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平田栄一サイン本
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余白の風-求道俳句と日本のキリスト教」第111号 2005.6.12

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本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:掲示板ICF求道俳句板

井上神父に学ぶ:栄一

――イエスと性――

向かいの席 むきだしの少女の白い腿に

 思わず目を閉じ南無アッバ (『アッバ讃美』p.13

神父がエロティズムを詠うということ自体で、驚いたり、眉をひそめたりする向きも、いまだにあるやもしれない。

それならば、「女を見て欲情を抱くものはすでに・・・・」と言ったイエスに性の悩みや問題は最初からなかったろうか?

イエスが救い主であり、神(の子)であるということは、人間として、男性として当然ぶつかるであろう性の問題に、当初から超然としていたこととイコールではない。

それにしても、井上神父のこの一句には、どこにも卑猥さがない。イエスの性に対する感覚も、そのようではなかったか。。。

――いつでも どこでも 南無アッバ――

ホームに立って

 電車待つまに南無アッバ (同上)

井上神父は、「お祈りは時間が長ければいいというものではない。短い時間でも、神様(アッバ)に何もかもお任せする気持ちを持つことが大事だ」と言います。

そういう意味では、場所もお風呂だって、トイレだっていいわけです。

もちろん電車を待つホームでもOK。一瞬「南無アッバ」と射祷を唱える。。。

「でもどちらかというと自分としては、地下鉄などより、自然の見える地上のホームや車内の方がいい」とも言っています。

平田栄一求道俳句全集作品鑑賞いう

2005年作品より

万物に寄り添う影や冬ぬくし
寄り添ってくださる方がいらっしゃるということ、それをふと感じるとき。ほんのりと温かな気持ち。冬だからこそ感じる、その暖かさ。
正論を吐くは易しき秋の雲
「イウちゃんはいつも正しいの!」と言われた若い日。今も鋭く突き刺す記憶。
身の丈の目標はある神渡し
今、私の目標はどこに行ってしまったのだろうか。混雑する駅を歩きながら、「私はきっと・・・!」と思っていた高校生だったのに。
救われてなお道はるか秋の雲
いわゆる「熱心なバイブルクリスチャン」がカトリックの友人を見つけては「あなたはいつ救われたのか?」と議論を仕掛けるそうです(at USA)。「意識的な悔い改め→洗礼による救いの完成」という考えをカトリックではあまりしていませんね。もちろん、洗礼は大事な救いの約束ですが、救いは一瞬で完成されるものではなく、もっと継続的に人生に起こっているものだととらえているように感じます。この句を読んで、そんなことを思いました。
綿虫にある星雲の記憶かな
好きです、この句。小さな、小さな虫に込められた大きく深い生命の神秘、神の愛。
虚言癖誘う恋や文化の日
なぜ若い日の恋は多くを語らせるのでしょうか。後で苦笑い?
難病を得てなお笑むよ秋の猫
猫よ猫。どんなときでもそれは一枚の絵に。いつも、もがかずとも良い時に、もがき、苦しみのないところに苦しみを持ち込んでいるような私は、猫ほどに生を生きていないのではないだろうか。
怒りても詮なきことよ秋過ぐる
たまにはそんな風に肩の力を抜くことも必要かも。自分がコントロールできないことで心に毒を落としてしまっては。
あらぬこと口走り居る冬便所
後悔で気が動転したりしているとき、独り言がでてしまいまいます! プライベートなところならまだしも、新幹線の座席でも! 自分が怖くなる・・・。
白き戸を開け放ちては母祈る
本当に小さかった頃、2階建ての借家に住んでいました。母は父と何か話した後、仏壇に向って泣きながら祈っていました。私は毛布を引っ張って母のもとへ行き、座りました。母は私には目をやらず、寄りかからせるままにして、そのまま祈っていました。今の私よりずっと若かった母。何を祈っていたのだろう。
かくひと日終わりて御顔見て閉じぬ
こういう信仰の形、いいなあ。私のはむらがあっていけません。
オレオレと急かす心や秋の雨
余白さん、この句では「自己主張」のことを言っていらっしゃっていると、わかってはいるのですが・・・。
ここ数年話題の「オレオレ詐欺」。だんな君いわく、「アメリカではありえない」。(^^;)確かに! でも日本では笑い事では済まされませんね。なんでしょう、心に常に心配があるのでしょうか。それに、家族への、時に過剰な自己犠牲。なんていうか、家族のあり方の日米差などに思いをはせてしまう。

