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平田栄一サイン本
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 余白の風 求道俳句とエッセイ 97号 2004.6

発行者:平田栄一

<余白近詠>

†拍手を打てる高さに磔刑図

†宗教的腕立て伏せや五月闇

†十字架の重さ軽さや梅雨近し

†冷房車気の昇降を計りおり

†神の筆なる夕焼けを梅雨の晴れ

†手に負えぬカイロス迫り草茂る

†ともかくも今日という日が残照に

    (『紫』2004年6月号)

 

余白

連載 俳句でキリスト教

<神の国は来ている

†天国(とき)が遅れて鳴りそめし

島津明子

すでに述べたように、現代俳句は難しい、とよくいわれます。わたしも初心の頃はそう思っていました。しかしさまざまな作品に接したり、句会で学んでいくうちに、単純なひとつのことに気がついたのです。それは、俳句は元来詩であり文学であるから、その解釈は基本的に読者の自由に任されている、という一事です。たしかに俳句には季語や定型といった特殊な問題がつきまといますが、しかしそうしたことは二の次であって、あくまで文学・詩であることが根本なのです。

そうであれば、「難解」とはすなわち解釈の難しさではなく、解釈の多様性・重層性を意味し、それだけ読者に自由が与えられている、ということになります。

 

さて掲句ですが、「天国の刻が遅れて」、ここでまずひっかかります。キリスト教でいう「天(の)国」は、三次元的なこの世の時空をこえた永遠の次元のことがらですから、わたしたちがふつうに使う時間や空間の概念は当てはまりません。したがって本来、天国における「刻」は、「遅れ」たり進んだり・・・・というような範疇で語ることのできないものなのです。この矛盾は、「天国の/刻が遅れて」と素直に五・七で切って読んだことによります。つまりこの読みでは天国のなかでの刻(天国における刻)≠ニいうニュアンスが強くなるからです。

そこで一工夫。「天国の刻が/遅れて・・・・」と、八・四で切ってみます。こうするとこの世へ天国(の状態)が来る刻≠ニいう意味合いを帯びてきます。

イエスがガリラヤで宣教をはじめたときの第一声は、

 

時は満ち、神の国は近づいた。(マルコ一・一五)

 

というものでした。この「神の国basileia tou theou)」は『マタイ』では「天の国」と表現されますが、ともに神の支配≠意味します。この世を神が支配する刻(時=カイロス)は差し迫っている、ということです。「近づいた(エーンギケン)」という完了形は、すでに「到来した」と解釈することができます。

このことを信じた原始キリスト教会の人たちは、世の終わり(終末)は近いと思っていました。しかし、今日明日にもと思っていた終末はなかなか来ない。やがてなぜ「遅れて」いるのか、という疑念が人々の間に広がりました。

パウロをはじめ福音書記者たちは、その疑問にさまざまに答えようとしました。その趣旨は掲句を借りるなら、神の支配はたとえわたしたちの目にはそのように見えなくても、イエスの登場以来すでに始まっている。ただそのしるしとして「刻」を告げる鐘が、今「遅れて鳴り」はじめたのだ、というものでした。

 

キリスト者が読む山頭火

†生死の中の雪ふりしきる

昭和三年九月、山頭火は小豆島の西光寺に墓参します。放哉のいた寺です。

山頭火の熟読した『修正義』の一節に、「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。生死の中に仏あれば生死なし」との一節があります。

「生死」をこえた境地を求めて山頭火は旅を続けました。ときには「雪ふりしきる」なかで、放哉の召された浄土に思いをはせたことでしょう。

 

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(ヨハネ一一・二五〜二六

 

先の『修正義』の一節、「生死の中に仏あれば生死なし」ということと、このイエスの言葉、イエスを信じる者は、生死を超える≠ニいうことは、互いに通じ合うものがあるように思います。

ハイデッカーという哲学者は、人間にとって確実なことは、死以外にない≠ニいいました。わたしたちは、どんなにいいことをしても、悪いことをしてもけっきょく死んでいくしかない――。この厳然たる事実を前に、戦慄を覚えない人がいるでしょうか?

