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余白の風 求道俳句とエッセイ 92号 2004/1 発行者:平田栄一

迎春

九州へ向かう飛行機から三男坊が撮った富士山

連載<俳句でキリスト教>

小さな神、小さな者の神

●風のうしろで小さな神とすれ違う       大西泰世

 作者はこの「神」をキリスト教の神と意識して作句しているわけではないかもしれません。むしろそうでない可能性の方が大きいでしょう。あるいは汎神論的な妖精のようなものを詠うことを狙ったのかもしれません。しかし、ここでもキリスト者として読むことを許していただけるなら、これを十分にキリスト教的な俳句として味わうことができるのです。

 

<最近の余白作品>(『紫』2004年1月号)

●日に一句遺書改めし冬枕

●四千人神を食らいし春の山

●平らかに死を希うては冬の闇

●終末のしるし鮮やか冬紅葉

●弱さをも岩となすなり冬の虹

●日々ありて十字架親し年の暮

●わが弱き肉にも宿るコトバかな

 「風」はギリシャ語で「プネウマ」といいます。「息」「霊」あるいは、さきに『使徒行伝』の句で出てきた「聖霊(神の霊)」をも意味します。その「うしろで小さな神とすれ違う」と掲句はうたいます。

「小さな神」は、貧しく生まれ、ナザレの寒村で育ち、あたかも「家を建てる者の捨てた石」(マルコ一二・一〇)のようであったイエスの幼子としての姿を彷彿とさせます。

また「小さな神」は小さな者の神≠も連想させます。病者や罪人、貧しい人など、社会のなかでの弱者――小さな者と常に共に生き、共に歩んだ神の子イエスの生き様を象徴しているかのようです。

 

聖霊の「風」が吹くこの世、この社会にあってわたしたちは常に、どこかで「小さな神」イエスに出会っているのだ、すれ違っているのだ、この句はそういう作品として読むことができるのです。

<他宗教への態度

●神仏はみな地つづきぞ芋の花      岩下四十雀

 「芋づる式」という言葉が連想されます。どんな神も仏も根本のところで一つにつがっているのだ、という、多くの日本人にとってはそう抵抗なく受け入れられる発想が、明確に表現されている句です。神仏習合や本地垂迹説が、奈良・平安時代以降定着していった背景ともなっている発想といえます。

 

 やや専門的な話になりますが、ある宗教が他宗教に対する態度に排他主義≠ニ多元主義≠ニいう考え方があります。

端的にいえば、排他主義は自分たちの宗教だけが正しいとする立場です。自分たちの信仰の仕方以外に真理・救いには至らないと考えます。これは歴史を振り返ると、悲惨な宗教戦争の要因ともなってきました。

一方多元主義は、すべての道(宗教)は正しく信仰されればみな同じ山頂(救い)へと到達するのだと考えます。掲句は、この立場に分類されるでしょう。しかしこの論によれば、たとえばキリスト教の場合、「イエス唯一の救い主」という教義が否定される可能性があります。

 井上神父はこれらの考え方に関して次のように述べています。

 

私は決してイエスと法然が同じことを言っているとか、宗教はどの道からでもみな同じところに到達するのだとか言っているのではない。キリスト道にしろ、仏道にしろ、その道を歩むということは生きるということであって、思索するということではない。人は二つの道を同時に考えることはできても、決して生きることはできないのである。・・・・

人は、自分が今登っている道は必ず山頂に到達するのだという信仰をもって登っていく以外にはないのであり、他の道が山頂に到達するかしないかはわかるはずはないのである。(『法然』あとがき)

 

 神父は、どちらの主張が正しいかという議論をこえて、実際にある一つの道を、一生をかけて「生きる」ということが大切なのだ、と説いているのです。しかしその場合でも、わたしたちは、自分とは違う道を一生をかけて歩んだ他宗教の人たちからも、大いに学ぶべきものがあるように思います。

