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余白の風 2004/4 発行者:平田栄一
<最近の余白作品> 嘘から出た誠しずかに春の暮れ 先立つ神ありて迷わず春の道 信不信問わず御国へ春の丘 「これでいい」と死ねる人あり鰯雲 神そっと身体を起こす春の朝 友なる神共にいます春の闇 五月闇虫めがねで読む『死の神秘』 (『紫』2004年4月号) 連載 俳句でキリスト教 <厳しさより優しさ> キリストが恐いと泣きし児卒園す 安藤圭子 「キリストが恐い」という感覚は、日本人一般なら不思議なことではないかもしれません。それにはいろいろな理由が考えられますが、年端も行かぬ「児」であれば、まず、教会付属の幼稚園に掲げられている磔刑像や受難図のようなもの。これをはじめて見て恐くない、という子供はいないのではないでしょうか。 幼児期のこうした第一印象から始まって、今度は聖書が読めるようになると、『マタイ』の「山上の説教」に代表される厳しいイエスの言葉を引用して、キリスト教教育がなされていく・・・・。かくて神またはイエスという人物は、わたしたちに「あれをしてはいけない、こうせねばならない」という無理難題を押しつけてくる恐い人、あげくのはてにむごたらしい十字架にかかって死んだ人、という印象が植えつけられてしまうのです。 成人してからキリスト教に求道したわたしでさえ、一方でイエスのすばらしい福音に惹かれながら、他方ではその近寄りがたい厳しさに、とてもついていけない≠ニ何度も躓きました。その上さらに現代科学では理解不能な奇跡や死人の蘇り等々、信じられないことのオンパレード。それがキリスト教なのだと思い、途方にくれたものです。 たしかに十字架の死はキリスト教にとって大切な意味があります。「山上の説教」もイエスの生前の教えの大きな部分を占めています。しかしそれがキリスト信仰のすべてではけっしてないのです。 カール・ラーナーというカトリックの著名な神学者は、キリスト信仰における 救いの原初的経験とは、ただ単純素朴に、われわれは救われた。なぜなら、われわれと同じこの人間(イエス)が神によって救われ(中略)たからである=i『キリスト教とは何か』) といっています。 そうだとすれば、キリストによる救いの表現には、もっとバラエティがあっていいのではないかと思うのです。とくに日本では、イエスの十字架より復活を象徴した芸術表現や、新約聖書においては戒め中心の<言葉伝承>より、癒しや慰めを中心とした<物語伝承>がもっと強調されてもよいのではないでしょうか。 春光や鳥にもの言ふ聖徒の図 佐々紅花 この「聖徒」は十三世紀の托鉢修道会「小さき兄弟会」の創始者アッシジのフランシスコでしょう。イタリアの裕福な商人の子として生まれ、騎士に憧れたフランシスコは二十四歳のとき、神に徹底的に仕えることに目覚め、イエスの貧しさをそのまま生きようと決意し、生涯そのとおり実行します。 彼の生涯は、小鳥や狼も聞いたという説教、聖女クララとの恋愛等々、さまざまな伝説と、ロマンチックな逸話に富んでいます。小鳥に説教するフランシスコを描いたジョットの絵が残っています。そして彼は「イエスの再来」とたたえられ、当時のカトリック教会が活力を取り戻すことに貢献しました。 たたえられよ 我が主、 あなたから造られたもの わけても 貴き兄弟 太陽によって。 彼は昼を造り、 主は 彼により 我らを照らす。 ・・・・ たたえられよ 我が主、 姉妹なる月と あまたの星によって。 ・・・・ 兄弟なる風 大気や雲 さま変わる 天の事象によって。 ・・・・ 姉妹なる水・・・・兄弟なる火・・・・我らの母 姉妹なる大地によって・・・・ (フランシスコ「兄弟なる太陽と造られたすべてのものの賛歌」石井健吾訳) キリスト教国でない日本でも、フランシスコは最も好感の持たれている聖人ではないでしょうか。わたしは、日本人とキリスト教≠ニいうテーマを考えたとき、フランシスコは非常に大きな貢献をしてくれたのではないかと思うのです。それは、右の「太陽の賛歌」にもみられるように、自然を征服すべき対象とせず、たとえ伝説であったとしても、鳥や獣や太陽などを友として交流した希有なヨーロッパ・キリスト者だったからです。このことが、対自然的でなく即自然的な日本人に親しみを持たれている要因なのではないかと思うのです。 ちなみに、筆者自身の洗礼名も「フランシスコ」です。 キリスト者が読む山頭火 この句には「放哉居士に和す」と前書きがあります。尾崎放哉は結核により小豆島で死にました。直接的にはこのことで山頭火の放浪の虫が呼び覚まされたのかもしれません。 この句はもちろん放哉の代表作品、 咳をしても一人 を念頭につくった句でしょう。 「鴉」といえば、日本では死や孤独を連想させる不吉な鳥です。その意味で掲句は、「鴉啼いて」と「わたしも一人」が直結した関係になっています。 しかしこれを、キリスト者として読んだらどうでしょう。 