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「余白の風」 求道俳句とエッセイ 89号 2003/10/1
(余白の新エピグラム)
ロザリオ(四十六字歌):島 一木 聖母賜えるロザリオの夜更けをぬって寝ず編む花輪や黙想に説きし小道へ夢ひらかれん ロザリオの祈りは、お祈りの仕方がちゃんと決まっています。ロザリオも、ロザリオの祈りの仕方について解説した冊子も、キリスト教専門(特にカトリック修道会が経営する)書店には必ず置いてありますが、ここで簡単に説明しますと、マリアへの受胎告知から始まり、主の御受難・復活・昇天と色々な場面について黙想することにより、キリスト教に伝統的な徳や恵みを一通り身につけられるようになっています。 さて、このロザリオの祈りの効用について、私が実際に経験してきたことを述べてみたいと思います。第1に、ロザリオの祈りの習慣を身につけると、物事にくよくよすることがなくなります。他の人に対して優越感や劣等感を抱くことがなくなります。第2に、余った時間を持てあますことがなくなるので、いらいらしなくなります。ポケットからロザリオを取り出してこっそり祈れば、時間を無駄につぶすこともないわけです。第3に、すでに述べた効用とも関連しているのかもしれませんが、精神的な集中力が向上します。ロザリオの祈りは、一環終えるのに30分ほどかかりますので、忙しい人には時間がもったいないように感じられるかもしれませんが、お祈りする方がかえって仕事がはかどるのは不思議なほどです。馴れれば電車の中でも祈れますし、祈ればたちまち精神状態を一定に安定させることができるので、非常に便利な祈りだと思います。実用的な効用ばかり述べましたが、信仰面で成長できるのはもちろんのことです。 次に、少し変わった効用について述べます。うっかりして大切な物をどこに置いたか忘れたり、コンサートのチケットなどをどこに仕舞ったのかいくら探してもみつからないときに、ロザリオの祈りをしながら探すとすぐにみつかるし、どこに仕舞ったかすぐに思い出すということです。これは、先に述べた精神の安定作用や集中力の向上と関係があるのかもしれません。では、もう一つ。待ち人が約束の時間を過ぎてもなかなか来ず、道に迷っているのではないかと心配なとき、今なら携帯電話を持っていれば簡単に連絡が取れますが、携帯電話もなかった頃のことです。ふと思いあたって、ロザリオの祈りを始めたのです。すると一連を過ぎたと思うまもなく待ち人が現れて、「道に迷ったけれど、急にこっちじゃなかったかと思い出した」と言うのです。こうなると、ロザリオの祈りは超自然の領域ともつながっているんじゃないかとも感じられますが、そういったことはある程度の実践が伴わないと理解されないし、説明もできないので、これ以上は書きません。ただ、私の体験から考えても、こういう不思議なお恵みもそう珍しいことではないとだけ申し添えておきます。 ロザリオの祈りは現在、カトリックの信者の間だけでなく、プロテスタントの間でも広がりつつあると聞いています。私は、この祈りは、洗礼を受けていない未信者の人にも役に立つ祈りだと思っています。事実、私はまだ教会に通うようになる以前からこの祈りを知って祈っていましたし、そのおかげで沢山お恵みを頂いたと証言しておきます。キリスト教についての理解も深まるので、興味を持たれた方は、ぜひ試してみられることをお勧め致します。 RE:私も 投稿者:余白 ロザリオには随分お世話になってきました。 【特集】 キリスト教の難しさ・問題点余白の新エピグラム(ICFBBS編) *キリスト教はなぜ日本で広まらないのか、そんなことをいつも考えています。 アメリカ式の大衆伝道、っていうのありますよね。 実はぼくは1980か81年かに、ビリーグラハム氏が日本に来日して、後楽園かすごい大きな集会に出たのです。そのときの内容はとりあえず省略しますが、・・・・ともかくぼくの結論として「これはとてもキリスト教にはついていけない」というものでした。これは正直な告白です。 *イエス様の聖なる怒りというのは、ぼくはやっぱり青筋型じゃなかったんじゃないかと思います。 静かに、涙をためたようなまなざしで、相手をまっすぐ見て、射抜くような怒りだったんじゃないかと。 逆に「姦淫の現場を捕まった女性」(ヨハネ8章)には、顔を直視せず(裸同然だったでしょうから)、地面に字なんかを書いたりして、視線をそらす。。。そういう、直感的に相手の生い立ちから性格、そしてなによりその人の人生の悲しみや重荷まで瞬時に見抜く。。。すごい超能力のようなものを持っている御方に見えたんじゃないでしょうか。 いずれにしろ、TPOを考えない宣教は、効果がない、ということは事実だと思います。 *いずれにしろ、信者になると負担が増える、っていうのが、邪魔してるんでしょうね。 日本でまだ完全週休2日じゃない会社とか、たくさんありますものね。 そうでなくても一週間へとへとに疲れて、日曜も半日つぶれるなんて、私なんかも体もちましぇーん、って時期ありますよ。 