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平田栄一サイン本
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余白の風─求道俳句とエッセイ─90号 2003/11/1 発行者:平田栄一

連載<俳句でキリスト教>

<聖書を枕にして>

●室内犬顎を聖書に日永なり        マブソン青眼

日永夕暮れ、マブソン氏は揺り椅子に腰掛けて、読みかけの聖書を広げたままうとうとしています。いつの間にやら愛犬が膝にのってきて、枕にちょうどおあつらえ向きの厚みのある聖書に顎をのせていっしょにうとうとし出します。何とも微笑ましい、フランス俳人の作品ですね。日本ではなかなか見られない光景です。しかし一部のお堅いキリスト者からは、「聖書は神の言葉。犬に顎をのせさせているなど不遜きわまりない!」といった声が聞こえてきそうな気もします(笑)。

ただよく考えてみると、一つの宗教なり思想なりがある国の文化に根を下ろしていく(インカルチュレーション)ということは、こうした日常の何気ない生活風景に、その思想を象徴する具体的なもの(この場合は「聖書」)がどれだけ溶け込んでいくか、ということでもあると思うのです。

こういうと、いわゆる葬式仏教≠ネどの例をあげて、信仰の慣習化・形骸化を心配する向きもあるやもしれませんが、わたしはそうとばかりはいえないのではないかと思います。日頃仏典など見たこともない一般の日本人が、墓参りや葬儀を通して仏を意識したり、あるいは無意識に身体で感じているということもあるのではないでしょうか。欧米人とキリスト教の関係も同じことでしょう。

もしかするとマブソン氏は、夢うつつのなかでアブラハムに出会い、イエスと語り、パウロと伝道旅行をしているかもしれません。もちろん聖書に顎をのせた「室内犬」もお供していることでしょう(笑)。

<無節操は寛容への道

●バイブルとコーラン書架に神無月       岩本甚一

 「神無月」は旧暦十月のこと。この言葉は、日本ではこの月、八百万(やおよろず)の神々が出雲大社に集まるので留守になるためとか、雷のない月とか、神の月の意ともいわれています。一方イスラム暦の九月はラマダン(断食)の月で、大切な季節とされています。

 こうして「バイブル」「コーラン」「神無月」と並びますと、これはもうユダヤ教・キリスト教・イスラム教から八百万の神々まで、世界中の宗教が一句におさまっているようなパノラマ的作品ですが、特定の信仰を持った人からは「節操がない」と叱られるかもしれません。

 しかし、聖書もコーランもあるいは論語なども、世界中にこれらを大事にしている人たちがいるということを知った上で、「どれどれそんないいことが書いてあるのか?」と興味本位で、ときどき本棚から抜き出してめくってみる、わたしはそれはそれで価値ある行為ではないかと思うのです。

冷戦後とくに活発になった地域紛争や民族対立の根幹には、かならず文化や宗教の問題が潜んでいます。しかし、一信仰者の拙い経験からいうなら、あらゆる宗教を包括するような新たな世界宗教の出現ということは、まずあり得ないでしょう。とすれば、平和への道として考えられるのは、互いの文化や宗教を最大限理解し、対話し、尊重する態度を養うということではないでしょうか。

そう考えたとき、聖書もコーランも論語もいっしょくたに取り込み、クリスマスも正月もお盆も祝うという、これまで批判されてきた日本人の宗教的無節操≠ニいうものは、見方によっては宗教的寛容≠ヨとつながるものであり、もしかすると日本人は右のような対話における重要なパイプ役になる可能性があるかもしれません。

<聖書を読まずとも>

●かの日より聖書を読まず芥子の花       竹田俊吉

 洗礼前の求道者か受洗後のキリスト者かを問わず、それまで毎日熱心に愛読していた聖書が、なにかのきっかけで読めなくなった、という話をけっこう聞くことがあります。わたしのホームページの掲示板にも、そうした相談が書き込まれることがあります。

掲句作者がもし若い求道者だとすれば、いわゆる奇跡に対する疑問や倫理的な問題につまずいたのかもしれません。あるいは、すでにキリスト者となって久しい人であれば、罪や苦しみの問題など、より宗教的なつまずきがあったのかもしれません。

いずれにしろ、「かの日」以前には神を求め、神を信頼して読んでいた聖書を読まなくなって久しい。そういう作者が「芥子(けし)の花」を見つめながら、ありし日のことを振り返り、自嘲し、嘆息している様子をこの句から感じ取ることができます。そこには、イエスを裏切ったユダの後悔に通じるものがあるようにも思えます。

しかし、神を求めつつも信に徹することのできない弱さ、哀しさ、その苦しみを、「読まず」に放置された「聖書」に記されたイエスこそは、真に理解し、受け入れてくださっているのではないでしょうか。わたしはそういうイエスを信じたいと思います。

<キリスト者が読む山頭火>

●松風に明け暮れの鐘撞いて

 

松の枝と一体となって観世音菩薩に頭を垂れ、合掌する山頭火が、朝夕の鐘をつきます。風が心地よく吹くと鐘の音が穏やかに山間に響き渡ります。山頭火の心は、平安と感謝に満ちていたことでしょう。