<キリスト者が読む山頭火>

●分け入っても分け入っても青い山

味取観音堂に来てひとたびは安住の地を得た山頭火でしたが、一年足らずで山林独住に堪えかね、「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出」ます(掲句前書き)。彼の心に潜む放浪の虫がどうしようもなく騒ぎだしたのでしょう。

自由律俳句研究者の故上田都史氏は、この句について次のように述べています。

 

旅とは定住を離れること、定住を離れつづけることである。定住していた場、土地といってもよい。その場を離れることである。それと同時に、定住の心の場をも離れることである。離れつづけることである。とどまることは「静」であるが、「濁」でもある。停滞の澱みを流れに切り換えて、出口のなくなった観念の整序をはかることである。

旅することは刻々到着することである。到着するから定着を離れつづけることが旅なのである。……分け入っても分け入っても青い山≠ヘ、山頭火の精神の昂揚であった。その深さの奥の奥の巨きななにかは、山頭火にとって到着し得ない、しかし、なんとか行き着きたい願望の涅槃であった。(講談社『山頭火の虚像と実像』五九〜六〇頁)

 

氏によれば、山頭火が旅に出たのは、精神の「停滞の澱みを流れに切り換えて、出口のなくなった観念の整序をはかる」ためであり、その目指すものは、「青い山」の「深さの奥の奥の巨きななにか」、「山頭火にとって到着し得ない、しかし、なんとか行き着きたい願望の涅槃であった」のです。「涅槃」とは、すべての煩悩を解脱した不生不滅の悟りの境地です。「青い山」に象徴される涅槃、その境地を獲得するために彼は、「定住を離れつづける」必要があったのです。山頭火が自らの行を「歩行禅」と称していたことが思い起こされます。涅槃寂静という境地を得るためには、山頭火の場合、どうしても歩くという行動が必要だったのでしょう。

 

また見ることもない山が遠ざかる

すべってころんで山がひっそり

しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

物乞ふ家もなくなり山には雲

かすんでかさなって山がふるさと

ほととぎすあすはあの山こえて行かう

 

山頭火が「山」を読み込んだ句を、少しく拾ってみました。こうした作品からは、自然に対する親しさが滲み出ています。自然のなかを縦横に歩き、行乞する山頭火にとって、山は第一に友のような、同伴者のような存在であったように思われます。そして、どうにも淋しい自分の人生を黙って理解し包み込んでくれる存在、いつでもそこに帰って行けば温かく迎えてくれる、懐かしい「ふるさと」、母のような存在であったのではないでしょうか。また、ときには「こえて行」くべき父的存在であったかもしれません。

 

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

わたしの助けはどこから来るのか。

わたしの助けは来る

天地を造られた主のもとから。

(詩編一二一・一〜二

 

これは旧約時代、エルサレムへ近づいてきた巡礼者が、はるか神殿のあるシオンの山に目を向け、天地の創造主に助けと加護を求めて歌った「上京の歌」(詩一二〇〜一三四)の一節です。

「山々」は一般的に神々の集会所と考えられ、とくにエルサレムの山々は神の守りのたとえになることもありました。うるわしく隆起したシオンの山は、イスラエル人にとって揺らぐことのない確実な避難所であり、神はここに自ら王を立てると告げられていました(詩二・六)。アブラハムが自分の息子イサクをいけにえとしてささげようとしたモリア山もこの山と考えられています。

こうして、多くの旧約的な思い出に彩られた聖なるシオンの山は、神の民らがそこに永久に神とともに住むことを希望して「上京の歌」を歌いながら上り、そしていつも帰ってくる場所ともなっていたのです。

 

山頭火が日本各地の山々を巡り涅槃の境地を求めて放浪したように、旧約イスラエルの民はシオンの山々に向かいながら神とともに住むことを熱望したのです。一方は仏ないし禅的な無と対峙し、一方は絶対神ヤーウェに向かう。しかし、山頭火が放浪の旅の中で山々に対して抱いた心情と、時代や環境・文化がまったく異なるイスラエルの人々の心情との間には、「山」に対する親近感・信頼感という点において共通するものがあるのではないでしょうか。

