄りがたくていやですね。本当のイエス様は、故郷のおじさんみたいに、親しみ易くてすぐにでも話しかけたい存在だと思います。教義の対象ではなく、「イエスというモノ」ですね。
> そんなことを云うと、すぐに異端だとか云う人がいますね。「使徒信条」だって、グノーシス派やマルキオン派を、異端と決めつけるところから制定されたのです。
> 井上神父さんのお考えも、ある人びとから見れば、異端的と見なされるのでしょうが、私にはイエスさまのお考えに、かなり近いと思っています。異端などと云う人には、云わせておけばよいのです。プロテスタントの合同教会では、さいきんは「使徒信条」よりも、自分たちで現代的な信条を制定し、それを唱和するように変わってきました。カナダ合同教会の信条など、かなり現代人の感覚に近いと思います。
> 以上、余白さんの俳句に啓発された、感想です。

まったく同感です。私たちは異端か正統かで生きるのではありません。イエス様の人格に触れて生きるのです。
その人格の中心を井上師は、アッバへ帰依する心、と看破しました。見事だと思い、私もそれに習いたいと思う者です。5/30(金)

▼まいまい
 最近、聖書の講解書のようなものを読み始めました.
 今まで,聖書は読み方がわからず敬遠していましたが,講解タイプだと,聖書を読んでのエッセイか感想文のように読めるので,(著者の意見の是非はともかく)解釈の真偽を問う事へのプレッシャーがなくてうれしいです。(ただ,牽強付会な感じは否めない本なんですけどネ.)5/29(木)

▼余白Re:綾さん
> はじめまして、場違いな書き込みでしたら削除してくださいませ・・・
> 大学1年の女です
> 今私は大学の授業で遠藤周作とキリスト教がどのようにかかわっていったかをまとめようとしています。
> 五分ほどのスピーチがしたいのですが、何か参考になる本はないかと思い、キーワードを検索しているうちに此処にたどり着きました
> 何ゆえ来週までなので(汗 ちょっと焦っています。
> 本、や遠藤周作の思想について、等アドバイス是非承りたく、書き込みしました

あらら、来週までですかー、また5分ですかー。。。それは(汗)ですねー(笑)
もし、一冊ぐらい読んでいる余裕が在れば、『私のイエス』とか『私にとって神とは』などがお薦めです。
その余裕もなければ、ここのサイトに「遠藤文学」というサブサイトがありますから、遠藤研究者の山根さんの論文・講演集を打ち出して、まとめてみたらいかがでしょう?

応援していますよー、頑張ってくださーい!5/29(木)

▼余白Re:のぶちんさん
>  皆さん、おかげさまで10日前に結婚しました。皆さんの協力ですべて手作りのあったかい結婚式で感動しました。旦那のPCがあるから、これからちょこちょこ遊びにきまーす。新婚旅行先のウィーンでカトリックのテレーズの写真をよく見ました。

やったねー、のぶちん!
幸せそうだねーって、あたりまえかー
2,3年前の頃を思い出すよ。。。神様はやっぱり、万事を益となす(ロマ8)のだとつくづく思う。。。
ほんと、おめでとう!!
ここにも、しょちゅう遊びにきてね、旦那様にしかられない程度に。。。ぷぷ5/28(水)

▼小さき花
昨日のNHK新日曜美術館は「彫刻家・舟越桂 語りかけるまなざし」という題でした。 
彫刻家舟越保武氏の息子。自分の制作の転機となった聖母子像に再び会うという設定で、北海道トラピスト修道院を訪れます。
大修道院長と舟越氏の会話や修道院聖堂とミサの様子が写っています。
聖堂の祭壇に釣り下げられた2メートルの聖母子像.アップで写され、細かな部分や表情もよく見えました。どこかなつかしい仏像のような柔らかい表情.慈しみ深く見下ろす姿が印象的でした。 5/26(月)

▼余白Re:訪問者さん
> 余白さんの本についてお尋ねします。このホームで4冊ほど紹介されていますが初めて読むにはどの本がお薦めでしょうか?目うつりしてしまって決められません・・ので。

はい、ありがとうございます。
もしキリスト教や聖書について初心の方でしたら、『今を生きることば』か『やわらかな生き方』がいいと思います。
ある程度聖書などお読みでしたら、『人の思いをこえて』か『雨音のなかに』がよろしいのではないでしょうか。5/25(日)

▼余白Re:なんさん
> こちらの希望の神学(6)にも、(そこではイエス様の肉体の死に関して使われています)自我否定による自己完成という言葉に、私は納得させられたし、それにあの時は、井上神父様はこう仰られるんだとの事で、信仰の秘訣は自我否定と仰られたように記憶していたんですけど、違っていたのかもしれません。
> 何遍も要領のえない事ばかり書いてすみませんでした。

はい。イエス様の肉体の自己否定から自己完成というくだりですね。
ただ、私たちとイエス様との即類比ということになると、簡単ではないように思うのです。
私たちはイエス様のように透明な心を持っていませんから、自我を否定しようと自力で努力すればするほど、抑圧によって罪悪感ばかりが募ってしまうのではないか、という心配です。
ちなみに、くわしく調べてはいませんが、井上師は、近年の著作では、自我「否定」という強い言葉は使わず、「相対化」を用いているように思います。5/25(日)

「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿ください。

投稿・連絡先:平田栄一 HP「今を生きることば」

Google

 

Web

www.d6.dion.ne.jp

www.globetown.net

imaiki.fc2web.com

 余白こと平田栄一の本

「今を生きることば」に戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送