2004年作品から

神に書く物語とて遠花火
神様は大空に描かれる花火を、やはり「たまーやー!」と愛でてくださるかな?(^^)。神様に向けて何かものしておられる余白さんの眺める遠花火のことなのかな。
梅雨入りやムンクの叫び我にあり
入梅時のむんとした空気は、体調だけでなく気持ちもうっとおしくさせます。こんなときの長時間の会議では、思わず叫びたくなる気持ちを抑えるのが大変です。
ムンクのこの絵はとても人気がありますね。誰にでも、そんな気持ちのときがあるからなのでしょうね。生徒さんのテストの余白にそのイラストが描かれていたりすると、思わず丸をつけて何点かあげたくなってしまいます。
ただ生きて死ぬがよろしと虫の秋
好きな句。そういう域にいつか達することができるだろうか。
譲り葉の散りて人生無駄は無し
幼い頃や若い頃、物事はただの点々のように感じられていました。でも、時がたってみると、点同士がつながっていることが見えてきて、そのつながりに深い意味があったこともわかってきます。ほんと、人生って無駄がないんだなあ。
譲り葉は、何か自己犠牲も暗示していて切ない感じがありますね。
教会史読み継ぐ夏へ勇気もて
恵みのうちに誕生し、成長するにつれ、聖なるものを伝えると同時に、過ちもあった教会。まさに一人の人間の生のよう。それを受止めたい。使命と善き働きがあり、神の見守りの中にあるのだから。
祈りては倦んでただ祈りの姿勢
_||○・・・(空白)! というときもあります。でも、そうしていることにも意味がきっと。
ひと言がひと日の糧に人の春
神様からのメッセージを伝えてくれたのでしょうか。うん、がんばる!
母の日に妻の小言の多かりき
よりによってこんなときに・・・。とみんなわかってはいるんだけれど。なぜかそうなってしまう・・・。
御言葉の裏に廻りしバッタかな
「ふさわしくないのです」「どうぞ放っておいて」御言葉に照らされると、葉の影にくるりと回り込むバッタのように、隠れる私。
速読する『遅読のすすめ』木の芽時
「遅読のすすめ」さえ、いつしか目が急ぎ文字をたどるだけに。空気全体がなにかをあせっているような木の芽時。
いつの間に梅雨あけ無常優しかる
時は流れ常に季節は変化していく。「無常」に癒されることもある。
無常という神の身体に触れなんと
余白さんの句を読んでいると、神/神の働きとの関連で「無常」という言葉がよく出てきますね。とても面白いと思っています。というのは、キリスト教の本や祈りの言葉を英語で読んでいるときによく見る言葉は、「Eternal (永遠/不変)」だからです。
神は、対象物として「デン!」とそこにあるようなものではなく、自由に自在に働いている・・・「永遠」かつ「無常」、というような余白さんの捕らえ方、興味深く、また、共感します。

平田栄一の近刊『俳句でキリスト教』(サンパウロ)

10年来「余白の風」等に連載してきたエッセイ的求道俳句評。B6270ようやく6月29日発売決定!となりました。すでに予約くださった方には、それより早くお届けできるかと思います。今しばらくお待ちください。既刊書
<内容紹介>
キリスト信仰の立場から、俳句によって触発された求道的エッセイとして、気楽に読んでいただければと思います。俳句やキリスト教について初心の方にもお読みいただけるように、できるだけかみくだいて書いたつもりです。
俳句からキリスト教へ、あるいはキリスト教から俳句へ、心の旅をごいっしょしましょう