たとえば、会社の近くに平日ちょこちょこってお祈りできる教会があればいいんですよね。そうなると、教派こえて、平日だれでも立ち寄れるスタイルがいい。このあたりはヨーロッパなんか、うらやましいね。 *ぼくなんか、洗礼受けるとき、やっぱり反対されて、、、それがいろんな神父の人柄知るようになって、実家じゃ今、家庭集会やってますよ。 夫婦片方だけ信者ってのは、ぼくもそうなんだけど、妻だけ信者の方が日本では絶対大変だと思う。 日本人って、自分は信者じゃないのに信者に対しては「おまえキリスト教のくせにそんなんでいいのかよー」って目がきついのね。 もっとも信者同士でも、「お前見たいのはホンモノのキリスト教じゃない」っていうのも多いんだから、どうしようもないか。。。 *教会に行かなくても、信者で居られる意識改革みたいのも検討課題ですかね。 大学と高校に行ってる長男次男は、もうほとんど教会行かないんだけど、不思議と、毎朝夕「家庭祭壇」には向かう「癖」だけは抜けないんですね。 あれってやっぱ、ぼくらが小さいとき、ともかくも食事の前にお線香あげてたのと同じ感覚みたい。 こういうのも、マターリ型信仰として、ヒントになるんじゃねーですかねー。 *思い出すのは、僕が時々お世話になるフランシスコ会の修道士たちですね。 彼らの生活は質素で、物静かで、いつもにこにこ。何も説教じみたことは言わないのですが、ぼくは好んで告解の時には彼らのところに行きます。 やっぱ、信仰に引きつけるのは、説得とか学識じゃないんですねー。 「奥ゆかしき伝道」ってのは、漢方薬みたく、知らずうちに、じわりじわり効いてくんですわ〜恐ろしいもんでっせー *私は「聖書の言葉に立つ」とお互いに思っていても、その聖書の言葉は一元的に解釈できるものは、むしろ少ないんじゃないかと思っています。 ものすごす詩的で、文学的で、象徴的で、暗喩に満ちている。 熱心な信者にはよく、キリスト教は宗教じゃない、それ以上の真理だ、というような人がいますが、やっぱり私はどう考えても宗教だと思います。学問的真理と張り合ってもしょうがない。 *聖書は多様な解釈で読まれていいものだ、ということです。 もし解釈の一元性が絶対のことであったなら、イエス様はあんなに「たとえ話」を好んでなさらなかったんじゃないかなー、と思います。 聖書と本人がまず向き合って、主体的に人生の意味、イキイキ生きていく喜びをいただく。それでまずよしとしたいと、ぼくは思います。 *古くからの論争として、「行いか信仰か」ってのがありますよね。 これ、カト対プロだけじゃなくて、確かカトでも、ドミニコ会とフランシスコ会だったかなー、の同じような論争があったんですね。 善行はいらない信仰のみだ、まあ極端にいえばプロテスタントはそうして出てきたわけです。 で、じゃ善行はいいから何するか?っていうと、それが第一に聖書研究だ、ということになる。 しかしそれを一生懸命「やる」というのは、やっぱり「行い」ということになる。 つまりカトリックの「救われるためには善行せよ!」というところが、プロテスタントでは「救われるためには聖書研究「せよ」!」に置き換えられただけじゃないか、ということになっちゃうわけです。 *第二バチカン以前のカトが「ミサに出ないのは罪!」と信者を縛っていた、そのことが今、一部のプロで十一献金や礼拝出席や奉仕や果ては結婚相手まで限定されるという、状況に置き換わっている。 結局戦前も戦後も通して、「キリスト教は堅い、恐い、辛い・・・・まっぴらごめん」という日本人一般の印象をつくってしまったんじゃないかと思うわけです。 *明治からの内村鑑三を代表する儒教的キリスト教のイメージ、戦後のとくにアメリカから入ってきたピューリタン的キリスト教のイメージ、こういう道徳主義的なイメージを払拭しない限り、キリスト教は、ただでさえ苦しい日常生活に、もうひとつ大きなくびきをかけるお荷物、「いや、うちは間に合っています」と門前払いを食らうもののように思います。 *私は個人的には、科学と宗教の葛藤が、日本人の求道には大きな影響があるとはあまり思っていないのです。 たとえば、『マタイ』が典型ですが、まず処女懐胎がある、奇跡がある、たしかにどう受け取るか一つのハードルでしょう。しかし、「求道心」を起こすときというのは、単純な場合なら、「もしイエスが神の子であればそのくらいのことはあってもおかしくない」そう思って通り過ぎることもできるんじゃないかと思うのです。 むしろ、日本人のつまずきは、その後に出てくる「山上の説教」に代表される厳しい倫理規定なのだと思います。 欧米人は彼らなりにそれを受けとめ、乗り越えたのでしょうが、日本人はこの倫理・道徳を持ち出されると非常に弱いんですね。奇跡よりこちらの方がついていけない、と感じる人が多いのではないでしょうか。 これは深く突っ込めば、「罪と恥」の文化の違いなんてところまでいっちゃいそうですが。。。 もしあなたが指摘されたように、根本主義の問題が出てくるとすれば、そうした考えが現実の信者や求道者にリゴリズムを迫っていく場面で、ということなんじゃないかと思います。 