島一木 コーナー

神の愛

●宇宙に輝く 星の数も

神のなされる愛の業に

比べれば 無に等しい

福音短歌

 その20

●わたしと わたしの言葉を

恥じる者には 人の子も

その者を恥じる

(ルカ9:26)

●からし種ほどの 信仰が

あれば 「移れ」と言えば

山は移るだろう

(マタイ17:20)

●心を入れかえて

幼な児のようにならなければ

天の国には入れない

(マタイ18:3)

●自分を低くして

幼な児のようになる者が

天の国で 一番偉い

(マタイ18:4)

●あなたたち みんなの間で

最も小さい者こそ

最も偉い

(ルカ9:48)

リクエストしていた貴兄の4冊のエピグラム集は、11月時点で『今を生きることば』をのぞき3冊が宝塚市立図書館に入りました。私の方、最初から通して読み、これから『雨音のなかに』に入るところです。

3冊ともなかなかいいですね。ていねいに読むと、改めて気づかされたこともいろいろあります。貴兄の霊性も、少しずつ変化し、成長しておられるのだなあ、とも感じました。『雨音のなかに』が楽しみです。

 

Re:余白:恐縮です。最初の『今を生きることば』からちょうど10年になります。大兄がおっしゃるとおり、その間、自分の中でも少しずつ信仰が変化していっているようにも思います。いずれにしろ「南無アッバ」に全幅の信頼ができることが、最大の願いです。

 

 その21

●つまずきは 必ず起こる

しかし 人をつまずかせる

者は 不幸である

(マタイ18:7)

●あなたがた自身のうちに

塩を持ち 互いに

平和に生きなさい

(マルコ9:50)

●兄弟が罪を犯したならば

行って 二人だけで

彼をいさめなさい

(マタイ18:15)

●二、三人が わたしの名に

よって 集まっている

所には わたしがいる

(マタイ18:20)

●イエズスは 幼な児たちを

抱き 彼らの上に

両手を置いて祝福された

(マルコ10:16)

『雨音のなかに』読み終えました。前の三冊は、うんうんと頷きながら読みましたが、この一冊では、ついに目頭の熱くなるところが数カ所ありました。主に、困難についての部分です。

 

Re余白:またまた恐縮です。『雨音のなかに』は、その前の『人の思いをこえて』と同じ出版社から出したのですが、編集担当者が異なり、ちがった雰囲気になっているのだと思います。

 

☆『摂津幸彦全句集』(沖積舎)より

鳥曇りロシア寺院を出でし火夫    摂津幸彦

金曜の神父の前のぶだうの後口

失楽の赤き布あるりんご園

楽観や木箱のクリスト誰が貰ふ

尻取りの姫よりクリスマスまで過ごす

聖餐や魚香の空をひとつ撞き

古池をしばし掻きまぜ帰る神父

うらわかき正午の舟よエスを抱く

聖人の膝折れやすく鰯雲

神呼ばむ冬のからだを杖として

蟹股に讃美歌流れ星溢る

詩篇あり東京巣鴨の食堂に

降る雪にさはられてゐるクリスマス

ミカエルの生まれ変はりや仏桑花

基督の身にあくがれの夏蜜柑

羽根枕破れて低き讃美歌よ

温水プール誰も智恵の樹を知らず

空豆を狩り讃美歌の中をゆく

聖水を振る麦秋の機関士へ

人の鼻つまみし覚えなき聖夜

初弥撒やわが魂は着ぶくれて

旧約の広場をのぼる雀の香

「悔い改めよ」野鼠の夜が又来るぞ

ヒコイズム研究会(摂津幸彦研究会)では、二年がかりで全句集(未刊句集『四五一句』を含む)の検討を終えた。その間に目にとまったキリスト教関連句を抜き書きした。句集にまとめられた全作品は2322句なので、ちょうど1%位の数にあたる。