HaikuTunnel ハイク・トンネル :いう

http://tb.plaza.rakuten.co.jp/zazenneko/diary/200506070000/ より

12枚のそれぞれ違ったデザインのブロックを組み合わせて作ったキルトをアルバムキルトといいます。
以前、キルト番組を見ていたら、月ごとの特徴をデザインしたアルバムキルトを紹介していました。2月はバレンタイン・デーで、12月はクリスマスがモチーフなのはわかりやすかったのですが、4月は「雨」でした。
一瞬「?」と思いました。アメリカにいるのだから6月が雨でないというのはわかっていましたが、「4?」と。
よく考えれば、「April shower brings May flower.」なんていう言葉もあって、なるほど4月は雨の季節とされてるんだろうとわかりますが、当時住んでいたのは北カリフォルニア。雨の季節は12月なのです。(カリフォルニアは乾燥しているので夏になると丘の草はちりちりに枯れてしまい茶色の風景。12月を過ぎると緑が出てきて、冬に丘が青々している、という風でした。)
当時、まだ俳句は作り始めていませんでしたが、アメリカでは俳句ってできるのかな、とふと思いました。

南北に広いといえど、ほぼ季節と年中行事を共有している日本のようには、俳句は作れないのではないかな、と。
しかし、Haiku、といえば、たいてい日本の短い詩ということは知られているようでしたし、Haikuのホームページもあったりして、「ふうん、英語で作っている人もいるんだ」と思ううちに、いつしかそんなことも忘れてしまいました。
帰国したあるとき、オランダ在住の俳人の新聞記事を読みました。海外生活での葛藤の中から俳句を始め、今では名も知られるようになっている方です。
その方が、どんなのを作ってるのだと聞かれ、内容を訳して伝えると、「それくらい、自分にも作れる」と言われるのだとか。私はその部分に強い衝撃を受けました。
当時、英語でものが書けるようにとエッセイを書き始めていたのですが、私は、文法の問題以上に表現の仕方に苦労していました。自然描写を通した心象表現が、英語読者には意味をなさないことが苦痛でした。
文化の違いを考えれば当たり前のことなのですが、わたしにとってこうでなければならない表現---そういうものによって自分ができていると思ってきたこと---が理解されない。まるで、ここでは、自分に意味がないようにも感じられていました。(続く)
 ○Re:余白

>自然描写を通した心象表現が、英語読者には意味をなさない<
ぼくは外国語弱いのですが、具体的にどんな表現でしょうか

○Reいう0402さん

余白さん、今、下書きなど引っ張り出してきて見たのですが、全部問題の部分がカットされたものでした。はっきりと例を挙げることができないのですが、例えば、
(・・・で)迷っているわたしは、窓からこれこれこういう景色を眺めた。」とか、「これこれこういう風に吹かれて歩き出した。終わり」とかいったようなものです。
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どうして心の決定の場面に、自然の風景が出てきたりするのかわからないようでした。私のほうでは、そういう描写をすることで、心の葛藤などを暗示したり、最後に余韻を与えたかったのかもしれないと、いまならわかりますが、当時は、ただそう思ったからそう書いただけでした。
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今、この話を、だんな君としたのですが、「心と風景、何の関係もない」と言われてしまいました。
「じゃ、ワーズワースなんかはどうなの?」と聞いたのですが、自然の景色を表現することと、感情とは違うと思う、と。
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それとは別に、こんな話題も出ました。英語話者が日本に行って論文を書いたりすると、論文であっても、「これじゃあはっきり書きすぎているから、もっとあいまいに書くように」と指導されて、大変困惑するそうです。彼らにとっては、そう思っているからそう書いているのに、別なようになんて書けない、ということですよね。

先日、二人で日本人の書いた手紙を英語に直したのですが、なんと、英語のものがぐんと短くなってしまいました。やはり時候の挨拶のようなものは、英語には直りません。いろいろ考えたけど、しかたないね、と。
日本人にとっては時候の挨拶にもしっかり意味があるのですけどね。
ロシア語通訳者の米原万里の本にあったのですが、日本人がパーティーの席で何分かよどみなく話したスピーチの出だしを、ロシア語通訳さん、しばらく考えてから、「・・・コンニチハ」と一言に訳した、というのを思い出しました。
発想の違いや、文の形式や、習慣や・・・いろいろ違って、難しくも面白いですね。