もちろんそういう意味では、昔のゴリゴリのカトリックもつまずきであったわけです。 つまり聖書解釈や教義より、まず、表面に出てきた教会や印象が、日本人の現実主義的感性にどうマッチするか、ってなことなのだと思います。 *カト教会ではぼくの知る限り、神父一人のかなり小さい教会でも、平日開放している教会多いですよ。これは教会や祈り、礼拝なんかに関する考え方の違いもあるんじゃないかなー。 つまり、原則神父は毎朝ミサをあげるんですね(会衆いなくても)。それに信者はついでにあづかることができる。それからプロ以上に沈黙の祈りを重視している、ってことも関係あるんじゃないかな。 *長男なんか見てると、もう教会にはめったに行かないのに、夏休みにその神父の所へ言って、蕎麦かなんかおごってもらって、、、で気がついたら神父の手伝いして帰ってきたーなんていうわけです。 この田舎司祭見てると、気負いのない宣教っていうのかなー、無意識ににじみ出るもので、導いてるって思います。(学歴も高くない貧しいフランスの片田舎出身の神父です) *日本人が特別(現世)御利益主義だとも思えないのですが。。。。 「御利益」ってのは、現世でも後の世でも、幸福に、安心していたい、ってことじゃ、どの国民も同じじゃないかなー?? *聖霊はいつでもお働きなんだけど、とくにここ一番、ってなこと感じる時ってありますよね。来たなーって感じ。 *健やかさのバロメーターってのは、ぼくは昔は「もっと聖書が読みたい」とか「お祈りしたい」とか「ミサに今月は何回行った」とか、「人にどれだけ親切にした」っていうような、いわゆるクリスチャンらしさ、みたいなもので自分を量っていたような気がします。 でも今は、あなたの言葉をお借りすれば、「伸びやか」さみたいなもの、具体的には「気負いがない」こと、気持ちに「余裕があること」じゃないかと思います。 終末論や〜再臨説(もっともカトリックではほとんど聞かないが)で、「さー、おまえどうすんだー!」みたいに迫る、迫られる、焦る、焦らせるのは、やっぱりついていけません。 *意外と、よく浮かぶ御言葉って多くないのですねー。 僕の場合は、もうおわかりかと思いますが、旧約より新約、手紙類より福音書、言葉伝承より物語伝承でのイエス様の言葉が繰り返し浮かんできます。 やっぱり全聖書の言葉がフラットに大事、という風にはなりませんよ。 他でも書いたけど基本的には、イエス様の衣の「房」にでも触れるようなたった一つの御言葉を暖めているだけで、十分救いにあずかれるのだと、私は思っています。 そもそも原始教会では、イエスやパウロの言葉の一部分を繰り返し朗読して味わっていたんですよね。 *新改訳をよく使っている保守福音派の人たちが、ここで井上神学批判をしていましたが、実はその井上神父は、ず〜っと「新改訳」使ってましたよー。ってホローになってないか。(笑) 同じ聖書使っていても、ものすごく受け取り方に幅がある、ってことがこれだけでもわかります。 (おまけ)ぼくが最初に通っていたプロテスタント教会の牧師さんに「どの聖書がいいんですか?」って聞いたことがあるんです。そしたら彼は「口語訳がいい。新改訳はだめだ」って言うんですね。私は「何でですか?新改訳の方が読みやすいんですけど・・・・」って反論したら、かれいわく「口語訳は日本聖書協会が決めたからだ!」なんて言ってました。その教会へは、翌週から行かなくなりました。 *私見ですが、キリスト教における終末論や裁き、それから復活論なんかも多く、後期ユダヤ教のメシア待望思想にかなり影響されていると思われます。復活などは周辺異教の影響なども見られる、といわれています。 つまり今ひとくくりにキリスト教といっても、それだけで成立したのではないということですね。 で、じゃ、一番原初的なキリスト信仰とは何か、といいますと、私はカールラーナーという神学者が言っていることではないかと思っています。要約すると、 「ただ単純素朴に、われわれは救われた。なぜなら、われわれと同じこの人間が神によって救われ、このことによって神が御自分の意志を、歴史の上で現実的に、撤回不可能な形で世界的に実在させたからである」ということです。 つまり、「イエスは救われた。だから同じ人間のおれたちも救われる」これだけなんです。 あとは全部当時の宗教観念から導き出された「解釈」、「表現方法」でしかない。 したがって、それはユダヤ人思考ではそうであっても、時代や文化が変われば変更可能だ、ということだと思います。 私がキリスト信仰や聖書解釈の多様性を主張するのは、こんなところが根拠になっています。 *実際、カトリック教会では「終末」論や「裁き」を強調することはほとんどありません。 私も求道者に聞かれたとき、そういう話はいっさいしません。 「でも聖書に書いてあるではないか」といわれればそうです。 しかしすでに今私たちが手にしている聖書はせいぜい5世紀くらいまで、侃々諤々人間的・政治的な議論を重ねてやっと編集されたものですから、そこには人間的な作為や駆け引きなども当然反映されていると見ています。 