摂津幸彦は1947年生まれ。団塊の世代である。49歳で夭折したが、クリスチャンではなかった。しかし、前衛の旗手と呼ばれたこの俳人の目に、キリスト教がどのように受けとめられていたのか非常に興味深い。

掲句中、第9句、第10句は、キリスト教の「聖人」や「神」なのか判然としないが、それでなくても数が少ないので、参考句として提出することにした。

 

Re余白:摂津さんの句はどれも、一筋縄ではいかないが、一度読んだら忘れられない印象深さがあり、不思議な魅力に満ちています。

 

比田井白雲子 コーナー

●喜びに出逢って草ゆれだした

●なにもない空に合掌

●雀 これを着ろ

句評は、それぞれにとても啓発されました。私も、一日も早く、大自然の命に包まれだかれ、ほんわかあったかな句を生みたい願っています。

 

Re:大兄は昔から変わらず、「ほんわかあったかな句」をめざし、生み出していますね。人柄がよく出ていますよ。

 

苦しみ緑の風

苦しみの中から沢山の祈りの言葉が生まれた
苦しみは私を魂の深みへと導いてくれた
苦しみは私の心を清めてくれた
苦しみは私を神と出会わせてくれた
主と共に十字架を担う時
私はいつも天の国を垣間見る

Re: 余白苦しみはひとつの神秘です。というメッセージが、ヨハネパウロ2世から出されたことがありました。
わたしは、日本人のキリスト信仰にとっては、罪以上に苦しみからのアプローチというのが重要だと思っています。

Re: まいまい

 

私には「(人には)罪(がある)」ということは全く実感できません.
だから,罪からの信仰への道というのは全く閉ざされている感じです.
まだ,「苦しみ」だと実感できるだけ,その道の可能性を感じます.
余白さんのご指摘のように、(わたしひとりではなく)日本人の多くにとって、「苦」は「罪」より遥かに信仰への入り口になりやすいのではないか、という気がします.

Re:緑の風

小学5年生の時、初めて聖書物語を読んで、涙が止まら無くなりました。まだ、という言葉の意味を知りませんでしたが、そこに書かれていたキリストの言動に、今まで触れたことのない優しさを感じました。もし、私が幸せな子供時代を過ごしていたら、キリストと出会う事は無かったと思います。

 

無題 :しんご   

 

真夜中 散文的思考 冒され おれはもうだめだ
饒舌さ それさえあれば もはや祈れず
吐き出し 傷つき すべてが物憂い
神よ どうにかしてくれ 

Re: 余白

「散文的朝 韻文的夜」という創句を、昔つくりました。
祈りに集中できないときは、私の場合、部屋の片づけとか、ワープロじゃなくて自筆で俳句を書いたりとかしています。じっとして悶々とするより、体をほぐすという感じ。

母の「命日」に寄せて :N.K.

 最近、母を想い出して泣くことがほとんどなくなりました。たぶん、やっと8年目にして、いろいろな「出逢い」が私の気持ちを変化させたのでしょう。だから、今は「すっきり〜」としています。母が亡くなった時の雲ひとつないあの「空」のように〜・・・雲ひとつない空を眺めるたび、母はあの「空」にいるような感じがします。光に包まれて・・・もちろん、母が懐かしくなることは、あるけどね。。。最近、母の死期が近づいた時に使っていた「羽布団」を今まで使用していたけど、古くなったので、新しい「羽布団」に買い替えました。色違いのお揃いです。古いの処分は、何だか名残惜しい気もしましたが、ダンナさんは「時代が変わったんだよ〜」と言ってくれました。
今、何だかやっと、自分の「時代」になったように感じます。母は母。私は私。私は私の「道」を歩んでいきます。もしかしたら、実家にも、私はもう戻らないかもしれません。やはり「実家」は「想い出」がたくさんあり過ぎるから・・・それに、ウチは子供もいないし、二人ではあまりに広すぎる家だからです。自分の「老後」のことも考えてね。。。これからも、「出逢い」を大切にして、ささやかな「幸せ」を感じて生きていこうと思います。ぼちぼち、ゆっくり〜、自分のペースでね。。。私はたいしたことはできませんが、あなたの傍にいれると嬉しいです。
あなたのもとに「希望の光」を、そして、「心の平安」をお祈りします。。。
あの空の向こうには亡くなった母、そして、光に包まれた主がいらっしゃるあの碧い空の向こうに・・・