Haiku Tunnel (続):いう

「それくらい自分にも作れる」・・・。新聞記事にそれを読んだとき、何か共通した問題があるような気がしました。その俳句には、その俳人でしかできなかった表現、17文字にこめられた万感の思いがあったはずです。それが、詩の翻訳には限界があるとはいえ、「自分にも作れる」程度にしか伝わらない。
また、レベルは全然違えど、私が思ったとおりに書いたエッセイも、漉されて、漉されて、ただの要約になってしまいました。宇宙食です。無味乾燥なビタミン剤です。
しかし、そういう、漉しに漉す作業がなければ、ここでは、自分がつかみどころのない曖昧模糊としたものであることもよくわかりました。
日本語と日本人が持っている共通の感じ方によって、書いている=考えている=生きている。
アメリカで生活していくには、別に困ることはない。けれど、ビタミン剤だけで食生活を送ることはできない。一向に上達しない英語には半ば嫌悪感を持ち始め、私は日本の古典に惹かれはじめました。
(同時に、カトリック教会へ導かれていたことも、こういった私の問題と深く関っていたと思っています。脈々と続いてきて膨れ上がった、そういうものに強く惹かれたのです。料理は何でも良い、フルコースが食べたい! という気持ちでした。また、ミサで行われる聖体拝領を見ていると、その茶道にも似た所作の中に、しんと心に触れるなにかを感じることができました・・・。)(続く)

日本人と欧米人の自然観:余白

いうさん、面白いですねー。
そうすると、改めて欧米の人たちにとって、自然というのはどういう意味があるのかな??なんて、思います。
「自然の懐に抱かれたリゾート地・・・・」なんてコピーがよくありますよね。
そのあたりはどう感じられるのだろうか?
それから、イエスの「ごらん空の鳥、野の百合・・・・」なんかはどうでしょう??
どんどん興味と疑問がわいてくる。。。
また教えてください。

ICF作品2−272

信仰は それ生きること そのものなり   NK

どうせなら 神に向き合う信仰がほしい   厳禁

余白:「向き合う」というと、どうもぼくなんかは、「対決」「格闘」という構えを連想をしてしまい、びびってしまいます。

なんというか、こう雲に包まれるみたいに、気がついたら神様の懐にいた、なんてところで何とかならないかなあ、なんて思ってしまうわけです。

いや、厳禁さまに反抗しているのではないのですが。。。

香りたずねてりんごの花にいきつけり   いう

春の暮れ勝ち負けいらぬ賭けもあり    いう

名を知らぬ名曲を聴く春の暮れ      ako

勝ち負けは なくとも棘の 夫婦路    NK

うーむ、同じ賭けでも信仰よりは遥かに危険っす。。私の場合。

何せお相手は同じ「人間」ですから。。(― ―)

間違っても甘えは許されませーん。。うぉー。

その点、アッバは私の事情、ちゃーんと察してくれるもん〜。。ありがたや〜。      

もろともに棘の傷受け花に笑み   いう

確かに人間相手は難しいことあります・・・。結婚して数年は嵐だったかも、うち・・・。多分、向かい合いすぎだったような・・・(といっても、一方的に私が悪かったと思うのですが・・・。)今は並んでいるのか、背中合わせになってるのか、(^^;)、だいぶ落ち着いてきたような8年目です。

余白:それで思い出しました。

あるとき井上師が「神父さんは、よくもまあそんな見えない神様に一生を賭けるほど、思い切りましたね?」と聞かれたとき、

「私から見れば、あなたたちのように人間と結婚することの方が、よほど勇気がいるんじゃないですか」と答えたといいます。(笑)