ですから聖書を読むときは、わたしは「ここにこう書いてあるから」といって、聖句をすぐ普遍化することは危険だと考えます。 むしろ、「なんでこう表現したのだろうか?」と、著者の意図・編集意図を探って解釈します。 こういうのは現代聖書学ではあたりまえだと思っていますが、まあそういう作業自体「不謹慎、神のお言葉を何と心得る!」てお叱りになる方も多いです。 *蛇足ながら、あるシスターが、本当の宗教と偽物を判断するのは簡単だ、と言っていた条件を示します。 1.金をせびる宗教 2.恐怖心を煽る宗教 この二つ、心得てれば、おかしな宗教団体には引っかからない、ってんですねー。 うまいこと言うなーって思いました。 *うちも実家は臨済宗の檀家で、親戚には神主がいますー。 以下、カトリックのぼくの場合です。 基本的に初ミサに行きますが、子供連れて、浅草寺にいったこともあります。(妻は非キリスト者)。お正月は、家庭祭壇に、お供えや松飾りも立てますー。教会にも立ってます。 実家にいる姉もカトリックですが、思いっきり○十万円の仏壇があって、その中に聖母子像なんかちょこんと置いてます。神父が来たとき、「いいね〜」って言ってました。もちろん、お線香は毎日、ぼくもお盆や正月に帰省すると、まずお線香あげます。で、†も切っちゃう。 洗礼前より、むしろ神妙にお仏壇に向かうようになったように思います。 ぼくも当然、家の代々の墓に入ります。たぶん、墓石に†霊名刻んでもらおうと思っています。 お焼香も普通に。 夕ミサとか、平日ミサに顔出したり。疲れていると1ヶ月くらい行かないこともあります。が気まずくなるようなことはありません。「ひさしぶりだね」「まあね」で終わり。 プロテスタントは、幅がすごーくありますが、ぼくも求道中の印象としては、真面目で熱心な人が多いと思いました。で、カトリックになったのは、「ぼくにはついていけないなー」と思ったけど、どうしてもイエス様から離れたくなかった、って感じかな。 そんで、遠藤さんの信仰を見つけたわけです。「うん、これならぼくも」ってな感じ。 そうですね。印象としては、カトは話していても、信者かどうかわからない人が多いように思います。 こういう率直な「印象と感想」こそ軽視できないことだと思います。 なんせ、買い物と同じで、まず手にとってもらわなけりゃ、始まりませんから。 > 子供もお宮参り、七五三、成人式と。 > 私はこういったもろもろのすべてを捨てられませんでした。 わたしはまったく捨てる必要がないと思います。 むしろ「日常行事に食い込む」んじゃなくて、「どんどん取り込んでいっていずれキリスト教化」してしまえばいいんじゃないかなんて、野心もあったりします。。。ぷぷ。 > その覚悟もないのに洗礼は受けられない、と思ってしまいました。 そこなんですよね。こういう外形のところで狭き門をつくっちゃうキリスト教の問題! ぼくには、お線香上げたから、仏壇に向かったから、お宮参りしたから、って「おまえは、罪を犯したな〜、裁きを受けろ!」なんて言うイエス様とは夢思えません。 むしろ未信者の人たちの心情を大切にしたね、ってほめられるんじゃないのかな? だから、うちの姉貴なんかみてると、立派だなーって思います。 だから未信者の父母は、すっかりキリスト教の見方が変わりました。 ある大学生へのアンケート。好感度順。 1位 イエス 2位 キリスト教 3位 教会 だって(前にもどっかで書いたかも)。 どうせ1%なんだから、ぼくはキリスト教じゃなくても、とりあえず「イエス様、大好きー!」一点張りのイエス教だっていいんじゃねーかと思いますよ。 只でさえ仕事のハードル、生活のハードル、人間関係のハードル・・・・やりきれないのに、そのうえもっとくびき負うんじゃねー、信者にはなりたくないよね。 すんなり、っていうのはそうでもないと思います。 *仏教伝来ゴミヤサン以前にも、多数の渡来人の間ではすでに仏教は信仰されていましたが、崇仏論争を経て、飛鳥〜平安まで、一口で言えば鎮護国家的な「上からの仏教化」が主流だったと思います。 そういう中で、すでにあった民間信仰・神道的要素・山岳信仰等々と融合して、神仏習合や本地垂迹説なんかが出て、やはり仏教もじょじょに日本化していったんですね。 難破を繰り返して盲目になってやっと渡来した鑑真さんなんかは、律宗といって戒律を重んじる宗派でした。この流れが天台宗の千日かいほう行や12年ろう山行などの自力信仰へ結びついている、と私見では思っています。 一方、平安時代の末法思想などは、貴族をはじめ民衆にものすごい不安を与えた。政治的にも転換期でしたから。で、浄土教の流行。 このあたりからやっと一般人が仏教独自の救いを意識していくんじゃないかと思います。そして日本的仏教がやっと出てくるのが鎌倉時代ということですね。 「下からの仏教」とでも呼べるような情況になるためには、仏教伝来以来、実に600〜700年くらいかかっていることになります。 以上、簡単に私見です。 *カトリックには、聖画・聖像からロザリオ・お香・家庭祭壇・・・・いわゆるカトリックグッズがごちゃごちゃあるんですが、一枚のカードでもなんでも、こういう「モノ」の効果、ってのは軽視できないと思っています。 