この句のなかで、たしかに鐘を撞いているのは他ならぬ山頭火自身です。そしてそれは「明け暮れ」の決まった時刻のお勤めなのですが、「松風に」という表現からは、あたかも風に促されて鐘を撞く、むしろ撞かされている山頭火の姿が彷彿としてくるのです。

朝な夕なに吹く松風に促されて、山頭火が観音堂の鐘を無心に撞くとき、そこにはこの世の業や計らいや不安を超えて働く何者か――それを神・仏・自然等々何と名指すかは問わず――による真の自由が感得されていたのではないでしょうか。感謝に満ちて鐘を撞こうとする山頭火の自力と彼に鐘を撞くよう促す他力との合力によって、荘厳な鐘の音が長く尾を引いて、山に谷に響き渡るのです。

 

禅語に「啐啄同時」という言葉があります。「啐」は鶏の卵が孵化するとき内側から雛がつつく音で、「啄」は親鳥が外から殻を啄むことを意味します。この啐と啄が奇しくも同時にかち合ったとき、殻が割れるというのです。このことから禅宗では、本人が自ら修行しようとする自力と、師家の援助ないしは仏や菩薩の他力が合致したとき初めて悟りを得られるのだと教えるのです。

 

たしかに後の山頭火の行動を見れば、とてもこの時点(味取観音堂守)で悟りを得たとは言えないでしょう。しかし前半生の幾多の遍歴の後やっと見つけたしばしの平穏な生活の中で、自他一如に近い境地を、ときに体験していたのではないでしょうか。彼の遺した一万数千にものぼる膨大な俳句作品を見渡すとき、私にはそう思えてならないのです。

 

は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。(ヨハネ三・八

 

この『ヨハネ』のイエスとニコデモとの対話に出てくる「風」という言葉は、ギリシア語で<プネウマ>という原語を訳したものです。「息吹」とも「霊」とも訳されます。風がその出所も行き先もわたしたちには知られず自由に吹くように、神の息吹、聖霊も自由に働き、その「霊から生まれた者」も自由であるというのです。

山頭火は「松風」に吹かれながら同時に聖霊の息吹を浴び、自他一如の境地を垣間見ていたのではないでしょうか。

南の空に月 投稿者:奈菜

   ●南の空に月
水槽に手をいれてみる
カタカタおどる煉瓦
西にむかってはしる
わけのわからない詩ですみません。
なんとなくこんな感じがして。
自分の心の無意識の部分を知りたいと思います

Re: 南の空に月 余白                                            

 

第1行の「南」と最終行の「西」=外向性に挟まれて、「水槽」「煉瓦」=内向性がサンドイッチされている、広がりのある詩ですね。「南の空」から来て私たちの内を通り抜け「西に向かう」もの・・・・プネウマのようです。

無題 投稿者:比田井白雲子  

●水がおがんでいる
●空がおがんでいる
●空気がおがんでいる
 (前号)重吉と緑の風さんの詩に、とても感動してしまいました。人のこころを打つ詩には、何かをとらえているものが、あるようです。井上神父の詩も、またお願いします。

信仰と自然 その6 投稿者:島 一木  

●初夢や夢のなかなる道十字
●主の生涯独楽のはじける気迫にて
●蝶の影ふりむくマリアは胸さわぎ
●未来より主は来たまえり花の影
●ぬれてゆくナザレのイエス春の雨
●ロザリオに雑念ばかり春の暮
●語るのは聖霊である若葉風
●罪とがの恐れ蟻地獄をそれる
●天啓か見上げる空に星飛ぶは
●キリストの血とも深紅の紅葉ちる