変わっていくもの行かぬもの 皆それぞれに愛おしき  厳禁

向き合うと いうよりもただ 祈り待つ   yohannna

『向き合う』ということを考える時、真正面から構えて考えるということを私などはしてしまいそうです。

いわゆる、『神学』といわれるものはそうなんでしょう・・・ね(想像)・・。

余白さんの『気がついたら・・・・』の感覚が受け入れやすいです・・(私は)・・。

そういえば、私がたまに見るサイトの神父様の説教にこんなのがありました・・。

『わたし自身が自分を変えるのではなく、イエスさまがいつか変えてくださることを祈りつつ、聖霊の働きを待ちましょう。そして、そうあるように強い「願望」を持ちましょう。』

余白:この神父様の言葉、いいですねー。

遠藤周作さんが好きな話で、ある作家が洗礼受けたいけど、生活は変えられない、といったら、「それは神様の方がやってくれるから大丈夫」と言ったという話がありましたね。

今日一つだけ買うパンのことあれこれ南無アッバ   白雲子

アッバアッバもう昼時だ南無アッバ

木に声かけて草に声かけてゆく南無アッバ

平田さんに続いて、青木さんも自由律を離れ、二人の先達がいなくなったことで、淋しい限りです。タバコも酒もやめずに、自由律べったりです。平田さんは、その後タバコはどうしたか少し気になります。どうか求道俳句で、人々の心・魂をやわらげ、救ってください。

余白:タバコもお酒も相変わらずやっていますよ(笑)。そうですね、タバコは止めたほうがいいとは思ってはいます。。。(意志薄弱)。

そうですか、青木さんが、、、ぼくは自由律を止めたり否定したのではなく、創作の主が定型に移ったのですね。今でも「層雲」時代、自由律で得た勉強はとても大事なものだと思っています。

自由律と定型については、今度の『俳句でキリスト教』でも触れています。

福音短歌 その51      一木

父が わたしを愛して/こられたように わたしも/あなたたちを愛してきた(ヨハネ15:9)

わたしの 掟を守るなら/わたしの 愛に包まれて/常に 生きることになる(ヨハネ15:10)

わたしが 父の掟を守って/父の 愛に包まれて/常に 生きているように(ヨハネ15:10)

わたしが 愛したように/互いに 愛し合うこと/これが わたしの掟(ヨハネ15:12)

愛する者のために/命を捨てること/これ以上の 愛はない(ヨハネ15:13)

――掲示板から――

はじめまして。:みかる 2005/06/06(Mon)

先日は、私のブログにコメントをありがとうございました。

伺ってみて驚きました。

「人の思いをこえて」は、よく開かせていただいています。

以前開いていたサイトでも、日記の中で引用させていただいたことがありました。

3年半ほどみっちりと、教会に通い、神学校にまで入りましたが、

優等生クリスチャンと言われたことがきっかけで

何かおかしいと、それらをすべて放棄しました。

今はまだ試行錯誤の段階ですが、何をしても主の御手の内にある確信が

自由に生きることを可能にしてくれているような気がします。

また寄らせていただきます。

この出会いを神様に感謝しております。m(_ _"m)ペコリ

 

Re教会の倫理過剰:まいまい

いわゆるボーン・クリスチャンと違って,日本のクリスチャンの多くは自覚的にそれを選んだんだから,その規律に適うよう努めなさい,という程度なら,>理屈<としてはわからないではないけれど・・・

現実の日本のキリスト教会の少なからずは,かなり倫理に厳しいし,それが自己より他者を審断する方向に行きがちな気がします.あれは,ちょっと じゃなく,かなりねー 困ったものです.まず,生かされている喜びっていうのがあるのではなくて,倫理教化してたり,普段は喜んでいても誰かがちょっとそこから別な方に行こうとすると,批判の矢が向けられたり・・・ せめて,批判するのは牧会の任を追っている牧師・神父だけが内々で指導するのにとどめてほしいなぁ 

ただの教会員がいやみをいってきたり,牧師が説教のときに名指して非難したりするのは,論外!

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後記:今号は、アメリカ在住の信友句友の「いう」さんのご好意で、まこと的確な句評やエッセイを載せさせていただきました。心より感謝申し上げます。

いうさんやICFを通じて、求道俳句をはじめる方が少しずつ増えているのは、私にとってこの上ない喜びです。ぜひ末永くお続けください。(余白)

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