あらゆる宗教や哲学の生まれてくる理由がここにあります。人間のすべての営みは、この死への不安からの逃避を目的とする、といっても過言ではありません。

 

十字架の死は、およそ人類が経験する極限の苦しみと恥辱に満ちたものでした。それだからこそイエスは、すべての人の罪と苦しみと、人生のあらゆる哀しみを受けとめ、背負うものとなったのだ、と初期のキリストは理解したのです。イエスは人々の罪と苦しみと死を背負って黄泉にくだり、復活して神の懐に招かれ、永遠の命に生きています。わたしたちの生死は、こうしたイエスの生死にいわば抱きとられているといってよいでしょう。

 

「ふりしきる」真っ白な雪に洗い清められ、生死の境をこえて仏に抱かれていく山頭火のように、わたしたちもイエスの十字架と復活によってエゴイズムや汚れから解放され、あらゆる苦しみをいやされ、天国、神の国へと導かれるのです。このとき、すべての労苦は報われます。

使徒パウロもこの希望に満ちたメッセージ――福音をわたしたちに力強く伝えています。

 

わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(一コリント一五・五八

 

比田井白雲子

†空がいのってくる

†ひとつ 空のいのり

†一本の枯木の祈りにであった

 貴重な「南無アッバ」カードをありがとうございます。やさしいイエス様が、吹いてきてくれたかのようです。上の「枯木」の句は、映画「パシック」で、最後のイエスが、むち打ち十字架にかけた人々をも、祈る姿に感動、できた句です。イエスのわき腹を刺し、血を浴びて兵士が、ひざまずき、おののきますが、水も流れ出たとは気がつきませんでした。聖書は、つんでおくだけの私には、毎号がとても楽しみで、ためになります。無宗教の私ですが、アッバに生かされていこうと思います。

 

小さき花

山根さんの聖書講座  2004/05/

前回のぶどう園の主人と僕のたとえは聖書注解書などでは「天国泥棒」にからめて信仰生活の長さと救いの恵みは関係ないというとらえかたが一般的です。

ただ,井上神父さんもおっしゃていますが、この解釈で洗礼がきゅうくつな束縛のようにとらえられてしまうのはおかしいのでは。早くキリスト者になったのは喜ばしい福音の恵みであって、早い時間から働けた恵みを喜ぶものではという疑問があります。

 

今回は話題の映画「パッション」をとりあげます。

テレビのCMなどで見に行った学生たちからもいろいろ質問されています。

冒頭にイザヤ53.5が紹介されます。

私たちのために血を流し傷ついた。倒れても立ち上がり成し遂げられた。これがこの映画全体を表しています。この箇所が分からないとショック死するほどの単なる暴力映画になってしまいます。

遠藤さんの「深い河」でも、当初この聖書の箇所が理解できなかった美和子が,血を流す大津の姿から実感できるという使われ方をしています。

映画はゲッセマネからはじまります。ここで忘れてならないのは、捕らえに来た兵の傷を癒されたこと。「剣を抜くものは剣にて滅びる」、暴力に対して暴力で答えてはならないーこれがイエスの教えです。

女優が演じたサタン(象徴的に蛇がでてくるので悪魔と分かる)が人を動かす。絶えず残虐な群集の中に顔をだしています。

サタンとの闘いでもあるのです。

母マリアもずっとつきそい、重要な役割をはたしています。

イエスのいる地下牢の上で地面にひれ伏しほおずりする,母の愛は苦しむ子につながる,察知することができました。

十字架の道行きでマリアとイエスが出会う時、幼いイエスが転んだときに駆け寄る母の回想シーンと重なっています。

マリアにとってはイエスは息子である、そのつながりが強く感じられます。人間の残虐性の中にあって唯一の救いが母親の愛です。

人間はある状況下では残忍さ,残虐性という傾きを持っているものです,遠藤さんの描く「スキャンダル」の悪です.民衆の姿は人間一般の悪、残虐さです。けじめ(価値観)がないとどんどんエスカレートしていきます。

十字架上の7つの言葉が描かれます。

「父よ、彼らをお許し下さい,自分が何をしているか知らないのです」との言葉はくぎを打ち付けられるシーンと十字架上の2回発せられます。

憎しみ、暴力の連鎖をたちきって平和へ持っていけるのは途方もない勇気と犠牲が必要です。

山上の説教で述べた言葉ー迫害するもののために祈りなさいという言葉が最も苦しい場面で言葉だけでない現実の行いとなっています。

「渇く」

マザーテレサの修道会で大切な言葉となっています。

渇いている人がいる限り,今もイエスは渇いておられると、だから愛に渇いている人に愛を与えるのです。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

この解釈は二つあります。

イエスが神から見捨てられたと感じるほど人間としての極限的苦しみを味わわれたのだということ。

もうひとつは井上神父の本に書かれている、絶望からはじまり希望でおわる詩編 22の冒頭部分だけであるということ。

「成し遂げた」、苦しんで苦しみ抜いて息を引き取るまで成就したということです。

ローマ百人隊長は「真にこの人は神の子であった」言う,神の子でしか出来ない業であったと述べています。

暴力にたいし愛とゆるしで立ち向かうときサタンは倒れる,そのシーンとイエスの復活で映画は終わります。

遠藤さんがこの映画を見たらどういったでしょうか

 