信仰集 その1 島 一木                                                                

 ●十字架と夏炉冬扇の志
●福音書神様からのラブレター
●マリアさま月のランプをファティマより
月かげにロザリオ祈る月を忘れ
鐘をつく天使祝詞をとなえつつ
<指ロザリオ>
 普通のロザリオは五連で一環、小珠が50個と大珠が5個で輪になっていますが、これを簡略に縮めて一連分、つまり小珠10個と大珠1個で一括りに輪にしたものを指ロザリオと言います。これはビーズ珠と糸さえあれば簡単に手製のものが作れます。この大珠の部分を木製の十字架にしたものや、指輪にギザギザをつけて珠のかわりにしたものが売られています。指ロザリオは指輪のように身につけて持ち運べるし、祈るときも目立たないので非常に便利なものです。
<未信者のためのロザリオ>
 前にロザリオの祈りの効用について書きながら、教会に通うようになる以前の私の状況について思い出しました。それで、教会へ行きたくても何らかの事情で行けない人、ロザリオやロザリオの祈りについて解説した本を売っている書店が近くにない人、或いはプロテスタントの人のためにも、ロザリオの祈りの基本について解説するのは有益なことではないかと感じました。
 ロザリオの祈りの原点は何かと考えてみるとき、それは「イエズスとマリアの生涯における重要な場面の黙想」であると言えます。ここで聖母マリアが出てくることに抵抗を感じる方もおられるかもしれませんが、救いの御業が聖母マリアから始まっていることは否定しようがない事実です。
 ロザリオの玄義と聖書の黙想箇所を次ぎに列記します。「喜びの玄義」第@玄義:聖母への御告げ、A聖母のエリザベト訪問、B主の降誕、C主の奉献、D聖殿に主を見出す。「光の玄義」@主の受洗、Aカナの婚礼、B神の国の宣教、C主の変容、D御聖体の制定。「苦しみの玄義」@ゲッセマネでの苦しみ、A主のむち打ち、B茨の冠、C十字架を担う、D十字架上の死。「栄えの玄義」@主の復活、A主の昇天、B聖霊降臨、C聖母の被昇天、D聖母の戴冠。
 ロザリオの祈り方は、大珠で「主祷文」を1回、小珠で「天使祝詞」を10回、再び大珠で「栄唱」を1回唱えます。これで一連です。一連ごとに一玄義を黙想してゆきます。各玄義の黙想の場面を思い描きながら、縁飾りのように天使祝詞を唱えていくわけです。聖母マリアの花冠を編むとも形容されます。
<福音短歌 その16>
●わたしの父は 今も
なお働いておられる
わたしもまた働く
(ヨハネ5:17)
●父は子を 愛し
ご自分がなさることを
すべて 子にお示しになる
(ヨハネ5:20)
●子を 敬わない者は
子を お遣わしになった
父をも 敬わない
(ヨハネ5:23)
●父は子に 裁きを行なう
権能を お与えになった
子は 人の子だから
(ヨハネ5:27)
●時は迫っている
その時 墓にいる者は皆
人の子の声を聞く
(ヨハネ5:28)
<
教会のある風景 その14 秋>
●修院の壁に空蝉すがりつく
●聖母祭パーティー終わり道暗し
●霊名はアウグスチヌス神父祝う
●聖櫃を小聖堂へ移す秋
●聖堂に入れば窓より月のかげ
●教会という薄明に月を置く
●十字架祭神父は赤い衣着る
●朝寒や一人の道を早ミサへ
●ミサ終わり晴れわたる空小鳥来よ
●教会の庭木に目白今年また

福音短歌 その17 島 一木                                                                   

 

      ●わたしは 知っている
あなたたちには
神に対する 愛がないのだ
(ヨハネ5:42)
●牧者のない羊のような
ありさまを 哀れに思い
教え始められた
(マルコ6:34)
●口に入るものは 人を
汚さない 口から出るもの
こそ人を汚す
(マタイ15:11)
●主よ 食卓の下にいる
小犬も 子どもたちの
パンくずを食べます
(マルコ7:28)
あなたたちが わたしを
捜し求めるのは パンを
食べて満腹したから
(ヨハネ6:26)

これからもよろしくー 投稿者:余白   

 

  贈答句

 

●我が痛み主の痛みと化す時雨かな (Qoo様へ)
どんな長患いも自分一人のものじゃない。イエス様がいっしょに痛んでくださる、、、いや、本当は痛んでるのは自分じゃなくてイエス様なんだ、そういう心で生きていきたいと思います。
●何よりも内より効きしイエスかな (アグネス様へ)
句意はこんなことです。イエスの復活の記事を読み比べてみますと、イエスの復活体というのは、「亜麻布」や「鍵のかかった戸」を自由に出入りできる体であったことがわかります。これは三次元的な時間や空間を超越した、ということです。このことを敷衍していきますと、イエスはどのような「壁」をも通り抜ける力がある。人と人の壁はもちろん、私たちが心の中に勝手に築き上げてしまった見えない壁、、、その全てを通り抜けて、イエス様は私たちに近づき、私たちの中に入り込む。。。
復活のイエス様は私たちの苦しい体や苦しい心をも透過し、清め、他者と交流させてくださっているのではないでしょうか。

今週の「聖書と典礼」黙想 余白                             

 

「彼を不名誉な死に追いやろう。
彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」(知恵の書2:20)
「不名誉な死」は、「不格好な死」「恥ずかしい死」という意味という。キリスト者にとっては、まさにイエス様を思い起こさせる。イエス様がつけられた十字架が史的にはT字型であったことは知られている。しかし私がもっと重要だと思っているのは、イエス様が文字通り「素っ裸」「丸裸」で吊されたということ。おそらく教会や絵画に見られるような腰布はおろか、一糸もまとってはいなかったという。わたしはその話を聞いたとき、何と有り難いことかと涙が出そうだった。感動だった。あの痛みと屈辱と、もしかしたら絶望の叫びに置いて、まさに、人間・万物の受けるどん底を味わい尽くしてくださったのだ。そしてそのことこそが、神に「よし!」とされ、復活「させられた」。復活の第一の意味は、イエス様に「神の助け」があったことの第一の証明である。私たちはどんな辛いこと、哀しいことに遭遇しようと、その無限倍もの痛み・苦しみを、
すでに初穂たるイエス様は通り抜けてくださっている。そしてその御手に信頼し、すがる者を、無条件に引っ張り上げて、神の国へと引き連れてくださる。
何も心配することはない。ただ有り難いと思えばいい。

「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿してください。

 

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