時には聖書の文字情報以上に、信仰を養うことがあるように思います。 今このPCの前にも、眼をあげると最後の晩餐のレプリカがかけてあります。 貴女のカンテラのイエス様、大事にしてください。毎晩寝る前にそれ見ながらまどろんだら、、、きっと心にやさしいイエス様が刻まれますよー。 *「イミタチオ」なんかも、律法的に読んじゃうときついですが、イエス様を愛するこういうやり方もあんだなーって視点で読むと、味わい深いですよね。若い頃はなんでこんなのが聖書の次に読まれてんだ?なんて思いましたが。。。 *ルルドの水を発見?したベルナデッタっていう少女は、学校にはほとんどいってなくて、木の実かなんかでつくったロザリオをいつもつま繰っていた。修道女になってからもあんまり聖書とか読めないから、終世アベマリアばっかだったんだね。でもその感化はいまだに衰えない。。。神様の選びの器、ってのはやっぱぼくらの常識超えてる。 *はい、スプランクニゾマイですね。西欧的な個人主義より本来は、関係存在として「場」に生きる感覚、っていうのかなー。イエス様はそっちに近かったんじゃないかなーと思っています。そう考えると本当は日本人こそもっとイエスを理解しやすいように思うんですがなー> *いろいろ考えられますが、キリスト教徒も神社やお寺を否定したり、火をつけたりということもあった。そういう過激さにたいする恐れ。 それから布教のためには侵略も辞さない、なんていう考えもあったというような書類も最近見つかっているようです。 そしてキリシタン大名まで出てきて、そういう危惧をいっそう強くしていったんじゃないでしょうか *しかし私は、日本の教会があなたのような方を結果的にシャットアウトしてしまっているのが、残念でならないのです。日本人がその生活スタイルを変えないで、そのまま信仰できるキリスト教にならなければ、1%はなんともならない。。。 ここですよね。私は「妬む神」(出エジプト20:5)という恐い神観は旧約で終わったと思っています。新共同訳ではきつすぎると判断したのか「情熱の神」と訳していますが。。。「妬み」はヤーウェとイスラエルの密接な関係を強調するユダヤの民族宗教的神観からの表現ととらえています。 イエス様は妬まないし、ケツの穴も大きかったと思いますよ。 *これは多くの日本人の本音だと思います。 黙示録を始めとして、現在のキリスト教が終末論で危機感を煽る(結果的に煽っていると受け取られる)というのは、日本人への宣教にはマイナスと思われます。 *キリスト者であるということをなぜ隠すか? というと、まず他の宗教一般にもいえることとして、「信仰」を持ってる人=危ないかもしれない人、という日本的な誤解・偏見があると思います。ですから、なにかと差し障りがある。些末な体験ですが、ぼくが本を出すときにタイトルが問題になった。なぜかというと、そこに「キリスト教」とか「信仰」とかストレートに入っているものは売れにくい、ってわけです。それが某キリスト教出版社の編集者が言った言葉ですよ。 遠藤周作さんくらいの人でも、当初は、「神」とか「キリスト」とかをストレートに扱った本は日本ではダメだ、と思ったといいます。 あの『イエスの生涯』が何十回増刷なんてのは、日本歴史で初めての希有な現象だったんですねー。 それからもうひとつは、日本人がキリスト者に対して持っている目が、非常にきついってことです。自分は信者でもないのに、キリスト者には、「あれ、煙草吸っていいいの?」とか「キリスト者にあるまじき行為」なんて平気でいいますからね。 そんでさらに悲しいのは、キリスト者自身も、立派なこと、道徳的なこと、善良なことががキリスト者「らしさ」だと思っている、ってことです。 だからあなたがおっしゃるように、成功してみなにちやほやされているときしか、信者であることを公言でいないってわけです。 毎週教会に言ってます、うそはつきません、私は罪人の頭です、、、みんな日本人から見ると、偽善的に見えちゃう。 *「主の祈り」のその部分は、今まで文語(カト)では、 「われらが人にゆるすごとく、われらの罪をゆるし給え」でした。 それが今は聖公会との協力で口語になり、 「わたしたちの罪をおゆるし下さい。わたしたちも人をゆるします」 になったのです。 わたしたちがまずゆるされて、そしてわたしたちもゆるすことができる、 というニュアンスが出ています。名訳だと思います。 *はい、「文化的」な所ではお二方おっしゃるとおり、かなりキリスト教的なものが現に日本にとけ込んでいます。 しかし、しかしです。 私は曲がりなりにもキリスト者であり、伝道の義務、いや伝道したい、イエス様のすばらしさを日本人に「意識して」もらいたいのです。これは一般的に見れば、自分がいいと思ったことを人にも伝えたいという野心、おせっかいかもしれない。 そう言われても、やっぱりみんなに「イエス様っていいよねー、神様だよねー」って思ってもらいたいわけです。 