Re:  余白

お母様は亡くなって、今は見えないけれど、今日みたいな青空に溶けていらっしゃる。イエス様も復活されて青空に溶けている。ぼくらはその下でお日様をもらって、空気を吸って、、、NKさんも今こうして、お母様やイエス様を呼吸して生かされているんだよねー。有り難いよねー。

「南天の木」 :N.K.

余白さん、ご無沙汰しております。先週の日曜日は「母の命日」でした。雲一つない晴れわたった日...母が亡くなった日も「雲一つない晴天」でした。。。母はこの空に召されたんだな〜と晴天の空をしばらく眺めていました。私が夫と住む宿舎と同じ市内に、今は空家になっている私の育った「実家」があります。(父は再婚して、今は東京に継母と義理の妹たちと住んでいます)実家の庭に「南天の木」が赤い実をつけていました。せっかくなので、お墓と自宅に持ち帰ってきました。母が大事にしていた植木のひとつ・・・「南天の木」「難(南)を転(天)じて福と成す」昔ながらの風習や季節を大切にする母の「こだわり」が、今もひっそりと息づいていました。。。母が逝ってから8年・・・いろいろな「出逢い」があり、やっと母の死から癒されつつある私です〜〜〜〜〜〜〜^-^V
母想う 赤い実つけた 南天の木

「母の命日」に寄せて、徒然に綴ったものをお披露目します。文才のない私の文章ですので、恥ずかしくもあるのですが・・・自分の中でひとくぎりついた私の気持ちです。明後日の井上神父さまの「御ミサ」を楽しみにしています。「井上神父さま」はもちろんのこと「余白さん」そして「みなさん」にお逢いできることを・・・

 

Re:余白

良い句ですよ。ストレートが一番!お母様をとっても愛していらしたのですねー。少しずつ癒されていくのを知って、うれしいです。イエス様からどんどんエネルギーをもらいましょうね。神様は無限にエネルギーを供給してくださいますから。

 

福音短歌まねっこ その2 :島さんファン

また若い時にとついで出された妻を招くように
主はあなたを招かれた

わたしはあなたの若い時の純情、
花嫁の時の愛、

見よ、良きおとずれを伝える者の足は山の上にある。
彼は平安を宣べている。

 

Re:  余白

神と私たちの関係は、よく夫婦や恋人にたとえられますね。若いときはなんか抵抗があったけど、50近くなると、よくわかるように思います。

 

福音短歌まねっこ(旧約・口語訳)島さんファン      

銀を試みるものはるつぼ、
金を試みるものは炉、
人の心を試みるものは主である。

よきおとずれを伝え、平和を告げ、
よきおとずれを伝え、救を告げ、

わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、
夜回りが暁を待つにまさって
主を待ち望みます。

 

Re: 余白

「試みる」というと、なんか第三者的に試されている、っていう感じがしちゃうけど、主の場合はそうじゃないんですよね。救いというのを視野に入れた試みなんだと思います。「島さんファン」さん、有難うございます。

 

無題 :しんご   

 

蒔かれた種まだ遥かな岩地
自愛と無学の様式美
慈愛は常に迫れども
虚飾の時の恍惚さ

Re:余白

「自愛」と「慈愛」の対比、相克。ナルシズムに留まるということは、ある意味罪かもしれませんが、文学や芸術はそれがモチーフ、パッションとなっている部分が多いのでしょうねー。

 

「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿してください。

 

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