烏(鴉)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。(ルカ一二・二四) イエス時代のユダヤ教社会でも「烏」は律法規定によって忌み嫌われていた鳥だったといいます。しかしそんな烏さえ神はちゃんと養ってくださる。だから「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」。安心せよ。「ただ、神の国を求めなさい」とイエスは忠告したのです(一二・二九〜三一)。 このようにイエスが「考えてみなさい」と言ったときに想定されている「烏」は、けっして孤独な存在ではありません。なぜなら烏は神に心をかけてもらい、「養ってくださる」神と共に生きているからです。けっして忌み嫌われ、見捨てられて「一人」になってしまった鳥ではないのです。 野の花や空の鳥に対するアッバなる神のこうした配慮を知って、もう一度、 鴉啼いてわたしも一人 を読み直すとき、ストレートに淋しさを表現しているとだけ解釈していたこの句が、なにやら別の輝きをもってくるのです。 山頭火の句作のモチベーションとなった放哉の死。放哉は、たしかに「一人」はるか遠くの小豆島で死んでいきました。鴉も啼きながら一羽で飛んで行きます。そして「わたし」山頭火も「一人」です。しかしその「一人」と「一人」、そして「一羽」をも神は心にかけていてくださるという真実――。 わたしたちは、こうした信仰的真実のなかで黙想することにより、この句を、生きとし生けるものの孤独や淋しさを越えた、いな、孤独のままに、淋しいままに、全存在を包み込む神のあたたかい手、やさしいまなざしを感じさせる作品として鑑賞することができるのです。 寂しいよ・・・:奈々 砂煙 自転車に乗り 消えた君 Re:余白 「私があなたのことを疑ったときも、また忘れていた時でさえ、たしかにあなたは私をお忘れにはなりませんでした。」(風の家の祈り1) 招待作品 植松万津(3) ―産着― やわらかく温き重さよみどり児の生れしばかりを今朝も抱きぬ うっとりと瞼しだいにおりてきて眠りゆくとき微笑む不思議 おむつ少しぬれたのかしらみどりごは泣きはじめしもまた眠りゆく 人間の初めはかくも安らぎに満てるものかなみどり児の朝 羊水の記憶のありやみどり児は産湯の中にひたと泣き止む みぎひだりおのずとわれは揺れおりぬ赤子しばらく抱きしのちは ああ吾娘も母となりしよ揺り籃に倚りてかくまでやさしき声音 週末は訪い来る父に抱かれて日がな一日眠るみどり児 パワーフルに泣く赤ちゃんと産院の一ヶ月検診でまた言われたり まつ白な産着あさ朝干しながら遠田に水の張られゆく見ゆ 島一木 コーナー 福音短歌 その27 あなたたちが 人の子の日を 一日でも 見たいと望む時が来る (ルカ17:22) ノアの時と同じような ことが 人の子の来る時 にも 起こるだろう (ルカ17:26) 神は 昼となく夜となく 叫び求める人々を ほうっておかれるだろうか (ルカ18:7) しかし 人の子が来るとき 地上に信仰が 見出されるだろうか (ルカ18:8) 徴税人は 遠くに立って 目を天に上げようともせず 胸を打ちながら (ルカ18:13) その28 ザアカイ 急いで 下りなさい 今日 わたしは あなたの家に泊まりたいのだ (ルカ19:5) 人の子が 来たのは 失われたものを 捜して 救うためである (ルカ19:10) 罪を犯したことの ない人が まずこの女に 石を投げなさい (ヨハネ8:7) これを聞くと 人々は 年長者から 一人 また一人 と去っていった (ヨハネ8:9) わたしも あなたを 処罰すべきとは みなさない 行きなさい (ヨハネ8:11) 神の国は 神の国は 目に見えるものとして 来るのではない また 人々が 「見なさい、ここにある」とか 「あそこにある」とか 言えるものでもない 神の国は 実にあなたがたの 間に あるのだから (ルカ17:20〜21) 比田井白雲子 コーナー いま こんなところにもテレジアの風が 風やんで また 吹いてくれた 大空に 歩かせてもらう 朝夕に、星を見ながらアッバ アッバ 南無アッバと口ずさみながら、散歩をしています。心が浄化され至福の時です。句評とてもすばらしく、とてもためになります。山頭火の句も、ある心の到達点から生まれるべくして生まれたことを知らされました。 後記:予期せず転勤を命じられ、今新しい職場でこれを書いています。今度の学校は単位制定時制で昼間部も夜間部もある特殊な学校です。全県に2つしかなく、これまでとはずいぶん勝手が違うので、不安でもあり楽しみでもあります。さっそく歓迎会があって、教頭先生も俳句をやるということを知り、喜んでいます。私がカトリックであることも、公言しておきました。 「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿してください。 |
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