島一木

福音短歌 その33

†昼間歩けば

つまずくことはない

この世の光を見ているから

(ヨハネ11:9)

†だが 夜歩けば

つまずく その人の

内に 光がないからである

(ヨハネ11:10)

†わたしは 復活であり

生命である わたしを

信じる者は 死んでも生きる

(ヨハネ11:25)

†生きていて わたしを

信じる者は すべて

永遠に 死ぬことはない

(ヨハネ11:26)

†あなたが この世に

来られるはずの神の子 メシア

であると 信じております

(ヨハネ11:27)

その34

†信じるなら

神の栄光を見ると

あなたに言ったではないか

(ヨハネ11:40)

†父よ いつもわたしの

願いを 聞いてくださる

ことを 知っておりました

(ヨハネ11:42)

†ダビデの子に ホザンナ

主の名によって来られるかたに

祝福があるように

(マタイ21:9)

†あなたがたに言っておく

もし 彼らが黙れば

石が叫ぶであろう

(ルカ19:40)

†心に疑わず

言ったようになると

信じるなら 聞き入れられる

(マルコ11:23)

 

†都のために

 

もし きょう

おまえもまた

平和をもたらす道が

なんであるかを

知ってさえいたならば・・・・

しかし 不幸にも今は

それが おまえの目には

隠されている

 

いつか 時が来て

敵が 周囲に塁壁を築き

おまえを 取り囲んで

四方から押し迫り

おまえと そこにいる

おまえの子らを 地に打ち倒し

おまえの中に 重なった石を

一つも残さないであろう

それは おまえが

訪れの時を

知らなかったからである

(ルカ19:42〜44)

その35

†わたしの家は

すべての民族のための

祈りの家と呼ばれる

(マルコ11:17)

†さて ヨハネの洗礼は

天からのものか

それとも 人からのものか

(マルコ11:30)

†徴税人や遊び女が

あなたがたより 先に

神の国に入るであろう

(マタイ21:31)

†家造りらが捨てた石

これがすみの親石となった

それは主のなさったこと

(マタイ21:42)

†神の国は あなたがたから

取りあげられ 実を結ぶ

民に 与えられるであろう

(マタイ21:43)

 

徒然なる『マルコ福音書』:余白

1・1<神の子>といえば、昔こんなことを聞いた、「もしパウロがユダヤ人でなかったら、イエスを『神の子』とは言わなかっただろう。『神』そのものと言ったのではないか」と。それだけ、イエスに対する思い入れは強かったに違いない。唯一の神ヤーウェ以外神としてはならない、というモーセの第一戒との重大な衝突・矛盾・葛藤・・・・三位一体の問題を、パウロは最初に体験したキリスト者だったかもしれない。わたしの場合は、井上神学に学ぶうちに、まさに自然に、気がついたら、イエスと神と聖霊(風=プネウマ)が一体であるという感覚が身についていた、というほかない。だからことさらに、三位一体が問題にならない。有り難いことだと今更ながら思う。井上神学は単に日本人に合ったキリスト教という課題を越えて、今までのキリスト論自体を根底から見直している神学ともいえるのではないだろうか。

 まず、初心者にとっては、<イエス・キリストの>難しさがある。「イエスがキリストである」というのは、禅の公案みたいなものだ、という話も聞いたことがある。そこには教義としての「贖罪」以上のものがあるのではないだろうか。というより、別の見方もあるのではないか、ということを言い続けてきた。なぜなら、日本人の心情でとらえなおす<福音の>喜びがあっていいはずだから。「罪」ということが問題になるにしても、たとえばそれは「エゴイズム」とか「業(ごう)」と置き換えて理解してもいいのではなかろうか。遠藤氏は「罪」を「いわば自分の力ではどうしようもないもの」と説明していた。そういう聖書表現の現代化、あるいは日本化という作業がどうしても必要であろう。「イエスがキリストである」ことの根拠すなわち<初め。>=源とは、そうした工夫をした上で、明らかになる。実感を持って福音が万人のものとなる。以下、マルコや初期キリスト者たちは、彼らなりの工夫によって、根拠を示そうとする。その手始めを、2<預言者イザヤの書にこう書いてある。>といいつつ、以下『マラキ書』なども交えた旧約聖書からの混交引用や解釈引用に見ることができる。律法の文字の一点一画を大事にしてきたユダヤ人が、イエスをキリストと告白するためには、旧約の文字を読み替えることを辞さなかったのである。彼らのその強い確信と、柔軟な姿勢に学ぶところは大きい。

「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿してください。感想もお待ちしています

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