だから私としては、やっぱり、キリスト教に根拠を置く文化現象だけでなく、そこからなんとか「イエスこそキリストである」という信仰告白者がたくさん出ることを望みます。 それを、余計なお世話、といわれないで、どうやって伝道するか、、、う〜ん、やっぱしこれは助平根性ですかねー(笑) *ただ私はそれプラス仏教も儒教も、朝廷・政府から作為的に降ろされたいわば「上からの宗教」であった、という要因が見逃せないのではないかと思っています。 古来日本人は、お上の意向には素直な民族でした。そんな素質も関係している。 *イエスの唯一性がなかなか日本の多神教世界では受け入れられないのですねー。 もっとも大きなネックです。 私個人は、包括主義的考えですが、やはりキリスト者としては「イエスは唯一の神」という信仰告白が欲しいところです。 上でも触れましたが仏教がそうであったように、もしローマ帝国のように日本国家が上からの宗教として、キリスト教を公認・国教化していたらどうなっただろうかな・・・・なんて考えることもあります。 そういうことでもないかぎり、たしかにあなたがおっしゃるように、日本人の折衷主義に呑まれていくのかもしれません。 まあ、国教化していても日本人の気質からあれこれ折衷していったでしょうが。。。 しかしどの国の文化に置いても、折衷・融合というのは、為されている。 宗教に限らず、既存の文化が新文化を完全にオミットすることはできないし、新文化が既存文化を完全に駆逐することはできない、と見ています。 要はその比重の問題なんでしょうね。 *根本はまず、「生き生き生活する」っていうことなんでしょうね。 その上で、国民性の違いみたいなものはやっぱりありますから、あなたが指摘されたように、同じキリスト者の行動でも、受け取り方が違ってしまう。 そのあたり、日本人の感性みたいなものを無視しちゃうと、やっぱりキリスト教は「外国の宗教」として、クリスマスと結婚式はやるけど、精神生活ではごめん被りたい、ってなことで片づけられちゃうんだろうと思います。 *この「相手を丸ごと受容して」というところがポイントなのだと思います。 「仏壇は廃棄せよ」「愛を行え」といった縛りが先に来てはいけない。 悩み多き私たちの所に、まずイエス様の方から来てくださっている、それをどう日本人に実感してもらうか、ということだと思います。 *少なくとも「あれかこれか」思考より「あれもこれも」思考の方が、具体的な戦争を起こさない、という意味では、平和に近いと思います。 これも一元化思考の人から言わせれば、そんなのは似非平和、日和見だ、ということになるんでしょうが。。。 やっぱりお互いの間に「バカの壁」があるんでしょうかねー。 *他の宗教とも同じように、十把一絡げでキリスト教ってのはこういうもの、キリスト者はこれ、ってなことでくくれないほどバラエティがあると思います。 歴史的にも、世界宗教になっていくにはそうした多様性がなければ無理でしたでしょうから。 ですからわたしとしては、当然日本人に合ったキリスト教というのがあってもいいと思うわけです。 *「人々の弱さ・欠点・罪をさばくことなく、まずこれらを受け入れられた御子イエスの悲愛の心に、私たちの心を近づけてください。」(風の家の祈り) *ただ、たとえばイエスの人性神性、神の子概念といったものは、日本人に限らず他宗教に比してわかりにくい、ということはよく言われることですから、そういう話でもいいんじゃないでしょうか? 私も「イエス様が大好きで信じているだけ」ですが、それを本人が思想、哲学、真理・・・・いろいろ主観的に言い表すのは自由でしょうが、世間一般の常識、また学問的分類でいえば、まさしく「宗教」といわざるをえません。 *私は、あなたの言葉を借りるなら、「聖書が成立した経緯や、その存在に疑問を抱く」ことと、「その権威を貶める」こととは直結しないと考えます。 わたしたちは、教会や聖書やキリスト者にお世話になりながら、「イエスはキリストである」という確信を得ていますね。それはすでにわたしたちのなかでアプリオリなものとなっている。 私の大好きな八木重吉の詩に、(ちょっとうるおぼえですが) 「だれがなんと言ってもいい、 聖書にさえ何と書いてあってもかまわない、 自分は信仰から信仰をつかもう」 というようなのがあります。 あれだけ聖書一本で信仰してきた重吉が、晩年にはこういう境地に立っています。 わたしたちのなかで「イエス=キリスト」がアプリオリであれば、むしろ、どんな方法で聖書を研究しても、なんら怯えることはないのではありませんか? むしろ確たる信仰へ導かれるために、とことん疑っていく、という学問的態度が必要なのだと思っています。 *20世紀の初め頃でしたか? ある聖書学者がイエスの言葉を調べたら、福音書に書かれている正真正銘のイエス独自の生(なま)の言葉は3箇所くらいしかなかった、といいます。 まあこれは極端かと思いますが、かりにそうであったとしても、その他の聖書部分がすべてでっちあげで嘘だ、ということにはならないし、むしろイエスの言葉がどういうふうに変質して伝わったかを追求することは、私たちの確信を強固にさえしてくれるものと思っています。 *暗黙の「プレッシャー」みたいなものを、求道者などは敏感に感じる雰囲気が教会によってあるように、私も思います。 卑近な経験なんですけど、ぼくが求道中、ある教会に行っていろいろ質問しました。 んで、話がお酒のことになったんですね。 ぼくは比較的好きな方なので、「牧師先生、お酒は飲んでいいのですか?」と質問したのです。 そうしたら彼は、「・・・・飲んでもかまいまませんよ」とおっしゃった。ぼくは「あーよかったー。じゃ、今度いっしょに一杯やりませんか?」と聞きました。 そうしたら、「いや、私は牧師ですから飲みません」と言うのです。その「牧師だから・・・・、信徒だから・・・・」ってところがなんとなく釈然としなかったのですが、、、 その後、水曜祈祷会に出てびっくりしたのは、「いかに宴会の席で酒を飲まずにすますか」という議論でした。「あー、こんなことを話し合ってるんだー」と思い、「これは私はついていけないやー」と、その教会には行かなくなりました。 いや、またこんな話をすると、余白は「酒は飲むべし」という持論を押しつけている、と思われそうですが、そうじゃありません。 禁酒禁煙を信条にしている教会があっていいと思います。お酒が好きな私からみれば、立派だとも思います。 しかしそれでは日本の平均的なサラリーマンが、そういう教会に足を運ぶのは難しいだろうなーとも思うのです。 「イエス=キリスト」という根本からみれば、禁酒禁煙はやっぱりささいなことに過ぎない。 そういう小さな事でせっかく教会に行こうと思う人をオミットしてしまうのはもったいないと思うのです。先の牧師先生はそういう僕に気をつかって、ああいう返事をされたのかもしれませんが。。。やっぱり建前とちがう教会の雰囲気ってのは、どこかで敏感に感じるものです。 その後、その牧師先生は透析を続けながら牧会されている方であったことを知り、また、その教派は禁酒禁煙を信条としていることも知りました。 *いろんなところにプネウマは吹いているのだけれど、それをどっかで僕たちキリスト者が遮ってしまっているのかもしれません。 それが何なんか、試行錯誤の毎日です。 そういう意味では、罪や裁きの強調よりも、「いつも共にいてくださる神、共にいてくださるイエス」の姿を強調する方が、日本人には親しみやすいと思います。 まさに、コリアン先生の「同伴者イエス」。 *私は今まで、排他主義と多元主義が対極にあって、その中間的なのが包括主義だと思っていたのですね。 ところがどうも、最近出た岩波キリスト教事典など見ますと、まず排他VS包括というのがあって、多元主義は、いわば第三の道として出てきたというような説明になっていました。(汗) 私も自身の信仰を堅持しながら他宗教と共存できるのは包括主義しかない、みたいなスレッドをここに以前立てて、ぼろぼろ批判されましたが(笑)、今でもその考えは変わっていません。 多元主義までいっちゃうと、井上師がおっしゃっているように、「別の道を歩んでもいない者が、その道を云々することはできない」というとおりだと思います。 ただ、私としてはたとえば私の父母など、熱心な仏教徒・愛に満ちた行為、そういう人たちが救われない、とはとても思えない。私と父母とどっちが先だ、といえば、間違いなく父母たちが先に神の国に入ると思う。と、井上師に言ったのです。 井上師はそのときしばらく、じーっと真剣に、あのやさしいたれ目(失礼)をつぶって考えておられました。 そして言ったのです、「それは君の希望だろう」と。 そのとおりなんですね。 それでも私は私がイエスを信じて救われるなら、父母はなおさらのこと、という信念?を捨てられません。これは信仰じゃなくて浪花節と言われるかも知れない。それでもかまわないと思っています。 私という人間の欲でしょう。でも、捨てません。 こういう弱い私にとって、カトリックが全体として包括主義的であることは、大きな救いです。 *祖先を大事にする、ということは、カトリックではないがしろにされていないし、マリア信仰や聖人崇敬などと近い感覚を援用できるのではないかと、、、寸感ですが。 まず、「死人のことは死人に任せよ」が、どういう状況のなかで語られたかを吟味しなければならないように思います。 ここだけ抽出すれば、葬式も墓参りも不要、のようにも読めますが、イエス自身「この人は自分の埋葬の準備をしてくれた」(マルコ14:8参照)という発言もありますので、単純化はできないと思います。 *信仰と慣習の問題は、伝道にとって大きな要素だと思っています。 私は総じて、日本の伝統や慣習を形としてはそのままにし、内容をイエスの教えに沿ったものに変質させていくことができると考えています。 *福音理解というのは徐々にされればいいわけで、私はまず「イエス様に関心を持って」もらうことが第一だと思います。 日本人は宗教は嫌いでも、イエスは好き、という人は多いのです。 私はそのために、最初は「キリスト教」でなくても、「イエス教」であってもいいと思っています。 *少なくとも私が聞いた説教や話したカトリックの神父様方で、終末論や黙示録の「予言」の解明のような具体的な話をする方はひとりもいませんね。 *「人にばかり」と「神にばかり」は本来イコールじゃなきゃいけないわけですよね。 神を愛するということは、身近な人の声を聞く、ということあって初めて具体化するのではないでしょうか。 *その「基本的な教理」の表現は多様であっていいと思うのです。 たとえば「贖罪」や「犠牲」というユダヤ教と直結した救い表現よりは、「初穂」としてのキリストを強調する、などの工夫です。 予定説的なことはよくわかりませんが、私は、「主の名を呼び求める者は、すべて救われる」(ローマ8:13)という言葉に希望を置きたいと思います。 *私も「十字架」より「復活」、「贖罪」より「初穂」理論が日本人には訴えると考えます。 *「おれは真面目にやっている。しかしあいつは真面目じゃなくても救われると言い放つ。」これは真面目な人には面白くないのが普通でしょうね。よく気持ちはわかります。 しかし「霊的訓練」や「礼拝」を絶対化すれば、ファリサイ派が「律法」を絶対化したのと同じ過ちを犯すと思います。 私は個人的なリゴリズムを否定してはいません。私の大好きなフランシスコ会などの修道士たちは、個人として自身にものすごい規律をかけて神に仕えています。尊敬しています。 私がここで話したようなこと彼らに話すとまず共感してくれます。それは、自分は厳しい霊性の道を歩んでいても、他人の霊性は別だと割り切っているからです。けっして自分の在り方を絶対化しない。ですからカトリックには多くの修道会があるのです。 同じように私たち一般のキリスト者も、自身に合った霊性の道をたどればいいのだと思います。多様であって良い。 私は真面目に礼拝に行くのを止めろ、などとは言っていません。私自身結果的には、まずかかさず毎週ミサに行っています。しかしそれは信者の義務とか霊的訓練という意識は全くありません。単純にミサが好きだからです。 しかし日本人のキリスト教観は、そうしたもろもろの「真面目さ」ばかりが前面に出ていて、それが求道者に当然のことのように受け取られてしまっている、という現状は否めないと思います。 私は、キリスト教の本質はそんなところにあるんじゃありませんよ、といいたいのです。救いが真面目さを条件として引き替えにもらうのであれば、それはもはや「福音」ではないと思います。 *フランシスコ会訳は、僕も大好きな訳です。たしか犬養道子さんや田川健三さんもほめていましたね。 はなしそれちゃうけど、この聖書のヨハネ20:6b〜7の訳は画期的ですね。あとでご確認ください。その解説にも、「イエスが亜麻布と手拭いを抜け出る自由な復活体となった」ことがくわしく説明されています。 もうご存じかもしれないけど、こういうところに微妙な訳業の工夫がでています。 福音短歌 その15:島 一木 わたしが与える水は オランダの静かな鐘:D&D's daughter 今回訪れたのはさほど大きな都市ではありませんが、ヨーロッパの他の都市に見られるように沢山の教会があります。どれもゴシック建築の歴史色の濃いりっぱな教会が角を曲がるごとに出現します。しかしながら、今までイタリアやフランスで教会の中に入った時とはこの度は違う心の揺さぶりを体験しました。オランダは宗教改革を境にカトリックの教会の建物のなかをすっかり変えてしまって礼拝の場としていたことを私は初めて知ったのでした。更に修道院もホテル、美術館、コンサートホールなどへと歴史を経て改造され、揚げ句にはアパートへと様変わりをしているのです。そびえ立つ鐘塔は静かに町を見下ろしているのです。 十字架賞賛:余白 (今週の「聖書と典礼」黙想)
言葉 :緑の風 どこからともなく飛んできた種が RE:すっごくいい!:余白 人、草、花、木、風、空、太陽、砂・・・・全部入ってますねー♪ RE:言葉:D&D's daughter 風は思いのまま、音を聞けどもどこから来てどこへ行くのか・・・ カルメル会修道院:小さき花 今日のミサにあずかれたことに感謝。 RE:早朝ミサづいている:余白 私としては、とてもよくわかるお話です。 (無題):比田井白雲子 私のなかにも空があった 天の国:島 一木 あっというまに どこにでも行ける RE:八木重吉の:余白 詩を思い出しました。 RE:天の国:緑の風 天の国、そこでは罪や悲しみでさえ、清く綺麗に輝いていて、人々は美しい朝の日差しを飲み、透き通った風を食べて過ごす。そんなイーハトーブのような所かしら?と思ってみたりしております。 RE:天の国 :ありません 天の国は、我先に競って入っていく所のようであり、家族友達隣のおばさん今日知り合ったばかりの人も、みーんなで、一緒に入っていこうねーという所のようであり、どちらもいいというか、どちらでもありたいなーとふと思いました。 福音短歌 その14:島 一木 天から下って来た 「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿してください。 |
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